『心の清浄通が瞑想だった・・・・・・』 川村史朗

 

  私がヴィパッサナー瞑想に興味を持ったのは5年程前になります。
  当時、仕事や対人関係にしっくりいっておらず、友人や実家の両親に不満ばかり漁らす毎日を送っていました。
  表立って大きな問題を抱えている訳ではないのに、焦燥感や疲労感、虚しさを振り払うことができませんでした。
  数年前の恋愛の挫折を引きずっていたのも、空回りの一因となっていました。そんな焦りや虚しさを無くそうと、業績や昇進に腐心し、結果としてある程度目標を達成しても心が満たされない、むしろ虚しい、そんな苦悶の日々でした。
  今思えば、心のどこかで「これは内面的な問題なのでは・・・」と薄々感づいていたように思います。だからこそ、表面上は仕事の不満などを言いながら、心の問題を扱ったような書籍やホームページを頻繁に眺めていたのだと思います。虚しさを解消するために躍起になって仕事をしても、趣味に没頭してみても、結局はそれ自体を人生の目標と感じることが出来ず、もがいていました。
  そんな試行錯誤の中、出会ったのがテーラワーダ仏教関係のホームページでした。“思考を止めて事実のみを正しく観察することで、苦しみを無くすことができる”という内容は、私にとって衝撃的でした。
  その頃の私は常に「状況を良くするために、もっと考えなければ」あるいは「事実(現実)は辛いから、上手な回避方法を見つけなければ」ともがいたので、「思考を止めると智慧が湧く? 智慧によって苦しみが無くなる? 何だそれは!」 そんな感じでした。
  それまでの自分の信念との大きな違いがむしろ興味となり、書籍やホームページなどを読み漁ることで初期仏教を学ぶことに夢中になっていきました。いつの間にか「実践して確かめてみるしかない」そう思うようになり、仕事が終わると、裏山の林道に行き、雨の日も風の日も欠かすことなく、日に2時間ほども「右・・・、左・・・、考えた・・・」などと独学の歩行瞑想を 1年半ほど続けました。
  ただ振り返って残念なのは、完全な独学だったため、基本レッスンにもならないようなやり方だったことです。それでも1年以上も止めなかったのは、本などで得た知識から「この教えで間違いない」という思いと、現状のあまりの苦しさから藁にもすがる気持ちの表れだったのだと思います。
  智憲や悟りなどは何時まで経っても解らないながらも、1年半も続けた頃には、もっと知りたいという欲求から、幾つかの初期仏教のグループで 3、4日の短期合宿に参加するようになっていました。そういった合宿に参加している人達の会話から地橋先生の評判を知り、グリーンヒルに自身の活動の中心を移していきました。
  グリーンヒルでは、参加人数を増やすことよりも、個々人の成果に重点を置いている点や、非常に厳密な瞑想のやり方を指導していただけることに好感を持ちました。
  また、瞑想会の度に、地橋先生との個別のインタビューがあることが私にとって大変ありがたく、瞑想方法から日常生活上の注意点など、参加するたびに多くの質問をさせていただきました。
  そういった指導を通じて、これまでやってきた独学の歩行瞑想は、瞑想と呼べるようなものではなく、ただ強制的に思考を止めるために「右・・・、左・・・」と連呼しているだけで、身体感覚への注意などが全くなされていないことを思い知りました。言葉の連呼で強制的に思考を止めようとしているような、ヴィパッサナーと呼べない作業に一年半も夢中で取り組んでいたことに愕然としてしまいました。
  しかし、その後、瞑想の方法を修正してさらに数カ月の時間を費やしたにも関わらず、その頃の私はまだ「瞑想の効果がよく分からないなあ」そんな感想でした。
  瞑想を知る前の苦しんでいた頃との違いは、「上げた、下した、考えた・・・」とやっていれば、いつか幸せな日が来る・・・という希望があるということで、自分が変化しているとは感じられていませんでした。
  グリーンヒルの瞑想会に足繁く通うようになって1年ほどが経ち、 2泊 3日の合宿に参加させていただきました。合宿では、人前では話せないような悩みなども長時間に亘って個別にインストラクションしていただきました。
  その最中、私は失礼にも先生に「瞑想の効果がよく分からないのですが、何が悪いのでしょう?」とぶしつけな質問をしました。先生から「生活が楽になったり、そういう変化も無いの?」と訊かれた時、私は初めて根本的な勘違いをしていたことに気づきました。
  その時すでに、瞑想に関しては知識的な勉強を相当量してきたにも関わらず、「瞑想とは、ある時智慧が湧き出すもの」とか「身体感覚が変わっていき、それとともに人生観が変わるもの」といった先入観を持っていました。実際に、そのような説明をされている本なども多かったように思います。先生から、日常的な変化を尋ねられた時、何を聞かれているのか直ぐには分からない気分でした。
  私が「最近は仕事の憂鬱は無いし、虚しさも感じなくはなりましたが・・・」そう答えると、先生は間髪入れず、「ちゃんと効果出てるじゃない!」と言われました。その時ようやく、瞑想の効果とは何か特殊な体験をすることばかりではないんだ、と理解しました。瞑想の達人の話などに興味を持つあまり、特殊な体験ばかりに目がいっていて、自分が変化していることに気づいていませんでした。
  「日常が楽になり、笑顔が多くなり、前向きな気持ちになっている」、それこそが私にとって数年間の瞑想の効果だったのだと分かりました。また、その理解以降は特殊体験への拘りがかなり少なくなりました。
  おそらく、才能・集中力の高い人は、特殊な体験もあるでしょうし、そういった道を歩むことで著しい進歩を遂げる方も多くいるのでしょうが、そうでない私にとって瞑想は無駄かと言えば、決して無駄ではなく、日常生活と気持ちが日々改善されていくことが進歩なのだろうと理解するに至りました。
  瞑想を始めて5年ほど経った現在、私にとって瞑想は、日常生活を改善するとともに、性格を修正するための道具という理解をしています。
  以前のように何かに不満を感じた時、思うままに毒を吐くような生活から、「不満を持った。怒りを感じた」と出来るだけ早く気づき、「ここで感情的にならなければ進歩だな。許そう、受け入れよう」といった対処を心掛けるようになりました。
  怒りや不満をいち早くストップできるのはまさに瞑想の効果であり、気づきのある生活と捉えています。結果として、対人関係や仕事内容も良くなっていることを実感しています。
  瞑想でよく説明される“認知から比較、衝動といった万分の何秒という思考の流れの体感”に至らなくても、数秒、あるいは数十秒遅れの気づきと対処でも生活は向上できるし、そこから進んでいこうと考えています。
  補足になりますが、日常の気づきの速さと心持ちの改善は、身体感覚を感じきろうとする厳密なサティを教わって以降、格段にペースアップしたと感じています。
  仕事に関しては、世間的な上昇よりも生活の質こそが大切、という理解に至った結果、闇雲な上昇思考をやめて、気づきある対処によって不平・不満を解消することを心掛け、結果として上昇しても今のままでも構わない、という楽な気持ちへ変化しました。
  地橋先生が言われる「人生なんて面白くないから瞑想でも・・・となるのではなく、最高の日常を手に入れてからが本当の瞑想のスタート」という言葉が今の自分にはしっくりきています。
  いつか、達成感と充実感を持ちながら本格的な瞑想に取り組める日が来ることを目標にしています。
  もし、特殊な瞑想体験がないことで「自分には才能がないのでは」と壁にぶつかっている方がおられたら、今の現状に応じた効果を体感されることも選択肢に入れていただければと思います。
  今後も瞑想を通じて精進していきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。