『ヴィパッサナー瞑想とのご縁』 匿名希望
今から十数年前に坐禅会に参加させていただきました。これが私にとって仏教との最初の接触でした。そこでは仏教の基礎知識と、坐禅をして心の静けさを得ることの大切さを学ぶことができました。
それから数年後、仕事を退職しました。増えた自分の自由な時間を使って、それまでとは異なった観点から仏教の勉強をしたいという気持ちが強くなりました。たまたまその頃、インドとミャンマーに旅行する機会に恵まれました。この時の仏教巡拝ツアーを通じて、次のようなことが、自分の気持ちの中ではっきりしてきました。
第一に、ブッダの教えとその実践である瞑想の根幹を学ぶ。その方法として、テーラワーダ仏教によって、二千数百年にわたって伝持されて来たパーリ語の経典を読み、瞑想の背景についての理解を深める。
第二に、ブッダが覚られ、弟子たちにも勧められた「ヴィパッサナー瞑想」を習得する。そのために、まず「ヴィパッサナー瞑想」を訓練する機関を探し出す。
こうして、長い間いろいろ回り道もしましたが、最終的には地橋先生にご指導をいただくことになりました。私は、特に次のような点に魅力を感じました。
@法話と瞑想実践の二本柱のカリキュラムで、その二つのウェイトは瞑想の方に重点が置かれている。
A法話は、世間で実際に起こったことや、メディアで報じられたこと等幅広く、印象に残るものが多い。また、仏教はそれらについてどう考えているか分かりやすく解説し、説得力がある。
B受講生一人一人との公開インタビューでは、各人に適した問題解決の対応策を例示される。
毎回出席する度に、私は多くのことを学ばせていただきましたが、その中で特に印象的であった一例を述べたいと思います。
半年ほど前のこと、当時私はサティ、特に心随観の習得に励んでおりましたが、壁に突き当たって苦しんでおりました。そこである日の公開インタビューで、その壁をクリヤーできるようなヒントを下さいとお願いしました。その時及び前後の質問者の回答の中から、私の問題にも示唆的だったものを選んでみると以下の通りです。
@「ヴィパッサナー瞑想」のやり方が正しければ、成果は必ず上がるものである。
A厳密なサティの基礎が身についていないのではないか。
Bよいサティを入れようとするのは邪道である。上手くいかない時こそ、自分の本質が見えてくるものである。
Cサティは、最初から入らないものと考えていた方がよい。特に、他人と比較して一喜一憂することはしないように。
D自分に与えられた条件の範囲内で生きていけばよいと達観してみる。
E課題追及型の生き方は、「ヴィパッサナー瞑想」の目指す世界とは無縁である。
F本来、心は徐々に変わっていくものと心得るべきであって、速効性を求めるべきではない。
清浄道を歩むこと(例、善行、慈悲の瞑想、五戒を守ること等を含む総合的な「ヴィパッサナー瞑想」)によって、反応系の汚れた心を浄らかな心に変えていくことができる。
これらの話は、思い当たることも多く、特に強く気付いたのは次のようなことです。
@サティの技術面の向上に執われ過ぎていたこと。
A現代人に共通する価値観や心の傾向(例、競争原理、課題追及型、他者との比較重視等)に対する批判、修正を手つかずのままにして、慈悲と智慧の仏教を学ぼうとしても、仏教の知識量が多少増える程度である。したがって、仏教の根幹に照らした生き方をするには、清浄道を歩むことによって、汚れた反応系の心を浄らかなものに変えていく努力が、最重要であること。
私は、今ようやく清浄道の入口まで辿りつき、及ばずながら、その道を歩みはじめたところであります。未熟者ではありますが、今後とも清浄遺を歩み続けるつもりでおります。