『「怒らないこと」から始まりました』 T.N.
今年2011年は手塚治虫のアニメ映画「ブッタ」の上映や「ブッタ展」の開催により原始仏教やヴィパッサナー瞑想に興味を持つ人も多くなることでしょう。私自身もヴィパッサナー瞑想と出会ってかれこれ一年半になりました。
私の父親は意外と短気でその遺伝を受けたのか、私自身何気ない事に「イラッ!」ときたり、両親に「〜は、前に言ったじゃん!」などと、他人に対しては怒ったりする事はほとんどありませんが、身内には平気で怒る事がある「外面が良い」典型人でした。
そんな子供の頃のある日、テレビで比叡山の千日回峰行を満行された酒井さん(後に二度日の回峰行を満行され大阿闍梨になられた)が、「早朝に修行のため小走りで進んでいると目の前に身の丈以上の“アシ”の茂みにぶつかりました。そのアシは朝露でたいそう濡れていたのです。『この中を進むのは嫌だなー』と一瞬思ったのですが『いや!待てよ。この朝露の滴が地面に落ち地下水となりやがて琵琶湖に入ると我々の飲み水になるのではないか』と考えるとアシの茂みに入って滞れても『なんとありがたい事か』と思えるのです」との話を開き、「心の使い方」の僧侶と一般人の違いを知って心の正しい使い方に興味を持ち、宗教書や哲学書を読み進み、その時に(書物の上で)出会った哲学者曰く「私も人間だから当然<怒りもするし<悲しくもなる。ただ、それをいつまでも引きずってはいけないよ。すぐに心をパッと切り換えるの。心は一度に二つの事は考えられないからね。よい事を考えるの。自分の心を汚す様な事はしてはいけないよ」。
この教えを受けて、「怒る事があってもこれはしょうがない。ただ、それに執らわれてはいけない」と長年これを実践することにより、心に「怒り」をとどめる事が少なくなりました。しかし、「怒り」をとどめることは少なくはなったのですが、下手をすると心の片隅に追いやっていた「怒り」が復活したりすることもあります。これでは瞬間でも「怒らない」自分にはなれません。「怒り」の芽を摘むことは不可能なのです。そこで自身の「イラッ!」とする感情を無くすことを「自分の課題」とすることにしました。
そんなある日、スマナサーラ長老の書かれた『怒らないこと』を知り、いくつかの著書からヴィパッサナー瞑想が有効であることが判り、インターネットを通じて朝日カルチャーの瞑想教室を見つけました。もともと大型ロボット「AIBO」の開発者が瞑想の効能を紹介していた著書を見て興味があったのと、集中力を付けるのに効果があるのではないかと思い、地橋先生のご指導を仰ぐ事となりました。
ヴィパッサナー瞑想を始めての効果ですが、仕事の処理時間が早くなったことが挙げられます。それまでは、集中力が欠けている時など、過去の仕事の成果にひたったり、失敗事項を反芻したり、週末の予定を考えたりと仕事をせずに妄想に浸っている時間が多々あり、またそれを悪いとも思いませんでした。今では妄想が始まり、気がついた瞬間「妄想!」とサティを入れることにより仕事に自分を引き戻すことが出来、効率よく仕事が進むようになりました。
「怒り」についてですが、地橋先生から「魂は存在しないのだよ」と指摘を受け、自分なりに「そうなのかなー」と思っていたのが、ある日突然「魂は存在せず全ての物は同一」と考えるようになってから、自分も他人も考え方の基本は一緒、人の何気ない行動による自分の「イラッ!」は、自分の気が付かない行動による他人の「イラッ!」でもあり、他人の事は見えるが自分の事が見えない「我」の強い自分に気が付きました。
今までは、「我」の強さゆえに他者との競う気持ちが強く、「自分」の中で「他者」との間隔がくっつきすぎて他者の反応の直撃を受けていました。それが、慈悲の瞑想による自分の嫌いな人をも思いやる気持ちの強制で「我」が弱くなったのか、一歩離れて相手を見ることが出来、距離を置いたがゆえに反応の直撃を受けることなく相手を理解できる余裕が備わったような気がします。
それにより今までは「イラッ!」としていた事象でも「怒り」を他に振り向けるのではなく、「怒り」そのものが湧かない「怒り」の芽を摘むことがかなり出来るようになったような気がします。これも慈悲の瞑想のお陰ではないかと思います。
とはいえ本来怠け症の自分ゆえに瞑想時のサティの精度もいまひとつ・・・・・・、真剣に瞑想に取り組まねばと思う今日この頃です。まだまだ原始仏教の入り口に立ったばかりで、難解な原始仏教ゆえに判らないことだらけ、瞑想についても初心の域を出ることが出来ませんが、法友の皆様と共に修練の道に励んで行きたいと思います。