『瞑想との出会い』りんご
今から2年ほど前、仕事はマンネリ、趣味もなく、このまま時間を浪費するように人生が過ぎていくことに、何とも言えない閉塞感を感じ、それを打ち破りたい衝動に駆られていた。そして、そんな時期に見つけたのが、マインドフルネスと某IT企業が開発したプログラムである(ただし、この時点では某IT企業のネームバリューに吸い寄せられているところが大きい)。
そのプログラムが、私の初めての瞑想体験となるわけだが、とりわけ私が興味を持ったのは、Emotional Intelligence Quotient(EQ)を養うことで、職務遂行能力が向上し、そのEQを養う方法がマインドフルネス瞑想であるということであった。図らずも、以前より、アンガーコントロールには課題があることは認識しており(怒ってしまった後の自己嫌悪は苦でしかなかった)、それが、マインドフルネス瞑想を通して、コントロールができるというのである。
この頃、アンガーコントロールというと、本屋では特集コーナーができ、ネットでもいくらでも情報が入手できた。しかしながら、私が見た多くの情報は怒りを感じた際の考え方や見方であり、知りたかった怒りが浮かんで反応する、その一瞬の反応を止める方法ではなかった。一方で、マインドフルネス瞑想ではその一瞬の反応に気がつき、止めることができるというのである。これは、やるしかないと思い、私の瞑想生活が始まったのである。
しかしながら、マインドフルネス瞑想を10分間毎日するように心がけても、うまく習慣化できず、そして効果もあるような、ないような感じで、半年が経った。そんな時に、プログラムに参加者が集まって、近況を報告する機会があった。そこで、習慣化と効果について苦慮していることをトレーナーに相談すると、その方も1週間か10日かの瞑想の研修に参加し、そこでやっと習慣にすることができたという。それで、私もそういう強制的に瞑想をする場に参加したいというと、仏教に抵抗がないのであれば、地橋先生のヴィパッサナー瞑想で、10日間合宿をしていたので、調べてみると良いと勧められたのである。
この頃、私の中では、アンガーコントロールを達成するには、瞑想が唯一の手段だろうと考えていた。だから、習慣化したいと強く思っていたが、それと同時に紀元前450年ほど前から脈々と受け継がれてきた仏教が瞑想を修行の1つとしているのに、その仏教を知らずに、本当に瞑想の効果を得ることができるのかと思い始めていたからである(効果の実感ができていなかった言い訳であったことは否定できない)。
そして、ついに地橋先生のヴィパッサナー瞑想に巡り合うことができ、残念ながら10日間の合宿はしていないということだったが、朝日カルチャースクールと1day合宿に参加させていただくことになった。
*マインドフルネス瞑想とヴィパッサナー瞑想の違い
あくまでも私の感じたことではあるが、マインドフルネス瞑想とヴィパッサナー瞑想の大きな違いは、瞑想のやり方というよりは、五戒、カルマ論、輪廻転生の有無だと思う。そして、個人的にヴィパッサナー瞑想を学んでよかったことは、その五戒とカルマ論があったことである。
ヴィパッサナー瞑想を始めた頃は、五戒の内、アルコールは絶対やめられないと思っていた。なぜなら、その頃、いろんなワインを試飲して、お手頃で自分の好みのワインを探すというのが何よりも楽しいと感じていたからである。ただ、鋭いサティを入れようとすると体を整えないといけないし、そのためにはアルコールが残っていたらできない。そう思うと、いつの間にかワインも飲みたいと思わなくなった(外では飲むが量は明らかに減った)。お陰で、家の冷蔵庫にある約20本のワインは、未だ野菜庫を占領しており、減る気配もない。
そして、カルマ論については、私にとっての安全装置だと捉えている。カルマの存在を検証したいと思って、あるところに毎月の募金をすることにしたが、その結果が出るより前に、最近、自分がしたことは戻ってくると思うと、人への対応に注意している自分に気がついた。よって、検証結果は得られていないが、カルマの存在を信じたからといって悪いこともないので、私の中では、カルマはあるということにしたのである。
ただし、募金による効果の検証は、個人的興味として続ける。そして、なぜカルマ論が安全装置かというと、私のアンガーコントロールの理想は、サティで反応を止めることであるが、未熟者の私にはうまくサティが入らないことがあり、そうした場合、「自分がしたことは自分に返ってくる」と日々考えていることで、怒りの反応を止める第二のブレーキとなってくれるからである。
ちなみに輪廻転生は、来世があるとするとまたこんな苦があって、それを克服するための修行をしないといけないのかと思うと、がっかりしてしまうので、今はその存在は保留にしている。
*ヴィパッサナー瞑想を始めての変化
いつのことだったか覚えていないが、最初に感じた変化は、電車の中だった。私の沿線は、通勤時間帯はすし詰め状態になるので、電車の中は常に殺気立っている。私もいつもイライラしていた。しかし、ある時から、それを流せるようになっている自分に気がついた。むくっと怒りが浮かびはするが、すぐさま、私のためだけの電車ではない、と切り換えられるようになったのである。
そこで、私の怒りに関する分析を行ったところ、@期待に応えてもらえなかったとき、A上から目線で何かを言われたとき、B仕事に口を出されたときに発生すると分類された。
この内、@に関しては、電車で感じたように怒りを抑えることができているように思う。期待をしなくなったというより、私が他の人に与えた影響だけで、反応が返ってくるものではなく、その他にも私の知らない影響が含まれた上での反応であると考えると、私ごときの影響がそれほど大きなものとも思えず、そうなるとイライラもしなくなった。
問題はAとBで、主に仕事上での克服課題である。もう少し説明すると、怒りを感じるのは、私の腕の見せ所と思っている業務に、上から目線や、これでいいと決めた後に口を出されるとイライラとするのである。地橋先生にも指摘されたが、これは、私の中で仕事のウェイトが大きいため、口を出されることで存在価値を否定されたように感じてしまっているようなのである。しかしながら、最近、視座の転換を行うことで、これに対する格好の練習相手をみつけた。主にイライラの源は上司であるが、その上司が、有難い練習相手と考えられるようになったのである。上司によっては、私が怒りを示すことで関係が壊れ、指示をしない、重要なことを連絡しない場合もあるが、今の上司は、私が反応に多少失敗しても、諦めずにイライラの源を与え続けてくれるのである。それに気がついた瞬間、そのことに甘えてはいけないと思うと同時に、私のサティの入り方やアンガーコントロールを実際に確認させてもらえるありがたい相手となった。
*これからの私の瞑想との付き合い方
ある人に聞かれた。毎日瞑想して、2週間に1度の土曜日の午前中と月に1回終日瞑想するなんて、どうしてそこまでするの?と。どうしてと言われるとアンガーコントロールにはこの方法しかないと思っているからだけど、どうしてこの方法しかないと思うのかの答えは持ち合わせていない。そして、理由はわからないが、アンガーコントロール以外の自分の可能性も向上させてくれるだろうと思っている。
とは言え、瞑想が今日は面倒くさいなと思う日がないことはない。そんな時は、いつも自分を戒める。人生のうち、与えられた課題は克服するまで、手を変え、品を変えやってくる。そして、それを後回しにすればするほど、逃れられない形で苦の度合いが増してやってくる。今、それをやめて逃げ出せば、さらなる苦しみが未来に待ち構えている。それであれば、我が身にやってきた苦は、今克服する以外の選択肢はない。
10年以上前、あまりにも似たような状況が執拗に繰り返されるので、そんな風に感じたことがあった。ずっと忘れていたが、瞑想を通して、再認識し、心が折れそうになった時の戒めとしている。そして、さらにこの原稿を締めくくりになって気がついたことがある。この有難い状況は、過去に自分の行った善業がなせる技なのか?それであれば、良くやった過去の自分と思うと同時に、未来の自分には、ダメ出しされないように今を生きようと考えている自分がいる。このように考えるのは、カルマ論の静かなる影響か、それとも保留中の輪廻転生の考え方が、実は私にじんわりと浸透しているのだろうか・・・。