合宿でのヴィパッサナー瞑想体験集
〈M.S.さん(38歳・女性・長野県)の体験記から〉
◎冬枯れの景色に陽が射していた……
グリ−ンヒルに到着した初日、まったくの初心者である私が最初に教えて頂いたのは、歩行禅のサティの入れ方だった。
歩くというごくあたりまえな行為の中に、驚くほど複雑な筋肉の動きが感じられ、床面に足が触れる瞬間の感触にも、一つ一つ確かめるようにラべルを貼っていった。その予想もしなかった膨大な感覚情報の量に、まずは圧倒された。
私が最初から意識して集中しようとしたのは、食事のサティだった。
日頃料理を作ることを仕事にしている私としては、いちばん妄想、連想の対象になりやすいと思ったからだ。
しかしアブない(危険要注意)、と気をつけたお陰でかえって食事中のサティは細かく入れることができ、集中も早くからできたように思う。
舌の動きが生き物のように感じられたり、米粒の一粒々々の動きまで分るようになり、それが日を追つて明確になっていくのには驚いた。
また後日先生から目を開けて食べたときと、目を閉じて食べたときの違いをレポートするように課題を出されたことがある。
日々の生活のなかでも本当に味わっている時には、無意識に目を閉じているが、あれは確かな行為だったのだと思う。
目から入ってくる情報がカットされると歯触りの感触、硬さ柔らかさ、粘りかた、味のすべてが変ってくる。
目を開いていると基本的に味は、淡泊にやわらかく感じられ、閉眼ではかたく濃く感じられるのである。
3日目、寒さに弱い私は歩行禅をしているときに、ふと暖かい所を選んで歩いているのに気づいた。快、不快に自動的にコントロ−ルされている自分……、そんなことを感じていた。
しかし先生には、
「苦楽の感受作用が存在しているだけで、現象に支配されている自分がいるというのは妄想です」
と教えられ、分かつたような、分らないような心もとない気持ちで面接を後にした。
頭では何となく分るような気もしたが、ここで考え始めるとア−でもない、コ−でもない、と思考の波、妄想の渦にはまりそうだったので、いずれ分るときには分るでしょう、と気持ちを切り替えて、サティを入れることに集中を続けた。
中盤戦にさしかかると、一日に18時間もサティを入れ続けることに没頭していた。
私のような初心者でも、そこまでやると、こうなるのか、と思ったことは、夜中に夢うつつで寝返りを打ちながら、朦朧とした意識のなかで「体をねじります」などとサティを入れているのである。
これには我ながらビックリで、
「ちょっと……。眠ってるときまで、止めてよネ……」
という感じで、再び深い眠りに落ちていった。
先生は
「……その想いに対して“…と思った”のサティを入れましたか?」
と訊かれたので、
「そこまでやったら、起きちゃいますよ」
と大笑いになった。
しかし合宿も折り返し点を過ぎたあたりから、慣れてきたせいなのか、中だるみになり、集中力が低下してきたのを感じた。
サティを入れても身が入っていないような感じに、だんだん苛立ちを覚えるよになった。
午後、喫茶でサティを入れているとき、その苛立ちは最高潮になった。
一瞬怒りを強く感じ「怒り」とサティを入れたが、あまりにも心の動きが早くてもう一度「怒り」と入れた。
強い怒りは治まったが、胸のあたりでモヤモヤしたものが再び起こり、何度となく「モヤモヤしている」とサティを入れた。
大きく溜め息をつき苛立ちは治まった。
これ以上修行が進まないのではないか。なにか焦りのような、思うようにならない自分に対する不満と渇愛が混然としていた。
その日、昼食から座禅室に戻ると、他の修行者の方は一人もおらず、明るい陽射しの中、冬の木立ちとその奥の谷合いの集落が窓の外に広がっていた。何日かぶりに外の景色に目を向け、ジ−ンと来るものがあった。
「見た」とサティを入れたが、今にして思えばもっと沢山のサティを入れられた筈だ。「美しいと思った」とか「ホッとしたと思った」…など。
「見た」という一言でしかラベリングできなかったことに、サティの甘さがあったと反省している。
しかしこのときを境に、焦りから解放され、再び座禅に集中できるようになった。
今までよりも、お腹の膨らみ縮みが敏感に感じ取られ、それは次第に波のうねりのように激しく飲み込まれてゆく感じに変っていくのだ。
今回のリトリートで最高度に集中が高まったその時、
「お風呂です」
と声をかけられた。
「聞いた」
とサティを入れた。
すぐにお腹に集中を向けた筈だったのだが、もはや前と同じ感覚には戻れなかった…。
面接でそのことを先生にお話すると
「カルマが悪いですね。不可抗力で修行の邪魔をされてしまうのは、こちらの不善業の結果であり、不徳のなせるわざです。過去世で他人の修行の邪魔をしていたのか、聖者に石を投げたのか……、身に覚えはないと思うかもしれないが、原因のないことが起ることはないのです。恨むのではなく、懺悔すべきなんですけど…」
と忠告を下さった。
まだぼんやりする頭の中で、遠い所から聞こえて来るかのような先生の声は威力に満ちていた。
座禅室に戻り、深々と頭を下げ懺悔を始めようとしたとき、自分でも不思議だったが、感謝の言葉が次々と浮かんできた。
このような体験を頂いて、自分のカルマに気づかせて頂けたことの感謝だった。
体から余分な力がス−と抜けていくのを感じていた。
三日目の「現象に支配されている自分がいる」という妄想も、この時はっきりと理解できた。
エゴがなければ自分という感覚もなく、あるのはただ因縁によって生滅する一瞬の心だけなのだということを。
起ってくる現象に、ただ気づいていくのがヴィパッサナ−瞑想だということを改めて認織した。
その後、最終日まで雑念に振り回されることもなく、心静かに修行できたことを大変嬉しく思う。
そしてなにより、朝早くから夜遅くまで修行者一人一人を見守り、安全に、完全に、最良の修行ができるよう心配りをされている地橋先生、お母様に心よりお礼申し上げます。
有り難うございました。