『なんだ、あったじゃないか』 N.F.

 

   地橋先生の『ブッダの瞑想法』に出会い、1年近くが経ちました。本を読んですぐに初心者講習会に参加し、その後、朝日カルチャーセンターでの講座を受講し続けています。修行はまだまだこれからですが、ヴィパッサナー瞑想を始めて以来、苦しい場面は少しずつ減ってきているように思います。この瞑想法や原始仏教の教え、そして地橋先生に出会うことができ、とても幸運でした。
  私を瞑想と出会わせてくれたのは首の痛みでした。デスクワーク中心の仕事を始めると、数か月で首に痛みが出始め、整形外科に行くと、軽い椎間板ヘルニアと診断されました。しばらくは服薬治療をしていましたが、あまり効果はありませんでした。姿勢や血流の改善で対処しようと思い、対策のひとつとしてヨーガを始めました。DVD付きの簡単な本を買って、見よう見まねでの実践でした。
  そんななかで、ヨーガ関連の本もよく読むようになりました。そこでたびたび出会うようになったのが「瞑想」というキーワードでした。思っていたよりも科学的な実践であり、現実的なメリットがあることを知り興味を持ちました。夜、考えごとをして寝つけないことがしばしばあったため、同じことを繰り返し考える後帯状皮質の活動が抑えられるという説明に特に惹かれました。仕事が忙しくなり始めていたので、集中力を高めたいという気持ちもありました。
  その後、絶妙なタイミングでマインドフルネス瞑想の本に出会い、付属のCDガイダンスを聞きながら3か月ほど実践しました。ちょうど早起きの習慣が定着したころだったので、瞑想の時間を確保しやすい環境が整っていたのが幸いしました。
  「なんとなく頭がすっきりする」くらいの効果は実感していたように記憶していますが、より集中を高めようと思うと、どうしてもガイダンスの音声が邪魔になりました。かといって一人でそのまま続けていくにも方向性が定まらず、きちんとした指導者に教わりたいと思い始めました。インターネットで検索し、グリーンヒルのサイトも見つけました。しかし、宗教的なことに全く無知だったため、なんとなく抵抗を覚え、いったんはスルーしてしまいました。
  地元の書店で『ブッダの瞑想法』を見つけたのは、そのすぐ後のことでした。地橋先生の名前を見て、二度も出会うのだから何かのご縁だろうと思い、読んでみることにしました。そして、詳細に体系化された方法論に驚嘆し、さっそく初心者講習会に申し込んだのでした。そこで「何が起こっても良い」というヴィパッサナー瞑想と地橋先生の懐の深さに惚れ、今に至るまで修行を続けています。
  修行は、歩きの瞑想と座りの瞑想を毎朝10分ずつやることを基本としています。それほどまとまった時間が取れているわけでもないですし、まだ集中もさほど良くないので、瞑想そのもので何か劇的な体験を得たというようなことは今のところありません。しかし、瞑想で養った気づきの力と仏教の知的な理解が両輪となって、日常の流れは少しずつ良くなっているように思います。なかでも、カルマ論が腑に落ちたことは大きなことでした。
  朝日カルチャーセンターでの講座に出始めたころ、私はストレスからくる過食に悩んでいました。仕事でちょっとした問題に巻き込まれていたこの頃、帰宅すると満腹を超えて甘いものを貪り食い、落ち着かぬ心をごまかすことが習慣になっていました。超満腹状態で床に就くので、眠りは浅くなって疲れは取れず、よりイライラを募らせるという悪循環に陥っていました。
  ある週の講義で先生にそんな話をすると、「苦しい時は人を助けるといい。ゴミを拾うとか、小さなことでいいから」と言われました。帰り道、最寄駅の近くで赤十字の方が献血への協力を呼びかけていたので、これはチャンスと思い、何年ぶりかで献血をしました。駅から自宅までは自転車で移動しているのですが、献血後に駐輪場に行くと、私の自転車のカゴに身に覚えのない空き缶が入っていました。
  いつもなら「誰だ、ふざけるな!」と怒りの感情が出るところでしたが、これをきちんとゴミ箱に捨てればゴミ拾いをしたことになると思ったら、穏やかな気持ちで受け止められました。このとき、「そうか、これがカルマを良くしていくということなのか」と腑に落ちました。
  少しでも怒りが出れば、心にも身体にも悪い影響が出る。それは人にも伝わり、人間関係にもマイナスに働く。今の一瞬が次の一瞬に悪影響を及ぼし、それが無限に連鎖していく。でも、今、自分は空き缶をゴミ箱に収め、爽やかな気分でいる。これから会った人には気持ちよく接することができるだろう。怒っていたらどうだっただろうか――? ほんの些細なことではありましたが、あったかもしれないもうひとつの展開に思いを馳せたとき、心を汚さないことの大切さ、汚れる前に気づく力の大切さを理解したのでした。自分の心の持ちようひとつで、人生の展開は大きく変わっていく、そんな確信もありました。
  今起きていることはあらゆる因果関係の上に成り立っていること、今この瞬間の心のありようと意思決定が未来を形づくっていくこと。それが腑に落ちると、戒や慈悲の瞑想、布施の意味も自然と理解できました。どれも大切な実践ですが、特に慈悲の瞑想にはよく助けられています。
  現在勤めている会社に就職して以来、ずっと苦手な先輩がいました。とても仕事ができ、頼りになる先輩ではあるのですが、何事も自分の思いどおりにならないと気が済まないタイプの方で、いつもピリピリした雰囲気を身にまとっていました。ヴィパッサナー瞑想に出会う前のおよそ1年間、この先輩とコンビを組んで仕事をしていたのですが、私は毎日この先輩に怯えていました。先輩の方もピリピリしているのに私の方も怯え、委縮していたので、よけいに緊張感が高まり、どことなくぎくしゃくした関係になっていたのです。
  ヴィパッサナー瞑想を始めてすぐに、この先輩は慈悲の瞑想の対象の定番になりました。「私の嫌いな人」パートの登場人物でした。毎日慈悲の瞑想をしていると、先輩には先輩の苦しみがあり、それが攻撃的なエネルギーとして表出している(ように見える)だけなのだと理解できるようになりました。
  気づきの力で自分の緊張感や怖れを客観的に観察できるようになったこともあり、少しずつこの先輩とも自然に接することが(少なくともそうしようと努めることが)できるようになっていったように思います。そして、瞑想を始めて3か月ほど経ったころ、ごく自然な流れで先輩は私とは別の業務を担当することになり、コンビ関係は解消となりました。その流れが慈悲の瞑想によって導かれたものかどうかはわかりませんが、今ではごく自然に話せる関係となりました。それは間違いなく慈悲の瞑想の成果だと思います。人間関係の問題は、相手に原因があるのではなく、自分の関わり方が問題なのだということがよく理解できました。
  瞑想を始めてからの生活は概ねうまくいっているのですが、法の中途半端な理解で苦しい展開を招いたこともありました。心を汚さずにいることさえできればそれでいいのだ、地橋先生が言うとおり「起きたことはすべて正しい」のだと開き直って、ただ流れに身を任せて仕事をしていると、いつの間にか業務量が膨れ上がり、残業が激増したのです。疲労し、睡眠リズムは崩れ、瞑想どころではなくなりました。
  今はそういう流れなのだから仕方ないと諦めていたのですが、何気なく先生にそんな話をすると、「瞑想ができなくなっては本末転倒。自分のキャパシティをわきまえ、優先順位をつけて、やるべきことをやりなさい。それでだめならカルマだと思えばよい」と言われ反省しました。よく言われる「ありのまま」を都合の良いように解釈して無気力に生きてはいけないのだと気づきました。
  その後、仕事の忙しさは少しずつ改善していきましたが、この問題はまだ根本的には解決できていません。今回はたまたま改善したような印象です。流れに身を任せるべきところはどこなのか、自分で舵を取るべきところはどこなのか、それをきちんと見極め、為すべきことを為す。そう簡単にできることではないと思いますが、そんな生き方を目指したいと思います。
  神よ、願わくばわたしに
  変えることのできない物事を
  受けいれる落ち着きと
  変えることのできる物事を
  変える勇気と
  その違いを常に見分ける知恵とを
  さずけたまえ
  キリスト教にそんな祈りがあるそうですが、まさにそのような思いです。先生からは、「涅槃経の中でブッダは、どんな教えや戒律であっても、八正道がありさえすれば解脱する人が現れるだろう、と言明している。宗教的なセクト主義にこだわる必要はないので、仏教以外の教えや行法であっても、清浄道の完成に役立つなら実践すればよい。もし<神よ>という言葉が気になるなら、<三宝>に置き換えて祈ればよいのではないか」と言われていますが、喉元過ぎれば熱さ忘れ、最近は真剣に実践できていません。正直に言えば、ときどき何のために仏教を実践しているのかわからなくなり、漫然と瞑想をしてしまうこともあります。そうならないためにも、ひとつの道しるべとして、日々この祈りを実践していきたい。今回、1年間の修行を振り返りながらそう思いました。
  何のための仏教かわからなくなることがあると書きましたが、曲がりなりにも修行を続けているのは、無意識にもその効果を感じているからだと思います。
  寝つけない夜はいつの間にか激減していました。仕事に対する集中力は「劇的に改善」とまではいきませんが、不毛な怒りやイライラに悩まされることはずいぶん少なくなったので、そのぶん妄想の世界ではなく現実の世界での仕事に費やせるようになったと思います。
  瞑想に出会うきっかけとなった首の痛みは、ヨーガで多少やわらいでいますが、なくなったわけではありません。それでも、痛みは痛みとして受け止められることが増えたので、ほとんど気にならなくなりました。過食の悪循環はいつの間にか終わっていました。そして、レポートを書き始めるまで忘れていたのですが、ヴィパッサナー瞑想を始める前は、毎朝会社で先輩の足音にさえ戦慄していました。それもなくなりました。
  瞑想によって劇的な体験をしたことはないと思っていたのですが、こうしてきちんとまとめてみると、小さなことの積み重ねながら、大きな成果が出ているのでした。事実を正確に捉えられない自分の未熟さを痛感します。正確な自己評価ができるようになりたいものです。
  苦しみが減ったことは、仏教のセオリーどおりの効果ですが、瞑想を始めてから、個人的にはもうひとつの変化を感じています。それは、以前より、やりたいことをやりやすくなったということです。何かをやりたいと思ったとき、以前なら人にどう思われるかや、どのようなメリットがあるのかなど、どうでもよいことばかりを気にしてなかなか行動に移せませんでした。
  しかし、最近では何かで悩んでいるとその心の動きを仕分けて、つまらない感情は切り捨てられることが増えてきました。当然、気づけていない時もあるでしょうし、「見栄」「打算」などと鋭いサティが入るわけでもないのですが、観察するということは習慣になっているのだと思います。
  いわゆる「いい子」で過ごしてきた時間が長かったので、自分についてきた嘘は無数にあるように思います。言ってしまえば、嘘の集大成としての今を生きているので、当然苦しいこともありますが、これから時間をかけて、自分のカルマを正直なものに入れ替えていきたいと思います。それが、これから修行を続けていくための大きなモチベーションのひとつです。
  ときどき、何もかも捨ててリセットしてしまおうかと夢想することもありますが、「革命を起こそうとすると血が流れる」と何かの本に書いてあったので、少しずつ、地道に、何事も修行だと思ってひとつひとつ乗り越えていきたいです。何歳まで生きられるかなんて誰も保証してくれませんが、人生の比較的早い段階で仏教に出会えたので、(たぶん)まだまだ時間はある。それはありがたいことだと思います。時間があると思ってダラダラと生きないように気をつけないといけませんが・・・。
  仏教や瞑想に関することに限らず、私はずっと良い情報に恵まれてきたように思います。ちょっとしたことを知らずに恥をかいたことはいくらでもありますが、基本的には良い師や良い本に恵まれ、生きる気力をもらい、ここぞというときに助けられてきました。それもカルマなのかもしれませんが、そんなに有益な情報を人に与えた覚えはありません。受け取るばかりの人生に申し訳なさを覚えます。
  私は20代半ばなので、まだまだ受け取る方が多くなるのは仕方のない部分もありますが、少しずつでも返していきたい、与える側に回りたい。そんな思いを先生にお話ししたところ、今回このような機会を頂けることになったのでした。私のレポートが、瞑想に関する情報を探している方や、現在ともに修行に励んでいる方たちにとって、何かひとつでも役立つものになれば幸いです。