合宿でのヴィパッサナー瞑想体験集

 

 

〈F.K.さん(42歳、女性、埼玉県)の体験記から〉

 

昏沈睡眠という先生

 

 「膨らみ、縮み……」の「ふ……」といったくらいのところで、もう眠気に引きずり込まれていく。合宿早々から猛烈な昏沈睡眠だった。後頭部になにかズンッと重いものが鎮座していて、目は覚めていても頭の中はどんより、集中などできようはずもない。座禅はもとより、歩行禅をしていてもフ―ッと眠くなってくる。何度も何度も気を取り直してやり始めてみるものの同じことの繰り返しだった。
 2日目の朝、窓を開けて、澄みきった早朝の空気を胸いっぱい吸い込み気持ちを引き締めてみる。2ヶ所あるトイレ掃除の作務をする。時に便器に頭をぶつけ、顔に水飛沫を受けながら、ていねいに隅々まできれいに掃除をした。
 「今日こそは……」の思いを込めて作務をしたのだが、「うーん、ダメか……」しばらくがんばってみるものの、どうも頭の中にベールがかかっているようにすっきりしない。そしてそのまま眠気に引きずり込まれていく。やっぱり来なければよかったかなぁ、と思ってしまう。
 気にかかることがあった。合宿前日、他愛もないことで母と少々言い争いをしてしまったのだ。元々からだの小さな母がなんだか消え入りそうに小さく見えてしまうくらい、私は強い語気でやり込めてしまった。仏陀の教えを学び始めてからは自分の怒りを野放図にしないよう、これでも日頃気をつけていたつもりだったのだが……。
しばらくして、やっぱりもしかしたら…と思った。まさに合宿前日の出来事、それが心にわだかまっているのだろうか?母に悪いことをしたと思っている。後悔している?もしそうなのだとしたら、そうだ、懺悔だ、懺悔をしてみよう。困ったときの神頼み、ならぬ懺悔頼みである。以前にも懺悔効果で昏沈睡眠が消えたことがあった。時すでに昼食の時間となっていた。午後一番に懺悔しようと決めた。
 母の姿を思い起こし、懺悔を始める。申し訳なかったという思い、そして二度とこのように後悔するような言動はしない、と誓っていく。懺悔の後の静かな興奮状態がおさまり、心が落着いてきた頃合を見計い座禅を始めた。
 恐る恐る自分の心の中、頭の中をのぞき込むようにして探ってみる。眠気は本当になくなったのか?半信半疑だった。疑り深く様子をみる。どうなのだ?…眠気はない。頭の中がすっきりしている。そうか、やっぱりそうだったのか、よし、これでいける。静かに、でも少しがんばって(Viriya!)おなかの感覚に集中していく。
 どれくらいたった頃だろうか、突然美しい鳥のさえずりに意識が捕われた。「聞いた」。しかし次の瞬間母のイメージが浮かんでしまった(母は小鳥が大好きだ)。そして、こんなきれいな鳥のさえずりを聞かせてあげたい、と思ってしまった。それと同時に暖かいやさしい気持ちが湧き上がってきて、そのまま自然に懺悔モードに入ってしまった。
 心の底からの反省と愛情といえるようなものが広がっていった。芯の定まった反省と決意が、澄みきった意識の中で一つ一つ心の中に深く刻み込まれていくような、そんな丁寧なひとときだった。しばらくして頬の上をゆっくりと動く何かを感じた。涙が出ていたことにその時はじめて気がついた。
 頭の中が冴え冴えとしている。部屋の空気がキ−ンと澄んで軽やかに感じる。普通に座っているつもりでも背筋が勝手にぴんと伸びてしまうような、そして何時間座っていても疲れない、そんな感覚が身体中にみなぎっている。さっきまでの頭の冴え方とはまた違う、気力が満ち、心地よく、そしてまさに明晰な感じなのだ。今から思えば、最初の懺悔は型どおりというかうわべだけというか、とりあえずいちかばちかやってみるか、という感じだったし、本物ではなかったように思う。
 面接の際、先生にも「最初の懺悔には『本当は謝りたくないけれど、取りあえず謝っておこうか……』というニュアンスがあった可能性もあるし、多少なりとも不善心所が残っていたかもしれません。しかし2回目のは、愛と慈しみの波動のこもった本当に心からの懺悔で、不善心所は完全にゼロの状態だったのでしょう」、と言われた。
 そして、「この昏沈睡眠を引き起こしていた後悔という不善心所は、過去の過ちへの怒りとそれを責める自己嫌悪という二重の悪で、自分に対する攻撃的エネルギーです」とのこと。それが「後悔とは似て非なる懺悔によって、善心所に組み替えられたのですよ」ということを教えていただく。「合宿のお土産が一つできましたね」と先生に言われ、少なからずホッとしている自分がいた。
 3日目。もう半日しかない。でもだいじょうぶ。問題は解決したし、頭の中はクリアな状態。いい時間が過ごせるはずだ。がんばるぞ!
 ところがである。そんな意気込みもつかの間、またしても眠いのだ。どうして?なぜ?コンチンスイミン…。まずは儀礼的にお決まりの文句、「眠気」とサティを入れてみる。ダメに決まっている。「なまけ」、「疲れている」、「早く帰りたい」等々、一般的というか当たり障りのないサティを思いつくまま入れていく。うーん、違うみたいだ。時間だけが無駄に過ぎていくようで、自分はなんてダメなヤツだと思ってしまう。まだ何かあるのかぁ。(そりゃあ、いっぱいあるだろうが…)。
 それにしても今度は何なんだ?ため息が出て、途方にくれる。お手上げだ。あきらめた。そしてただ眠気を見つめた。
 その時、シーンと美しく座禅する修行仲間の姿が脳裏に浮かんだ。まさにその瞬間間髪いれず「人と比較している!」とサティが入った。本来ならまずは「イメージ」とサティを入れるのが常道であるが、入らなかったのでちょっと格好悪い。眠気が弾け飛んだ。そのあまりの鮮烈さに思わず目が見開いてしまった。あぁ、そうだったんだ、と思った。納得してしまった。
 合宿初日から昏沈睡眠に悩まされ続けていた私は、ほかの人達がとても素晴らしく見えていたのだ。「きっといい修行をしているに違いない。あの美しい座禅姿、歩く姿、きっとすごく集中しているんだろうなぁ。それに比べて私ときたら…」何気なしにそういう思いがずっとへばりついていた。
 もともと私は「慢」の強い人間で、全ての貪瞋痴が「慢」を元に発生していることには気付いていた。怒りの場合も、たとえば「どうして、この私がせねばならぬ」という心から発生していたりして、怒りの起点も「慢」なのだ。そして、日々の暮らしの中で見ること聞くことすべての瞬間において、自分の心が「過慢」か「卑下慢」のどちらかに、まるでシーソーのごとく常にどちらかに傾いていることはイヤというほどわかってはいたのだ。
 「慢」は、その比べる対象があって初めて発生する心であろう。その対象に対して自分がそれより上か下かの優劣をつけて勝手に判断しているにすぎないのだ。勝手に判断……?!なぁーんだ、「慢」もたどれば単なる妄想が始まりじゃないか。そんなものに振り回されて今までの人生一喜一憂してきたわけだ、くだらない。
 いつのまにかそんな思考にはまっていたことに気付きハッとした。サティの世界からは逸脱してしまってはいたが、なんだか自己理解があっという間に深まってしまったみたいだった。いつも一生懸命に先生のダンマトークを聞き、ノートをとり、本を読み、言葉の上で理解はしてはいたものの、それらはあくまでも言葉の上でのうわべの知識にすぎなかったのだと感じた。それらの知識は理解を深めるためにはなくてはならないものであることはよくわかっている。
 しかし、いかに多くの本を読もうとも、多くの知識を持っていようとも、たった一つのサティの威力にはかなわない、と思った。うれしかった。感動してしまった。やっぱり合宿に来て良かったと思った。気になることがあろうが、イライラしていようが、なんだかいろいろと調子が悪かろうが、かえってそういう時の方がその中から何か得るものがある。逆説的に考えれば何か問題を抱えている時の方が不善心所のあぶりだしになるから、合宿にはもってこいの時なのかもしれない。苦しいけれどやればやったなりの大きな収穫があるように思う。
 結果良ければ全て良し、とでも言おうか、今回の合宿でこのような結果を導き出したそもそもの直接的なきっかけは昏沈睡眠だ。眠気に苛まれている状態はとても苦しい状態であるけれどその中には自己理解、自己改革の大いなるヒント、いや、チャンス!が潜んでいる。どろーっと重い昏沈睡眠に押し隠されていた心の闇、自分の不善心所の実態、本当は見たくない自分の本性が、嫌わず、逃げず、気負わずにあるがままの現象を見つめたとき顕われてくる。そんなこと、本当は怖いし嫌だけれどこれからも逃げずにしっかりと見据えていきたいと思っている。たった2泊3日かもしれない。しかし再び〈されど……〉の思いを深くした短期合宿であった。