『ケンタウロスへの道』 中野 祐三郎

 

  私は、人生の目標をケンタウロスになることに置いてきました。ここで言うケンタウロスとは、ケン・ウィルパーが意識の成長・進化のサイクルの中で記した後期自我→成熟した自我→生物社会的領域→ケンタウロス→アートマン→ブラフマンのケンタウロスの段階を指したもので、自我を手放した状態、或いはありのままの自分を受け入れた状態を示します。天外伺郎氏によれば、後期自我から成熟した自我或いはケンタウロスに進むには、努力や頑張りでは難しく、瞑想がその助けになると瞑想を勧めていらっしゃいます。
  また、数年前に、私にとって幸せとは「こころ安らかに過ごすこと」だと気づきました。その後巡り会ったスマナサーラ老師の本に同じことが書かれていてそうなんだと確認しました。スマナサーラ老師も著書の中で瞑想を勧められていらっしゃいます。
  2年前、60歳を迎えた時、死ぬまでにやっておきたいことはないか、今までやり残していたことはないかと人生を振り返り、学生時代から興味がありながら今まで縁がなかった瞑想を経験してみようと考えました。これが瞑想を始めたきっかけです。
  さて、瞑想を始めてこの2年間で変化したことは、何か。
  まず、事実として確認できることは、競馬を休めるようになったことです。これまで何十年と週末に欠かさず馬券を買ってきました。一時は、一年365日毎日馬券を買っていた頃もありました。それが、最近、週末、時に競馬を休んでいる自分を発見します。大きな大きな変化です。
  また、母との関係にも変化が現れています。以前は、些細なことで互いに激高し口論しておりましたが最近めっきり口論が減りました。80歳を過ぎた母の側にも変化があるのでしょうが、母から「最近、優しくなったね」と言われました。この変化には、慈悲の瞑想が大きく関係していると考えます。母以外でも、慈悲の瞑想により、嫌いだった方が余り嫌いではなくなり、苦手だった方に対する苦手意識が薄くなりました。
  朝日カルチャーセンターの『朝の瞑想』に通い始めた頃、意識の成長が後期自我に達し、成熟した自我に一歩足を踏み入れた段階にあると自覚しておりました。今、振り返ると成熟した自我に足を踏み入れている「ふり」をしていただけだったと推察します。何故そのように推察するかというと、瞑想を始めた当初、時に集中が高まり良い瞑想状態に入ったと思えた日があったのに、日が経つに連れてそのような状態に入る日がなくなり、その頃は瞑想状態に入った「ふり」をしていたに過ぎなかったと考えるからです。
  現在は、瞑想に良い瞑想も悪い瞑想もなく、ただ、ありのままの自分に気づくだけであると考えています。まれに集中が良い時、足裏や腹のセンセーションがはっきり意識できるような日もあります。妄想だらけの日も多いです。でも、ほんの少しずつ妄想を手放せる様になってきました。知らないうちに成熟した自我に一歩踏み出しているのではと考えています。
  現在は、ケンタウロスの様な超自我へ進むことは、幻想であり、まずは、一歩ずつ成熟した自我に向かって歩んでいければと考えています。また、瞑想していて気持ち良くなるような日は無いものの、生活の中に少しずつ変化が現れています。一歩前に歩むため必要なことは、道元禅師が説いた、目的を持たずただひたすら瞑想することだと考えます。
  未だ私は苦しみの中にあります。仏陀は、四聖諦で苦しみを滅する道があると説かれました。瞑想は、その道に通じています。
  瞑想者として、3年目を迎えました。師と法友に恵まれたことを感謝しております。