『瞑想が振り返らせた半生』 T.G.

 

  自分はどうのような人間なのか、と最近自問しました。まじめ。思いやりがある。根に持たない。親切。周りへの配慮を忘れない、などなど。
  同時に、自分に利があるか否かを計算し、人から受けた苦痛を忘れず仕返す機会を伺い、 体を横にしだらだら過ごすことを好み・・という面も否定できず、むしろそちらの方が本来の自分の性質なのだと思い至りました。
  このような事を考えていたのは、うつ病による7ヶ月の休職から職場復帰してしばらく経ってのことです。
  ヴィパッサナー瞑想のおかげで職場に復帰できたものの、足ることを良しとしない競争の環境は貪りの世界そのものに感じられ、逃げたい気持ちが強くなっていきました。同時にその競争の世界に染まりきった方が楽なのでは・・とも考えていました。
  そんな折に参加した1day合宿で歩く瞑想を行なっていると、いつもなら集中が高まる絶妙のタイミングで眠気に襲われました。初めての現象で驚きましたが、地橋先生より瞑想を忌避している心があるのでは・・とご指摘を受けました。
  自分を救ってくれたヴィパッサナー瞑想を拒否しようとする心が自分の中にある、という事実に衝撃を受けましたが、この瞑想の前ではとことん本心が顕在化する、という地橋先生の言葉を受け、前述のような考察を行なった次第です。
  自分の本音(怠けたい・望むものを手にしたい)を棚に上げ、後付けで加えたまじめさや奥ゆかしさこそ自分の性格であり、人となりであるとして自身に暗示をかけていたような気がします。競争社会の猛々しい現実を否定することで、私自身の中には貪りの心などないかのように偽装していたのです。
  悪いのは周りであり自分ではないという言い訳を直視するのが怖く、瞑想を忌避していたということでしょうか。弱肉強食の非情な世界に抗い続けていくよりも、巧妙に適応しようとする自分の本心を見たくなかったのかもしれません。とはいえ、そこまで自分を取り繕い続けてきた背景というものも、霧が晴れたかのように見えてきました。
  小学3年の頃、父親の財布から現金がなくなったことがあり、それを自分のせいにされた事がありました。もちろん身に覚えのないことなので否定しましたが、怒鳴られ(オモチャのバットですが)殴られ、父親の言うとおり頷くほかありませんでした。父親は、自分の単独犯行ではなく近所の悪童に脅されたのだろうという考えで、自分の子供を救おうと必死でした。
  ただ、自分としては「その場をしのぐために、していない犯行を認める嘘をついた」「無実の人間に罪を被せた」「結果的に父親に不善業を作らせる形となった」と自分を含めた多くの人を不幸にする行ないをしたことに大変な恐怖を覚えました。
  以来、自分は大きな罪を犯した。故に罰せられる。という考えから、罰せられるべきだ、という内罰的傾向に変化していきました。進学や仕事など人一倍の努力をしてきましたが、それも「苦しむ手段」として用いてきたのではないかと思います。
  物事がうまく進んでいるような状況でも内心は、大きな不幸に見舞われるのでは、と常に怯えていました。学業や仕事では常に高い目標に挑むよう心がけてきましたが、それも今の自分ではない自分になることで、「罪を犯し」「いずれその報いを受ける」事実から逃れようとしていたのです。
  1day合宿に参加者が感想などを述べ合う時間がありますが、あるスタッフの方に「お話がいつもドラマチックですね」と指摘されたことがありました。劇的というのは極端な落差があるということだと思います。
  瞑想、仏道修行においても自身を否定するような、実現できそうもない目標を設定するクセが抜けていないと、そのスタッフの方のご指摘で気づきました。成してしまった業、それらの報いをあるがままに観察し、受け入れ、認める。今現在の自身の課題というか、宿題と考え日々を過ごしています。
  過去世から続く過ちと後悔の輪廻は、今生で終わりにすることなど到底叶わないと思います。それでも、地橋先生をはじめとするグリーンヒルの皆様や、合宿で共に修行に励む法友の方々とご縁ができたのは、奇跡に近い幸運と感じています。
  先ははてしなく遠いですが、道の上に立って少しでも歩みを進められればと、祈るような気持ちで今を過ごして生きています。