合宿でのヴィパッサナー瞑想体験集
〈H.I.さん(50代男性)の体験記から〉
◎禅とヴィパッサナー瞑想の違い
私がグリ−ンヒル合宿に参加したいと思ったのは、ヴィパッサナー瞑想の基本をしっかり身につけたいと思ったからである。
かねてより仕事のストレスがたまると禅寺で座禅をし、機会があると一週間の接心(集中座禅)にも参加した。
すると心は静かになり、平和な気分になった。しかし下山して再び騒がしい都会の日常生活に戻ると、心はまた元どおりかき乱されるのであった。禅寺の静寂と都会の喧騒を往来しながら何年も過ぎていった。
あるときインドやネパールに旅する機会を得、フトしたきっかけでゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想コースに参加したことがある。
私はこの方法なら現実生活のなかでも心の平安を実現させることができるのではないかと心惹かれ、さらに修行してみたいと思うようになっていた。
こうして合宿に入り、3、4日目の朝の法話で地橋先生が「レベルの高いヴィパッサナー瞑想には“定力”が不可欠……」と話されるのを聞き、座禅に慣れていた私はもっぱら精神集中に努力するようになった。
心を一つの対象に集中させていくのは、禅の三昧の方向であり、私にはおなじみのものであった。3階で歩行禅をしていると床がグニャグニャに盛り上がって見える現象があったので先生に報告すると「それはニミッタと言って、サティを入れて見送ってしまうべきものだが、プラスの面としては定力が高まってきた一つの証しでもある」と言われたので、私は定力を高める方向にさらに集中するようになっていた。
しかし同時にこれでよいのだろうか、という思いもあった。サティを入れていない訳ではないのだが「気づき」が抜けている、とウスウス感じていたのだ。
しかし気づきと集中の兼ね合いが不分明でどう違うのかは分からなかった。
歩行禅をしていると「シーン」とした静寂感に包まれ、心がフワフワとして快くなった。山寺で座禅をしていたときに時おり感じた静けさと同じであった。
どこか時間がゆっくり流れているように感じられ、静けさの拡がりが宇宙の究極とつながって融合しているようにも思いなされた。これをさらに進めればなにかもっと凄い境地が出現してくるのだろうか…。私は期待と快さに浸った。
翌日このことを報告すると「…それでそれにはどういうサティを入れたのですか?」と聞き返されてしまった。
私は味わった境地について説明したが、そんな境地などまったく問題にされなかった。そのとき何を感じ、何を思ったか、ではなく、感じていた事実、思った事実をサティしなさい、というのだ。そうするとあの境地も、単に「(静かだ)と感じている」「(宇宙と融合している)と思った」になってしまうのだ。
それではあまりにも味気ないではないか、と思ったが、私はそのとき初めてヴィパッサナー瞑想の厳しさを思い知らされたのである。
心が何かを思った。これは事実である。
しかし宇宙的であるとかないとか、これは心が勝手に思い込んでいること
であって証明できることではない。
いわば妄想なのだ。事実と妄想を区分けする。これはヴィパッサナー瞑想の核心に触れる要点だ。これが分かっただけでも私にとっては大きな成果であった。
五感を鋭くし、中心対象に絞り、妄想が出ないように見張り、出た瞬間に気づけるようにマインドフルになる。サマタ瞑想で養われる集中力はそこに使われるのだった。
ヴィパッサナー瞑想の基本について教わった10日間であった。