『迷走から瞑想へ』 M.K.
家は浄土真宗ですが若いときは全く宗教に興味はなく、仏教に興味をいだいたのは30才を少し過ぎてからでした。
漠然とした虚無感からか禅に興味を持ち、近くのお寺の座禅会に参加し、折々に坐禅をするようになりました。そして、ある坐禅の本を読んだのがきっかけで10日間の座禅会にも参禅するようになりました。そこで初めてサマーディを体験し、「今って本当に有り難い。全てが奇跡的な存在で素晴らしい」と心底感動しました。
しかし、結界で守られたお寺から普段の社会生活に戻るとその感覚はだんだん薄れていきました。
しばらく時が経ち禅に対する意欲も薄れてきた頃、ある仙人のような先生からテーラワーダ仏教について書かれた本を勧められ、初めてヴィパッサナー瞑想を知りました。早速、ヴィパッサナー瞑想を習ってやり始めてみましたが、なかなか細かいところまでは把握できませんでした。
また、インターネットで地橋先生の本や DVDを知り、次々と手に入れて読んでみました。そこには瞑想のやり方が緻密かつ明快に説いてあり、実践レポートにより瞑想者がどのような心境になるのか伺い知ることができて大変良かったです。
しかし、何事も頭で理解するだけではダメで、実際にやってみないとわかりません。ありがたいことに著者ご本人が毎月瞑想の指導をされていることがわかり、瞑想会に参加させていただくようになりました。
地橋先生は、瞑想一筋でやってこられただけあって経験も知識も豊富で、わずか数年の間に地橋先生や参加者の方々から教えられることが多々ありました。
それに、「ヴィパッサナー瞑想を毎日最低10分だけでもしてください」というご指導は、飽きっぽい私に合っていたようで、瞑想を継続することができました。
これまでは、慢が強く上手くできなかったら、怒りが出て嫌になって止めるというパターンを繰り返していましたが、サティを練習するうちに自分の中の貪瞋癡に気づくことができ、徐々に「心の暴走を止めて楽になる」ことに味を占めるようになりました。
野球のイチローでさえあれだけ練習してもヒットは3割打てるか打てないかです。そう思えば私のサティがヒットする確率なんて1割あれば御の字です。芸事はなんでも、稽古でいろんな失敗を積み重ねていき、何年か経って初めて上手に出来ると言われています。
サティも気づき→観察→洞察とレベルがあるそうで、洞察のサティが、今の瞬間、瞬間に次々と入っていく近行定をいつか体験してみたいものです。
それから、佐賀の内観研修所で一週間集中内観させていただいた経験も本当に良かったです。両親をはじめとして、いろいろな人から恩を受けていることに気づかせてもらいました。危うく親が亡くなってから「ああすれば良かった。こうすれば良かった」と後悔するところでした。
でも、これは日常内観をしないとすぐに忘れてしまうので要注意です。亡くなった祖父に対しての内観からは、人生のはかなさ、虚しさ、無常をひしひしと感じました。
内観で今生を振り返ってみると、実は意外なほど豊かでありがたい人生を送らせてもらっていたことに驚きました。感動映画なんか見るよりよほど豊かなものが自分の中に眠っていました。まるで死ぬ前のおじいさんの心境になった感じでした。
集中内観を経験してからは、日常生活で「なんでこんな目に遭わなあかんねん」と思うような出来事に遭っても、「これは全て自分が過去に同じような悪さをしてきたからや」と自然と納得することができ、自業自得と甘んじて受け止めるようになりました。
相変わらず毎日あまり冴えない日々を送っていますが、おかげさまで心は少しずつ良い方に変わって行っているようです。今では瞑想は操体などとともに、心身を楽に快適にするための欠かせない習慣となっています。
ご縁がありました皆様方、どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。