『煩悩との二人歩記(ふたりあるき)』 中道精進
昨年一月から瞑想会に参加させていただいています。きっかけはいつの頃からか心に芽生えた他者に対する不寛容や怒りの感情に気づかされたことでした。例えば、日常会話や職場で間違った言葉や内容を発言する人やスタッフがいるとわざわざ叱って訂正する、駅で階段の昇降矢印を無視する人が許せない、電車の乗車口で両脇に陣取り邪魔になる人が許せない・・・など、きりがありません。自分が思っている常識や学問やマナーを盾にして、私は正しいけれどあなたは間違っていますよ、という感情です。
ところが、「あれ?私は間違わないの?」「何をそんなに怒っているの?」「嫌な自分だな」などの気持ちが起きてきて、その時ふと立ち寄った書店で目に飛び込んできた一冊からヴィパッサナー瞑想を知ったのが一昨年の十二月でした。
本だけで自己流の癖などを付けたくなかったので、年明けの瞑想会まで待って地橋先生の初心者指導を受けました。最初は全然集中できず、サティやラベリングも間に合わなかったり抜けたりしていました。帰宅してからは一日最低十分の歩く瞑想を日課にして欠かさず実践していましたが、なかなかありのままのサティがリアルタイムで入りませんでした。通勤時でも「臭った」とサティが入るはるか前に、「こんなきつい香水を誰がつけているの?」という怒りの感情が出る始末。
その後、瞑想会での超スローの歩く瞑想の指導で、方法的に細かな疑問が無くなり少し瞑想が進んだように感じました。それからは日課の瞑想に加えてダンマの勉強にも意欲と精進が溢れてきました。今、究極の法を修行しているという「慢」と「傲り」の煩悩と共に・・・。
五月には初めて1 Day合宿に参加し、充実した貴重な一日を過ごしました。面接では先生から、解脱までにはどんなに幸せだと思える瞬間も苦を見つめる能力が最後まで必要なこと、ヴィパッサナー瞑想に出会わせていただいた三宝のご加護と導きに感謝して心身共にゆだねること、そして、清浄道には大きく智慧の道と信の道があるそうですが、私には信の道を示していただきました。それは、実証していくのが仏教ということに共感していた私にも何の抵抗もなく素直に実感として入ってきました。言葉にできない確信のようなものとして。
しかしここで試練という事態を自ら招きます。私が既婚者なので話が出来るという若い女性にほのかな感情を持ってしまったのです。すぐに「父性!」とサティが入り恋愛感情には至らず終わりましたが、今考えると、日々変化生滅し続ける現象はその時に抜群のキャストを用意してくれるようです。
時を同じくして、職場でもお酒から卒業したことを宣言していたにもかかわらず、お中元に贈ってくれた方がいました。五戒を知った上では、頂いたお酒を他に勧めることも出来ず、浅はかな考えで不飲酒戒を中断しました。また飲酒した上で瞑想することも、ブッダや阿羅漢、先人の聖者たちに失礼極まりなく思い、飲酒した夜は瞑想を中断、そこからはドミノ倒し的に乱れてしまいました。本当に恐ろしいことです。
日課としていた瞑想も欠かす日が増え、煩悩は、「音楽を聴いて感動しようよ」「映画を観て泣こうよ」と、感情に直に訴えかけて邪魔をしてきます。おまけにまた慢が顔を出して、これまで原始仏教以外に学んだり親しんできた事柄に対して軽視する感情が現れてきました。所詮は世間の書物、書く者が都合のいいように事実を歪めて書いたもので真理ではない・・・とか。いったい自分は何様のつもりなのでしょうか。
こうした煩悩に気づいた時には猛烈な拒絶感と否定感が生まれました。しかし、ある日のダンマトークで先生が、「何事も嫌っているうちは終わりませんよ」といわれた一言で自分の中で何かが変わった気がしました。煩悩をただ毛嫌いしていても何も始まらない。私でも悟れる日が来るまで煩悩と付かず離れず共に歩いて行こう、と。煩悩があったからこそヴィパッサナー瞑想にも出会えたのだから。
その頃から日課の瞑想に加えて日常生活の中でもサティが入るようになり、慈悲の瞑想にもより心が入るようになりました。朝も自然に早く起きるようになり、職場ではリーダーシップよりもスタッフ皆が働きやすい環境作りを行うように行動が変わっていきました。
最後になりますが、今回法施の勧めをしてくださり心より感謝を申し上げます。そして文章を書きながらも瞑想にも劣らずサティが入ることに初めて気づかせていただきました。これからもどんなに躓いても挫けずに清浄道を歩んで中道に至れますように。仏法僧の三宝のご加護と共に皆様がお幸せでありますように。