■#1−1 ヴィパッサナー瞑想を始めるに当たっての基礎的知識 その1
人生が混乱や苦しみにさらされるのは、私たちが事実をあるがままに捉えることが出来ず、どうしても思い込みや妄想などに足をすくわれてしまうからです。ではどうすれば思い込みや妄想をしないようになれるでしょうか。
それは、今の瞬間の事実に気づく技術を習得することです。ヴィパッサナー瞑想のなかのサティ(気づき)の技術がそれにあたります。積極的に気づくことを「サティを入れる」と表現します。
ここでは、私たちがものごとを認知する流れを説明しながら、その過程のどこでミスが起きるのか、そしてどのタイミングでサティを入れるのが良いのかを明らかにしていきます。
■#1−2 ヴィパッサナー瞑想を始めるに当たっての基礎的知識 その2
このように、妄想はサティの訓練によって止めることが出来(後続切断効果)、その時には、人生が変わるほどの効果も現れるでしょう。
しかし、それだけではまだ道半ばにすぎません。なぜなら、私たちの心の反応パターン(ほとんどは望ましくないもの)は、まだ変わっていないからです。それが転換されてはじめて根本的な解決にたどり着きます。
そのパターンを組み換える方法、これが戒・定・慧のシステムとして仏教には準備されています。
■#2 歩く瞑想 感覚の実感に集中する
歩きの瞑想の(1)。
先ずは歩きの瞑想からです。感覚を取りながら、「右」「左」「右」「左」(ラベリング)と行います。ラベリングというのは、動作、感覚、心の動きを言葉にしたもので、「名詞形」「過去形」「現在形」があります。要点は「短く」で、ここでは「右(足が動いた)」の()内が省略されます。
■#3 妄想と事実を仕分ける
大事なポイントは妄想と事実との仕分けです。その基準となるのは実感の有無ですが、それは具体的にはどういうことなのかを具体例に沿って説明します。ここで「門」というのは、眼、耳、鼻、舌、身の五つを指します。仏教では「意」を加えて六門としますが、ここでは身体感覚なので五つのみとなります。
■#4 歩く瞑想の実践
歩きの瞑想の(2)
歩きの瞑想の二つのポイントについて説明します。
一つは、足の部分ごとに感覚を取り、またその動きを区切ることです。またそれと関連して、なぜ「歩きの瞑想ではラベリングは過去形」とするのか、その理由を示します。
二つ目は、外からの情報(例えば音など)や雑念、妄想などによって集中が乱れそうになった時の対処法です。
そして、この訓練がどう自己客観視(これが出来れば多くのトラブルは事前に回避可能です)の実現に結びつくのかについて説明します。
■#5 身受心法
事実に気づくというその「事実」は、身・受・心・法という四つに分類されます。随観(ずいかん)というのは「観てゆくこと」です。
「身」は身体動作を、「受」は感覚、「心」は心の動き、「法」は身・受・心以外のすべての現象のことです。なかでも、「心」の随観でネガティブな心の動き(いらいら、怒り、嫉妬、むさぼり等々)に気づければ、人生に大きなプラスとなります。そのための第一歩として、まず「身」の状態を詳細に観察する訓練から始めます。
■#6 眠気への対処法
座る瞑想をしていると眠気に襲われることも少なくありません。ではどうするか。ここではその時のサティの入れ方、さらに、あらかじめ眠気を防ぐ体のコンディションの作り方、そして、眠気が起こりやすくなる心の働きについて説明します。
とくに体の調整は工夫次第でどなたでも直ちに結果が得られます。
仏教では心の働きを「心所」という用語を使って表し、「善心所」「不善心所」とに分けています。「昏沈睡眠」は「不善心所」です。
■#7 座法
座り方につての説明です。足の組み方によっていろいろなやり方(結跏趺坐、半跏趺座、達人座、正座など)があります。この瞑想ではとりあえず伝統的な座法に従いますが、あくまでも「あるがまま」で一貫しています。
ポイントは三つあります。座布団で調整すること、尾底骨と頭頂部を一直線に、そして足と体の距離を出来るだけ接近させることです。
■#8 座る瞑想の実践
お腹が動く時の感覚を取ります。先ずはお腹に手を当てて呼吸をしてみましょう。ラベリングのコツは「膨らみ」「縮み」のピーク直前です。
そののち手を当てずに行いますが、集中がぼやけて感覚がわからなくなる時があります。その時再び手を当てて戻しますが、その戻し方にもセオリーがあります。
また痛みも出てくるでしょう。でも途中で足を組み換えたりしません。最も痛いところに集中して観察します。痛みが出るのはチャンスなのです。(→#9)
「半眼」は「つむる」と「開く」の中間的な眼の開け方です。
■#9 痛みの観察の意味
眠気が飛んで集中できる、これが痛みの効用ですが、さらに大切なことがあります。
人は苦に直面し、追い込まれた時に本性が出ます。痛みが苦痛となった時には心にはどんな思いが浮かんできていますか。それを観察することは人生の苦にどう向き合うかに直結します。そして大切な自己客観視につながっていきます。
痛みは限界まで観ましょう。そこまで観たあと、足を崩して次の瞑想に移ります。
■#10 立つ瞑想の実践
足裏の感覚に集中しますが、そのなかでも一点に絞ります。そして、その感覚がどう変化していくかを観察します。この場合、ラベリングはあまり厳密でなくてもけっこうです。
目をつむった時にふらふらしそうに感じたら壁に指をそっと添えるやりかたもあります。
■#11 超スローの歩く瞑想の実践
これは歩きの瞑想の極意です。講習会では四歩歩きでおこないます。
ラベリングというのは認識を確定するためで、歩きの瞑想では基本的に四つの動作に付けています。「離れた」「進んだ」「触れた」「圧」がそれでした。
超スローでは、それらの動作の開始前と終了後に一瞬の間を取って、そこでラベリングをします。なぜそれが大きな意味があるのでしょうか。そしてその確かなやり方は。ここでは例を出しながらその重要性と方法を説明します。
これがしっかり出来たら歩きの瞑想は完璧です。
■#12 慈悲の瞑想の説明
慈悲の瞑想は四つの要素で構成されます。慈(メッター)、悲(カルナー)、喜(ムディター)、捨(ウペッカー)がそれです。ここではそれぞれの説明に続き、「優しさ」との関連と、なぜ「捨」の心を確立することが大切なのかを特に強調しています。またこの瞑想がなぜ「わたし」から始まるのかの理由を説明します。
そして、この瞑想はいつどのように行えばよいのか、著しい効果があるのはどんな場面か、その効果はいつ現れるか、これはぜひご自身で確認されるのが第一です。
■#13 慈悲の瞑想の実践
意味内容に集中して気持ちを込めて行います。動画に沿うと自然にできますので実践してみましょう。
■#14 ヴィパッサナー瞑想を更に深めていくために
ブッダの説かれた瞑想に特化している「グリーンヒルWeb会」ですが、食事会その他の交流の場も設けられています。ですが日々の瞑想となればやはり自宅での実践が中心となるため、どうしても波が起きるものです。
そこで、モチベーションを持続するためにはいろいろな工夫が必要でしょう。その一つとして、次にあげられている書籍もぜひ参考にしてください。また、最後に「朝日カルチャー」の講座と「1day合宿」についての説明があります。
<参考図書(ホームページに掲載されている以外のものです)>
『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波文庫)、『ブッダの言葉 スッタニパータ』(岩波文庫)、『ブッダ最後の旅 大パリニバーナ経』(岩波文庫)、『仏弟子の告白 テーラガーター』(岩波文庫)、『尼僧の告白 テーリーガーター』(岩波文庫)、『内観療法』ヘルス研究所
∞∞ 怒り、コンプレックスの対処法 ∞∞
■#1 苦からの解脱
体の調子が悪ければ、私たちは医者に行ってその原因を求め、適切な治療を受けようとするものです。では、「苦しみ」を感じた時にはどうするでしょうか。原因を自分のなかに探そうとするでしょうか。むしろ、外部の環境を変えることによって解決を図ろうとするのではないでしょうか。
ブッダはその原因は自分にあると説かれました。それが貪・瞋・痴と呼ばれる三毒です。ここでは、苦の種類を明確にし、なぜ貪・瞋・痴がそれらの苦を生む原因となるのか、そしてそれを解決するためには、それらについて明らかにします。
■#2 怒りは破壊
怒りは破壊のエネルギーです。それは対象だけではなく、自分をも破壊してしまいます。なぜでしょうか。仏教ではそれをカルマ論によって説いています。
過去の地球に起こった巨大な隕石の激突、さらに1センチ大の鉛の玉を超速度で水面に打ち込むと何が起こるか、それらのたとえは、「怒り」という人による心のエネルギーであっても、その衝突による破壊の大きさを思い起こさせます。
■#3 衝撃吸収の科学
ではもし「怒り」を感じてしまったらどうしますか。それは、そのエネルギーを破壊という結果に結びつけなければ良いのです。
私たちの身の回りには衝撃を和らげるためのさまざまな工夫があります。それはかたちのあるモノだけではありません。社会や人間関係においても同じです。対処の仕方には包む、しなる、たわむ、壊す、捨てるなどいろいろありますが、その原理はエネルギーの吸収、分散です。では、怒りのエネルギーにはどう対処していきますか。
→#4
■#4 コンプレックスを受け入れるヒント
自分自身に向けられた怒りは「コンプレックス」として現れます。では、それを乗り越えるには。代償行為では根本解決になりません。結論は争うことなく「受け入れる」です。その典型として植芝盛平さんの合気道を紹介します。
では、「受け入れる」ためには。これは「怒り」だけに限りません。ネガティブな側面を受け入れるためには三つのことをしていきます。それは、(1)よく知ること、(2)それが何に由来するのかを洞察する、(3)視点を変えて発想の転換をする、の三つです。ここでは、それぞれについて解説します。
■#5 サティの効用
それでは、「コンプレックス」があった、などということはどうすれば自分で自覚されるのかです。ここではそれがテーマです。
サティは後続切断の効果は絶大ですが、それ以上に、自分の心にある問題点を浮き上がらせる所に意味があります。できれば目を背けたいものであっても、そうしてこそはじめて自分の心に正面から向き合え、乗り越えていけるのです。つまり、反応系の心の転換という根本解決が見込めるのです。
ここでは、サティがその問題点を浮き上がらせる、その要の所を明らかにします。
■#6 戒の修行と善行
なぜ1日10分の瞑想だけで「苦」からの解放が可能なのでしょうか。それは、仏教には戒・定・慧の原則があるからです。サティの瞑想も反応系の心の転換も、先ずは戒(在家は五戒)を守ることが不可欠の前提であり、それに加えて善行が後押しをしてくれるからです。
サティの瞑想、守戒、善行、これらがフルセットになって初めて心の転換が実現します。ここでは、そのメカニズムについて説明します。
∞∞ 無意識をてなずける方法 ∞∞
■#1 意識は0.5秒遅れてやってくる
サティにはめざましく効果的な「後続切断作用」があります。しかし、それだけではまだ道半ばであって(「初心者講習」#1−2)、反応パターンが変わら換わらなければ不善心を善心に変えていく「清浄道」は完成しません。
ここでは、反応パターンを変えていくための前知識として、私たちの判断や意志決定がどのようになされるのか、また情報処理の大きさが無意識と意識とでは文字通り桁違いなこと、それらの事実について脳科学の成果を踏まえて解説していきます。
■#2 心のプログラムを変える
どのようにすれば反応パターンを変えられるのか、すでに「怒りとコンプレックスの対処法の#6」で少し触れましたが、ここではさらに詳しく説明していきます。
意識する0.5秒前に脳の中にすでに無意識が生じているなら、そこが問題です。意識的な頑張りにはやはり限界があることは、「夢」という現象からも言えるでしょう。
さらに言えば、無意識の変化はいきなり0から100へと一瞬にして起きるものではありません。粘り強く繰り返し、一歩一歩進んでいく、これは世間一般の稽古ごとからも十分に裏付けられます。
そのために仏教ではさまざまな方法が提示されています。基本は戒を守ることであり善行為なのですが、日々の具体的な手引きとしてぜひ『削減経』の煩悩チェックリストを活用してほしいと思います。
つまるところ、「衆善奉行、諸悪莫作、自浄其意、是諸仏教」に集約されるように、仏教は生き方すべてにおける清浄道の実践と言うことになります。
■#3 心の働き 共一切心心所
仏教ではメンタルファクター(心の要素)を、「善心所」「不善心所」「共一切心心所」の三つのグループに分けています。「共一切心心所」と言うのは、どんな心にもワンセットでみられる「触」「受」「想」「意志(思)」「一境性」「命根」「作意」の七つで、ここではそれぞれがどのような働きをするのかを解説していきます。
心の働きのうち、驚嘆するのは無意識のうちに行なう情報処理の大きさです。なにしろ、自覚できるものの約30万倍とも見られますから、そこに働くメンタルファクターが自動的に「善」の方向へ向かうようにしなければなりません。真の清浄道とは、無意識も含めて心全体が善なる方へ、浄らかな方へ、と展開し続けていくことなのです。
∞∞ 綱吉とサリバン先生 ∞∞
■#1 優しさ−エゴ=慈悲
「サティの瞑想」の効果は次のように整理されます。第一に、欲望や怒りのような不善なる反応を抑制し、自制心が働くようなること。第二に、妄想を止めて事実を観ることで、いかなる事態においても動ずることなく冷静な判断が出来ること。第三に、自己客観視によって自己に対する正確な認知が可能となり、心に潜んでいる問題点が浮き彫りになること、この三点です。これらは今まで瞑想会などに参加された方々において明らかに確認されています。
このように、「サティの瞑想」は清浄道のためには不可欠ですが、実は、「慈悲の瞑想」もまた欠かせません。ここでは、慈悲の心の発露がどのように清浄道と結びつくのか、さらには、過去からの解放のための「懺悔の瞑想」とともに、清浄道を支える三本の柱としてはじめて完璧になり得ることが詳しく説明されます。
■#2 綱吉の「生類憐れみの令」
近年再評価されてきている徳川五代将軍綱吉、そして彼による「生類憐れみの令」は、かつて言われていたように「天下の悪法」だったのでしょうか。事実はそうではありません。それは戦国から引きずる気風を一変させる、まさに「慈悲の瞑想の法制化」とも呼べるものだったのです。
それがもたらした影響は、江戸時代末期から明治初期にかけて来日した多くの外国人の記述からも充分に窺えます。ここで語られるその中身と、それ以降に続く人々の心の変貌のかたちは、今の社会に生きる私たちにとっても大いに惹かれるものがあるでしょう。
なお、動画のなかで取り上げられた、エンゲルベルト・ケンペル(『日本誌 日本の歴史と紀行』(霞ヶ関出版)ほかを参考までに。エドワード・スエンソン『江戸幕末滞在記』(新人物往来社)、エドワード・シルベスター・モース『日本その日その日』(平凡社東洋文庫)、ラザフォード・オールコック『大君の都』(岩波文庫)、イザベラ・ルーシー・バード『日本奥地紀行』(平凡社東洋文庫)など。
■#3 サリバン先生とヘレンケラー
「生類憐れみの令」は法制によって社会と人々を「優しさ」「慈悲」へと導くものでした。しかしなんと言っても、基本的には一人一人の心の変容がその土台をなすはずです。それも、特に幼少期にネガティブな体験をした人のケースが顕著でしょう。なぜなら、その体験は共感能力を育むものとして優しさの原点になり得るからです。その意味で、慈悲の「悲」はイコール「共感能力」とも言え、それが出来た時には幼少期に優しく育てられた人以上に大きな実を結ぶことでしょう。
ここでは、幾多の悲惨な経験を経てきた若干二十歳のサリバン先生が、いかにその「共感」の力を得られたのか、その「優しさ」の原点は誰によってどんなかたちでもたらされたものであったのかを述べます。そしてそこから、まさに、「負の体験がプラスの原点」として、「傷ついた分だけ優しくなれること」を明確にし、私たちに発想の転換を促します。
∞∞ スンルン・サヤドー ∞∞
■#1 スンルン・サヤドー 悟りのステップ
仏教では究極のゴールに達した人を「阿羅漢」と言います。ミャンマーには「阿羅漢」になったと言われているスンルン・サヤドーという方の話と、その伝統を引くお寺が今に伝えられています。今回は、その方の伝記からの話です。詳細は動画をご覧ください。
印象的なのは、本人の資質に加えて、生活行動のすべてにサティを入れやすい環境にあって、あたかも一日中修行をしているようなものだったことです。今の私たちがそこまでするのは困難ではありますが、それでも、日常生活のなかでの「気づき」を大切にしていきたいものです。
■#2 いろいろな瞑想法と修行の流れ
呼吸と感覚に徹底してサティを入れる、スルン・サヤドーにはその修行によって「阿羅漢」に達し得る条件があらかじめ備わっていたと思われます。つまり、反応系の問題は少ないか、あるいはほとんど無かったのではないでしょうか。なぜなら、反応系に問題がある限り、たとえ集中が進んでサマディが起きたとしても、それは煩悩を力わざで押さえつけているにすぎないからです。
では、在家の私たちが重視すべきなのは何でしょうか。それは「身受心法」に沿ったオーソドックスなやり方によって、まずは心の汚れを取り除いていくことです。逆説的ですが、そのためにはむしろ出家より恵まれた環境にあるとも言えるのです。
■#3 地橋先生 瞑想遍歴
どなたの修行にもそれぞれの傾向があって、「悪を避け善をなす」という本質を外れない限り、指導する立場にあってもその教え方が自分の経験にのっとったものになることは避けがたいものです。ここでは、出来るだけ多くの方の修行に資するために、これまでどのように修行を重ねてきたか、そしてそこから何を自家薬籠中のものとしてきたかについて伝えています。
いずれにしても、サティの瞑想をはじめ慈悲の瞑想、懺悔の瞑想、五戒を守るなど、反応系の修行を、与えられた環境のなかで精一杯やっていきましょう。それが思いがけなくも好循環を生んでいく秘訣なのですから。
∞∞ 選択とカルマ ∞∞
■#1 人生は選択
親、性別、生まれる場所やその環境などなど、私たちは人生の始まりの時点では何一つ選べませんでした。しかしそのあと、その与えられた条件のもとでさまざまに選択してきた結果が今の自分作り上げてきたことについては、どなたも異論はないでしょう。ではなにが問題なのでしょうか。それは、選択の基準やその根拠としての情報、そしてそれらを正しく使いこなして判断がなされてきたかどうかなのです。
冷静に振り返ってみればわかりますように、さまざまな思考が判断に影響を及ぼしてきました。それが私たちの選択にバイアスを生じさせるのですが、ここではさまざまな研究報告によるバイアスの事例とその要因を紹介していきます。
■#2 直感から直観へ
では、正しい選択をするにはどうしたらよいのでしょうか。それには理性的な精神と直感を磨いていくことですが、理性にはエゴが邪魔をし、直感には思考や妄想が妨げとなります。とくに、人に文化、文明をもたらした言葉(思考や妄想の種)は、その代償として直感力の劣化を招く結果となりました。
私たちはサティの訓練をし、妄想を止めることで直感力を高められます。ですが、さらに人間としての智慧を磨くためには、直感から直観へとレベルを上げなければなりません。ヴィパッサナー瞑想はそれを可能にします。それによって思考、考察の智慧とは次元の違う「洞察の智慧」が生まれ、瞬間的にものごとの本質を見抜いて正しい選択が出来るようになるのです。
■#3 因果論(カルマ論)
しかし最高の選択をし、意志決定がなされても、時として私たちの人生には力の及ばないことが起きてしまいます。思いもよらない災害や事故、事件などの災難に巻き込まれるなど、この世界に生きている限りそれを見通すことは誰にも出来ません。
そもちろん、五戒を守りつつ善行を心がけ、徳を積むことは幸せになるための大前提です。しかし、それが直ちにあらゆる問題の解決と良いことの連続に結びつくかどうかは断言出来ないでしょう。なぜなら、人生の流れはこれまで積み重ねてきた業の力で展開していくからです。では、「守戒」「善行」とともに私たちがなすべきことは・・・。
■#4 起きたことはすべて受け入れて幸せになる
なすべきことはものの見方、発想の転換です。つまり、人生に何が起きようともすべて受け入れる、そう覚悟するほかはありません。もし起きたことが「楽受」であれば積んであった徳が費され、「苦受」なら不善業が消えていく過程に他ならないからです。「起きたことは事実として受け入れる」と気持ちを切り替え、自分の人生を丸ごと引き受けると腹を決めた時、新たな道が開けるのです。
ここでは、先人たちがさまざまな出来ごとを如何に乗り越え、さらに社会の変革につなげてきたかが示されています。これらの事例からも、私たちがものの見方と発想についての認識をより深くすることがせつに望まれます。
∞∞ 瞑想の世界的な広がり ∞∞
■#1 瞑想の効用
今日、世界にはさまざまな瞑想やその一部を応用した療法などが広がっており、脳科学的な研究が進むとともにその成果もあがりつつあるようです。なかでも、アメリカの研究者による報告は、自分で自分の瞑想をどう評価するか、それについて示唆を与えてくれますのでここに紹介いたします。
結論から言えば、瞑想の評価は主観的な印象のみによるものではなく、生活全体の中でなされるべき、というものです。さらにそれと関連して、「集中がうまくいっていない方がかえって良い」となると、「え!どうして?」となるかも知れません。もちろんそれには理由があります。瞑想と実生活の結びつきが確かになるに従って、サティの訓練のより包括的な意味が明らかになるでしょう。
■#2 欲望の不満足性と克服方法
ここで、「苦」としてあらわれる不満足性に関して改めて考えみましょう。例えば、「幸せホルモン」と呼ばれるドーパミンも、実は快感に直結するものではなく、むしろ不満足性に伴うホルモンであることが最近わかってきています。
では、「満足」か「不満足」か、それを分かつものは何でしょうか。それはもちろんこちら側の認知によってです。ここでは例として、満足度は文化との関係によること、さらに悪玉とされてきた「ストレス」が取り上げられます。なんと、アメリカの心理学者の調査によると、「ストレス」に対する評価の仕方が寿命に影響を及ぼすと言うのです。
つまり、与えられた状況に不満(つまり「苦」)があっても、それを自覚し、その捉え方次第では有用ともなし得る、これはぜひ知っておきたいものです。
■#3 幸福度向上のグーグルプログラム
また、幸福度を科学的に捉えようとする研究も進んでいます。脳活動の測定によって最高レベルの幸福度を示したという僧侶は、その時、「思いやり(慈悲)」について瞑想していたそうです。
グーグルはそこで、最強のリーダーに必要な資質として「思いやり」が重要なファクターであることに気づき、それをトレーニングするプログラムを考えました。それは、配慮トレーニング、自己認識と自制トレーニング、新しい精神的習慣のトレーニング、この三つです。これらはあたかも「サティ」「戒」「慈悲」「懺悔」「善行」等のシステム化に擬せられ、総合体系としてのヴィパッサナー瞑想の換骨奪胎なのですが、それはブッダの教えの普遍性を証明していることでもあります。
■#4 瞑想の世界的な広がり
このように、グーグルや認知行動療法ばかりではなく、世界には装いを新たにさまざまなかたちで仏教の教えが広がっています。「世界中を原始仏教に改宗!」などはあり得ない話ですから、最も幸せな生き方のための必須アイテムとして、仏教の「本質」が伝わればそれで良いのです。
自己認識と共感能力とを高め、不満足性という苦からの解放を目指す仏教の基本の部分は、決して一部の人々だけのものではありません。人類に共通する普遍的知的遺産として自覚される時代がやってきています。
∞∞ よい瞑想ができるようになるポイント ∞∞
■#1 瞑想ができない理由
「良い瞑想をしたい」、どなたもそう思います。でもなかなか思うようにはいきません。良い瞑想のためには、身体はもちろん生活全般にわたって体制を整えていかなければならないからです。なかでも一番の課題は、瞑想に取り組めるよう心の汚れに対処することです。ここではそのために、多少なりとも私たちについて回る11個の問題点について説明します。次に列挙しますので、一つ一つについては動画で確認してください。
@善悪の分別を失った心、Aむさぼる心、B嘘をつくような心、Cどんよりよどんだような心、D間違った考えの確信、E傲慢な心、F怒りの心、Gねたむ心、H物惜しみの心、I疑い迷う心、J後悔
■#2 後悔と懺悔の瞑想
「私の過去には全く後悔はない」と断言出来る人はいるでしょうか。素直に振り返ってみれば、どなたも一つや二つは浮かんでくるのでは、と思われます。問題はそれに囚われることなのです。仏教で「不善心」に分類される後悔は、過去の自分に対する「怒り」です。それは当然怒り系のカルマを生みますから、未来に苦をもたらすことになるでしょう。
後悔は捨ててしまわなければなりません。それには、過去の過ちを事実として認め、二度と繰り返さないと心に刻むことです。今という時にその区切りをつけ、過去ときっぱり決別して自ら心をすっきりさせる瞑想があります。それが「懺悔の瞑想」です。
ここでは、儀式にもなぞらえられるそのやり方を文言とともに説明します。
■#3 エゴを手放す内観
#2でも触れた内観は、オーソドックスには自分の過去の「お世話になったこと」「お返ししたこと」「迷惑をかけたこと」を調べるものです。これは、どれほど自分は愛されてきたかを確認し自覚することにつながって、優しさ発露の原点ともなります。そして、ここで語られる一点に絞り込んだ内観を経験した時の圧倒的な経験は、特別メニューだったとは言え徹底することの意味を改めて教えています。
いずれにしても、心の汚染をきれいにしていかなければ瞑想は進みません。懺悔の瞑想で過去を断ち切ったなら、今度は「善行為」です。人の役に立てたという達成感は、次第に嫉妬という不善心を立ち上がらせなくなるに違いありません。
■【瞑想のことば1】後悔する?
■【瞑想のことば2】輪廻を続ける者たち
■【瞑想のことば3】涅槃に向かって・・
■【瞑想のことば4】幸せになる・・
■【瞑想のことば5】慈悲の波動
■【瞑想のことば6】エゴをいかに弱めるか・・・
■【瞑想のことば7】この世の幸福と聖者の幸福
■【瞑想のことば8】瞑想しましょう
■【瞑想のことば9】ドゥッカを視る瞑想者
■【瞑想のことば10】ただなすべきことをなす
■【瞑想のことば11】瞑想に対する執着と渇愛