「日本の寺の住職を辞して、これから」白幡憲之
先代住職だった父の急逝
平成16年の暮れ、寺の住職をしていた父が急逝したとき、私は45歳でした。住職の長男ではあるものの、その頃の私は僧侶の資格を得るつもりも、いずれ寺を継ぐ意志もなく、20代後半から30代初めまでは会社勤め、30代半ばから10年あまりは翻訳者として過ごし、寺とはまったく関係ない仕事をずっとしていました。
当時73歳だった父は、これといった体調の異状もなく年齢相応に元気でしたから、まだ後継住職のことなど決めずにいたところ、突然亡くなってしまったのです。そのため、誰が次の住職になるのか誰にもわからず、誰もすぐには決められない状態が生じました。住職が未定であれば、どうしても寺の内外がざわつき始めます。檀信徒の方たちのあいだにもある種の不安が広がりつつあるようでした。
そうした緊急事態が出来したこともあり、そもそも僧侶になる考えすらなかった私が、「あとを継ぐ」という決意表明を周囲の方々にしました。(いま振り返れば、「思いあまって」というべき部分もあったかもしれません)
寺の住職は世襲制だと思っておられる方が現代の日本では少なくないおかげもあり、住職の長男がともかくも「継ぐ」と表明したことで、いわば「落ち着くところに落ち着いた」といったおおかたの方々の受けとめがあり、結果的には幸いにも寺の内外の混乱や不安は静まっていきました。
上座部仏教の瞑想との出会い
実は、私が住職になる決心をするに至るには、それよりさかのぼること3年ほどの経緯が関係していました。その間のさまざまな出来事がなかったならば、先代住職である父が急逝したときも、それをまるで他人事のように眺めるだけで、あとを継ぐという思いなどまったく浮かばなかったかもしれません。
父が逝去する3年前に起きたこと――それは私と仏教との「邂逅」でした。そのさらに数カ月前、私は軽い鬱病になり、症状は薬で軽減したものの、この鬱の原因は自分の物事のとらえ方やそれまでの生き方にあるのではないかと感じるようになっていました。
そこから自分の心や精神的な事柄に関心が向き、インターネットなどを通じてあれこれ探索した末、上座部仏教とヴィパッサナー瞑想や慈悲の瞑想に触れることになりました。
当時の私は、上座部仏教が2600年前のお釈迦様の教えを忠実に守り実践しようとしている仏教であるという知識もろくになく、ましてやその上座部仏教で、「いま・ここ」にいる自分自身の変化を客観的に見つめる「観察の瞑想」や、慈・悲・喜・捨の4つの善き心を育てる「慈悲の瞑想」が実践されていることなど、つゆほども知りませんでした。
そんな私が上座部仏教と最初に出会うことになったのが、瞑想実践では東京・新宿の朝日カルチャーセンターにおける地橋秀雄先生による入門講座、教えのほうはスリランカから来日なさり今や滞日25年におよぶアルボムッレ・スマナサーラ長老の著書を読んだことでした。私としてはそれぞれ別々に見つけた瞑想と教えでしたが、じつは二つで一つのセットになっているものの両方に、たまたま同時期にめぐり遇うことになったわけです。
寺の住職の長男に生まれながらお恥ずかしい話ですが、私は40歳過ぎまで仏教についてあまり知らず、特に関心もありませんでした。その私が自分の心の問題をなんとかしようと彷徨した結果、一番しっくりきて得心のゆく教えと実践方法が、お釈迦様の開かれた仏教に近いとされる上座部仏教とその瞑想法だったとは・・・広い意味での因縁だったのかもしれません。
自分の心を見つめる
私はそれからの約2年間、上座部仏教の教えと瞑想、とりわけヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想の実践にのめり込みました。といっても、瞑想が進んだとか、悟りが云々などという話ではまったくなく、むしろ門をちょっと入ったあたりでウロウロしつつ、『ああ、うまくいかない、よくわからない・・・』と、もがいていたというのが現実でした。
ところが、そんな悪戦苦闘のなかでも、自分の心の状態やクセについて数々の気づきがあり、そのつど自分の心が解放されたようにラクになってゆくのを実感しました。瞑想の素質や才能がとりたててない初心者にも、それなりの効果がある方法――『これを見つけ出したお釈迦様って、本当にスゴイなぁ』と、僭越ながら、また遅まきながら、私は驚嘆にも近い感慨を抱き、その教えと実践に生きる希望を見出した思いでした。
平成15年には春と秋にそれぞれ10日間、地橋先生が主宰するヴィパッサナー瞑想のリトリート(合宿)に参加し、朝、目が覚めてから、夜、寝るまで瞑想を続けるなかで、こだわりやプライドが自分では容易に気づけない形で確かに私の心に巣くっていることや、自分の心のクセのいくつかをも痛切に思い知らされました。
このように自分の心のかんばしくない面やイヤな部分がわかってくると自己嫌悪に陥りそうなものですが、そうはなりませんでした。この瞑想による気づきは、自分の心のあり様が瞬間的に、しかし淡々と呈示され、しかもそれを受け入れられる態勢が自分の心のなかに整ってきたタイミングで気づかされることになるからなのか、大きな衝撃を受けたり落ち込んだりすることなく、意外なほど素直に受け入れられるのでした。そこがこの瞑想の面白さであり、素晴らしさだとも思いました。
こうした体験を積むうちに、私の心のなかには、上座部仏教の盛んな国でもっと瞑想をしてみたいという気持ちが芽生え、最初は憧れにも似た淡いものだったその思いは、徐々に決意として固まり始めていったようです。
父との和解?
上座部仏教の瞑想により自分の心が解き明かされることと並行して(その裏側で?)、父の人生や生き方への理解も深まるという、予想外の副産物もありました。
父子関係については、ご多分にもれず私も、父の生き方や考え方に反感をもつことがありました。しかも瞑想合宿を通じて自分の物事のとらえ方を確認してみると、私の自己評価のやり方には父の影響が実は大きく働いており、それも否定的な自己評価に向かわせがちな働きをしていることまで明らかになってきたのでした。
となれば、父への反感や怒りが相当強まりそうなものですけれど、これまたそうはなりませんでした。むしろ、小学3、4年の少年だった当時の父が、寺の住職に嫁いだ母親の連れ子として姉兄とともに寺に入り、馴染みのない環境で暮らしてゆくうち、(兄ではなく次男の)自分が住職を継ぐことになったものの、30歳を越えたばかりの頃には大恩を感じてきた養父の住職が早逝してしまい・・・といった前半生を送った父の気持ちや思考についての理解が、瞑想合宿で自分を見つめるうちに私のなかで深まっていたようです。
父のような境遇に置かれれば、「失敗はできない、負けられない」というこだわりにも似た気持ちを抱き、養父のあとを継いでからはなおさら、そうした気概を強くもって生きることになったのも無理はないと、私は素直に受け入れていました。そのような受け入れ方ができたのは、観察の瞑想と並行して、慈悲の瞑想も同等に行なっていたことも大きかったのだろうと思います。
平成15年秋の10日間瞑想合宿から帰ったあと、父と私は改めて話し合ったりはしませんでしたが、どういうわけか、父と私との関係はかつてないほど穏やかで良好なものになってゆきました。お互いに相手に対して妙に構えたような(ある種の遠慮があるような?)それまでの態度が薄まり、和やかさが増した感じとでも言えばいいでしょうか。父子の間で凝り固まっていたものが溶けていったような感覚がありました。ただ、その時期は結局、父の急逝のため、1年あまりで終わりを迎えてしまったのですが・・・。
ミャンマーとの縁
父は20代半ばだった昭和30年5月からの1年間、全日本仏教会の派遣留学僧の一人として、7、8名の同年代の日本人僧侶の仲間とともにビルマで過ごしました。
若き日の南方仏教の国での体験は、その後50年近くもの間、父の僧侶としての生き方に何らかの影響を与えていたようです。というのも、平成16年に急逝後、父の机の引き出しを開けてみると、日本の僧侶としての戒名が書かれた紙が1枚出てきましたが、その戒名の脇に「上座部佛教比丘 ウ・ソービタニャーナ」と、かの地で授かった僧名も記されていたのです。それを見たお弟子さんたちは、いずれミャンマーに遺骨の一部を埋葬できればと考え、火葬後、分骨を行ないました。
一方、私も上座部仏教の瞑想に出会ったのをきっかけに、日本にいるミャンマー人の方たちと交流するようになり、住職就任後は、在日ミャンマー人のために東京に滞在されているミャンマー人僧侶・オバサ・セヤドーの長期滞日ビザ申請の保証人も務めることになりました。
平成25年5月には、オバサ・セヤドーのために信者の方々が寄進なさって、ヤンゴンに建設された僧院の落慶式に私も招かれ、ミャンマーを訪問しました。その折、私は父の分骨を収めた骨壺を持参しました。そしてミャンマーの僧侶の方々のはからいにより、父がかつて現地で比丘としての戒を授けられた寺院の一隅に、父の分骨を収めていただくことができました。
そのミャンマー旅行では訪れる先々で、仏教がミャンマーの人々の生活にいかに浸透しているかを知る機会にも恵まれました。一般の方が日常的に瞑想をしている姿も目にし、人々の表情が総じておだやかである背景を垣間見た気がしました。
父が急逝していなかったならば、きっと私は寺の住職を継ぐこともなく、その一方でミャンマーなどの東南アジアの仏教国をしばしば訪れ、瞑想センターにも滞在するようになり、そのうちにあちらで出家し・・・ということにもっと早くなっていたかもしれません。上記の諸々の事情を私から聞いたある方は、父が急逝したことについて、「お父さんがあなたをひとまず引き止めたのかもしれませんね」とおっしゃっていました。
住職退任を決意、そして・・・
仏教寺院は仏の教えを人々に伝え広めるための拠点です。平成16年末、先代住職の父が後継者未定のまま急逝したとき、僧侶資格のない私でしたが、上座部仏教の瞑想などを通じて自分なりにお釈迦様の教えの偉大さと尊さに出会っていたため、つたないながらも自身の体験をもとに仏教の素晴らしさを、いろいろな方々に少しでもお伝えできればという思いが浮かびました。そして何より住職急逝による混乱や不安をなるべく早く静めるべきだという考えもあり、住職を継ぐ意思表明をしました。
さらに、極めて私的事情であったことを今さらながら寺の関係者の方々に対して申し訳なく思うのですが、当時、母の認知症がかなり進みつつあり、環境の変化による病状悪化を避けたいという願いもありました。寺は住職やその家族の所有物ではなく、新しい住職が決まれば、前住職の家族などは寺を出ることになります。
それまでとまったく異なる環境に母を置いた場合、どんな具合になるか、それも心配だったことは確かです。その母は、結局、さらに認知症が進んでゆき、父の死後2年あまり経った平成19年1月には介護付き高齢者マンションに入ることになりました。
ちょうどその前月の平成18年12月末、私はようやく約2年の学業等を経て宗派の総本山で3週間の加行(僧侶資格前の最後の修行)終えたところでした。母は翌平成19年6月の私の晋山式(住職就任式)に出席することができず、その2カ月後の8月初め、脳出血により他界しました。『これで、家族とのかかわりによりこの寺に留まる動機は、自分の中ではほとんどなくなったな』と、そのときふと感じたことを今も憶えています。
いずれにせよ、父の急逝を経て私が住職になってからの10年間(父の急逝時から数えれば12年あまり)、寺の檀信徒の方々をはじめ、旧来からこの寺に縁の深い僧侶の方々には、さまざまなお気遣いやご支援をいただき、そうしたことには心より感謝しています。
とはいえ、私が住職に就いた経緯は上述のとおりであり、私としては、あくまでも短期間の「つなぎ役」の住職であるという思いを、就任当時から抱いてはおりました。それでも住職になったからには、それなりに寺の維持に努め、寺の属する宗派の教えを中心に、なるべくわかりやすく正しく皆様にお伝えするべく心がけてきたつもりではあります。
けれども一方で、上座部仏教との出会いによって仏教に惹かれるようになった私は、日本仏教の一宗派の寺の住職として、知識や能力、経験のみならず、やはり情熱に欠けており、それ故にさまざまな事柄をどうしても表面的・形式的に済ませてしまいがちになることをこの10年間、折々に痛感してきました。
その反面、日本仏教界の現況、特に僧侶のあり方やふだんの生活の様子などを自ら目にするにつけ、どうも私には馴染みきれないものがあり、上座部仏教(という限定ではなく、むしろ仏教僧侶の本来のあり方といったほうが適切かもしれませんが)により惹かれるようにもなってきたのでした(もう少し具体的にいえば、彼我において「戒」がどうとらえられ、守られているか、というようなことなどです)。
他方、寺の住職についていえば、本来はその宗派の僧侶としてもっとふさわしい方が住職を務めるべきであり、そういう住職のもとでこそ、檀信徒の方々もいっそう信仰熱心になって、寺の維持発展も望ましい形で期待できるものと考えるようになりました。
平成28年末には父の十三回忌を済ませ、私はもうじき還暦を迎える年齢となり、住職になってからまる10年が経ちました。短期のつなぎ役のつもりが10年というのは長すぎると感じました。早く次の方にバトンタッチすべきだという思いが募りに募ってきたのでした。
以上のようなことどもは、単に私のわがままによる判断や決意に過ぎないとも言えますが、決心のほどはそれ相応に強く固いものでした。また、勝手ながら期間限定のようなつもりで10年あまり力を尽くしてきましたので、ある種の疲労や倦怠感も覚え始めており、このまま惰性で続けるのはいかがなものかという思いもありました。そこで父の十三回忌法要後の挨拶でも退任をほのめかすようなことを口にし、そしてついに平成29年の春、寺にごく近い数人の僧侶の方々にはっきりと退任の意向を伝えました。
日本の一般寺院では住職は終身続けるものだという認識が、一般の方々だけでなく僧侶の間にもありますから、私の退任の話をお聞きになった方々はいちように吃驚なさいました。
けれども私がいわば不退転の決意のようにしてお伝えしたことと、昔から私の性格をよくご存じだった方々だったこともあり、ありがたいことに、そこまでの決心ならば後任住職の選定を進めようということになり、私の退任の意向は受け入れられました。おかげさまでその年の秋までには後任の態勢が決まり、無事に私は退任できる運びとなりました。
平成29年12月上旬、私は寺を離れ、一人暮らしを始めました。年末そして年明け後も当分の間は、引継ぎやあと片付けのために寺に出向くことになりますが、それが済めば、およそ2年後をめどに東南アジアの仏教国(ミャンマー等)に渡って上座部仏教の比丘になることを考えており、当面は日本国内でその準備を進める予定です。しばらくの間は住職退任後の心身のリフレッシュを心がけつつ、パーリ語やミャンマー語の学習を始めるつもりです。そして日常の瞑想の時間を増やすだけでなく、瞑想指導を受ける機会を積極的に求める一方、上座部仏教の教理の勉強も行なっていきたいと思案しています。その間には、ミャンマーなどを訪れ、瞑想センター等で短期のリトリートに入ることもあるかもしれません。
さらに、これは実際にやり始めてみなければどうなるかわかりませんが、願わくはミャンマーなどで出家の身として一生を終えたいとも考えています。
いずれにせよ、いつこの世での命が尽きるのか、誰にもわかりません。お釈迦様が「すべての物事は刻々と変化し滅びてゆく。怠ることなく修行に努めよ」と最期に説かれたことを心に留めながら、一日一日を充実させるべく過ごしてゆく所存です。