『ヴィパッサナー瞑想との出会い』 森 健一郎
私は、妻、子供2人の4人家族で暮らす43歳の公務員です。外からみれば一見、ある程度完成された一人前の男性と見えるかも知れません。しかし、私には学生の頃より20年以上、先天性の身体的理由により夢が断たれた所から始まる葛藤がありました。
それは、「自分の一度しかない人生、本当にこれで良いのか?」という葛藤です。
このような葛藤は、世に生まれ出た皆が感じることであるかも知れません。そして人それぞれが自分なりのやり方で受容していく、それが大人になるということだというのが一般的な考えかたと思われます。しかし、恥ずかしながら私にはそのことがいつまでも受容されることがありませんでした。
受験、就職、転職、結婚、子供の誕生、昇進と時は流れ、子供の障害、難病の発覚等々いろいろありましたが、人生において何か一つ好きなことに打ち込んで何事かを成し遂げたい、いや、そうであらねばならないという考えが頭を離れることはありませんでした。
幸か不幸か器用にも、表面上は浮世離れすること無く、現実を守りつつ生きていました。自分は五体満足で働けて、障害児を育てながら、こんな幼稚な悩みを持つ旦那を非難することのない妻に頭では感謝しつつも、最近は、この年になってもまだ自分探しをしている自分、この世の雑事に追いまくられている自分に、苦しさ、あせりというより、混乱、諦め、怒り、若干の寂しさ、を感じるようになっていました。
そんな生活の中、自己啓発系の本を読み漁っているうちに、何冊かの本に「瞑想をすると本当の自分に出会う」という趣旨のことが載っており、瞑想について興味が湧いてきました。ただ、後にヴィパッサナー瞑想はそのような目的のものではないことを知るのですが・・・。
勇んで参加した短期合宿の面接では、地橋先生より、身体的理由により挑戦すら出来ずに夢が断たれたのは、カルマが良くないこと、そして思考、妄想から夢や成功に執着して、自分から苦しくなる生き方をしているとの指摘を受けました。先生の一言一言に、両親のこと、子供たちへの接し方、目を逸らしてきた自分の醜い部分など思い当たる節があり、自分探し以前の問題でガックリしている自分に、「あなたのようなタイプの人は仏教の勉強をすると良いですよ」と励まして頂きました。
初めて瞑想会に参加してから、1年が経過し、ようやく一日15分程度の瞑想が定着してきましたが、最近になって感じていることがあります。それは、ずっと自分は「貪」「瞋」のタイプだと考えていたのですが、どうも「痴」のタイプなのではないかということです。どんなに法に触れ、知識を吸収し、理解をして、反省したつもりになっていても、自分の想定を超える現実に不意に直面した時にはサティが入らず、入っても対象化はされず、あっさりと現象を掴んでしまうのです。
「どうやら残念ながら自分には物事の理が見えておらず、智慧無き反応を繰り返してしまっている」とようやく気づき始めてきました。それからは、やったりやらなかったりだった瞑想も毎日続けるようになり、常に、「この考えこの行動は、真に智慧ある人間の考え、行動だろうか?」と自問する日々です。
今までの人生の過程で様々な成功哲学、人生論、願望実現、自己啓発、スピリチュアル関係などに興味をもってきて、それらで救われることもありましたが、残念ながら根本的な解決には至りませんでした。しかし、解決に至らなかったおかげで、ヴィパッサナー瞑想と原始仏教の教えを学ぼうという気になりました。また、若い時であれば、原始仏教のちょっと厳しい考え方について行こうとは思えなかったかも知れませんが、思えば最良のタイミングで出会うことが出来たのかも知れません。
短期合宿の最終日に先生は「さて、森さん、これからどうしますか?」と尋ねられました。
1年経過した現在の答えは、「今のところ、ヴィパッサナー瞑想と仏教の教えを学び続け、実践すること以外になすべきこと、やりたいことは見当たりません」ということです。いつの日か自分の人生はこれで良かったのだと真に理解する日が来ることを信じて・・・。
ん・・これも「執着」・・・なのかな?
最後になりましたが、すべてのヴィパッサナー瞑想者の修行が進みますように。