『法施の代わりに』 高橋秀典
「まあ、これでいいか」とネットで瞑想教室を探して、軽い気持ちで2009年10月からの朝日カルチャーに参加しました。その前年の春、転職による環境変化で一種の五月病になっていた時に、書店である瞑想本と出会い、慈悲の瞑想による効果はすぐに理解することが出来ましたが、ヴィパッサナー瞑想の説明がちょっと抽象的であったために本気で取り組むことはなく、一年半ほどの空白期間が経過していました。それでも瞑想には興味があり、勉強できる環境があるならばやってみようと思い申し込みをしました。
甘い考えで新宿に行ったため、グリーンヒルのホームページを下調べもせず、地橋先生がどんな方なのかも知らない上に、周りの方々がリピーターばかりとはつい知らず、初回終了後は一種の危機感と同時に瞑想に対して大きな期待感も抱いたものです。
翌日には『ブッダの瞑想法』を購入し、毎日晩酌をする暇があるなら瞑想を、と不飲酒戒を徐々に、そして三カ月後には完全に戒を守るようになりました。大酒飲みの私があっさりと酒を断ったものですから、友人からは随分と不評でした。
瞑想を初めて一カ月後ぐらいに伯父が再発した癌で亡くなりました。葬儀を終えてからも疲労感が何故かなかなか取れませんでした。しかし、ふと「怒り」とサティが入ると同時にすべてが氷解してしまい、非常に驚いてしまいました。「伯父に対してもっと治療することが出来たのではないか?」という、行き場のない怒りの感情が私の心の中に「有る」ことに気が付いたのです。これをきっかけにサティの技術が持つ力の素晴らしさを理解することになりました。
自分自身が持っている倣慢さに気が付いてからは、ゴミ拾いなどの善行を厭わず、行く道を人に譲り、より積極的に財施を心がけました。ダンマ系の情報も求めれば書籍や仏典、さらにネット上で読める法話に不思議とその時に必要とするものと都合よく出会うことが出来ました。足を組む時の痛みに悩めば真向法の存在を知り、瞑想前のストレッチとして行うようになってからは楽に真っ直ぐな姿勢で足が組めるようになりました。また瞑想中に「サティが嫌い」と思ったこともあります。しかし、残念ながら時すでに遅し、もう信が定まっていました。
こうして瞑想会でまた仏典などでダンマを学び続けることによって、そもそも何故瞑想することを求めていたのかを漸く理解しました。前述の空白期間に、さらにそれ以前からあった壮絶な苦の存在にやっと気が付いたのです。それまでただ漠然と辛いと感じていただけでしたが、そこに苦が有ると客観的に観ることが出来るようになったのです。それまで四聖諦の苦諦すらも本当に理解出来ていませんでした。
それからは子供の頃から学生時代、社会人になってから瞑想を始めるまでに至った経過を丁寧にトレースして思い返し、また可能な限りその地に足を運びました。遠くは出張先だった高松まで飛びました。懐かしい風景とともに苦しい感情を思い出しましたが、それはすべて終ったこと、恐れていたのは自分自身が作り上げた幻影に怯えていただけだと気付く、そんな行程となりました。いつの間にか、あるがままに妄想を介在させずに事象を観ることが出来るようになったものです。
私と仏教との最初の接点は小学二年生の頃、曾祖父の死に対して見様見真似で始めた般若心経の読経から始まります。今思えば曾祖父の死に対する対処を幼いなりに求めていたのだと理解できます。以来、付かず離れずの関係が瞑想を始めるまで続いていました。また、父が先祖供養に非常に熱心で、このような家庭環境に生まれたこともアビダンマ(論蔵)に接すればそれも単なる偶然だとは思えません。この頃になってこれまでの全てはこの一本の道に繋がっていたのでは、と思うことがあります。まだ妄想、渇愛、執着がなくなった訳でもなく、捨てられないモノは山ほどありますが、これからもこの道を一歩一歩、淡々と進んで行きたいと思います。
皆様に三宝のご加護がありますように 合掌