『サティで消える幸福感』 T.H.
以前から行きたいと思っていたタイ、チェンマイの森林僧院で修行してきた。グリーンヒルの法友が出家して修行しているので、連絡を取ってみたら快諾してもらえた。日本人になじみのないサンガの実態を理解できるようにお坊さんと同じような生活をしてみたらどうかと言われて、その提案に乗ってみた。
毎日、夜11:00ごろ就寝し、朝3:30ごろ(外は真っ暗)に起床するという生活を送った。必ずこの時間に起きると決めて就寝すると、朝はまだ真っ暗なのに、不思議と寝坊しない。
朝4:00から全体瞑想+読経を行い、6:00から托鉢をする。托鉢は村まで30分くらいの距離を裸足で歩いていく。道中では妄想が頻発したり、逆に歩行感覚に集中できたりと様々なことが起こる。托鉢コースは決まっていて、村人たちが家から出てきて野菜や炊いたご飯などをお坊さんの鉢に入れてゆく。私の役割は托鉢で受け取った食物の荷物持ちだ。ちなみに季節は9月の雨季で、強い雨が頻繁に降った。強い雨が降っても托鉢は傘をさして決行される(裸足で)。
7:30くらいに寺に戻ってきて、朝食の準備をし、8:00くらいにそろって食事を開始する。朝食の後は午後4時くらいまで自由に瞑想した。午後4時から日本人比丘2人と話をするのが日課だ。彼らが出家に至る経緯を聞いたり、私のことも話してみたり。ちなみにもう1人、日本人のアチャンがいたが、20日間のリトリートに入っており、最終日に話をしたのみだった。
夕方6:30からお堂にて一同そろっての読経+瞑想がある。寺には蚊がかなりいて、虫除けを塗っていても、坐る瞑想中に何匹も蚊が刺してくる。最初の数日は蚊に対して嫌悪が出ていたが、途中からやや諦めの気持ちが出てきて、「生きているとこういう苦しみは避けられない」とか思うようになって、だいぶん気が楽になった。
6日目の瞑想では読経を聞いているうちに集中が深くなってきて、その後の坐禅で鋭いサティが続くような瞑想になった。お腹の感覚、(蚊による?)かゆみ、足の痛みなどに意識を集中して、詳細に感覚を取ることができた。そのうち気持ち良くなってきた。「気分が良い」などとサティを入れたが、消えなかった。
瞑想が終わると、なんとなく誇らしい気持ちになり「自分がいい瞑想できた雰囲気が他の人にも伝わったりしてないかな」とか、恥ずかしい妄想が出てきた。全体的に、夜にそろって瞑想するときに集中が深くなることが多かった。お坊さんと一緒に瞑想するという環境の力もあるのだろうか?
蚊がとても多かったので、自由時間のほとんどはクティ(独居住居)で瞑想していた。あてがわれたクティには寝室とトイレ・シャワーまで付いており、予想していたよりも快適だった。ただ森林僧院なだけあって、部屋の中に蚊、アリ、芋虫などがよく出没し、まれに大トカゲ、ヘビ、ゴキブリも出た。
最初は虫に嫌悪が出ていたが、だんだん慣れてきて、親しみを感じるようになった(ヘビ・ゴキブリを除く)。蚊がクティに入ったときにはまず腕か手に留まらせてから、静かに玄関のドアを少し開け、腕をドアのすき間に近づけ、ふっと息を吹いて蚊を外に出して、素早くドアを閉めた。
戒律を受けていないから午後に食事をしても良いと言われたので、朝食を多めにもらって半分クティに持ち帰り、午後2時くらいに食べた。朝食が8時なので、このくらいの時刻にお腹が減ってくるのだ。少し甘いものを置いておくとたちまちアリの行列ができるので、飲み物・食べ物の管理には工夫が必要だ。
長期で修行していると決まって出てくる、おなじみの煩悩が今回もしっかりと出てくる。3日目あたりになると、過去の瞑想体験と比較して今の瞑想はたいしたことないという自責が頻発するようになる。今回は一人で瞑想することが多かったので、他人と比べての劣等感はほとんどないのだが、過去の自分との比較は避けようもない。また集中が深くなると、もっと集中したいという欲が出て、なかなか消えないこともある。これらの煩悩は手ごわいのでサティを入れて一発で解決!とはならない。さらに7日目になると、手足に思いもよらない激痛が生じてきた。
タイ森林僧院で迎えた7日目は、午前2時ごろに目が覚めた。起き上がって、歩行瞑想を始めることにする。しばらくすると手足に激痛が生じてきた。激痛は同じ部位で長く続くのではなく、短い時間間隔で激痛が体の様々な箇所に現れるという具合だった。原因はよく分からない。あまりに痛いので、このまま集中を深めるともっと痛くなるのではないかと不安が頻出して、足裏の感覚に集中できなくなった。痛みは結構長く続いた。朝食も痛みに耐えながら取った。それでも痛みが永続するわけではなく、次第に消えていった。印象的な体験だった。おかしな話だが、その後帰国してから、また激痛を体験したいという気持ちが出てきた。理由は、どうも激痛のことを集中が深くなった証と考えているからのようだ。まさか激痛に執着するとは。
9日目の午後に日本人のお坊さんと話していると、アチャン・チャーの法話集「無常の教え」(訳: 星飛雄馬)の一節を読んでくれた。ある比丘がアチャン・チャーに「私は静けさを得たいのです。瞑想をし、自分の心を平安にしたいのですが」と言うと、それに対してアチャンは「そらそうじゃろう、お前さんは何かを得たいのじゃな」と返答した。それを聞いて、自分も何か興味深い瞑想体験を得たいと思っていたなと深く納得した。夜6:30からの全体瞑想のときに、坐禅をしながら次々と現れる瞑想に対する欲に注意してサティを入れていった。すると瞑想への欲が治まっていき、平静になっていく。そのうち息苦しくなってくる。何が起こっているのかと調べてみると、お腹の膨らみ・縮みに集中しているときには、呼吸が止まるようになっているのだった。お腹の感覚を取るのはやめて、意識的に呼吸すれば 楽になるのだが、再びお腹の感覚に戻ると呼吸が止まってしまい、息苦しくなる。これを何度も繰り返した。印象的な体験だった。瞑想中の心は平静で気分は良くも悪くもなかったが、呼吸のおかげで身体的には苦が多かった。今でもこの体験を思い出すことがあるが、また同じような体験をしたいという気持ちは出てこないようだ。
10日目は出発日で、準備や掃除で忙しかった。午後になって、20日間のリトリートを終えたばかりのアチャンと話をした。アチャンの話の中で印象的だったのが「心随観が深まっていくと、心の深くにあるネガティブな感情が見えてくる(不好正念)、そのためにはまず心地よい現象にサティが入る(好正念)必要がある」というものだった。それを聞いて6日目の夜の坐る瞑想を思い出して、「気分が良くなったときにサティを入れても気分の良さが消えなかった」と言ったら、アチャンは「それはサティが未熟だからだ」というような説明をされた。サマーディの力で現象の無常をよく理解すれば鋭いサティが入ると言っていた。その話を聞いて私が思ったのは、気持ち良さに執着しながらサティを入れていたので現象が消えなかったのではないかということだった。
その後、夜行バスでバンコクに向かい、観光にも興味がなかったので空港に直行した。空港では待ち時間が15時間くらいあった。その間にドロドロに眠くなったり楽しくなったり、心が様々に変わった。暇だったので空港内を歩いていると、ふと幸福感を感じたので、注意しながら「幸福感」とサテ ィを入れてみる。その結果をよく見ようと思って「観察している」とラベリングをして(このラベリングを抜かすと妄想に流れる傾向がある)、心と体を観察していくと、なんと幸福感が消えていた! アチャンの言った通りだった。同じようなことがあと何回も起こった。印象的な体験だった。
今回は途中で本を読んだり、托鉢に行ったり掃除をしたりと、グリーンヒル合宿に比べるとゆるめの修行だったが、それでも深い集中もあったし、このまま1カ月くらい修行を続けてみてもいいなあと思った。なんとか長めの休暇をとってまた寺に行ってみたい。