合宿でのヴィパッサナー瞑想体験集
〈M.F.さん(34男性・会社員・東京)の体験記から〉
◎自分を苦しめるもの……・
ヴィパッサナー瞑想との出会いは、ほんの4ヶ月程前。なんとなく通い始めた朝日カルチャーセンターの地橋先生の講座がきっかけだった。
瞑想経験はおろか仏教への知識など皆無の私が、何を考えて講座に参加したのか、われながら不思議で仕方がない。
ともあれ、毎日10分間と決めていた修行時間が、30分、1時間と延びていくにはさほど期間はかからなかった。
そうこうするうちに、どうしてもリトリートを体験してみたくなった。集中的な指導を受けることで、本格的な修行の入口ぐらいでも覗けないだろうかと考えたのである。
そんなわけで、8月の10日間合宿に申し込みをさせていただいた。
ヨチヨチ歩きの瞑想初心者に、10日間もの集中瞑想は荷が重すぎるんじゃなかろうかと不安は大きかったものの、「楽勝、楽勝」といってくれる地橋先生と我が妻(彼女は1ヶ月前のリトリートに参加していた。)の笑顔に勇気づけられ(?)、夜逃げしないことだけを願いながら当日を迎えた。
初日、二日目は、緊張のためか、肩や腰に力が入りすぎ痛みに悩まされたものの、3日目にもなると徐々にペースがつかめだした。
当初のおよび腰をよそに「楽勝」との思いを浮かべては、それにサティを入れるなどどいう調子であった。
経験の浅さと知識のなさから、とにかくインタビュー時の指導に忠実に従うことに専心した。そのおかげか、修行は順調に進んだ。
三日目半ばには、喫茶コーナーでの休憩時、他の修行者がいれるプロテイン飲料の香りに反応するさまにも、素早くサティを入れることができた。(香りの粒子が鼻腔にぶつかる)→「感じた」→(香りが鼻腔の奥にするすると入り始める)→「嗅いでいる」→(香りが鼻腔の奥に完全に入ってしまう)→「(プロテインの香りだと)思った」という風に次々とサティを入れることができた。まさに時系列で香りを感知しているような体験だった。
修行がうまくいっているとの実感からわき起こる喜びの感情。それにすら、浮かび上がるやいなやサティを入れ、客体化することに成功した。
こうして、リトリートも中盤にさしかかった。集中力も高まり、ますます体感が鮮明に取れるようになってきた。そんな矢先に、それまでの好調さがウソだったかのような、奈落の底に突き落とされるような苦しみを味わうこととなった。
予想以上に修行を進めることができ、すっかり油断してしまったのだろうか。「やればできるじゃないか」という気持ちや、「このままどれくらい修行を進められるだろうか」という期待。
そうした想念が、しばしば現れるようになった。
「雑念、雑念」とサティを入れるが、しばらくしては、また同様の思いが浮かんでくる。気がつくと、「やればできるじゃないか」という気持ちは、「俺は修行ができるんだ」という傲慢さに、「このままどれくらい修行を進められるだろうか」との期待は、「他の参加者の誰よりもすごい体験をしてやるぞ」という強烈な執着の気持ちへと変化していたのだった。
「しまった」と思うが、時すでに遅しであった。
意識すればするほど、心はこちらが意図するのとは反対の方向に転がって行く。雪だるまのように傲慢さと執着の気持ちがどんどんと巨大化していった。
どれほどの時間がたっただろうか、ふと気がつくと妄想の海に溺れんばかりの自分がいた。先ほどまでのビリビリとした体感はウソのように消え、手足の上げ下げへの単純なラベリングさえできなくなってしまっていた。
その後のインタビュー時の報告では、地橋先生からもお叱りを受け、ますます、焦りと自責の念に駆られてしまった。
焦れば焦るほど生まれる、以前の状態を取り戻したいという執着の気持ち。自責→焦り→執着→自責という悪循環が生み出すさらなる苦しみ。
バッドトリップとはこのことをいうのであろう。
自分の心が暴れ馬のように駆け出し、それに引きずられ、もがき、のたうち回っているかのようであった。
わずか5分といえども、歩くことも立っていることもできない。
目が回り、脂汗さえでてくる。
自分がどこにいるのかさえわからなくなってしまったかのようであった。合宿も半ばにして、たった一人放り出されてしまったような寂しさを感じざるをえなかった。
残りの数日間はもちろん、もう一生、瞑想はできないかもしれない。
私が修行を止めてしまえば、せっかく一緒に始めた妻も、私に気遣いし修行しなくなってしまう
のではないだろうか。
そんなことを考えながら、ただただ漫然と時を過ごしていた。
そんなふうな状態が一昼夜以上も続いただろうか。
形ばかりの朝の座禅を行いながら、依然、妄想に苦しんでいた。
眼前で暴れるかのように自分を苦しめているのは自分の心であり、その苦しみの原因は、他の誰に隠し得たとしても自分に対しては隠蔽できない自分自身の弱さそのものだった。どんなに逃げ回ろうとも、この苦しみから逃げることはできない。
それだけは、明確にわかる。そう思ったとき、観念するような、あきらめの気持ちが沸いてきたのだった。
今回の合宿は前半戦で躓いてしまったが、貴重な宿題をもらうことができたのかもしれない。また、年内にでも機会を得て再度参加させてもらおう。
もし、万が一、二度と瞑想ができなくなってしまったとしてもそれはそれで仕方がない。私には縁がなかったとあきらめるしかないだろう。
そう考えたとたん、霧が晴れるかのように、苦しみが消えてしまった。再び体感が取れるようになったのである。
多少の寄り道はしてしまったものの、その後は急速に調子を取り戻すことができた。
「聞いた」というサティとと同時に、木琴のような柔らかな音が連続して耳に触れ、その後に「(子供の声だと)思った」とサティを入れたこともあった。
地橋先生からは「サティのロボットになるつもりで頑張りなさい」とのあたたかくも厳しい(?)アドバイスとともに、「六門に触れる情報を全て拾うつもりでサティを入れよ」との課題をいただき修行を続けた。
いよいよ最後の夜を迎え、とにかく、余力を残さないことだけを心がけた。職を持つ身としては、次がいつになるかわからない。
悔いが残らないようにと、「明日になって、倒れてしまってもかまわない」との意気込みで、明け方まで修行を続けた。しかしながら、最後だと意識しすぎたせいか、どうしても集中力は途切れがちであった。
やがて、起床1時間前となった。
精魂尽き果てるように、自室の畳の上に横たわってしまい、それでもサティを入れ続けるつもりが、とうとう微睡んでしまっていた。20〜30分もウトウトとしてしまっていただろうか、突然、小さな物音とともに意識が戻ってくるのがわかった。
同時に、サティが飛び出した。(音が耳に触れる)→「聞いた」→「(誰かが身を起こす音だと)思った」→(別の音が耳に触れる)→「聞いた」→「(足音だと)思った」というふうに、わずかの間ではあるが、サティが次々と連続した。思わず、はっとして身を起こしてしまった。サティはすぐに途切れてしまった。
再び意識が薄れて行くのを感じていた。
しばらくすると、また物音を知覚した。(音が耳に触れる)→「聞いた」→「(布団がこすれる音だと)思った」→(別の音が耳に触れる)→「聞いた」→「(誰かが布団をたたむ音だと)思った」→(さらに別の音が耳に触れる)→「聞いた」→「(誰かの足音だと)思った」→「(起きなければと)考えた」。
パタパタとサティが自動的に飛び出していった。
ほんの数秒のできごとではあったが、鮮烈な一瞬間であった。現在の事象のあるがままをひたすら観察し続ける、というヴィッパーサナー瞑想の基本に、ようやく一歩踏み込めたような気がしたのだった。
こうして、私の10日間の合宿体験は終了した。
わずか10日間ではあったが、私にとっては、数年分の人生にも勝る貴重な経験を積むことができたと思う。
自宅ではとうてい得られない理想的な修行環境と、懇切丁寧なご指導を与えて下さった地橋先生とスタッフの皆さまに感謝の念が絶えません。
どうもありがとうございました。