感覚の取り方のヒント(2)

 

Aさん:歩く瞑想のとき、足を上げて前に進める時には足裏の感覚が取りにくくなります。そのときには、膝とか太股に意識を移しても良いのでしょうか。

 

アドバイス:
 理論的には、膝や太股など他の部位に意識を移さない方がよろしいです。
 歩行の時に一番感覚がはっきりしないのは進む時です。膝や太股の筋肉はかなり動いていますから、そちらの感覚はだいたい取れるのですが、足首から下のあたりはやはり弱いです。
 そこまで出来るかどうか、常にそのようにやらなければならないかどうかはとりあえず別にして、ここではなぜ足裏に集中させるのかについて説明します。
 私たちが歩くときのことを厳密に観察してみましょう。そこに存在する事実は何でしょうか。事実として存在するのは、足の裏を着けるときの接触感、圧迫感、移動感、そして脱けていく感覚などだけです。この変滅するセンセーションだけは紛うかたなき事実として捉えることができます。
 では、「足」というのはどうでしょうか。私たちは体のある部分を名付けて足と呼んでいるに過ぎません。そもそも足というのは概念でしかないのです。つまり、足がある、足が動いているというように私たちは言いますが、ヴィパッサナーというのは、「足」という概念で捉える見方を徹底的に破っていくことなのです。足で歩いているのではなく、世間では「足」と呼ばれている身体の末端に「離れた感覚」「移動した感覚」「着地した感覚」「圧迫の感覚」が次々と現れては消えている。異質なセンセーションが無常に変滅している。足を概念で捉えるのではなく、法として実際に存在し消えていく感覚の生滅変化を観察することが狙いなのです。
 そのために、徹底的に感覚という事実に集中します。右足を感じたり、左を感じたり、下半身全体や上半身まで感じたり、とあちらこちらを観察すると「無常性」が見えなくなるので、一点に絞り込んでその生滅変化を観るのです。定点観測をすることによって、法として存在している世界と妄想や概念の世界とを識別することが修行ポイントになっています。
 なぜ事実と妄想・概念の識別が重要かと言うと、両者を混同する無明の状態が諸悪の根源だからです。自分の思い込みや先入観を投影し、事実を不正確に認知し、その誤解し錯覚したものに対して激しく貪ったり怒ったりして不善業を作り、自ら人生を苦しい泥沼にしてしまうからです。
 事実の世界ではどのような事象も必ず変化し、壊れていってしまいます。無常に変滅するものに対しては執着しようがないのに、妄想や脳内イメージの世界はズーッとそのままで変化しません。変化しないので「何がなんでも欲しい」とか「絶対にイヤだ」とか執着や渇愛が激しくなっていき、結果的に苦しい人生になってしまいます。
 私たちは、事実ではなく妄想や思い込みが作り出した世界で苦しんでいる。事実と妄想がゴッチャになっている状態を無明と言い、ヴィパッサナー瞑想で法と妄想・概念を仕分けることが無明を破り智慧が現れる第一歩になるのです。こういう訳で、大げさに言うと「存在の無常性」を確認するために、足に生滅するセンセーションの変化に絞り込んで観察しているのです。
 良くない例ですが、足のイメ−ジを浮かべながらやると、感覚がはっきりするような感じになることがあるのです。でもそれは、イメ−ジを浮かべながら感覚を取っているのですから、意識の門からの情報と身体感覚の門からの情報が重ね合わされていることになります。眼、耳、鼻、舌、身、意の感覚は純粋に生滅しているのに、そこへそれぞれのイメ−ジを重ね、ダブらせて経験しているというのは、妄想を投影しながら見たり聞いたりしているのと同じで、これでは法とは言えません。この仕分けを明確にするのはとても大切です。
 なぜダブらせたくなるかと言えば、足が前に進む感覚はどうしても微弱なので補強したくなるのですね。 ここは確かに感覚が取りづらいのですが、足を前後にブラブラ何度も揺すってみてかなりの重さのある質量が前方に放られる移動感覚を確かめるようにしてください。ああ、この感覚かと分かると思います。
 歩きの瞑想は、法と概念を仕分けるヴィパッサナー瞑想の核心部に触れる原点ですので、しっかり修行してください。

 

Bさん:歩く瞑想で、「進んだ」というのはこういうセンセーションなんだと自分で思いながら今までやっていました。先生から「車が急ブレーキをかけた時に、先に進んでその反動でまた元に戻るような感じだ」と言われ、そうかなと思ってその感覚に注意を向けたら、「今までのは違っていた。これなんだ」というのが非常に明確に分かるようになりました。

 

アドバイス:
 それは良かったですね。
 少し解説をすると、まず、歩行にしてもお腹にしても、よく観れば毎回微妙に違うということです。その違いは何だろうと観察すると、一足一足、あるいはお腹の一呼吸一呼吸の動きが毎回完全に同じということはあり得ません。身体の微妙な動きは速度や強さなどが違いますから、その微妙な差を検出しようと思っただけで集中がピンポイントに絞り込まれるでしょう。その辺が漠然としていると、どこに集中しようか、何を観ようか、どの感覚だろうか、ということが全体的に曖昧になり、結果的には大ざっぱでよく分からなくなります。これが一つです。
 それから、最初から答えを想定してそれを体で確かめるというような発想だと、やはりヴィパッサナーの世界とは違ってしまいます。現象が勝手に起きて、それを受動的にありのままに観るのがヴィパッサナーです。たまたま今のお話ではうまくヒットしていますが、頭の中で「この感覚だ」と決めてしまわずに、よろめいたり、あるいは足を出す感覚が違えば、また違うセンセーションがあり得るはずですから、そのあたりを常に心がけ、一回一回微妙に異なるセンセーションを確かめるように新鮮な集中力を注いでください。
 それは大変といえば大変で、決めたことを機械的に繰り返したほうが楽なので、どうしても心は楽をしたがります。「なるほど、足の感覚はこういうことか」と一度しっかり確かめ「よし、これで出来ている」と思うと、その後はどうしても丁寧に観る方向には向かわなくなりだんだんマンネリ化して、瞑想が進んだ感じがしなくなる原因にもなります。とりあえずポイントがピタッと定まると鮮明になってきますので、その辺を心がけてください。

 

Cさん:歩行の時にはずっと目を閉じていなければいけませんか。

 

アドバイス:
 いいえ。目を閉じたければ閉じてもいいですよ、という程度のものです。瞑想会の時には、人が多くてぶつかったりしますので目を開けている方がよいでしょう。当然のことですが、目から情報が入れば足の感覚への集中が弱くなります。見ていないようでも必ず情報処理をやっていますから。そうすると一瞬注意が分散されるので、それだけ感覚への集中は悪くなりますね。なので、目を閉じた方が集中が良いことは良いのです。
 また、多くの方が経験していますが、目を閉じた時に壁に手をついて歩くと、ふらつかずに足の感覚に集中しやすくなります。この時は、手を壁沿いに動かすときだけ「(手を)伸ばした」「触れた」というふうにサティを入れて、あとは手は無視して足の感覚に集中してください。
 何をどのようにやっても、心はいつでも何かの対象と結びついて、途切れることなく何かやっているのです。そこで、耳の情報でも意識の情報でも、中心対象以外の眼耳鼻舌身意の情報はすべてオブラートの膜で薄っすら閉ざして、中心対象である足裏の感覚やお腹のセンセーションに絞り込むのです。なぜオブラート程度の薄い膜かと言うと、ぶ厚い耳栓で塞ぐように完全に他の門をシャットアウトしてしまうと、あるがままに観る瞑想から狙ったものだけを強引に観ようとするサマタ系瞑想に移行してしまうことがあるからです。
 センセーション(身体実感)が鮮明に感じられないのは、集中が悪く、中心対象と中心外の音や妄想などに注意がさまよっている状態です。だから日々訓練をし、心の乱れが鎮まれば必ずセンセーションがクリアーになってきます。サマーディ感覚が高まった時には、全然感じられない、わからないと言っていた人でも、驚くほどハッキリ鮮明に感じましたという報告がたくさんあります。
 ヴィパッサナー瞑想では、あまりテクニックに頼らず、集中が悪ければ悪い、集中がよければ良い、妄想が多ければ妄想が多い、妄想が出なければ出ないと、あるがままに気づいていることが何よりも重要です。歩行瞑想で目を閉じるのは、どちらかと言うと集中力が弱い方がやりたくなる傾向です。集中力が高まれば、眼を開いていても何も見えていないくらい足の感覚に集中できますので、眼を閉じるとか閉じないとか関係なくなります。
 気をつけるべきことは、集中を高めようと執着し過ぎていないかどうかです。集中力に限らず、過度に何かを求め過ぎると「あるがまま」から脱線していきます。修行を進めていきたいと思うのは当り前で、それは健全な向上心です。だからがんばることができるし、瞑想修行に必要不可欠な精進力が高まるのです。しかし、夢中になり過ぎていつの間にかエスカレートしていることには気づきづらいのです。サティという気づきが、いつでも必ず伴っていなければならない所以です。
 人は人、自分は自分で、上手い下手や集中の良し悪しではなく、一瞬一瞬自分の真の状態がありのままに観察され自覚できていればヴィパッサナー瞑想として申し分ありません。
 訓練を繰り返せば脳は必ず変わっていくし、どんなものも無常に変化していくのです。感覚を取るのに理想型があってそれが出来なければいけないという発想になっていないか気をつけましょう。ヴィパッサナー瞑想は理想の追求をしているのではありません。自分が感じた通りで良いのです。自分の状態をあるがままに気づいて、汚れているところはきれいにし、改めるべきところは正しく改めていく清浄道です。

 

Dさん:感覚をもっと強く感じたいという欲が出たので「欲」とサティを入れました。でもその後の感覚は余り変わりません。

 

アドバイス:
 サティを入れても、ラベリングの言葉を言っただけで、心が本気でその状態を対象化していないことはよくあります。例えば、「怒り。怒り」とラベリングしても、怒りモードは全然変わらなかったとか、「貪っている」とラベリングしているのに食べるのが止まらない、とかです。怒りも欲も、心底から手放したり見送ったりするのは難しいのです。心が本気で手放し、見送る気持ちになっていなければ、そのラベリングはヒットしません。サティを入れているので空振りではないのですが、対象をまっ芯に捉えたサティではなく、ファウルチップぐらいなのでしょう。
 3カ月前に瞑想を始めた方で、歩行瞑想はうまくいっているのですが、坐禅の腹部感覚がはっきりしない、分からないという方がいました。どうしても命令をかけて膨らませたり縮めたりと意識的に操作しているところがあったようです。
 その方が、たまたま瞑想会の日に風邪をひいていて、鼻水が出るは喉が痛いはという状態でしたが、参加することに意義ありと「今日は良い瞑想は出来ないだろう」とダメで元々みたいな感じで、何の期待もせずに来てとりあえず坐ったそうです。そして、喉が痛いので「痛み」、鼻水が出るのでその感覚にサティを入れるとやっているうちに、なぜか感覚がものすごく鮮明にわかって感動したというレポートがありました。初めてお腹の感覚が完全に感じられたと言うのです。
 怠けがちなタイプもいれば精進過剰なタイプもいる、と人はさまざまです。精進過剰な人は、明確に感じようとする欲が出てきますので、「どうしたらもっと鮮明になるのだろう」と無意識のうちに頑張ってしまいます。その結果、肩に余計な力が入って心がムダな仕事をしますから、かえって感じにくいということにもなります。 
 いま挙げた例では、結果的に風邪のために欲の起きようもなく、どうしたら感覚が鮮明に感じられるだろうかというこれまでの執着がゼロの無欲の状態でした。そうしたら、今まで感じたことがないくらい鮮明に腹部感覚を感じることが出来たというというのです。これは、非常に教訓的です。その時はエゴの期待や欲が弱められ、淡々と受動性に徹した理想的なヴィパッサナー感覚で純粋な気づきの瞑想ができたのだと言えるでしょう。 
 また、もっと強く感じたいと「欲」が出るのは、「こんなのでいいのかな・・」と思う時です。どうもイマイチ感覚がはっきりしないという自己評価があってのことでしょう。でも、その奥には、自分もちゃんと感じてはいるにもかかわらず、他の人はもっと鮮明に感じて上手くやっているのではないか・・と妄想して心が乱れているのかもしれません。多くの人が経験することです。これは、他と比べる「慢」の心がうごめいて余計な妄想がチラついてしまい、せっかくちゃんとやれていたのに、自分の余計な妄想で自滅していく状態です。あくまでも、あるがままに、起きたとおりの現象を淡々と気づいていれば瞑想は自ずから進んでいくはずなのです。

 

 体調を始めとするいろいろな条件によって、本当に感覚がくっきり取れる時は自分で分かります。その時には、感覚をきちんと余韻まで感じて次の動作に移る、そのタイミングや動作の区切りに注意を絞っていきます。また、そう努めることで感覚の鮮明度も上がっていきます。
 また、感覚を細かく観ていくところでは、この肉体に現れてくる現象が一瞬一瞬生滅し変化しているという無常性に注目することが重要です。感覚そのものが鮮明に感じられただけではまだ集中が少し良いくらいであり、仏教の大事な智慧の部分に入っていくのはまだまだです。
 感覚を取るのは切れ味よく刀を研ぐ作業と言えます。心がどう変わったかということは、その刀で自分の不善心所や煩悩をスパッと切れるかどうかにかかっています。
 そのような意味で、鮮やかにサティを入れて心を随観する方がすぐに結果が出てずっと効果的です。つまり、自分の心の欲や嫌悪や怒りを、サティを入れてサッパリと捨てていく対象として意識することは、明らかに心をきれいにしている作業だということです。感覚が鮮明に取れることは、集中力の強さやサマーディの高さの指標にはなりますが、そこから肉体の存在の本質まで洞察するというのはなかなか大変なのです。
 もちろん集中は無いよりはあった方がよろしいですし、それに心を注いで頑張るのはとても素晴らしいことですが、仮にそこまでの集中がなくても、心をきちっと随観できて反応系の修行に生かせれば、日常生活を生きていく上での収穫ははるかに大きいと言えます。そのような意味で、感覚の鮮明さには余りこだわらずに修行を進めていって欲しいです。
(文責:編集部)