『瞑想を始めて3年』Y.J.

 

  瞑想を始めて3年が過ぎました。
  私は何となく、瞑想と出会いました。もともと興味をもっていた仏教について調べていくうちに、上座部仏教を知り、瞑想をスタートしました。瞑想のやり方について詳しく知りたいと本を読んでいた所、このグリーンヒルにたどり着きました。
  瞑想で特別な体験があるわけでもありません。日常生活においても、瞑想を始めてから、自分ではそこまで大きな変化を感じていませんでした。けれども先日、20年来の親友と3年ぶりに会い食事をした別れ際、こんなことを言われました。
  「お前はずいぶん変わったな。これで5年後に会ったら、どうなってるんだろうと思うよ」
  この言葉が、自分の来し方やこの3年間を振り返るきっかけとなりました。
  私はルールを守らないことや、マナー違反に対して激しい怒りを感じるたちでした。理不尽だと思ったことはすぐに口に出し、相手を攻撃することが多くありました。電車で騒いでいる子供を見れば、その保護者へ聞えよがしに「こんなのが大きくなって、みんなが苦労するんだよ」と言っていました。歩きタバコをする人の後ろからチッと舌打ちをして「煙たいんだよ。副流煙で肺ガンになったらどうするんだ」と因縁をつけ、喧嘩も辞さないといった様子でした。通行人の多いところを通る自転車に、わざと当たりに行ったこともあります。いつでも怒るタイミングを見計らっていたように思います。
  さらに、心身に障害を抱えている人を見下し、嘲笑していました。私が小学校4年生の時、友達として接していた自閉症の子供がいました。ある時、その友達がふざけて私を階段の上から押しました。落下することはありませんでした。しかし、落下するかもしれないという恐怖が、怒りに変化しました。「心身に障害があるからといっても、やっていけないことはやってはいけない。そっちがその気なら、もう友達でもなんでもない。ふざけるな」もとより、その子に対してさげすみの心があったのでしょう。それ以来、そのような方々を嫌悪し、蔑視するようになりました。
  グリーンヒルと出会い、一番に意識したことは、因果論についてです。良いことも悪いことも、自分が出力したことは、縁に触れて自分に帰ってくる。自分が理不尽に怒りをもって相手に接すれば、相手からも理不尽な怒りをぶつけられる。
  以前は、わけのわからない怒りをぶつけられることが多くありました。突然、道から飛び出してきた自転車がぶつかりそうになりました。運転手は私に気付くと舌打ちをして、暴言を吐いて通り過ぎていく。脇見運転の車にぶつけられること、2回。朝、何気なく職場の掃除をしていたら一番上の上司から「私のポイントを稼ごうとしてやってるんでしょ」と難癖をつけられる。思い返せば、きりがありません。その時は「こいつら何て性格が悪い奴らだ」と思っていましたが、何のことはありません。全て自分がやってきたことです。
  「その人がそのような行動をとってしまうのは、仕方のない流れがあってそのように行動してしまうのだ。行動した瞬間を切り取るのではなく、なぜそのように行動してしまったのかを俯瞰してみる」
  因果論の話を何回か聞くうちに、そのように考える癖が付きました。
  3年ぶりに会った親友は、文句ばかりでろくに自分の仕事をしない職場の同僚を批判していました。
  「その人もさ、そうなっちゃうだけのことがあったんじゃない? 今、オレは仕事で自閉症の人に接する機会が多いんだけど、すごく勉強させてもらってるよ。みんな、自分なりのベストを尽くしてやってるんだよ。でも・・そうなっちゃうんだよ」
  なぜか目をうるませて、見ず知らずの人を擁護する私を見て、親友は少し狼狽していました。受け売りの因果論の話を、私の3年間の体験談とを交えて語るうちに、親友の目の奥が湿っぽくなってきました。
  瞑想のやり方を深く知ろうとして、グリーンヒルの門を叩きました。瞑想が深まっている実感は、あまりありませんが、性格は変化しているような気がします。瞑想でのゴールを人格の完成と考えれば、少しの進歩はあるのかもしれません。まだまだ暗中模索のような状態ですが、あわてず騒がず、一日一日、瞑想を続けていきます。