今日の一言 (バックナンバー) 2020年1〜12月
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12月30日
★家族に伝えようもない屈折した憤りを吐き出し尽し、完全に空っぽになるまで、自傷行為のような人生が10年余も続いた。
暗く、孤独で、虚しい愚行だったが、骨の髄まで苦の真理(苦諦)を叩き込まれ、思えば仏教にめぐり会うのに必要な手続きだった。
陽が極まれば陰に、陰が極まれば陽になる・・・。
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12月28日
★頽廃的なものに美を感じていたのは、自己破壊的な情念がたぎっていたからだろう。
すべての葉が落ちた晩秋の庭の柿の木にたった一個だけ、取り残された柿が腐ったままぶら下がっていた。
その柿の先端から深紅の滴がふくらんで、沈みゆく夕陽の残光にキラリと光るのを眺めて感動していた・・・。
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12月26日
★だが高校を中退するような暴挙には出ず、グレるのは大学に入ってから、と計画した。
今にして思えば、名声や立身出世を目指す模範生のベクトルが、一転、「生きよ、堕ちよ」と負の世界に転じた反動に過ぎなかった。
悪の哲学や詩を読み耽って理論武装し、自己破壊的なデカダンスが始まった・・・。
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12月24日
★芸術や文学以外には手がつかず、人と社交的な会話をするのが苦痛になり、衝き上がってくる情念に翻弄される日々が始まった。
もうゴメンだ!幼くして苦しい人生を歩むことになったのも、全てはあの男のせいだ!
と、父親への憎しみと、自分自身への憤りと、真実と感動を求める混沌状態だった・・・。
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12月22日
★芸術的感動の純粋さが、真実を求め真理を探求していく情熱に火を点けたのかもしれない。
それ以来、東大を目指してガリ勉する気は失われ、人間とは、真実とは、何かを求め、芸術や文学に傾倒していった。
世評と噂と虚栄の虚しさに憤りを覚え、過去の全てに復讐してやりたい衝動を感じながら・・・。
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12月20日
★17歳のある日、高名な女流ヴァイオリニストの演奏する「ツィゴイネルワイゼン」に、なぜか異常に感動した私は、コンサートホールに誰もいなくなるまで座り込んでいた。
何かがブチ切れ、音を立てて崩壊するような感覚に打ちのめされ、その日を境に私の人生は大きく正反対の方向に舵を切られていった・・・。
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12月18日
★母も姉も祖父母も本家の誰もが私を大切にしてくれている愛と、過剰な期待の重圧と、求められた役割に応えなければならない息苦しさと虚しさと、愛されながらも惨めで苦しい自分の境遇が呪わしく、鬱陶しくなっていった。
過去の人生を全否定したくなる憤りが明確に自覚され、ピークに達したのは17歳の春だった・・・。
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12月16日
★複雑な家庭環境があり、幼い頃から周囲の大人達が私に期待する模範生の役割を全うするのを義務と感じてきた。
その暗黙の重圧にヘトヘトになりながらたどり着いたのは、真実にほど遠い虚栄だけの世界だったか。
何のために、誰のために、自分は生きているのか、根本的な疑問が初めて生まれた・・・。
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12月14日
★野球と陸上はやってきたがいつの間にか「スポーツ万能」、学業で校内1番になったことなどないのに「首席で卒業」などと言われて面食らった。
私の内面の葛藤や繊細さなど家族ですら知らず、まして世間の評価がどれだけデタラメで、真実にほど遠い虚妄な猿芝居か。
憤りのようなものを感じた・・・。
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12月12日
★教師も生徒も近所の人も親族も、客観的事実や私の実像ではなく、「優等生」の脳内レッテルで眩しそうに見るようになった。
「世間虚仮、唯仏是真」という言葉はまだ知らなかったが、世間の誰も真実など見てはいない。
自分の勝手な妄想世界に住んでいるだけではないか・・・という疑問が生まれた。
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12月10日
★中学3年の時に生徒会に立候補し、全校生徒約1500人の投票で私はトップ当選し会長に選ばれた。
親友だった野球部主将は副会長に選出された。
統率力のある彼の方が会長に相応しかったが、得票順位で役職が定められていた。
生徒会長になった途端、私を見る周囲の目が一変したことに衝撃を受けた・・・。
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12月8日
★出家して比丘にもならず、大学に残って研究者になる訳でもなく、在野の一瞑想者で通してきた。
なぜ自分は、社会的な地位や名声を求める欲があまり強くなかったのだろう。
思い至ったのは、少年時代に幻滅した体験だった。
以来、真理を求め、人間の真実を探求しなくてはいられなくなった・・・。
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12月6日
★心の散乱を鎮め一点に絞り込んでいくサマーディの力は、同時に他の対象を除外する力でもある。
より高度な純粋観察を深めるためのサマーディが、修行の順番を間違えると、煩悩を抑圧する仕事に使われてしまう。
反応系の心を浄化する戒の瞑想が、何よりも優先されなければならない所以である。
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12月4日
★病気や外的要因に条件づけられた一時的な「捨」の心は、体調抜群、やる気満々の状態になると却って崩れやすい。
調子が良ければ良いほど、いい瞑想ができるのではないかと期待も欲も強まるのが常だ。
病気が仮そめの無欲をもたらし、無欲になれば何ものにも執着しないので、「捨」の心が静かに淡々とサティを連続させるだろうということ・・・。
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12月2日
★熱帯の山中に孤立するクーティに独居し、水のような下痢が日に7回も続き、朦朧としながらサティを入れていたこともある。
意識がある限り六門に情報は入り続け、思考の断片や連想の流れが途絶えることはない。
憔悴し受身に徹するしかなかったが故に、静かに淡々と連続していくサティ・・・。
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11月30日
★外界から取り込まれる新たな情報が何も無くなると、新奇性に飢えた心は、忘却の彼方に眠っていた記憶を探り出し、妄想として浮上させ始める。
何十年もの間、一度も想起されなかった記憶の断片が出現する瞬間の驚き!
新奇な情報を貪り求める心は、妄想を排除する瞑想を嫌がっている・・・。
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11月13日
★電気すら引かれていない森林僧院でリトリートに入ると、新たな情報のインプットが極端に制限される。
本を読まず、新聞もテレビも音楽もインターネットも・・・何もない。
僧院に溢れる光も、音も、匂いも、その情報の中身には手を出さず、ひたすらサティを入れ続ける日々・・・。
だが、どのような環境設定をしても、心は黙ってなどいない・・・。
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11月11日
★テレビ、インターネット、SNS、新聞・・・、なぜ一日中、こんなに情報を取り続けようとするのだろう。
間断なく撃ち込まれてくる刺激の氾濫に痙攣し、見失われていくもの・・・。
外界に突き刺さっていく視線を内側に向け直す情報断食。
溢れ返る思考の断片に食いつくのを止め、聖なる沈黙を目指す瞑想・・・。
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11月9日
★どんな独創的なアイデアも陳腐な思いつきも、断片化された知識と経験の組み合わせから生まれてくる。
欲や怒りやストレスのエゴ感覚は、脳内データを一つの方向に強引にまとめていくだろう。
瞑想をして心が空っぽになれば、意識下で束縛から解放された情報同士が自由に、途方もない組み合わせで結晶し始める。
それが浮上した瞬間、瞑想を取るのか、アイデアを取るのか・・・?
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11月7日
★なぜ、瞑想中に素晴らしいアイデアが浮かびやすいのか?
エゴの情報操作や干渉がなくなるからだ。
思索や考察が止まれば、エゴもセットで姿を消す。
意識にのぼりづらい連想や淡い雑念までストップすれば、知識や経験の脳内データが自在に配列された状態になる。
閃きが生じる絶好の瞬間・・・。
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11月5日
★孤独にならなければ、瞑想はできない。
目の前に気になる人がいれば、スマホやテレビの画面を見れば、音楽が聞こえてくれば、晩ご飯の匂いが漂ってくれば・・・、意識の矢は外界に突き刺さっていく。
独りになって瞑目し、外界の情報を遮断すると、今度は頭の中のお喋りが勢いづく。
孤独になっても、瞑想ができるか否かは不明なのだ。
心が沈黙しなければならない・・・。
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11月3日
★仲の良い親子や夫婦でも互いに何を考え、どう感じ、何に感動しているか、完璧に理解し合うことはあり得ないだろう。
自分の本心を抑圧していることに気づかないのも普通のことだ。
他人にも自分にも、思い込みとエゴ妄想の投影が外れることはない。
自分勝手な妄想で編集し、嫌なら目を背ける無明の世界に不可欠となった「あるがままを観る瞑想」・・・。
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11月1日
★人は、事実に執着することはできない。
今この瞬間の現実が、次の刹那には妄想の素材になっていくからだ。
皮肉なことに、妄想に深くのめり込む力が、高度な文明を創造する源にもなった。
諸刃の剣のような能力ゆえに、人間には、事実と妄想を識別して自覚する瞑想が不可欠になった・・・。
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10月30日
★鶏も蛙もどんな動物も目があれば、鏡に映る自分の姿を見ることができる。
だが、それが自分だと分かるのは、象やチンパンジーやイルカなどわずかである。
人は誰でも自意識を持つが、訓練しないとメタ認知は生じない。
私は今「(鏡に映った自分を)見ている」という自覚がサティだ・・・。
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10月28日
★ヴィパッサナー瞑想が腹部や歩行の感覚に集中する目的は2つある。
同一の対象に繰り返し注意を注ぎ、集中力を高めること。
もう一つは、自己を客観視するメタ認知の視座を確立するためである。
髪の毛をまさぐりながら手鏡の中をウットリ眺めている少女に、メタ認知は生じているだろうか・・・。
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10月26日
★孤独になって外界の情報から遮断されると、去来するイメージや妄想の鮮明度が増してくる。
脳内に飛び交う妄想の嵐が鎮まらないのは、欲望と嫌悪の対象に執われているからだと気づかされる・・・。
ヴィパッサナー瞑想の真骨頂だ。
この世への諸々の渇愛を手放さない限り、苦しむ構造・・・。
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10月24日
★孤独にならなければ、自己客観視する瞑想は難しい。
乳幼児を遊ばせる母親も、死にゆく親の看取りをする者も、片時も対象から目を離せないだろう。
外界から自分の内面へ、意識の矢印を転換しなければ、瞑想はできない。
信頼できる絆を持たない者には地獄だが、人を信頼できる者には孤独は最上の宝である・・・。
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10月22日
★執筆のための夏のリトリート中も今も、どんなに忙しくても一日に30分余の座る瞑想と小一時間の歩く瞑想は止められなかった。
淀んだ水がヌルヌルした緑色に腐り始めるように、瞑想をしないで、概念漬けの認識世界にのめり込んでいると窒息し、頭が腐り始める。
密林の中で死んだ象の遺体の上で白濁した液体が泡立つように、無数の蛆虫が蠢きながら強烈な腐臭を一面に放っている。
そんな蛆虫のような思考の断片がブツブツ生滅する妄想世界を離れて、腐臭から蘇生する瞑想・・・。
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10月20日
★「この世に咎を見て、在家に留まっていてはならぬ」とブッダは言う。
出家とは、職業欄に「僧侶」と書くことではない。
この世からの真の出離を目指すことだ。
どんな幸福も楽受も変滅してしまう無常の苦が身に沁み、業の世界で因果の鎖に縛られるのはもうゴメンだ、と生存の流れから離脱したくなった人達・・・。
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10月18日
★良き人に恵まれ、助けられ、支えられてきたことに心から感謝と忝なさを覚えている。
楽しくて、苦しくて、面白くて、充実した、無意味な人生だった・・・。
ネガティブ妄想とポジティブ幻想が、脳内に形成していく印象世界の虚しさ・・・。
いかんともし難い業の法則に縛られた世界が、夢のように変滅していく虚しさ・・・。
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10月16日
★かつてはダンマの仕事に命を捧げるような一途さがあったが、齢を重ね、見るべきほどのものは概ね見てきたし、人の世界と現象世界の虚しさを心得てもきた。
誰にも見られず裏庭に自生し、秋には人知れず枯れていく何の取柄もない草々・・・。
その雑草にも人の人生にも何の意味もないことを痛感しながら、茶を淹れ、庭を眺め、原稿を書いている・・・。
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10月14日
★「ヴィパッサナー瞑想大全」の当初の企画は、瞑想に関する過去の原稿をまとめて誰にでも読めるものにすることだった。
原稿は揃っており構成も完成していたが、再読してみると、新たな知見を盛り込んで書き直さずにはいられなくなった。
非力非才には過酷な作業なのに、愚かにも着手して自らの首を絞めてしまった・・・。
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10月12日
★思いどおりにならないと、怒りが出る。
だが、あらかじめ想定され心得ていれば、相当嫌なことでも怒りは出ないものだ。
今回もPCへの保存ミスから、1週間分の仕事が完全に消失し復元できなかった。
人の時間を奪ってきた自分には当然のことなので、怒りが出ないのもいつも通りだった・・・。
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10月10日
★下館の道場に独り籠った今回の雨安居も本日をもって終了。
雨安居は「retreat→隠遁・この世からの撤退」と英訳されることが多い。
この世からの撤退が、妄想でまとめ上げられた概念世界を手放すことなら、真のリトリートに入るのはなんと難しいことだろう・・・。
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10月8日
★せめて雨安居の夏だけは必ず、30〜40日の瞑想リトリートに入ると決めていた。
だが、今年は修行ではなく「大全」執筆のために同じ環境設定にし、外界との接触を全て断ちきる。
雨安居に住する寺を定めると出家者も自由に移動することは禁じられる慣わしだ。
修行に専念する比丘もいれば、学問に徹する比丘もいるらしい。
そういう訳で、今日からツイッターも中止する。
再開は、1ヶ月後・・・。
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10月6日
★電子書籍版「ブッダの瞑想法」が販売開始になった。
何年も前に実現しているはずの企画だったが、最初の担当者が交替してから何となくうやむやになっていた。
先日、耳で読む「聴読」ができない不便さから出版社に問い合わせると、すぐに対応してくれた・・・。
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10月4日
★この世からドロップアウトし、瞑想とダンマの学び以外には何もせず、五戒を厳守し、確執のあった父との因縁も解き、真っ黒だった過去の所業に痛切な懺悔の瞑想もした。
それなのに、無意識下では、これほどまで自分自身に重圧をかけ、否定していたのだ。
その真実を承認した時、歓喜が沸騰したのだ・・・。
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10月2日
★渾身の力で内観に取り組んだ結果、長年に渡って抑圧され全身を強張らせていた黒い塊に意識の光が照射され、目の当たりになり、吐き出すことができた。
すると体が軽くなり、異様な軽快感と浮揚感に空を飛んで帰れそうな錯覚が起きた。
目に映るもの、耳に入る音、体感・・・何もかもがキラキラ光り輝いていた。
嬉しくて、楽しくて、人生最高のような感動が込み上がり、歓喜と至福感がいつまでも続いた・・・。
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9月30日
★抑圧された黒いものに目を背けようとするのが本心である限り、その頃の記憶は靄がかかり、ほとんど思い出せない特徴がある。
その闇に包まれたおぼろ気な領域に分け入り、見たくないものを直視する覚悟があるか・・・。
なんとなく嫌な感じがするのを手がかりに、厳重に鍵を掛け封印してきた暗室に意識の光を照射することができるか・・・。
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9月28日
★渾身の力を振り絞って妄想を駆逐し、あらゆる概念を手放していくサティの瞑想をいくら深めても、もうこれが限界だと感じた時に、内観の修行に行かなければならぬと思った。
自覚できない潜在意識の汚染を浄化しない限り、ヴィパッサナー瞑想が頭打ちになる限界を感じたのだ。
深層意識に抑圧されたドス黒いものを、意識化する技術が必要だった・・・。
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9月26日
★いかなる思考もイメージも妄想として退け、生滅していく事象の流れにサティを入れ続けるヴィパッサナー瞑想。
その新鮮さに衝撃を受け、修行に専念した者が、内観をしなければならないのも苦行だった。
終日、記憶の世界に浸りきって、認知の歪みを正していく内観。
心の清浄道に不可欠な崇高な営みではあるが、概念の糞壺にハマり、回想という名の妄想世界に留まり溺れ続ける苦痛・・・。
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9月24日
★ヴィパッサナー瞑想が始まれば、どんな崇高な考えも高尚な言葉もゴミ箱行きのクズに過ぎない。
妄想を離れた事実だけの世界の清潔さに踏み留まるのが原則だ。
しかるに、〆切が近づき執筆一辺倒の言葉、言葉、言葉・・の概念漬けが続く苦痛とウンザリ・・。
煩悩を貪った後のように、概念世界に溺れて脳が腐っていくような爛れた膨満感・・・。
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9月22日
★慈悲の瞑想については、もう書くことは何もない・・・と感じていた。
ところが、情報を出し尽くした後に当然来るはずの、空っぽになったような虚脱感とは正反対の印象があった。
食べ過ぎた後の膨満感にウンザリするような感覚だった。
なぜだろう・・と訝ったが、すぐ謎が解けた・・・。
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9月20日
★今回のブックレットは、過去のダンマトークのほとんどが死蔵されているので、良質のものを再編集して刊行するという企画だ。
第一号は、@サティの瞑想+A慈悲の瞑想+B瞑想の技術的Q&Aの構成だったが、Aが膨れ上がり、Bを割愛することになった。
Aが大型化したのは、「慈悲の瞑想講義・総集編」のつもりで書き進めていったからだ。
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9月18日
★長らく懸案だった「ヴィパッサナー瞑想大全」の執筆に専念しなければならない。
従来のペースでは年内完成どころか永遠に終らないし、残務整理からも解放されないだろう。
遅々として進まなかった一因は、新たに企画されたブックレットの仕事が割り込んできたからだが、それもやっと終った・・・。
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9月16日
★どんなに忙しくても、毎日30分以上の座る瞑想と1時間以上の歩く瞑想を課してきたが、これで瞑想が本格的に進むなら誰も出家などしないだろう。
修行に徹するのは、1年に1度、夏のリトリートだけになっていた。
今夏はどうしようかと思案していたが、リトリートは断念せざるを得なくなった・・・。
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9月14日
★集中型のサマタ瞑想でも、無思考状態のデフォルトモード・ネットワークが強化され、直観や閃きに寄与するだろう。
だが閃きの骨子は、ものの見方を固定させないこと、つまり豊富なデータを自在に組み合わせる視点の柔軟さだ。
一瞬一瞬、自身の視座をも対象化し客観視するサティの瞑想の本領発揮・・・。
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9月6日
★直観や洞察智が閃きやすい脳には、各人各様、形成されていった歴史がある。
どんな本を読み、どんな人とつき合い、何を考え、どんな経験をしてきたのか・・・。
情報の集積が編み上げた脳内ネットワークの限界を破り、新たな視座と着想を得るには、瞑想が1番、智慧ある人との対話が2番だろうか・・・。
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9月4日
★洞察と閃きの出やすい智慧のタイプでも、情報がなければ、何もできない。
アイデアとしてまとまっていく素材がないのだ。
知識と経験から得た情報が分析され、考察され、組み合わされ、視座と発想が変わり、他者と論議され、批判され、検証され、瞑想によって思考モードを離れ、空っぽになることによって、一瞬の閃きに繋がっていく・・・。
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9月2日
★板挟みも葛藤も、物理的な情況や事実に由来するのではない。
どのようにそれを認知し受け止めるべきか、という認識の問題なのだ。
ハゲタカ世界とブッダの瞑想の激突・・・と考えるのではない。
「一切皆苦の煩悩世界を乗り超えるために、清浄道の瞑想システムが不可欠なのだ」
という一言で、何かがふっ切れたらしい。
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8月31日
★自分から戻った世界を忌避する心が存在し、それでいて瞑想にも専念しきれないという矛盾。
妨害要因に妨まれなかなか入れなかった1Day合宿にやっとたどり着けたのに、最高潮のタイミングでドロリと眠気に襲われるというまさかの展開が繰り返されたという。
「瞑想したい」v.s.「瞑想を離れたい」
心の表層でも深層でも、同じ葛藤の構造・・・。
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8月29日
★人生に悩み、激務に疲弊し、ヨレヨレになって、長期の休息を得た。
瞑想に出会い、朝カル講座や1Day合宿に通い、心を建て直し、晴れて復帰した。
程なく激務の日々が再開し、ハゲタカの世界に徐々に巻き込まれ、ダンマと煩悩の葛藤が始まる。
瞑想は続けているが、心に澱が沈殿していく・・・。
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8月27日
★自由意志が本当に存在してもしなくても、どのようなプロセスで意志決定がなされるのか知らなくても、悪を実行しようとする瞬間の意志にサティを入れることはできるし、悪を制止する瞬間の意志に対してもサティが入るだろう。
そのサティの一瞬すら既存のデータと諸々の条件によって定まっていたとしても、悪の実行を決めた瞬間にサティを入れることも、止めることも可能なのだ。
それなら、自由意志など捨て置き、いかに正しく生きるかに徹底することが全てではないか・・・。
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8月25日
★独裁型の王も、国民の声や暴動の怖れに支配されている。
中央司令塔の脳も、手足や耳目の情報に縛られた「末端の奴隷」に過ぎない。
細胞も臓器も脳も全身も心も・・、膨大な情報処理に追われ、常に「最適化」をはかりながら「自由意志」の一瞬に収斂していく・・。
だが、一度決定されかかったその「意志」を覆す自由もある・・・。
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8月23日
★眼耳鼻舌身意の一瞬の知覚から、電光石火の速さで連想や思考の流れが始まる。
次々と脳内データのドミノ倒しを命じているのが「マナシカーラ(如理作意)」だ。
自動的に展開する作用なので、意識的にコントロールはできない。
何が、その流れを一定方向に導いているのだろう。
これまでの人生の全ての経験と印象だ・・・。
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8月21日
★声が聞こえ、姿が見え、匂いがした瞬間、その知覚をどう受け容れて経験するか。
その刹那に微かな意志が働く。
医者や鍼灸師が愛妻の肌に触れた瞬間と、患者の触診の瞬間では、同じ触覚であっても認知のまとめ方に大きな差があるだろう。
同じ対象、同じ相手、同じ出来事であっても、認知する瞬間と反応する瞬間の意志が異なれば別個の経験になっていく・・・。
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8月19日
★動画を静止画像のコマ送りで見るように、欲望も怒りも立ち上がってくるプロセスにサティを入れることができる。
眼耳鼻舌身意の対象に苦受・楽受を感じた次の瞬間が運命の分かれ目だ。
身体的感覚もメンタルな感覚も、甘美なものとして認識されれば、欲望に向かってドミノが倒れ出す。
苦受が強烈であれば、嫌悪や怒りや恐怖に向かってドミノが倒れていく・・・。
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8月17日
★エゴが自覚する「意志」は氷山の一角に過ぎず、環境要因や外界の刺激、反射的なパターン、抑圧された潜在意識の暗示など、意識化されないものはサティの瞑想の対象にはならない。
知覚する心(入力系)と反応する心(出力系)を限りなく細分化して仕分け、意志の起動する瞬間に絞り込んでいく・・・。
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8月15日
★意志が発動する0.5秒前に脳活動が始まっていると証したリベットの実験は、人に自由意志はあるか否かの問題を提起した。
エゴが自覚できる意志もあれば、潜在意識・深層意識・遺伝子・脊髄反射・・など無自覚に形成されていく意志もある。
心の重層性と、分裂し矛盾する複数の自分が共生する「エゴ」の構造から問い直されるべきだ。
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8月13日
★倫理なきマインドフルネスは、邪悪な瞑想になりかねない。
「叩いた」→「(ザマアミロ)と思った」→「(もう一発殴ろう)と思った」→「殴った」→・・と自己客観視を続けるのだろうか・・・。
傷つける・奪う・ダマす等々の邪悪な心は、断固として退けなければならない。
戒律に守られたブッダの瞑想・・・。
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8月11日
★歩行感覚や腹部感覚を実感し、サティを入れるのがヴィパッサナー瞑想の基本だ。
これがマスターできたなら次に、行動を命じる一瞬の心にもサティを入れてみる。
人の頭を叩いた瞬間の手指の実感に「叩いた」とサティを入れるのではなく、『ひっぱたいてやれ』と命令する意志に気づいて振り上げた手を下ろすのだ。
なぜ一瞬の意志へのサティが必要か、の所以である。
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8月9日
★話そうとする瞬間、やろうとする瞬間、考えが浮かび始めた瞬間、
『私は、今カルマを作っている・・・。これから話すことが、やることが、考えることが、そのまま、未来の我が身に起きるのだ・・・』
と呟いてみる・・・。
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8月7日
★私→家族→共同体→祖国→人類→・・・と、エゴ感覚が肥大していった究極が<神>と呼ばれる。
エゴを正当化する究極の装置である<神>が、敵の<神>と激突し戦争が始まる。
テロリストの愚劣な蛮行を偉大なものに錯覚させ、正義の戦争という大義名分を与えてくれる、エゴの化け物としての神・・・。
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8月5日
★神は、存在しないことによって機能し、人を支配する。
巨大な国家や集団を一つにまとめる≪共同幻想≫としての神・・・。
神の沈黙は、神は妄想に過ぎないという宣言。
悲惨な苦しみを納得して受け容れる装置として、人類は、存在しないことで万能になる神を必要としてきた・・・。
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8月3日
★小児的エゴイズムの視座から、真実をありのままに認識することは難しい。
子供の認知世界は未熟で偏りがちだ。
起きた事実は変えようがないが、経験の意味は正反対にも変わり得る。
仏教のダンマ的視座から追認された記憶を迫真の定力で再体験し、感謝のフォルダーに納め直す瞑想の可能性・・・。
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8月1日
★怨みと嫌悪のフォルダーから浮上した記憶を、生々しく追体験して元のフォルダーにそっくり保存し直すのは馬鹿げている。
やらない方が良い。
トラウマが想起された瞬間に、もう一度傷つき、腹を立て、さらにグチャグチャになりながらカルマを悪くする。
断固として、認識革命を起こさなければならない・・・。
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7月30日
★頭で理解したことと実体験で検証されたことの落差の巨大さは、百倍にも千倍にもなるだろう。
この事実と妄想の中間に、サマーディのリアル感覚がある。
内観で回想された記憶イメージを対象に、サマタ瞑想の定力が働くと、過去が再体験されたかのような衝撃力で認知の再配置が起きることもある。
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7月28日
★眼球運動と同時にトラウマ体験を想起するEMDR療法が、劇的な効果をもたらすという。
ピシリと決まった座る瞑想の体感を感じながら、トラウマの原風景に集中するサマタ瞑想・・・。
回想レベルではなく、過去の事実にスリップし、再体験する生々しさで認知が再統合される可能性はないか・・・。
極度の集中にダンマの智慧が伴った、認識革命・・・。
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7月26日
★わかっちゃいるけど止められないのが、われわれ凡夫衆生だ。
理性的自己の命令よりも0.5秒速く、身体的自己が反応してしまう現実が証され、人に自由意志はあるのか?と問われている。
理性的判断と反射的反応の矛盾をゼロにしていくために、ヴィパッサナー瞑想という総合的システムがある・・・。
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7月24日
★縁がなければ、どんな出会いも経験もあり得ない。
最低の人に出会い、最悪の事態に巻き込まれたのは、こちらの不徳のなせる業ではないか。
苦しみの度合いが激烈なほど、巨大な不善業が消え、かけがえのない学びを得る法則。
最悪が宝になるなら、苦楽も善悪も超えられ、起きたことは全て正しい、と言えるのではないか・・・。
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7月22日
★顔に唾を吐きかけてやりたいような仕打ちをされても、相手が脳や心に障害のある人だったら腹を立てずに「悲(カルナー)」の瞑想ができるだろう。
だが、腹黒い健常者だったら、どうか。
怒らずに受容するには、カルマ論を心得て、事の因果を理解しなければ難しいのではないか・・・。
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7月20日
★やるべきか止めるべきか、行くべきか留まるべきか、生きるべきか死ぬべきか・・・。
駆けめぐる猿知恵を鎮めるためにこそ、瞑想をしなければならない。
事の展開には、いかんともし難い環境要因と諸々の力が働いている。
必然の流れで我が身に起きたことは全て正しい、と腹をくくり、引き受けていく覚悟・・・。
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7月18日
★ブッダが悟り得た真理は「世の流れに逆らい、深遠で見がたく微妙なものであるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々には見ることができない」
と、説法する虚しさを感じ、沈黙を貫こうとした時、梵天がブッダに教えを説くよう要請し、仏教の歴史が始まったと伝えられる。
煩悩を否定する教えは、世の流れに逆らう・・・。
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7月16日
★ブッダが悟りを開いた瞑想技法から宗教色を抜き、「マインドフルネス」と名を変えて世界的に流行している。
テクニックだけが、肝心の教えとは反対の方向に利用されているようだ。
ブッダが悟りを開いた直後の感懐が、仏伝には記録されている・・・。
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7月14日
★欲があれば道を踏み外し、怒りがあれば他人を苦しめ、その不善業はやがて自分を苦しめる。
妄想で目の曇った愚かさが諸悪の根源であると見抜き、そこから解放される道がブッダによって示された。
その技法の一部を、ストレスや鬱を解消するテクニックとして利用し、元気いっぱい欲の世界を楽しもうと多くの人が飛びついている皮肉・・・。
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7月12日
★エゴ妄想を別の妄想で駆逐する構造ではあるが、全託の修行は我執を弱めるのに極めて効果的だ。
エゴ感覚が影をひそめ、連続するサティが確実に対象化を続けていくと、心も体も因果の網目に織られた関係性の流れに過ぎない・・・と覚られてくる。
そして、現象世界を超越した不可思議な一瞬が、トドメを刺す・・・。
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7月10日
★もし完璧なサティが切れ目なく続き、直前の経験を次の心が確実に対象化していけば、エゴ感覚の入る余地がない。
「私が・・」と感じた一瞬の所感や思考が次の瞬間、「と思った」と客体化されるのがえんえんと続くからだ。
だが、聖者ではない我々のサティが、永続することはあり得ない・・・。
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7月8日
★もしエゴが法として実在するなら、ブッダが無我論を説くことはあり得ない。
つまり「エゴ妄想」に苦しむ凡夫が、「絶対的存在という妄想」に全てを委ねようとする構造が「全託」の修行だ。
託す者と託されるものが完全に合一するのは、主客未分のサマーディが成立している束の間だけで、醒めれば我執がしぶとく生き残っていることに気づかされる・・・。
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7月6日
★一日一食の托鉢の鉢の中に、たとえバナナが一本しか供養されなくても、聖者達は完璧に満足し淡々と受け容れて日を過ごす。
因縁の流れを心得、与えられたものを尽く受け取り、絶対肯定しているからだろう。
「聖者達はどこへ行っても、そこを天国にしてしまう」(【サンユッタ・ニカーヤ】)。
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7月4日
★どんなネガティブな経験も必ず肯定し、受け容れなければならない。
最初から結論が決まっているのだから、自己中心的な視座を転換させ、無我の立場から発想を試みるしかない。
この全託の修行ほど、あるがままを観るヴィパッサナー瞑想に役立ったものはない。
エゴの発想を捨てろ、と絶えず突きつけられる銃口・・・。
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7月2日
★何を見、何を耳にし、何を感じ、考え、どんな経験を積み重ねてきたのか・・・それが人生だ。
経験とは、我が身に起きた出来事ではない。
その事象をどのように認知し、意味付け、受け止めたかが経験である。
蛙にとって、動かないものは認知されず、認知されなければ何もないのと同じだ。
そのように、人の心に認識されたものだけが経験であり、人生なのだ・・・。
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6月30日
★天命とは、何だろう。
天の何かが「お前のミッションは、これだ」と命じるのだろうか。
個人を救済したり罰したりする神仏の存在は妄想の産物であり、おとぎ話に過ぎない。
現象の世界から般涅槃し、存在の流れから出てしまったブッダは、願いを聞き届けたり嫉妬したりする神々の存在を完全に超越している。
宇宙に生滅する事象の流れには一定の法則性があり、それを仏教ではカルマ(業)と呼んだ。
天命に従うとは、無限の過去世から集積された宿業が日々提示してくる事象の流れを受けきっていくことだ・・・。
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6月28日
★原始仏教の瞑想者として足場が定まれば、「全現象完全受容」に徹しきって問題はない。
何も望まず願わぬが故に、過去に組み込んだカルマが縁に触れ、必然の力で生起してくる。
その全てを受け容れ、苦楽を味わう瞬間、善業・不善業が現象化し消えていく。
宿業が呈示する一切の事象を受け容れ、従いきっていくとき、各人に固有の天命が顕わになる・・・。
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6月26日
★人は、なぜ瞑想をするのだろう?
答はいくつもあるだろうが、原始仏教では、苦しみから解放されるためであり、自分自身を縛っている鎖から自由になるためである。
聖なる修行を完成させるためだ、と言ってもよい。
戒を守り、悪を避け善をなす大前提での「全託」であり、無願三昧となる所以である。
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6月24日
★さらに厳密に言えば、起きた現象はすべて完全に受け容れるが、反応する瞬間、どのような意志的行為が出力されるかが問題である。
罵られ、奪われ、殴られる一瞬は、生起した事象としてありのままに受け容れるが、怒鳴り返したり、殴り返したりの煩悩的反応はあり得ない。
オレオレ詐欺の仲間に入らないかというオファーも、刃を持って殴り込みに行く誘いも、不善業が展開した結果だが、断る自由もあれば、流れに乗る自由もある。
起きた事象は受け容れてありのままに認知するが、反応する一瞬は戒を守り、倫理に貫かれていなければならない・・・。
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6月22日
★事象を経験する瞬間の心は受動的だが、反応する瞬間の心は能動的なエネルギーが出力される。
マッコウ鯨もミジンコも雀も人もオランウータンも、この刺激・反応系のシステムを死ぬまでやり続けるしかない。
全てをありのままに受け容れていく修行なのだが、それでも受容する一瞬と拒絶する一瞬があり、仏教実践者には明確な方向性がある・・・。
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6月20日
★あの頃、私は何に全託していたのだろう。
キリストの神も阿弥陀仏も、手垢で汚れた神仏のイメージは使えるはずもなかった。
そこで、この現象世界を展開させている理法というか、根本的な法則性に一切を委ね、それを「宇宙運行システムへの全託」と称していた。
何も望まず、無願三昧に徹していても、一瞬の間断もなく事象は生起し、経験は果てしなく続いていく・・・。
過去世で組み込んだ宿業の押す力なのだろう。
否応のない必然の力で、日々我が身に生起する現象を、ことごとく受け容れていく覚悟・・・。
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6月18日
★絶対的な存在に己の全てを委ね、託しきっていく修行なので「全託」と呼ばれる。
エゴを丸投げする感覚が、無我の修行に通じ、信仰タイプの者には適しているだろう。
卑小なエゴが超越的な神仏のイメージに投げ込まれ融合すれば、エゴ感覚は希釈されるだろう。
だが、しょせんエゴ妄想が神仏妄想と重なっただけで、完全な無我を実現している訳ではない・・・。
これが、全託の修行の限界である。
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6月16日
★全託とは、日々我が身に生起する一切の事象を受け容れていく修行である。
「与えられたものを尽く受け取っていく・・」とは、嫌なことが起きても嘆かず、心乱さず、ありがたく受け容れていく修行、と言い換えることができる。
エゴを無くしていく修行であり、視座の転換を試み、認知を一変させる修行だ。
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6月14日
★五戒を守り悪を避け善をなす大前提が崩れれば、一瞬一瞬の経験にラベリングしていても、愚か者の独り言と同じである。
何が見えても、聞こえても、感じても、思っても、判断しないで、ただ事実をありのままに対象化し続けるサティの瞑想は、倫理に守られ、正しい方向に導かれていく前提の上に成り立っている。
倫理なき瞑想であってはならない。
倫理を基軸にしない「全託」の修行も、あり得ない・・・。
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6月12日
★「万引きしてます」「殴ってます」「ミサイル発射してます」
これは正しいサティとは似て非なる<邪念(ミッチャー・サティ)>であり、ヴィパッサナー瞑想ではない。
原始仏教の要である「戒・定・慧」の三学から戒を抜き取り、ただ気づくだけの瞑想は、人を欲の世界に引きずり込む危険性を孕んでいる。
倫理(戒)なき瞑想は、海図も羅針盤も持たずに闇夜の海を進む船のように、彼岸に到達することはない・・・。
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6月10日
★エゴの猿知恵で願望を実現させるクダラナサと虚しさの構造を検証し、次に取り組んだのは「全託」の修行だった。
生きることは経験することであり、一瞬の間断もなく外界からなだれ込んでくる対象を認知し、否応なく反応するシステムに拘束されることだ。
何も願わず、瞬々刻々、生起してくる現象を全て受け容れていく「全託」の修行・・・。
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6月8日
★「願望実現」の瞑想によって、常識がブッ飛ぶような、劇的な体験を数多く集積することができた。
それが、後年、知的理解の100倍も強力な経験則となって仏教の因果論を叩き込んでくれた。
いかんともしがたく業に縛られ拘束されている現象世界。
そこからの離脱を心底から求めていく基盤になった・・・。
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6月4日
★願望実現の瞑想を止めた理由は、欲の力で集中力を高めることはできても、欲が基盤であるが故に執着も強化されてしまう事実を無視できなくなったからだ。
さらに、人は、真の幸福をもたらす願望を抱くことが難しく、愚かなものを願って手に入れては愚かな不善業を作っていくからだ。
愚かさと渇愛と幻滅とドゥッカ(苦)の構造から解脱するのが真の瞑想だ・・・。
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6月2日
★既に確定していて、放っておいてもそうなっていく業を具現化するのはたやすい。
しかるに、ギリギリ成就させられる程度の業では、そのイメージに強烈に集中しなければならず、サマーディの訓練にはなる。
望みを叶えたいという渇愛に駆動され、欲の対象に全力を傾注しながらサマーディに浸る日々だった・・・。
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5月31日
★現実と区別がつかないほど集中し実感できたイメージは、鮮やかに具現化する。
・・・これが願望実現の秘訣だが、この時期に私は邪なサマタ・サマーディ(邪定)の修行をしていたように思われる。
渾身の力を振り絞ってイメージにのめり込み、瞑想者と対象が融合し完全に合一するのを目指していた・・・。
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5月29日
★望もうが望むまいが、組み込まれたカルマは、抗いようのない力で必ず現象化してくる。
その業は、日々瞬々刻々、放たれる意志(チェータナー)の強度と頻度に比例して集積されていく。
完熟の業もあれば、青い果実もある。
未熟な青いカルマを強引に具現化させるには、強烈なエネルギーの集中が必要だろう・・・。
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5月27日
★意志的行為の集積であるカルマが現象化するのは、完熟した果実が落下するようなものだ。
現れるタイミングを狙っていたカルマに、今がその時、と知らせるのが願望実現のイメージとも解釈できる。
既に自分のカルマとして組み込まれていた願望が具現化するイメージはたやすく描けるが、そうでないイメージはなぜか描きにくくなる傾向・・・。
暗証番号を打ち込むとATMから現金が出てくるように、願望をイメージすると宇宙銀行の徳のポイントが現象化して実現されるという解釈・・・。
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5月25日
★既に確定していることがそうなっていくのを先取りして見ている感覚は、エネルギーを動かして事象を生起させるのとは違う。
未来予知と感じる所以だ。
願望を鮮やかに実現できる人と出来ない人の差は、能力ではなく、そうなるだけのカルマを持っていたか否かの問題かもしれない・・・。
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5月23日
★願望実現なのか、未来予知なのか・・。
バザーで販売をした時のこと、出店に立ったまま集中し、次は外人の顧客が新札紙幣で3千円の買物をするイメージを描いた。
すると10分も経たないうちに、白人の3人連れがやってきてピカピカの新札で3千円の買物をした!!
未来予知ではないかという解釈・・。
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5月21日
★事物も、人との出会いも、遭遇する情況も・・、強烈に望みイメージしたことは現実化してくる。
その現象世界の構造が理解され、当時欲しかったものはほぼ手に入れたと感じた頃から「願望実現」には興味を失なっていった。
猿知恵で望んだものを手に入れる愚かさと虚しさが、私なりに検証されたのだ・・・。
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5月19日
★この世の事象というものは、作られた業が因果法則どおりに帰結していく流れのことだと仏教は考えている。
強烈に出力された「チェータナー(意志)」が現象化してくるプロセスを「業」と呼び、その業を展開させている根元的な力が「行(サンカーラ)」だ。
望むイメージに集中し強烈に業を作り、その業の結果が具現化してくる構造。
それが願望実現の世界ではないか・・・。
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5月17日
★心に描いたイメージ通りに筋肉の活動電位や生体エネルギーが動く事実は、筋電図や自律訓練法などからも明らかだ。
軟酥の法で風邪が治るのも、瞑想で水虫が完治するのも、あり得るだろう。
しかるに、なぜ脳内イメージが外界に具現化するのかは謎のまま残った。・・・原始仏教に出会うまで。
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5月15日
★描いていた新居のイメージが、目の前に現実のものとして完璧に出現していた!
建物の方角や位置、部屋の間取り、浴室やベランダの印象、DKの床の紋様にいたるまで99%、心に描いたものが全て具現化していた。
なぜ、脳内イメージが現実になるのだ・・・!
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5月13日
★なぜあんなに集中できたのか我ながら不思議だった。
不徹底なやり方では検証にならないこと、期間限定にしたこと、願いが叶ったイメージに浸るのは楽しかったから、だろうか。
1週間の実験期間が過ぎた次の日曜日、不動産屋に照会された最初の物件を見に行き、私は呆然と立ち尽くした・・・。
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5月11日
★引っ越して新たな修行生活に入ろうとしていたので、イメージ通りの理想の新居が具現化すると強く願ってみた。
「祈り求めることは既に叶えられたと信じなさい。その通りになるであろう」
という福音書のイエスの言葉に閃きを得ていたので、イメージなのか現実なのか自分でも区別がつかないほど集中した・・・。
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5月9日
★軟酥の法で風邪が治った話をすると、神秘家のY君は願望実現について語り「マーフィーの成功法則」という本を貸してくれた。
こんなクサい話はインテリの読む本ではない、と普段なら一蹴するのに、なぜかこの時は興味惹かれて試してみた。
それが、私の運命を大きく変えることになるとは夢にも思わなかった・・・。
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5月7日
★今世でやった行為の結果が今世で現れるカルマを「現法受業」という。
年齢を重ねるほど誰でも、因果応報や自業自得の構造が経験的に理解されてくるものだ。
のみならず仏教では、人生最初期の環境や経験は過去世の業の反映と考える。
誕生時の恐ろしいまでの不平等さ、善いことなど何もしていないのになぜ超ラッキーな人がいるのか、なぜそこまで運が悪いのか目を覆いたくなる悲惨な人たち・・・。
輪廻転生を踏まえた業論で考えると、今世の所業だけでは説明不可能なさまざまな謎が解けるだろう。
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5月5日
★軟酥の法が記されていた「工学禅」という本は、禅を科学的に解明する姿勢と三つ子の魂の「刷り込み」理論が特に印象的だった。
奇しくも瞑想の実践、科学的アプローチ、幼少期の反応パターン・・と、その後の私の人生を決定づけるファクターとの出会いとなった。
友人のそのまた知り合い程度の、さしたる縁もない人から郵送されてきたのは不可思議だが、そのような業があり、人生の流れが変わろうとするタイミングで縁に触れ、因果が帰結したのではないかという解釈・・・。
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5月3日
★上座仏教の寺で修行する度に、定番の四資具(食事・建物・衣・薬)の他に必ず比丘用ダンマブックの資金を布施してきた。
ミャンマーやスリランカの仏教書出版社を探し当てて寄付したり、自著の刊行費用に難儀する比丘の方々にもお布施をしてきた。
情報系で善行をしてきたのだから、絶妙の果報が得られるのも当然の展開・・・。
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5月1日
★財物や労力同様、情報系でも因果が巡っている。
バンコック郊外の寺で日々修行に励む私の姿をいつも見ていた2人の尼僧が、ある日私のクーティのドアをノックし、「これを差し上げます」と恭しく2冊の英文の本をくださった。
アビダルマと原始仏教の素晴らしい解説書だった。
インターネットのなかった時代、奇跡かと驚嘆した・・・。
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4月29日
★種があれば自動的に果実になる訳ではない。
発芽し生育し完熟するための条件が揃わなければ、因果が帰結しないのだ。
これを「縁」と言う。
土も水も陽光も肥料も全て整ったタイミングで、業が現象化してくる。
やむにやまれぬ情況に陥り、強く希求された時、それに呼応するだけの徳があるだろうか・・・。
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4月27日
★善業の集積である徳があれば、見知らぬ外国でも誰かが市場に連れていってくれるし、必需品や布施の品々を買い揃えることができてしまう。
それは、身施をしてきた結果の功徳であり、いつかどこかで誰かをサポートし、手伝ってあげたからだと業論では解釈する。
苦境に陥っている人に救いの手を差し延べれば、自分がどん底から救い出される。
慈悲、仏教精神、カルマの重々無尽・・・。
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4月25日
★格調の高い美しいクイーンズイングリッシュの建築家とシェークスピアの話をし、能や狂言を観に行き、コンサートに出かけ、一緒に旅をしたりするうちに、妄想で自滅しかかっていた私に自尊感情が甦ってきた。
彼との交流がなかったら、死の淵の瀬戸際でヤジロベーが闇の側に傾いていたかもしれない。
イギリスに帰国してからも手紙のやり取りをしていたが、私が瞑想修行を始めた頃から、互いに異なる世界の住人になったと感じられた。
一つのカルマが終焉し帰結していくのを寂しく感じたが、彼から受けた恩愛を忘れることはない・・・。
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4月23日
★吐き気が止まらなくなり、死にかけていた私を孤独なデカダンスの泥沼から救い出してくれたのは、旧友の一本の電話とイギリス人の若き建築家だった。
睡眠薬を嚥みほす力もなく、カーテンを閉め切った自室で自己否定感覚に押し潰されながら、一匹の犬のように転がっていた私を強引に陽の当たる普通の世界に連れ戻し、英国人との縁を繋いで消えていったあの旧友もカルマの断片だったか・・・。
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4月21日
★毎日水をかぶって禊をし、経を読み、独り犀の角のように修行生活が始められたことが、僥倖としか思えない不思議を感じていた。
完全に自滅しかかっていた私に、他人の力が外界から働かなければ、40年前にはこの世にいなかっただろう。
セルフコントロール能力にも自己管理にも絶大な自信を持っていたが、こんなはずではなかった!・・と、蟻地獄から脱け出せなくなるような危機に陥ることが人生にはあるのだ。
自分で自分のことがどうしようなくなり、真っ暗闇のどん底に転がって、なす術もなく喘いでいた頃が思い出される・・・。
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4月19日
★幼い頃から何かと恵まれ助けられてきた来し方を思えば、忝なさと感謝の念が込み上がってくる。
生涯にわたって多くの人に支えられ、人生の節目ではなぜか不思議なことが仕組まれたように起きる運の良さを感じてきた。
だが、瞑想修行を始めてからの幸運は断トツで、必要なものが必要なタイミングで渡りに舟のように与えられる円滑現象の展開に眼が眩むようだった。
なぜ修行者になってからは、あれほど多くの人に助けられ、導かれ、支えられてきたのだろうか。
それは、過去世から瞑想者や修行者を特別に支え、助けてきた善業の結果ではないかという解釈・・・。
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4月17日
★なぜ私と縁のあった人たちはあれほど優しく、誠実で、親切だったのだろう。
彼らはみな仏教徒だったので、当然ながら慈悲の瞑想を実践していた。
また、上座仏教の寺では「瞑想が進まなければ、徳を積め」と教えられるので、寺の尼さん達が外国から来た修行者に親切なのも頷ける。
上座仏教の寺では、布施をする者は尊敬の眼差しで見られ、「サードゥ(善哉)!」と皆に唱和され讃えられる。
瞑想者から預かったものも含め、私のサンガへのお布施はかなりの金額になったので、貨幣価値の異なる外国では驚異的に映り、尊敬の眼差しで見られがちだったのも一因かもしれない。
もう一つ考えられるのは、やはりカルマだろう・・・。
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4月15日
★私の修行を助け導いてくれる善き人々との出会いは、外国の寺を訪れるようになってからは比較にならない圧倒的なものとなった。
無償の専属通訳を献身的にしてくれたタイのパイリーン、息子のように特別な扱いをしてくれたアチャン(僧院長)、ミャンマー滞在中の全てのお世話をしてくれたU家の人々、従者のごとく私の世話をしてくれたミャンマーの在家修行者、元大使だった政府高官M氏自らが案内役に徹してくれたスリランカの日々・・・。
バンコック郊外の寺では、僧院長以外誰も使ったことのない広大な特別クーティで修行するのが許されたこともあった・・・。
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4月13日
★K氏から伝授された宝物は、その後の修行にも瞑想合宿にも不可欠なものとなった断食だった。
グルメをやり過ぎた報いで患った糖尿病を、K氏は断食を徹底的に研究し自力で完治させてしまった。
その基本から特殊な短期断食のやり方まで、懇切に手ほどきをしてくれた恩は忘れがたい。
どんな宿業だったのか、教養や修行経験などの持ち駒がK氏ほど重なり合う人はなかった。
平河町から信州の別邸に向かう車中でも、打てば響くように解り合えるK氏とのコミュニケーションを心ゆくまで楽しんだ・・・。
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4月11日
★K氏もまた不思議な人だった。
精神世界に精通しているインテリ茶人の経営者で、断食に詳しく、霊能もあり、インド巡礼や仏教や波乱万丈な来し方など、初対面なのに夜が更けるまで語り合った。
Y君とは対照的に、K氏は徹底した実践の人で、驚くほど多くの経験を共有することができ、いくら談話を重ねても話題の尽きることがなかった。
爽やかな風が渡る高原で野点の茶を喫してから瞑想し、K氏の別邸の暖炉の火を眺めながら心ゆくまで語り明かしたあの親密さは何だったのか・・・。
K氏の社員や交遊関係から察するに、前世はさしずめインドの藩王のような趣きがあった・・・。
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4月9日
★私の修行遍歴が始まって間もなく、インドの仏跡を巡礼し感動冷めやらぬある日、上野のアメ横で托鉢しているインド人比丘に出会った。
カタコトの英語と日本語で、自分のスポンサーであるK氏がいかに素晴らしい人物かを絶賛し、会うように勧めてくれた。
K氏がインドを旅していた時に知り合い、案内役をしてあげた返礼に招かれて在日しているような流れらしかった。
インドの話がしたくてうずうずしていた私は、早速平河町のビルを訪れた・・・。
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4月7日
★博覧強記だったが、意外なことにY君自身はあまり実践派ではなく、謙虚に知識を提示してくれるコーチの役割だった。
だが私には、それで充分だった。
地図が正確ならそれでよい。
歩いて踏破するのが私の仕事だ。
真理を知的に理解することは虚しく、断固としてやるべきは、その本質を体験することだという確信があった・・・。
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4月5日
★孤独なインテリ青年だったY君は、宗教もオカルトも修験道も神秘思想も、いわゆる精神世界の教養が圧倒的で、赤子同然の私に、次に読むべき本、訪ねるべき所、やるべき行法を的確に教えてくれた。
カルトにハメられることもなく、危険な世界に分け入っていくことができたのは、誠実この上ない彼の道案内の賜物だった。
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3月30日
★文学や芸術を志していた私が、思索や絵空事のフィクションを捨て、体験の実証を重んじるようになった最初のきっかけが「軟酥の法」だった。
未知の世界に足を踏み入れようとしていた私の前に、洋の東西のあらゆる神秘思想に通暁する青年が現れ、最高の水先案内人になってくれたのも驚きだった・・・。
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3月28日
★渾身の力で、観想なのか現実なのか区別がつかなくなるほど集中し、私は知らずにサマタ瞑想の訓練をしていた。
軟酥の霊薬に身体各部が隈なく浸されていくイメージを描けば、生体エネルギーが活性化するのも想像がつく。
だがその時の私は、「現実が、イメージ通りになるのだ!」という感動と驚き方をしていた・・・。
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3月26日
★当時は、瞑想やヨーガの類はオカルト少年や変人が隠れてコソコソやるようなものと見なされ、インテリを気取っていた私もご多分に洩れず蔑視していた。
だが、たった数十分の観想でこじれた風邪が治ったことに度肝を抜かれた私は、以来、文学や思想書を捨て、瞑想修行が人生の全てになっていく・・・
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3月24日
★40年も前のことだが、プレゼントされた本の一節に白隠禅師の「軟酥の法」のやり方が紹介されていた。
風邪をこじらせ鼻水をすすっていたので、面白半分、試してみた。
軟酥の神薬仙薬霊薬で全身が覆い尽くされていく詳細を念入りに観想し、満ち足りて終了すると、なんと風邪が完全に治っていた!
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3月22日
★なぜ、ヴィパッサナー瞑想は科学的と言われるのだろう?
現実を正確に客観視しようとするからだ。
妄想で思い込んだ世界に強く反応する瞬間、苦が始まっていく。
本当に起きている事実だけを拠り所に、エゴの身勝手な認知と愚かな反応を正すことによって、苦を乗り超えていくシステム・・・。
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3月20日
★「音」とサティは入っても、「うるさいな」という嫌悪感には気づきづらい。
「見た」も入りやすいが、批判したり見下している心にはサティが入らない。
執着が深くなるほど巻き込まれ、対象化しづらく、エゴはその最たるものだからだ。
瞑想が進む度合いと、エゴがなくなる度合いは比例する・・・。
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3月18日
★なぜ、真実を知る者は謙虚なのだろう。
あるがままに観る「如実智見」がいかに難しいか熟知しているからだ。
記憶は思い出される度に必ず書き換えられ、歪んでいくのを心得ているからだ。
間違いない!と力強く言いきって妄想を垂れ流す者が、多くの人を扇動してきた人間の歴史・・・。
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3月16日
★我が身に経験される出来事の、因縁の流れが読み解けないのも無理からぬことだ。
カルマ論も知らなければ、よく気をつけてマインドフルに生きていないのだから。
日々、自分が何を考え、何を言い、何をやっているのか、ほとんど自覚がなく、情況に流され、勢いで業を作ってしまっている日々・・・。
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3月14日
★「人は、怒りを抑えることによって侮蔑を学ぶ」と言ったのは誰だったか。
仏教を知れば、目クソが鼻クソを笑うようなものだ。
人は、因縁の流れを視ることによって、怒りが消滅するのを知り、「悲」の心を学ぶのだ。
凶事に遭遇した我が身の流れと、相手の悪意が帰結していく因果の流れ・・・。
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3月12日
★サティが入れば、あるがままの対象認知ができるのだろうか。
本来の<如実智見>は容易ではない。
「見た」「聞いた」「思った」とサティを入れても、嫌なものに目を背けていた事実にも、劣等感と嫉妬にまみれた思考だったことにも気づけない人が多い。
あるがままの真実は、見がたい・・・。
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3月10日
★同じ現実に対して、なぜこれほど千差万別の認知になるのか。
遺伝子の命じる固有の偏向があり、幼少期に刷り込まれた「三つ子の魂」に左右され、何よりも頭に妄想が充満しているからだ。
ありのままの対象ではなく、選択的注意が選び取った情報を見て、聞いて、味わい、感じた経験世界の歪み・・・。
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3月8日
★ただ現実が存在するだけで、真実は視られないのだ。
混沌とした事象の流れがあり、それを経験する有象無象がいて、その無量無数の認知があるばかりだ。
ヌーの認知した現実がある。
チータの、愚か者の、賢者の、フンコロガシの認知した現実もある。
刹那に妄想の素材となって消えていく現象の世界・・・。
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3月6日
★今この刹那以外は、全て妄想なのだ。
いや、記憶も夢も妄想も、同じ素材の織物で織られた絵巻物に過ぎない。
どの一瞬も真実だったが、無数の認知と千差万別の解釈とその記憶が残されていく。
法として存在した一瞬の事象が妄想でまとめ上げられ、膨大な数の「私の体験」「私の真意」になっていく・・。
そして、その記憶までもが時とともに歪み、変形し、夢のような絵巻物になっていく人生・・・。
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3月4日
★本当の心は? 本心は?・・と訊いても意味がない。
そもそも自分で自分の心がわからないのだ。
怒りでブチ切れた時もご機嫌の時も、どちらも本心だろう。
「やります!」と答えた瞬間だけが真意で、直前までの迷いと葛藤は本音ではないのか。
抑圧された心と、抑圧する心の、どちらが真実か・・・。
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3月2日
★過去から解放されるための行法に懺悔の瞑想があるが、自分には関係ないと思っている人も少なくない。
だが、過去に束縛されていない人がいるだろうか。
苦しかった過去が一つもない、無傷な心があるだろうか。
自分の欠点やコンプレックスを嫌っている人は数限りなくいる。
自分がネガティブに評価した過去の記憶の集積が、日々、自らを苦しめる・・・。
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2月28日
★ゆで卵になってしまったら、どれほど切望し努力しても、もうやわらかオムレツにはなれない。
オムレツがゆで卵になるのも無理だ。
そうであるからには、仕方があるまい。
自覚された自らの資質と特性を引き受けて、今世では今世の自分の歌を歌うしかないだろう。
やさしさが溢れてくる心も、凶器のような心も、自然展開した因果の帰結である。
超越的な視座から眺め直せば、両者は等価だ・・。
優しさにはやさしさの、凶器には凶器の、活用法があり、仏教的生き方がある。
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2月26日
★辺縁系(感情)と新皮質(理性)をつなぐ眼窩前頭皮質は3歳までに臨界期に達し、以後、共感・社会性・自己抑制に直結する領域の可塑性が失われ、固まってしまうという。
誕生時の遺伝情報も生育環境も、宿業の結果だろう。
今世で悟れるか否かは、ほぼ生得の資質とカルマで決まり、努力での達成は来世以降になるか・・・。
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2月24日
★完治の難しい依存症に苦しみ抜いたが、瞑想とダンマの学びによって見事に乗り超えることができたという。
だが、ある日、不測の事態が突然穏やかな暮らしを打ち壊し、「随眠」状態だった過去への怒りが甦ってきて瞑想ができなくなっていた。
そんな最中、まるで自分をいじめるかのように、甘い物にもてあそばれてきた構造に気づく瞬間が訪れた1Day合宿・・・。
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2月22日
★何かを探し求めるように、一つひとつの食材の味を吟味しながら丁寧にサティを入れ、食事の瞑想をしていた女性。
最後にデザートの甘いものを口にしたとき、脳がしびれるような陶酔を覚えたという。
砂糖依存症に陥っていた・・と自覚した瞬間だった。
事実を正確に観る瞑想の最中に、その謎が解けた・・・。
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2月20日
★人の心は海辺に寄せる波のようなものであり、海には海の作法があり論理がある。
滝や川とは異なり、寄せては引き退いては寄せながら干満のピークに達していくのが海辺のやり方だ。
いくら修行しても、過去への怒りがまた甦ってきてしまう、と涙する人たち・・。
人の心が変わっていく作法を心得、ブレることなく歩み抜いていく覚悟・・・。
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2月18日
★多くの母親が証言するように、生まれつき我の強い子もいるし、気の弱い子や無欲な子もいる。
自然界の生物も人間も、ちょっと修行しただけで、生来の資質や最初期の刷り込みがアッサリ変更される仕様にはなっていないように思われる。
別人格に変身するのも解脱するのも、今世を来世につなぐ努力と修練・・・。
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2月16日
★瞑想や内観の修行を重ね、苦しかった過去の悲しみの意味を理解し、納得し、受容したつもりでいたのに、心の奥の院は何も変わっていなかった・・。
そう気づいて愕然とする人がとても多い。
生来の資質や「三つ子の魂」を今世で変更するのは至難の業である。
遠大な計画で、絶望せず前を見続ける・・。
繰り返し押し寄せるネガティブな想いには、何度でも同じ確認を繰り返すのだ。
現象の世界では、貫き徹した想いが具現化していく・・・。
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2月14日
★破壊エネルギーの怒りと和合エネルギーの慈悲が激突する最終戦は、慈悲が勝利するだろう。
世界がまだ存続しているのは、まとめるエネルギーが壊すエネルギーを上回っているからだ。
だが、いずれこの世界も消滅するだろう。
そして、壊滅しても、どこかで新たな生成が始まっていく。
壊れつつある過程は、生まれつつある過程・・・。
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2月12日
★緑色のカメレオンと赤いカメレオンが2匹並べられると、互いに変色しようとバトルになるのだろうか。
怒りモードでプンプンしている人に、慈悲の瞑想を捧げた場合はどうか。
怒りと慈悲、破壊と和合の波動が衝突し、念力戦争になるだろうが、大抵は断固たる信念で貫き徹す方が勝利する・・・。
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2月10日
★自分の置かれた環境を呪い、家族に対し、友人に対し、仕事仲間に対して憤っている者もいるが、鏡に映った自分の姿に腹を立てている人に似ていないだろうか。
ヤクザはヤクザに出会い、出家は出家に出会い、不実な者は不実な者に、優しい人はやさしい人に出会うのが法則だ。
自分のいる世界は、自分の心と想いの現れなのだと心得る・・・。
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2月8日
★イアン・スティーヴンソンの「前世を記憶する子供たち」のような説得力のあるフィールドワークもあるが、輪廻転生論を科学的に証明するのは難しい。
だが、輪廻転生論を否定すると、容姿も能力も環境も親子関係も貧富も・・誕生時のあまりにも不平等で不公平な現実をどう説明するのだろう・・・。
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2月6日
★「三因結生」とは、貪瞋痴が淡く少なく生まれつき、特に智慧が出やすい素因のことである。
幼少期の刷り込みは変え得るとしても、誕生時に搭載されていた生来の心は生涯変わらないと言われる。
今世で悟れる人は決まっているが、彼らの宿業も遺伝子も、巨大な時を経ながら自分の意志が作り上げていったものだ・・・。
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2月4日
★ヴィパッサナー瞑想で心が変わり生き方が変わり、人生苦から解放された人は数多い。
だが変わったのは表面意識だけで、土壇場になれば三つ子の魂百まで、刷り込みや深層意識は初期設定のまま、何も変わっていないケースも数多い。
本心は何も変わっていない・・と嘆くには及ばない。
たとえ表面意識だけでも好転したのだから、それでも良いではないか。
・・今世で悟れるか否かは誕生時に定まっているらしく「三因結生」と言われる。
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2月2日
★「苦受→嫌悪→怒り」の流れも「楽受→欲→貪」の流れも一瞬にして成立してしまう強力なプログラムだ。
いついかなる場合にも絶対に、心のドミノが怒りにも欲にも倒れなくなるのは何故なのか?
それが涅槃の残存印象とも言うべき「道心(マッガチッタ)」の力なのだ、と説明した比丘もいる。
「預流果の聖者はまだ煩悩が残っているのに、臨終時に不善心が出て悪趣に再生することが絶対にないという。なぜ100%確実だと言えるのか?」
と質問したことがある。
「仕方がないではないか。宇宙的な現象として、そうなっているのだから・・」
と答えた比丘もいる・・・。
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1月31日
★欲望や怒りを命じる脳は、生命維持と同じ強力な基本設定であり、その脳回路が削除されることはあり得ないだろう。
となると、煩悩が起動した直後に気づいて抑止されているか、<対象→六門→意識>の「触」の刹那、マナシカーラが欲望や怒りとは別方向にドミノを倒しているか、どちらかだ・・・。
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1月29日
★「戒とは、抑止である」という定義もある。
煩悩の心が起動する→気づく→抑止する→その一瞬が厳密な「戒」だという。
貪瞋痴の煩悩が滅尽し、戒が不要になった阿羅漢の聖者の脳を、fMRI装置で見られないものか。
欲望や怒りを命じる脳領域が、一瞬たりとも発火しない・・・?
どうやって?
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1月27日
★マインドフルネスもサマーディも絶対的な信仰も、強力な意志と精進のエネルギーに支えられ維持されている。
そんなハイテンションの意識が四六時中、生涯に渡って持続することはあり得ない。
いつ、いかなる時にも揺らぐことのない、浄らかな反応系の心に書き換えてしまうには、決定的な体験をしなければならない・・。
その一瞬を目指して、仏教徒は日々、瞑想している・・・。
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1月25日
★エゴ感覚は生得的反応と刹那的思考から生じてくるが、サマーディが深まれば影をひそめる。
定力が弱くても、サティが持続すれば、我執が生じた瞬間に対象化され見送られていく。
己の卑小さに恥じ入り、三宝や神仏にひれ伏す心にも傲慢さはない。
だが、いずれも永続はしがたく、かりそめの無我感覚に過ぎない・・・。
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1月23日
★思考モードの時間が増え、不快な出来事や苦受が多くなると、いつの間にか我執が強まっていくものだ。
なんとなく心が薄汚れてきたように感じたら、断固たる意志で瞑想するのがよい。
超越的な神仏に我が身を委ねきる帰依や信仰でもよい。
エゴ感覚を弱めないでいると、知らぬ間に不善業を作り出す・・・。
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1月21日
★人生苦を無くすためには、2つの道がある。
一つは、悪を避け善をなし、カルマを良くしていくことだ。
経験される苦受の出来事が減少し、楽受の日々が多くなるだろう。
もうひとつは、徹底的にサティを入れ、どんな苦受の現象が多発しても平然と、心乱れることなく観じきっていく道・・・。
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1月19日
★この方は善行の達人で、さまざまなボランティアやお布施を重ねてきた。
ライフダーナ(命の布施)も徹底していて、毎日4パックの生きたシジミを購入、近隣の川に回帰させ、夜には死すべき定めだった一群の命を長らえさせるのを日課にしたりもしている。
絶妙の流れで、自分の命が守られていく運の良さも、業論の立場からは必然の展開・・・。
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1月17日
★大腸癌発症がきっかけで瞑想と仏教の道に入り、完治後6年目の最後のMRI検診で偶然、腎臓結石が見出された。
その夜、管理不行き届きを自分の身体にお詫びし、腎臓の細胞に丁寧に慈悲の瞑想をした。
すると翌朝、前日に目視したのと同じ結石が、排尿時にコロリと排出され一件落着したという・・!?!
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1月15日
★身勝手だったパセーナディ王をたしなめて、ブッダは「人は、恩を忘れるものだ」と結んでいる。
米国の大学生400人の調査では、人に親切にしてあげた記憶は、親切にしてもらった記憶の35倍だった。
意識的に心を浄らかにしなければ、人間の自己中心性は自然に「35対1の法則」に従うようだ・・・。
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1月13日
★思考が完全に止まれば、エゴの干渉が鎮まり、脳内情報と情報が創造的に結合する閃きの瞬間が訪れる・・。
だが、外界の事象がダイレクトに観察される一瞬や、その本質が洞察される刹那の衝撃や輝度や鮮明度は次元が異なる。
概念の智慧→観察の智慧→洞察の智慧→解脱の智慧→と展開する瞑想・・・。
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1月11日
★サマーディは、高性能の車がピカピカに完全整備されたようなものだ。
ガソリンは? 運転技術は? 経過ルートの情報は? 向かうべき正しいゴールか? そもそもなぜ走るのか?など、必要不可欠な条件の一つに過ぎない。
智慧が閃くのは、サティを入れる瞬間の認知構造と精度と波羅蜜による・・・。
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1月9日
★思考モードからは、<思考の智慧>しか出てこない。
概念と概念の連鎖である思考が止まらなければ、妄想と同じ概念ワールドに封印されていて、概念を超越した智慧が閃くことはないのだ。
では、完全に思考が止まるサマーディが完成すれば、自動的に智慧が出るのだろうか。
そんなことはない・・・。
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1月7日
★連想や思考が始まれば、ドミノが倒れるように、言葉は次の言葉を、イメージは次のイメージを、必然の力で叩き出す。
トラウマが、劣等感が、我執が、その裏で糸を引く。
創造的で、途方もない情報と情報の結合に飛躍することはあり得ない。
思考モードが止まらなければ、閃きが生じない所以だ・・・。
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1月5日
★自問自答の一人称思考モードは発想がワンパターンとなり、手づまりになれば限定された脳内データの堂々めぐりになる。
エゴの発想では思いも寄らない奇抜な情報の組合わせが「閃き」の一瞬だ。
瞑想も、お風呂も、諦めも、思考モードを停止させ、エゴを黙らせる一瞬に貢献している・・・。
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1月3日
★瞑想者のヤル気を刺激し、心の成長に資するツイッターを発信しようと心がけている。
だが、何も浮かばず、刻限が迫ってくると、焦燥感で心が乱れ始める。
アイデアや妙案が閃くのは、お風呂で温まっている時、瞑想状態に入り始めた直後、などがベストだが、もう一つある。
「今日は、止ーめた」と本気で諦めた瞬間、ピカリと光る・・・。
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1月1日
★鬱病で「死にたい」と洩らしていた無職の男性とつき合い、なんとか再就職までこぎ着けた女性がいる。
少女の頃、鬱病だった父親が自殺された方だった。
悲しみという名の怒りが全て吐き出されれば、その経験は得がたい宝になる。
傷ついた人たちに、等身大の優しさの手が差し伸べられる・・・。