『瞑想で辿りついたプリンの思い出』 Y.T.
私が原始仏教に出会ったのは5年前のことでした。原始仏教について解説された本を書店でたまたま目にし、何冊か購入してみました。拝読させていただくと、それまで目にしたことがない透徹した論理と教えに大きな衝撃を受け、その世界にすっかり魅了されました。
私は学生時代から、自己嫌悪と自己否定、他者に対する恨みで苦しんできました。また働き始めてからは、職場の人間関係等で辛い思いをすることが多く、それを克服するためにありとあらゆる心理療法やセミナーを試してきました。そんな時に原始仏教に出会い、「これで自分や人生を変えられる」と期待しました。
グリーンヒルの瞑想会に来させていただくようになったのは2年前からです。最初は、瞑想する機会を増やしたいという気軽な気持ちでした。関わりが深くなったのは、一昨年の11月に初めて参加した泊まらない1Day合宿からです。その時初めて地橋先生から丁寧な個人インストラクションを受け、御指導いただく機会を得ました。それから数回の合宿を経て、昨秋には9泊10日の合宿に参加させていただきました。
私の場合、瞑想が順調に進んでいったわけではなく、合宿に参加させていただいてもずっと妄想の嵐の中で、「瞑想なのか、それとも妄想なのか」という状態をなかなか脱することができませんでした。そんな私も地橋先生の粘り強い御指導や法友の皆さまの温かいご支援により、9泊10日の合宿でようやくダンマへの「入門」が叶い、普通に瞑想ができる段階に辿り着くことができました。その合宿も山あり谷ありでしたが、とにかくサティを入れ続けることに努力した結果、無明の闇に一瞬光が指すような経験がありました。
9泊10日の合宿最終日の朝食にプリンが出ました。何の変哲もない、スーパーでよく売られている昔からあったプリンです。そのプリンを口に入れた時、なぜか小学校の校庭の風景が思い出されました。子供時代の懐かしいような、少し切ない気持がしましたが、その時はその様子を瞑想で客観視していたせいか、大きく感情が動くことはありませんでした。
しかし、合宿での瞑想を終了した後の最後の面接で、そのプリンのことを先生に尋ねられた時、なぜか訳もなく涙があふれ出てきました。なぜ自分が泣いているのか、その理由も分からないまま、ただ自然に涙が出てきたのです。このようなことは、日常でも、そして内観でさえも、経験したことがありませんでした。
これについて、先生が合宿最後のダンマトークで次のようにおっしゃっておられました。
「人はエゴによって、自分の過去を不幸一色で塗りつぶし、いつも不幸であったと編集してしまいますが、そんなことはないはずです。概して不幸な子供時代であっても、その合間には普通の家族の当たり前でささやかな幸福を感じる時があったはずです。この方にとってプリンは幸福の象徴でした。10日間にわたり、サティによって思考を止めようとした結果、エゴが少なくなり、エゴが見せまいとしてきた真実の世界が出てきたのです。この方は内観でも情動脳にスイッチが入らず、あまり変わらなかった人ですが、それが瞑想の力で変化しました。我々は『妄想している』のが常態ですが、サティの基本部分は毎日の生活に活かされるべきであり、過去を見る際にも活かされるべきです。事実をあるがままに観るということを日々実践していきしょう」
この現象に対する先生の御理解に私も強く同感しました。エゴや妄想が強く、物事をありのままに観ることが人一倍困難な自分でさえも、一生懸命瞑想に取り組めば、変わっていけるのではないかと感じた出来事でした。精進と多くの支えによって経験することができた、人生の貴重な転換点を無駄にしないよう、また死を迎える際に後悔しないよう、残り半分を切った貴重な人生の時間をこれまで以上に、瞑想と清浄道への取り組みに使っていきたいと思います。