『一年目の総括』 yama
両親が熱心なキリスト教徒であった為、私は幼い頃から教会へ通った。洗礼も受けたが信仰に馴染めず、二十歳の頃教会を離れた。後年、癌で亡くなった母の最期は、痛みと妄想と恐怖が溢れ、本人も家族も辛いものであった。「安らかに天国へ旅立った」とは言い難く、私の中で信仰に対する疑念が深まった。
私には、「きちんとしていたい」「正しく在りたい」と云う思いが心の何処かにあり、ある程度そのような生き方が出来ていると思っていた。しかし、別れた妻だけでなく、深く付き合うようになった人からも、「何を考えているのか分からない!」と言われ、場当たり的で表面だけを取り繕っていることを自覚するようになった。
変えたいと思いながらも、どうすれば良いか分からず、只々時間だけが過ぎていた。宗教を否定しつつも、宗教に期待するところもあり、模索する中でダライ・ラマの著書に出会った。そこには「宗教に依らなくても心の訓練によって精神を高め倫理的な生き方が可能だ」と説かれ、私は『心の訓練』と言う言葉に惹かれた。
そんな時に、会社から転勤を命じられ、事故と失敗続きの事業所の所長になった。大変重い気持ちで転勤したが、着任早々に部下が大きな失敗を引き起こし、気持ちは落ち込む一方だった。
今何かを始めなくてはいけないと思い、瞑想に関する本を読み、独りで試した。しかし全く思うように行かず、朝日カルチャーの地橋先生の講座に申し込む決意をした。一年間はこれをやろうと決めて、上手く出来ても出来なくても、毎日1回は瞑想するようにした。しかし、中心対象が分からなくなると鼻腔を中心対象にしたり、朝に瞑想した日は夜に酒を呑んでも良いとしたり、蚊を叩くのは仕方ないとしたり、自分で勝手にアレンジしていた。
講座も2シーズン目に入り、戒を守り、悪を避けて善をなすことで条件を整えて瞑想するという理屈が分かり、一切の飲酒を止めて合宿に参加した。また仕事では、直ぐに声を荒げることで有名な客先の担当者に、慈悲の瞑想をした。以来、私はその人から理不尽な物言いをされることはなくなった(勿論、業務上の努力は続けている)。これによって、出社する時の漠然とした不安感が消えた。今考えると、自分の利益の為にやっていたことで、本当の慈悲心でしていたことでは無いが、十分な効果はあった。
毎日淡々と瞑想を続けているが、目に見える素晴らしい変化は感じていない。かえって日常生活の中でイラッとすることが増えた。前を歩く人のタバコの煙、携帯をいじりながら歩いてぶつかってくる人、通勤途中のイライラが増えたと思ったのだが、実は以前からイライラしていたのに気付いていなかったのだ。自分は穏やかな人間だと思っていたが、瞑想を始めて、自分は怒りの多い人間だということがやっと分かってきた。
修行を進めるためには徳を積まなくてはいけないと知り善行を始めたが、善行をしながら怒りが湧いてくることに気付いた。ゴミを拾いながら捨てた人への怒り、虐げられている人々への寄付をしながら虐げている側への怒り。業・因果を教えられて、怒りが如何に恐ろしい結果を生み出すものか少し理解でき、取り返しのつかないことを為し続けていたと気付いた。
瞑想を始めて一年経ったが、やっと自分の本当の状態に気づいたところだ。お試しのつもりで始めた瞑想を、私は生涯続けるつもりになっている。今は、仏教に依って修行することを、不完全ながらも受け入れることができた。どこまで行けるかは分からないが、1mmでも心を成長させることができれば良いだろうと思うことにした。
徳の無さを痛感する毎日だが、地橋先生の『今日の一言』から「自分のしてきたこと、してこなかったことを正しく心に留めているならば、いかなることが起きようとも、我が身にふさわしいことばかりだ・・・」この言葉をモットーに修行をさせて頂いている。