『瞑想8年目、日々是修行』Y.T.

 

  8年前から地橋先生のご指導のもと、最初の変化以降(「月刊サティ!2013年4月号」投稿)、さらにいくつかの変化があった。
  特筆すべきは、怒りの激減だ。職場にポケットカウンターを忍ばせ、怒りの感情を確認するたび、ポチッと押すことをやった。8年前には、一日100回以上あったものが、最近はゼロに近い状態になっている。因果論で怒りの恐ろしさを了解し、発する怒りは苦しみの裏返しということを体得できたからだろうか。他人の怒りに向けて自ずと慈悲が湧くこともある。
  いまだに回想されるのは10年前のこと。その頃は、義母や妻から「家出れば!」と罵声を浴びていた。あらゆることにおいて攻撃的な私は崩壊寸前だった。ダンマの学びから必死に視座の転換を図る。周囲に原因があるのではなく、そのようにさせる何かが自分の内にこそあるのだと。そして連日、慈悲の想いを注ぎ、ヴィパサナー瞑想に賭けた。時を経て一昨年。妻が、原始仏教に取り組む私の姿を見、私の歩みをそのまま受容してくれるように、そして惜しむように「出家でもするの」と、あの頃とは真逆の言葉を言ってくれるようになっている。
  ところが、反省しきりのエピソードもある。昨年の春先、妄想に疲弊し尽くしてしまったことだ。その発端は、遠く平成元年に遡る。同じ職場で、私と新人同士机を並べた女性がいて、4年間の交際後にプロポーズ。しかし、断られる。職場異動となりそのまま長い年月とともに記憶も薄れた。
  ところが昨年の春のこと、その女性が再び私と同じ職場になるという。それは前代未聞、県内数百もある職場で確率的に皆無。その時だ、若かりしかつてのマドンナが、思いのほか頭に蘇ってきてしまうこととなってしまった。数日間、妄想の甘美が襲い妄想に嘔吐しそうになり、現実生活が頓挫することも。
  4月、いよいよ25年ぶりに対面したのは、マドンナならぬまったく別人の容貌だった。その現実が妄想を木っ葉微塵に打ち砕いた。今、彼女は隣の机でマツコデラックス然として君臨している。妄想は気づいた瞬間にゴミ箱へ、と肝に銘じた一件だった。
  さて、この8年間の体調について。瞑想以前は、医療費が月ごと増えていくような健康不良体だったが、瞑想を始めて以来、体調は崩していない。生命を傷つけないようにし、半年に一度、朝カルの講座の前に新宿献血ルームに足を運び、月ごと医療ボランティアや動物保護団体へ寄付をしているからか。職場でも断酒宣言をした。「飲まなくとも、人生は酔うから」と軽口を叩いて。実際、人生など放っとけば自ずと二日酔いになるのではなかろうか。今、週末は、気づきを入れながらのジョギングを楽しんでいる。
  結びとして、一昨年亡くなった父について述べたい。私は父とはもの心ついてから親子の交流はなく、挨拶程度の言葉すらめったに交わした記憶がない。余りに無口無反応な父は、私に卑小な存在としてしか映らなかった。その息苦しさに高2で家を飛び出してしまった。数年後、父は倒れ、右半身不随失語症となる。その不自由な体で20年余りを過ごしていたが、しだいに食べることが困難になり、じっと横たわるだけとなり、意思表示も厳しくなっていった。いよいよの時、私たち家族は延命を望まず、父を見送ろうとした。しかし病院より、体に結核菌を有すので拡散を防ぐため、胃瘻によって服薬せざるを得ないと言われ、以来、薬と栄養が直接胃に注がれ続けることとなった。
  痩せさらばえる父の身近に添うこと4年が続く。ところがその日々は、私が求めていた親子の交流というものを初めて体験できたような不思議な感覚にとらわれる。そして父はその不器用な眼差しで、私を遙か昔からずっと見ていただろうことをも気付かせてくれることとなる。それなのに私は千万無量の心労をかけ続けてきたのだ。ひたすらに赦しを求め続け、懺悔の瞑想に明け暮れた。死の際に、遠く懐かしい父の声が心に響いた、「もういいよ。頑張れよ」と。私は嗚咽とともに合掌した。
  以上のような私のヴィパサナー瞑想8年間となる。掛け替えのない日々。ただしほとんどは反省ばかりで、遙かなる清浄道、一歩すら進めていないのではないか・・が実感だ。為すべきことに集中できない力のなさを省みつつ、ここで頑張るしかない。