『闇から光へ −そして信の確立へ』M.N.

 

  「あなたからはじめてご主人の話を聞いた時から、変わってないんだなあ」
  1Day合宿の帰り道、ご一緒した方からこう言われた。
  わたしたち夫婦の関係に影響を受けた長男の問題を何とかしたくてヴィパッサナー瞑想に出会い、朝カル講座に飛び込んでから3年近くが過ぎた。その間、両親と祖母への見方、長男の問題の改善と、目覚ましい変化が起きた。しかし夫へ抱く思いは相変わらず変わらなかった。何度かもう捨てられると思えた時もあったが、少しすると元に戻ってしまう。そんな日々をもう3年も送っていた。
  きっかけとなった出来事以来、私は日常生活のコントロールが思うようにできなくなる時がある。学生以来どうにかなだめすかしていた過食症もぶり返した。夫があんなひどいことをしなければ。自分のしたことに気づいた時、ちゃんと謝ってくれていたら。一向に安定しない自分自身の心の原因を夫の中に見出し、彼が心の底から反省して変わることができた時に自分も立ち直れるのだという思いを延々と心の中で回転させ、何度も夫を責めたり謝罪を求めたりした。
  自分の言葉が、心が、何も変わっていない自覚はもちろんあった。この瞑想を、原始仏教の教えを学んでいるのにと思うと情けなかったがどうにもならない。世間では食や日常生活を整えるために瞑想が有効だと言っているようだが、そもそも瞑想ができなくなっていた。先生は生活が整わないと瞑想はできない、瞑想のために生活を整えるのだとおっしゃった。
  一体どっちが先なんだ、と思った。だったら自分は瞑想なんかできないじゃないか。瞑想よりも食のコントロールをすることの方が先だし、はるかにそちらの方が重要だと思った。幸せになれるのなら、なにも瞑想でなくてもいいのではないか。解脱や悟りなど、今この状況にある自分には到底目指すべきものには思えなかった。
  自分には瞑想は必要ないのではないかという思いがちらつき始めた。長男との関係が改善して苦が去り、とりあえず楽になったので修行する気がなくなってしまったのだろうか。あれだけ求め、ようやく出会えたと感激していた自分の心はこんなものだったのかという思いと、一体自分はどこまで求めているのだろうかという思いのなかで迷っていた。
  そんななか数か月ぶりに参加した1Day合宿だった。思っていたよりも瞑想に集中できてうれしかった。合宿というものの威力を強く感じた。その帰り道で言われたのが冒頭の一言である。それまで電車の中でずっと私の主人に対する思いに耳を傾けてくださったあとに出た言葉だ。
  そして、気づいた。カルマが一つ読み解けたのだ。朝のルーティーンを夫に奪われたことだ。私にとってそれは自尊心を保つためにとても大事な行為だからやらないでほしい、と何度も夫に説明し懇願したがやめてくれなかった。とうとう意味をなさなくなった途端、やらなくなった。何故そんなことをしたのか、何度夫に聞いても「分からない・・・」と言うばかりだった。この出来事が私が長男にしたことのカルマだと解ったのだ。長男の代わりに夫が私に返したのだ。
  それが分かったら、変化はすぐに訪れた。因果関係が見えたことで夫を責める必要がなくなったのだ。
  なぜ、何年ものあいだ見ることのできなかった因果関係が見えたのか。それは合宿で一日中サティを入れていたからに他ならない。やっぱり瞑想は必要なんだ、と思った。そしてここにはもう一つのカルマが関係している。
  なぜ私がこのタイミングで、その一言を言ってもらうことができたのか。それはちょうど一年前、朝カル講座の食事会の後、仲間の方々とお茶をしていた時である。かねてよりご主人への思いで悩まれている方がひとしきり語られたあと、私の一言でその方は翌日ハッと気が付いたとメールをくださった。まさに同じ状況で、今度は私が気づかされたのだ。法友の存在とはこういうことなのかと思った。
  これまで10日間合宿で両親と祖母への、そして一年前に長男に対する視座の大転換を経験した。その瞬間まさに頭の中が交通整理され、途端に瞑想がうまくいった。だからといって問題が一挙に片付いたりはしなかった。今回の合宿前、長男に「おれはお母さんに壊された。でも恨んでいない」と言われた。長男の問題が完全に解決を見たから、夫の問題に着手することができたのだと思う。そして必ず視界が開ける直前には、それまでで最も暗い闇の中に在った。他の方にどのようにそれが訪れるのかは知らないが、自分はこの過程を通らなければならないようだ。とても苦しいが。
  この文章を書くための構成を考えた後、夫と待ち合わせて外で食事をするため駅に向かう道をサティを入れながら歩いていると、ふと4年前の背中の痛みを思い出した。それがこの道に出会うすべての始まりだったのだなあ、と、存在するはずのない痛みを感じていると、突然「感謝!」というサティが飛び出した。
  まさか、この痛みに感謝する日が来るとは!もしこの道に出会えていなければこの先もずっと「どうして?どうして?」を繰り返し、夫を責め、家族を、自分自身を苦しめたに違いない。しかし、本当に分かると一瞬で終わりにできる。ダンマを知的に理解することも、種々の方法で心を方向づけすることも必要であり有効なことである。しかしながらそれはエゴをなくし正しく見ることができなければ叶わないということ。そしてそのためには瞑想が必要なのだ、ということを理解することができた。瞑想への「信」の確立に一歩近づくことができたと思っている。