内観に行く時の心得(1)
心の反応パターンを善の方向に向ける条件を整えるためには、身近には身辺の整理、あるいはヴィパッサナーの面からは聞法、随念、戒の受け入れなど、数々の優れた方法が存在します。そうした心を矯正していく効果的なやり方の一つに内観があって、近年では広く知られるようになって来ており、私から勧めることもしばしばです。そこで今回は、内観へ行く時に心掛けること、前もってしておくとなお良いこと等について取り上げました。
Aさん:内観に行くときの心得を教えてください。
アドバイス:
内観は過去の事実を思い出すことを通じて、自分が親をはじめとする周囲の人々から沢山の愛情を注がれて来たという真実を自覚にのぼらせて苦悩を解消していこうとする優れた心理療法の一つで、私は大事な反応系の修行としてヴィパッサナー瞑想の一部門と位置づけています。しかし、内観を受けたからと言ってトコロテンのように結果が出ると言うものでもありません。その成否はエゴモードから離れられるかどうかにかかっています。
なかには、勇んで行って頑張ったのにもかかわらず空振りで帰って来るというケースも見られます。
やる気満々で、自分と対峙する覚悟をもって内観に行くことはたいへん良いのですが、時としてそれが逆にエゴモードを強めてしまい、「私が、私が」の感覚が前に出てくるとそれまで抑圧してきた真の苦しみの原因はまず浮かんで来ません。エゴというのは、基本的に自分の都合の悪いことは思い出させないように働くからです。
とくに、ネガティブで重大な事実を思い出すのは、エゴにとっては自らを否定することにつながる由々しい事態なのです。つまり、苦しみの真の原因はまさにそのエゴにあったと言うことが分かるというのを、エゴ自身が妨げるのです。
一番の問題点がそれを隠蔽しようとするエゴにあるのに、エゴモードでの回想、エゴモードでの内観になってしまうのは自己矛盾です。それは、良い結果が生まれる心の準備がまだ整っていなかったと言うことを意味します。そうなると、たとえ渾身の力を振り絞ってやってみても、結果は何も変わりません。
ですから、これから内観へ行く人には「自己中心の内観にならないように、三宝に任せて、自分を明け渡す気持ちになることです」とか、また一度内観に行ったけれど結果が思わしくなかった人へは、「エゴモードで内観をしていなかったですか」といったことをアドバイスしています。
この「任せる」「委ねる」というのは、一時的にエゴを弱める優れたやり方の一つです。自然に流れるままにどんなことにもたじろがず、事実をあるがままに観て受け止めよう、そして懺悔して来よう、といった感じでやるとうまいくものです。
この辺をうまく制御できるとすばらしい内観になります。
Aさん:下準備のようなことはした方が良いのでしょうか?
アドバイス:
それはやった方が良いです。
集中内観は基本的に一週間です。個人差はありますが、軌道に乗るまでは思い出すのがなかなか大変です。焦りが出たり、あるいは続ける気さえ萎えてしまう人もいます。
ですから、過去の出来事を思い出す助けになるような情報は事前に出来るだけ多く仕入れておく方が望ましいのです。正確な情報が多ければ多いほど、内観は最初からスムーズに進みます。それに比べて情報が乏しく思い出すきっかけが少なければ、ウンウン唸りながら絞り出すような感じになりますし、もし思い出させたくないエゴが多少とも働いていればなおきついです。
もうひとつ大事なことは、回想というのは結構当てにならない、記憶は歪むものだと言うことです。ですから物的証拠がものを言うのです。
例えば、昔の写真を見ることで親に対するネガティブな感情が劇的に変わったケースもあります。ですから、小さいときからのアルバムを見たり、小学校時代の作文が残っていればそれを読んでおいたり、日記や手紙などもあれば活用しましょう。そういう実際の証拠をもとにすれば忘れていた出来事を正しく確認できます。また、家族とか近くに親類がいれば、話を聞いてリサーチすることも良いでしょう。そうすることで、歪んでいた記憶は客観的に修正され、本来の姿に立ち戻れるのです。このように、事前に準備出来ることは可能な限りやっておくのがよろしいです。
反応系の心の原型はやはり何と言っても親子関係によって作られます。それを徹底的に調べ、認識を正せば、変わるものは変わります。
ところで、内観のポイントは最も身近な他者である親との間でどのような育ち方をしたかというところにあります。『毒になる親』と言う本もあるくらいで、実際に困った親もけっこう多いです。仮に、自分も親をそんなふうに見ていて、何の情報も無くまた内観でも何も思い出さないとすれば、その親を受け入れることはなかなか難しいでしょうし、結局は「何でうちの親はこんなに根性が悪いんだ」というような見方のまま何も好転しないことになります。
しかし、当然ですが親には親の自己形成の歴史、幼少期の体験や人生の生き方の背景があるわけです。親がまたどのような育てられ方をしてきたか、つまりどんな祖父母によって育てられたかの情報も出来るだけ知っておきたいです。そのような意味でも、繰り返しますが幼いころの写真などを見、そのころの親との関係に心を向けておくことは良い結果をもたらす支えになります。
いずれにしても、そのような情報によって観えてくるもの、そして内観によって思い出したさまざまな事実によって、はじめて両親と一個の人格として対等に向き合えます。そうすることで、たとえそれまで親を良く思っていなかったとしても「なるほど、しょうがないか」と受け入れられる可能性が生まれ、親への受容度が増して心の変革へ向かうのです。
Bさん:内観の成功とか失敗というのはどこで線引きされるのでしょうか。
アドバイス:
結論から言うと結果が良ければそれでOKということです。
修行をする目的は心を綺麗にすることですから、何をどうやろうとも、心が汚れたままならそれはダメです。いくら正しいやり方だと信じていても、修行した結果が前よりも悪くなった、暗くなった、怒りっぽくなったらそれは失敗でしょう。
逆に、根本的な解決ではないかも知れないけれど、あるいは多少核心からはズレているかも知れないけど、このように考えたら許せる気持ちになれた、怒りが無くなった、というなら結構ではありませんか。清浄道の上から言っても間違いではありません。
少し俗っぽい表現ですが、後味が良ければだいたいそれは正しいと言っても良いのです。
逆に、何をどう格好をつけても、後味が悪いときは何かがおかしいのです。最終的に受ける「感じ」というのは、判断の基準としてけっこう適切なものです。後味がよく爽やかだったらそれはまず正解、成功と考えましょう。
Cさん:人間関係のトラブルから精神科に通院したことがあります。内観ではそのような経緯を事前に伝える方が良いのでしょうか。
アドバイス:
現在でもそちらの関係が持続しているのでしたら、事前に伝えておいたほうが良いでしょう。ですが、現在は完全に精神科と縁が切れているのでしたら、こちらからは積極的に言わなくても良いと思います。
もし内観を行いながら関連事項として出てきた時には、通院の事実もそのなかで担当の方に話せば良いでしょう。
Dさん:内観は一度で良いのでしょうか。
アドバイス:
個々のケースで違ってきますが、一度目の内観である程度の成果があったとすれば、多くの場合、事実関係の記憶はそれでだいたい出尽くしてしまいます。そうすると、二度目、三度目にはどこに焦点を向けるかということになります。
仮に同じ事柄であっても別の角度から観て掘り下げることによって内観はさらに深まります。そうするとまた新しい気づきに結びついて、自己理解も深くなりますし確かなものになっていきます。
ですから、内観には何度行っても意味があるということです。(文責:編集部)