合宿でのヴィパッサナー瞑想体験集
〈倉橋秀幸さん(男性)の体験記から〉
◎合宿による心の変化
*参加目的
最近仕事に行き詰まりを感じており、自分自信今の仕事に能力の限界を感じていた折、友人・妻を通じ、ヴィパッサナー瞑想を知りました。
当初は、友人と妻が参加する予定で話は進んでおりましたが、女性の空きが1名しか無くやむなく取りやめとなり、それならば私自身自分を変えるための良い方法はないものかと模索しているときだったため、そのきっかけになるのではと思い参加を決めました。
*参加までの心の葛藤
行く前までは、本当に参加するだけの価値があるのかとか、初心者の自分がいきなり合宿に参加して付いて行けるのだろうかとか、仕事で緊急連絡が入ったらどうしようとか、7日もしくは8日に娘の小学校の運動会が入っており、それに参観できないことが何よりも気がかりでした。一時はキャンセルした方が良いのではないかと悩まされましたが、あれこれ考えていても仕方がなく、土日で仕事も入っていなく3連休できる時などまずありえないことなので、これを逃したら一生できないのではと思い、何はともあれ参加してみることにしました。『ブッダの瞑想法』の本を読むことが参加の条件だったため、リトリートの5日前に本を購入し何とか前日までに読みきりました。
*10月7日(土)晴れ、リトリート開始
参加したからには、自分のため家族のためにも、何が何でもそれなりの成果をあげなければと真剣に取り組みました。目標は基礎のマスター、そのことだけに集中しました。
ラッキーなことに、今回のリトリートは6名という少人数で行われ、初心者が3名もいたために地橋先生より始めに瞑想の基礎レッスンを受けることができました。
通常はこのようなことはないとのことで、ついているなあと思いました。
基礎レッスンの後はただひたすら習ったことを忠実に実践することを心掛け歩く瞑想を中心に行ないました。座っての瞑想はすぐに眠くなってしまい、その度に立つ瞑想や歩く瞑想に切り替えていました。また、階段でのサティの入れ方が思うようにいかず、どちらの足のセンセーションを優先したらいいにかとまどいました。(後で地橋先生に聞いて解りました。)
お風呂では、時間が気になりサティを入れるにも散漫になりがちでした。
慈悲の瞑想も途中に入れるよう指示があったため、本の文章を読みながらこのリトリートがうまくいくように、参加された方みなさん一人一人に気持ちをこめて送りました。慈悲の瞑想に関しては、以前にも似たようなことをしていたためか、とても好感が持ててやっていても気持ちが良かったです。
他の仲間と同じ部屋で瞑想をしていると、相手の真剣なエネルギーの影響を受けてとてもいい刺激になりました。
また、この3日間を通してお通じが非常に良かったこともこの瞑想の成果のひとつです。
初日は思ったよりも時間が早く進み、消灯時間を迎えました。
*10月8日(日)晴れ
翌朝5時起床、布団を上げて掃除を行なった後、少しの間瞑想を行ない朝食となりました。食事の際のサティの入れ方を教えていただきました。食事中にサティを入れていくと動作がゆっくりとなるため、噛むときの感覚や味により集中することができて新鮮でした。
噛んでいるときの唾液があふれ出してくる感覚もおもしろかったです。このような食べ方をしていると量が少なくても充分満足することが出来ました。
しかしながら毎回の食事の種類の豊富さには、よくこんなにも作れるものだと感心し驚かされました。
朝食の後は、しばらく瞑想をしてから地橋先生のダンマトークが行なわれました。
(話しの要旨は以下の通り)
・ 瞑想時は少食にして、消化に負担をかけずに補給を行なうこと。
・ 男女により体のエネルギーの持ち具合に差があること。
・ ヴィパッサナー瞑想は苦をなくすためのシステムであること。
・ サマーディが高まってもそれだけでは心が清まらないこと。
・ 戒⇒定⇒慧の流れに従って煩悩を削減していくこと。
その後、瞑想、昼食、瞑想と進んでいき私は歩く瞑想を中心に途中慈悲瞑想も入れながら基本のマスターにひたすら努めました。
夕方になり、地橋先生との面接の順番がまわってきました。面接では歩く瞑想の基本ができているかをチェックされ、さらにセンセーションを感じられるよう、壁に手を着きながらゆっくりとした動作で動かす前の溜めから入ると初動のセンセーションがより感じやすくなること、さらに動作が止まったときの余韻を感じた後にサティを入れることが課題に挙げられました。また、食事の際の噛む動作を目を開いているときと閉じているときの違いに意識を集中させることや、飲み物を飲むときなどの動作ひとつひとつを丁寧にサティを入れていくことなどの課題が与えられ、翌日の面接のときに報告することとなりました。
また、瞑想時に時々左脇腹が痛くなったり、左の腰が痛くなったりするとの話をしたところ、それは怒り系のエネルギーを抑圧しており、それを感じさせないために痛みに逃げている反応であるとの指摘がなされました。それについて思い当たるところ(仕事上でお客様であるがために、言いたいことも言えずにその言葉を飲み込んでしまうこと)に意識を向けたとたんに、その痛みの元のエネルギーがまるでトイレットペーパーが紙芯からほどけていくように体から抜けていくような感覚があり、痛みを感じていた箇所の重みがとれて楽になり、これには驚きました。気の付いた瞬間に消えていくとはこのようなことなんだと実感した瞬間でした。このとき、瞑想とその都度師による面接のくりかえしの重要性について身を以って体験し、それにより自身の瞑想が深まっていくのだと思いました。
面接の後はひたすら消灯まで、言われたことを意識して瞑想に専念しました。
*10月9日(月)晴れ
今日が最終日ということもあり、なんとなく慌しい雰囲気で一日が始まりました。
朝食は昨日よりも慣れたせいか余裕を持っていただくことができました。
目を開いたときと閉じたときで噛んだときの感覚について忘れずに意識を集中しました。すると、開いているときは噛んでいる歯の感覚の方が勝り、閉じているときは舌の感覚が敏感になり味をより感じていることに気がつきました。それは普段感じている味の感覚とは異なり思い込みにとらわれない本当の味覚を感じているようで、普段の感じている味覚との違いに驚きました。
この日は午前中に面接がありました。そこでは、ゆっくりとした動作の瞑想の復習と、朝食で噛んだときの味覚の違いの話をしました。すると先生は、『目を開いているときの妄想はどうでしたか。』との問いかけがなされ、それについてはあまり意識をしていなかったのですがよく思い出してみると目を開いているときの方が、他の食べ物が視野に入っているときは意識していなくてもそれらを見ていて次は何を食べようと考えている自分がいたことに気がつきました。視覚というのはこちらが意識していなくても目に入ってくる映像を捉えているためどうしても影響を受けてしまうということがわかりました。従って目を閉じているときの方が、味覚などの感覚をより感じ易いことを改めて実感しました。また、ゆっくりとした動作の瞑想については、ゆっくりやり過ぎて逆に妄想が入らないようにとのご指摘をいただきました。
最後に、地橋先生のダンマトークで次のようなお言葉をいただきました。
『在家で解脱をすることは難しいが、ヨルカ(預流道果)になることは十分可
能であり、そこまでいけば後戻りはしない、7回の転生で解脱をすることが約束されているとお釈迦様も説いておられます。』と、これを聞いたとき『ここまでなら私もなれるかも‥‥』と少し欲がでました。それには次のことを守ることが大切とのことでした。
1.聞法:ダンマを繰り返し聞く。
2.善友・法友とのみ付き合う。
3.正命:きれいな仕事に就く。
4.如理作意(Yoniso manasikara):良い方にドミノを倒す。(これがないと悟れない)
聞けば当然もっともなことばかりなのですが、このあたりまえなことに改めて気付くために、私は随分と遠回りをしてきたように思われます。また、実行することはもっと大変なことです。
解脱への段階は次の通り
・一来果
・不環果
・阿羅漢
*まとめ
台風一過の晴天に恵まれ、なんだかあっという間に過ぎってしまった3日間でしたが、当初の目標であった瞑想の基礎のマスターは達成できたように思います。
最後の打ち上げでは、今まで言葉を交わすことが出来なかった仲間達と語り合うことができてすぐに打ち解けることができました。地橋先生の話では、前世でも同じ縁で修行をしたことがあるのではないかとのことで、来ていた人達が感じのいい人達ばかりで3日間のリトリートも気持ちよく続けることができて、私はとてもいい縁に恵まれているとつくづく思いました。
家路に着く途中、仲間と別れて一人登戸の駅に降り立ったとき、私の心の中から得もいわれぬ安らぎとも心地よさともいわれぬ感覚が込み上げてきて、家族のことが愛おしくてたまらなくなり、涙が後から後から溢れ出してくることを抑えることができませんでした。
心の中から癒されたという今までに感じたことの無い癒しを感じた瞬間でした。
それが顔にも雰囲気にも現れていたのでしょうか、家族や友達に変わったと驚かれました。自分でも今までに経験したことの無い不思議な体験でした。
次の日は、仕事の処理能力が驚くほど早く、頭の回転が速くなっていました。それはまさしく地橋先生の本にも書いてあった、『人脳コンピューターのCPUがバージョンアップされ、処理速度が格段に速くなったような印象』そのものでした。このまま続けば私はすごく仕事が出来る人間に大変身を遂げることとなったのですが、残念ながらそれは1日しか持ちませんでした。しかし、私の中の芯に変化の兆しが今尚残っており、今後の修行次第ではそれが持続できるのではないかと思っています。
これからも、もっと精進を重ねて自分を苦しみの中から救い、多くの人々を苦しみから救えるような存在になりたいと思います。