『怒りと恐怖と調和と:
ヴィパッサナー瞑想の「見えざる手」と繋がって 』(Abe-chan)
1 感謝
まずは私に執筆の機会を提供してくださいました【月刊サティ!】編集部の方々に、この場を借りまして感謝申し上げます。ヴィパッサナーについて、瞑想について、ひよっこの私ですので、誤用がある場合はどうかご容赦ください。2017年がもう、3分の2を終わろうとしています。250日余りの間に、なんとたくさんの出来事があったことか。改めて振り返ってしまいます。
3カ月の朝日カルチャーセンター(以下朝カルと表記します)のヴィパッサナー瞑想の講座を終えた直後でした。いっしょに仕事をしている同僚のSさんから、「僕らを信じられないみたいだから・・・(仕事の)モチベーションが下がりました」と突然言われ、私の心は大混乱でした。(いや、まだ鎮火しきれていませんが)。
結局、最終的には協同で行っていた仕事を中断放棄することになりました。国からの委託事業のようなものですから、そのダメージは覚悟しなければなりません。しかしながら、どうしようもない「量子のもつれ」ならぬ「心のもつれ」は不可逆的でした。
そんな大事件の勃興期に【月刊サティ!】への執筆の依頼をいただきました。上記の大騒動のさなかでしたが、頭のどこかで、この騒動と向き合う良いきっかけを与えてくれたのも朝カルかもしれないと思い、原稿を執筆してみることにしました。
私の直感と直観から人生には「川の流れ」みたいなものがあって、その流れにいかに乗るかが大事だと思ってきました。流れをつかむときに大事なのは「感謝」とも感じてきました。感謝すると何かが変わるって。ですので、私の拙文も、まずは感謝から始めさせていただきました。でも、執筆依頼のメールに、こうも書かれていました。プレッシャーとも言い換えることができますが・・・。
「Abe-chanの人生経験の豊かさからは、優に2、3回の連載になる素材がおありになるのではないでしょうか」
光栄かつ過分なお褒めの言葉でした。でも、過去の【グリーンヒルWeb会だより】を拝見すると、いやいや、私の人生の出来事なんてちっぽけな気がしてきます。みなさん、とてもたいへんな山あり谷ありの人生を送ってこられて、乗り越えたり、乗り越えようとしていることがひしひしと感じられ感動するばかりでした。
それに比べると、私の人生は平坦なものであったでしょうし、なによりも、ヴィパッサナー瞑想によりドラスティックな変化が起きていないと思っています。なによりも、ヴィパッサナー瞑想によってドラスティックな変化が起きているというわけではありません。ですので、読者の方には感動的な経験を語れませんが、今、進行中の自分自身と向き合う、もう一人の自分との対話を書かせてもらえればと思います。そして、WEBをご覧になった方々が、自分でも実践できそうとか、瞑想はおもしろそうと思ってもらえたら嬉しいです。
さて、Sさんからの突然の告白。それは、私の中にたくさんの「大波」を起こしました。きっと、今までの自分だったら海の大波の波頭のはじけ飛んだひとしずくになってしまっていたでしょう。
地橋先生が御著書(DVDブック『実践 ブッダの瞑想法 −はじめてでもよくわかるヴィパッサナー瞑想入門』、春秋社、2008)のDVDの中で、海の波の一部に自分がなってしまうというのは刹那的な感情に飲み込まれてしまうこと、海の波が寄せたり返したりするのを島から見ているようにするという趣旨のことを語っておられました。たいへん印象深く、私の心をぐいっと掴んだ一言でした。
この本に出会わなかったらば、きっと上に書いた知り合いの一言で私の心は大混乱になり、次々に押し寄せる疾風怒濤の刹那的なエモーショナルエネルギーのウエイヴのはじけ飛ぶ水の一滴となってしまったことでしょう。様々な感情、しかもそれはネガティブで破壊的な感情でした。ヴィパッサナー瞑想の実践は私に、感情との向き合い方を諭してくれました。
2 怒り
上記のSさんの言葉で私の中に起きた感情は、まずは怒りでした。強い怒り。最初は何に怒っているのかわかりませんでした。ただただ強い怒り。
私はどうも変わったイメージ力があるらしく、強い怒りは視覚化されてイメージされるのです。たいていは、ダークグレーの煙が左向きに渦を巻いている状態です。今回もそれが見えました。何に対して怒っているかわからないので、当初は「怒り」と気づきを即言葉でラベリングする(以下、サティを入れると表記)ことしかできませんでした。歩く瞑想をしても坐る瞑想をしても、すぐに怒りが感じられました。
何日かしてある夜、怒りのサティを入れたとき、その怒りが二つであることに気づきました。一つは、Sさんの私に対して言った言葉の使い方に対する怒りです。ありありとその会話の場面が思い出され、そのときの言葉の使い方、声のイントネーションに対する怒りでした。「妄想」とわかっていましたが、当時は注意を「妄想」に奪われてしまいました。
もう一つは、「信じられない」ということの内容についての怒りでした。つまり、Sさんの態度への怒りと仕事の打ち切りについての怒りでした。仕事の打ち切りについての怒りはすぐに、「Sさんは自分勝手であることへの怒り」というサティに変わりました。
さらに何日かして、もう一つ怒りがあることに気づきました。それは自分自身への怒りでした。Sさんのような人を仕事のパートナーとした自分への自責に由来する強い怒り。これもすぐにサティを入れました。自分への怒り、自分への自責・・・・・・あらあら、たくさん自分への感情が芋づる式に出てきたじゃない・・・と、どこか他人事のようにサティを入れ続けられるようになっていました。
青年時代から、私は「貴方は短気だよ」とか、「すぐに怒る」と他人から言われてきました。話し方も攻撃的で語気が強いと。本人は全くそういう自覚がありませんでした。若い頃はそういうわけで、同世代の女性から敬遠されることばかりでした。いつも私は怒りの感情をあまり自分の中で消化することなく、即、表面に出してしまうようでした。
怒りは対人関係を悪化させるだけではなくて、自分の身体も壊すことがよくありました。強い怒りが続くと、不眠になり、胃はきりきりと痛くなるし、そして、暴飲暴食。果てには、耳の聴こえの異常にもなりました。ヴィパッサナー瞑想の練習の中で、「怒り」を感じたら、まずは「怒り」とか、「怒っている、いらいらしている」とサティを入れることを修習しました。否定的な感情がわき上がったらすぐにサティを入れる。これはとても効果的でした。4月からの朝カル講習に通うようになってからは、それ以前よりもずっと怒りに飲み込まれないようになりました。それでもなお、怒りが収まらないことは今でもあります。地橋先生が講座の中で「絶対に怒らない」と決意して、絶えず「怒らない」と意識するようにしていたとお話しされていました。私も見習おうと思って心がけてはいるのですが、なかなか全ての怒りの感情を冷静に見つめることは未だできません。
一つ例を出させてください。6月のある日、直島という島にある地中美術館に見学に行きました。すると、美術館の敷地内には盲導犬は入ることができないと言われたのです。(後に書きますが私は目が見えず、盲導犬を同伴しています)。遠方からはるばる行ったのに見学できないのは後悔するので、仕方なく、美術館から1キロ弱離れた駐車場近くの屋内に盲導犬を係留して見学しました。犬がかわいそうでした。犬への不安と、それに勝るベネッセホールディングスに対する強い怒りで胸が張り裂けそうで、胃袋がひっくり返りそうでした。
帰宅してからも怒りは収まりませんでした。一人になると、そのときの怒りが再度わき上がってきました。すぐに「地中美術館が許せないという怒り」とか、「不本意に扱われた事への怒り」など、いろいろとサティを入れてみました。でも、なかなか収まりませんでした。カルマの話を講座でお聞きして、なるほどと思う一方で、理不尽なという気持ちも起きます。それでも今はずいぶん、その怒りをまるで空の上から眺めるように客観化できるようになっています。きっと、怒りもエネルギーですから、そのエネルギーに負けずに根気強くサティを入れることをした結果、破壊的な事態に至らなかったのだと思います。怒りの感情とのつきあい方は私の瞑想鍛錬にとって大きな課題です。
3不安、恐怖
Sさんとの仕事のトラブルは怒り以外に、不安や恐怖の感情も起こしてくれました。「協同で行う仕事を突然キャンセルしたら周囲の人々、特に雇用主からの評価が下がるのではないか」、「どうやったら自分の仕事をいっしょにやってくれる人を探せるのだろうか」という恐怖と不安が心の中にわき上がってくるのでした。「他人からの評価への不安」、「(アシスタントを)見つけられないという不安」というように、思い浮かんだら間髪入れずにサティを入れるようにしてみました。だから意外に心は平安でした。
実は、ずっと私に貼りついてきた不安と恐怖があります。ふと、自分一人になり、ぼうっとしているとき、まどろんでいるとき、あるいは夢かうつつかわからないような状況でそれは突然に浮かんできます。真っ白な壁、真っ白なベッドシーツ、四畳半くらいの細長い部屋、奥には窓がある。小さい子どもは一人で白いベッドの上にいる。よく見ると、うずくまっている私。冷たい空気、曇り空の窓、音もなく、とても寂しい。この情景とともに、強い不安、恐怖が首をもたげて心を覆う。直感的に私の幼少の頃の光景だと感じる。おそらく、病院のベッドの上でしょう。この情景が過去の事実の出来事なのか、それとも空想(妄想)なのかはわかりません。母が情景に含まれていないことから、おそらく空想だと思います。風景とともに立ち現れる感情、不安や恐怖が重要なのでしょう。
私は生まれながらにして眼の欠陥を持っていましたので、視力が弱く眼の状態もしばしば悪化していました。そのため、生後90日目にして初めて大学病院で眼の手術を受けて以来、3歳になるまで数十回の手術を受けていたそうです。まぁ、そこまでしても結果的には現在、別の眼の病気で全盲になってしまいましたので、視力温存のための手術は徒労に終わったわけですが。
それらの手術はもちろん覚えていません。しかし、推測ですが、私の無意識の中にしっかりと刻印されているのでしょう。それらの手術と病院での入院生活は乳幼児期の私にとって
は強烈なストレスとなっていたに違いありません。理解不能な眼の痛み、麻酔の臭い、命がなくなるのではないかという危機的不安、そして、母親から引き離されるのではないかという分離不安を潜在意識の中に抱くようになったのだと思います。この光景と不安、恐怖は理由もわからずずっと断続的に私を苦しめてきました。
今となってはこういう感情や風景に飲み込まれることなく、自己と対峙した状態として直観できるようになってきました。それを助けてくれたのはヴィパッサナー瞑想です。一番やっかいなのは悪夢としてこの情景を見ることです。目が覚めて、気分が落ち込んでしまうのです。そして、なにより怖い。
身につけた対処方法はこれです。まず飛び起きてから瞑想します。たぶん1分くらい。そして、寝床を抜け出してキッチンに行って水を1杯飲みます。そして、再度、「怖い」とサティを入れてみます。それでもうまくいかないときには、鎖骨の辺りから鳩尾まで両手を重ねてなで下ろします。瞑想以外のことは2年くらい前からやってみて効果を実感していましたが、坐る瞑想とサティを入れること、そして慈悲の瞑想は悪夢と付き合うための良い道具となってくれています。
4 瞑想について
なぜ私がヴィパッサナー瞑想を朝カルで受講してみようと思ったかについて書いてみます。一言で言うと、「流れ」でした。無意識の心理学で有名なC.G.ユングの言う「共時性」(シンクロニシティ)がありました。8年前から気功を始めていました。気功には動功という太極拳のような動きを伴う瞑想と、坐ったままや立ったままで瞑想を行う静功というものがあります。気功のお稽古ではそれらをともに行います。
動功と静功とは車の両輪のようなもので、両方ともに鍛錬することが気功の熟練には不可欠です。それで、もっと静功、すなわち瞑想について深く知りたいと思っていました。さらに、不安・恐怖、怒りなどの感情で時々自分自身が痛めつけられていましたから、それらの感情とうまく付き合う方法を探していました。
あるとき、これらの感情が過去の経験から生まれているのだから、過去を何度も思い出さなければいいと気づきました。つまり、不安、恐怖、怒り、そして痛みで苦しければ、まずは「今、ここ」に集中!と気づいたのです。4年くらい前でした。自分で「今、ここに集中」と言葉にしていました。それと同時に、今の瞬間の刻々と感じられる身体の感覚に注意を集中するようにしていました。
昨年、この「今、ここに集中」がマインドフルな状態ととても類似していることを知りました。それで、マインドフルネス関係の本を読んでみると、実は、仏教のヴィパッサナー瞑想にその起源があることを知り、改めて東洋思想の奥深さに感動するとともに、マインドフルネステクニック(マインドフルネスは心理療法にも応用されていますが、心理療法ではなくてgoogleが取り入れたような、ある意味テクニックとしてのマインドフルネス)ではなくて、ヴィパッサナー瞑想に取り組んでみようと思ったわけです。
それでまずは、グリーンヒルの初心者講習会に参加しました。数時間でしたが、あっという間に終わってしまいました。歩く瞑想、坐る瞑想、慈悲の瞑想までサティの入れ方も含めて一通りの入門コースでした。あえて地橋先生の本も他のヴィパッサナー瞑想の本も読まずにナイーヴな心で講習を受けました。あっという間の半日でした。瞑想実習をしている間、時間が止まったように感じました。こういう感覚を私は無時間的経験と呼んでいますが、気功の動功を行っているときにも時々経験する感覚でした。きっとこの瞑想は自分に合っていると直感と直観しました。それで4月からの朝カルの3カ月講座を受けることにしました。
ヴィパッサナー瞑想を始めてまず気づいたことは、注意の対象が微細になっていくことでした。まるで顕微鏡の倍率を拡大していくかのようでした。例えて言うならば、最初は青々としたたくさんの葉が着いた枝全体が注意の対象だったとすると、瞑想をするにつれて注意の対象が1枚の葉っぱになり、その葉の表面の葉脈になり、やがて、さらに1個の細胞というように注意の対象が絞られていきました。歩く瞑想においては、教えていただいた直後は「足が上がった」、「足が下りた」くらいにしかサティを入れられない、つまり、注意の対象というか、「身随観」が身体の動きの大きな単位にしか分けられませんでした。
何度か練習をしていると、自分の足が離れる瞬間の足裏の触感がわかるようになってきました。感じられればそこで即サティを入れることができます。「足裏が床面から離れ始める」とか、「足裏が絨毯に接触してきた」など。その後に、足のどの部分が床面にまだあって、どの部分が空間に浮いているかが分化してきました。「柔らかい床面からかかとが離れた」、「親指の先が床面から離れた」、「足(全部)が浮いている」など。
おもしろいことに、このように身随観が細かく分化してくると、集中力が増したように思いました。というのは、先にも書いた無時間経験をするようになったからです。つまり、時間が止まったような感覚です。けっこう、これはおもしろくて心地よい感覚です。この感覚を追体験したくて今でも歩く瞑想の練習をする気になるのかもしれません。
歩くあるく瞑想にしても坐る瞑想にしても、サティを入れていくと、最近はすぐに視覚的なイメージが現れてきます。歩く瞑想のほうがイメージの視覚化は明確で単純でした。目が見えないのにイメージの視覚化と聞くと、皆さんは訝しく思うかもしれませんが、私は15歳まで少し見えていました。ですから文字、色、形の視覚的経験があり、今でも記憶を呼び起こすことができます。加えて、私は共感覚(synethesia common sense)を使って周囲を認識するタイプの人らしいのです。どういうことかというと、触った感覚がそのまま色や形など視覚的なイメージとしても感覚経験されるのです。このように私流の独特な視覚的イメージ経験を日常的に備えているから、瞑想でもすぐに視覚的なイメージがサティを入れることに伴って現れてきました。
例えば歩く瞑想をしていると、足のかかとが床面から離れる触覚的感覚と同時に情景として眼前に見えてきます。足が指先からカーペットの上に下りる瞬間に、足の指の視覚的なイメージが出てきます。視覚的イメージはサティを入れることをさらに促進するようで、どんどん細かく気づき始めると、どうにもこうにも足を動かせなくなってしまったこともありました。ラベリングしていたらどんどんと細かくラベリング対象に気づき続けてしまい、足の動きの気づきにラベリングが追いつかないのです。ついに、気づいたことを言葉にしていると動けなくなってしまいました。仕方がないので、こうなったときには、「かかと」、「柔らかい」、「徐々に足の前に」など勝手に省略してしまうしかありません。
坐る瞑想では違った視覚イメージが出てきます。坐る瞑想は気功の瞑想と似ているからかもしれませんが、理由はわかりません。腹の膨らみと縮みにサティを入れていると、色や形がふわっとイメージされてきます。いわゆる「妄想」、あるいはマインドワンダリングなのかもしれません。ですので、すぐにお腹の膨らみと凹みに意識を向け直すようにしています。
でも、色はよく現れます。テレビ画面に映し出される綺麗な球や雲の色が次々と緑、赤、オレンジなどと変わっていくこともあれば、同じ色の雲がずっと見える場合や、その雲が実は木々だったりすることもあります。不安感、恐怖感は付着していません。ですので、気分は自由なので、深く考えずに眺めるようにしています。
5 慈悲の瞑想について
最後に慈悲の瞑想について感じたことを述べたいと思います。
慈悲の瞑想を実践してみると、意識にはパワーがあるのではないかと実感されます。というのは、慈悲の瞑想をした日はその帰りに起きる出来事が違うのです。初心者講習会にしても朝カルの講座にしてもそうでした。見知らぬ人がいつも以上に優しくしてくれました。道に迷っていても、たくさんの人が声をかけてくれて道案内までしてくれるし、電車の席は譲られるし・・・。善行ばかりを受けるのです。私がいやなことは決して起こりませんでした。
慈悲の瞑想そのものが現実に良いこととして現れたのか、あるいは、慈悲の瞑想をした後の私の穏やかで平穏な気持ちが、表情や身のこなしなどに表れて、その結果周囲の人が親切にしてくれたのか原因はわかりません。でも、まさにありがたい出来事が起きたことは確かです。破壊よりも調和が宇宙の原則という趣旨のことを地橋先生がお話しされていました。私もそのご意見に大賛成です。物質の調和した状態が球だと思いますが、意識にだって調和した状態があるはずです。慈悲の瞑想はそういう意識の調和をもたらすのだと信じたいです。
良いことばかりなのですから毎日慈悲の瞑想をすればいいじゃないか、と言う声が聞こえてきそうです。はい。もっともです。でも、できていません。まだ、瞑想が習慣化していません。毎日朝起きたら歯を磨くように、瞑想を日常生活の一部にしたいところです。
6 最後に
だらだらと書いてしまいました。ヴィパッサナー瞑想に出会い、断続的にお稽古をするようになってから何が一番違うかというと、想定外の出来事、アクシデントが起きても、悲しみや怒りや恐怖で気持ちが揺り動かされても、じたばたしなくなりました。心が大波によって揺さぶられても、波立たされても、怒濤に飲み込まれなくなりました。
心が浮き足立っていると波に流されてしまいます。今は自分のどこかが地面にしっかりと根づいているように感じます。気功で言うと、上虚下実の状態です。不安や恐怖に心が飲み込まれても、怒りで身体が身震いしても、なお今ここの身体に気づきを戻せばよい、ということを身体で覚えてきたので、それだけでも安心感と自信がつきました。ヴィパッサナー瞑想の収斂にゴールはありません。これからも自分という島が波に押し流されないように、力には力で抵抗しない心構えを鍛錬していきたいと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました。