修行上の質問 実践編(8) −サマーディの周辺−
Aさん:歩行瞑想の時に集中ができ、結構楽しいなと感じました。人が多くて邪魔になるかと思い外に出ようとしましたが、「この感じが多分消えてしまうだろう。行きたくない」と心に浮かび、「欲」というラベリングでサティが入りました。そうしたら、「欲をなくしに来ているのに何をやっているのだ」と浮かび、「じゃ外に出よう」とした時、「これはレポートするのに良い材料が出来たな」と思ったので「慢」とラベリングを入れました。このような感じでやっていってよろしいのでしょうか。
アドバイス:
外へ出て行くまで同じような密度でサティが入っていれば何も問題はありません。
基本的には、非常に集中が高まってきた時にはその状態で頑張った方が良いでしょう。サマーディは最初に立ち上がるまでがとても大変で、しかもたいそう壊れやすいものなのです。喜んだり期待したり、複雑なことをやるとせっかくのサマーディ感覚が立ち消えになり雲散霧消しがちです。
楽しいという感じは、サマーディの構成因子であるピーティ(喜)のはずです。うまく集中できてだんだん楽しくなってきたら、セオリー通りの展開でサマーディが高まってきているので、静かにその場に留まって頑張る方が良いでしょう。
いろいろな思考が浮かぶ状態は集中が破れていく傾向なので、中心対象の感覚に集中を深めていく方がサマーディ確立に有利なはずです。しかしあなたの場合は、「欲」とサティ入れたり「慢」とラベリングしたりとてもうまくやれているので、心随観のセンスがあるのではないかと感じました。素晴らしいです。
Bさん:内観中、足が畳にくっついて離れなくなったことが何度もあります。これは一種のサマーディでしょうか。
アドバイス:
足が畳にくっついて離れなくなったのは集中が深まっていたことを物語っていますが、それだけでサマーディと言えるかどうかは微妙です。
内観の現場でサマーディが起きるとしたら、そうですね、内観は過去の記憶の想起が中心的タスクですから、思い出される記憶の内容が単なる回想モードではなく、リアル感がいや増す方向に絞り上げられていくべきですね。昔のことを思い出すレベルを超越し、タイムマシンで過去のその世界に戻ったような、鮮明で生々しい現実感覚が伴うようであれば、サマーディ状態が理想的に内観に適応されていると言ってよいでしょう。
足がくっついて離れなくなったのは、身体感覚が日常レベルとは異なって意のままにならない状態ですから、サマーディとは言えなくても、通常より集中がよくなっていたのは確かなことでしょう。もちろん足が痺れて動かなくなっていたのでなければですが・・。(笑)
集中が深まっている状態の時に、動作の前にインテンションを入れないと固まるようになる事例はけっこう多いですね。
Cさん:サティを細かく入れると集中が高まらないような気がします。それでもサティはなるべく細かく入れた方が良いのでしょうか。
アドバイス:
それは、その時の自分の状態にもよるし、瞑想をどの方向に進めていきたいかにもよります。サティとサマーディには拮抗し合う関係がありますので、今はどちらのファクターを成長させるべきかによって瞑想の展開が変わるということです。
あなたの仰るように、サティを細かく入れすぎると、サティは強化されるが、集中を破る傾向があります。もしサマーディが自然に高まっていく流れにあり、集中を高めるべきだと判断された時には、意識的にサティを弱めた方がよいのです。なんとしても集中を高めたいのであれば、サティを一時的に中断し、時間を区切ってサマタ瞑想に切り換えるやり方もしばしば行なわれます。
反対に、サティを成長させ強化したいのであれば、どんなものも必ず対象化し客観視すると断固たる決意をすれば当然そのようになっていきます。
集中も弱くサティも甘くて不安定な時には、どちらに注力すべきか悩ましいでしょう。何のために瞑想をするのか。今の自分に必要なのは、気づきなのかサマーディの定力なのか。その瞬間の瞑想をどの方向に進めたいのか自覚的であるべきです。なんとなく場当たり的に瞑想をしていると、迷いが生じてきます。
総じて、集中を高めるよりもサティを成長させた方がメリットが大きいでしょう。瞑想時間が限定されている在家の瞑想者はサティ中心になるのが一般的です。しかし瞑想修行としては、サマーディが高まらないとレベルの高い瞑想になりませんので、どちらに歩を進めるべきかは当人の判断に委ねるしかありません。
そもそもこうした問題が発生しないように、古来から「戒→定→慧」の修行の流れが定められていたとも言えます。理想的な順番は、サマーディの修行をして集中力を完成させてからサティの修行に入る流れです。私流の言い方をすれば@反応系の修行(戒&善行)→A集中力の特訓(定力=サマーディ)→B洞察智の修行(サティ)ということになります。しかしこれはプロの世界のことであり、素人が俗世のベターライフのために瞑想する場合にはAのサマーディの修行は後回しにならざるを得ないだろうということです。
定力のない人が意図的にサマーディを高めようとしてもなかなか上手くいかないことが多いものです。原則としてサティを中心に瞑想し、たまさか自然発生的に集中が高まった時には、その自然な流れに乗ってサティよりもサマーディを狙うというスタンスもよいかもしれません。
サマーディ重視の時に気をつけるべきことは、集中がよくなり心がシーンとなってくると?沈睡眠に酷似してくることがあります。睡魔に襲われてトローンとなるのと紙一重の一面があることも心得ておきましょう。またサマーディ感覚が高まると脳内ホルモンの働きでうっとりとなり、気持ちよく現実逃避感覚を楽しんでしまうこともあります。さらに、サマーディが完成に近づいてくると強烈な快感ホルモン故にサマタ瞑想にハマり込みヴィパッサナー瞑想に戻りたくなくなる人も少なくありません。これも心すべきです。
各人各様常に心身の状態は違いますし、同じ人であっても栄養状態とか抱えている問題によってコンディションはたえず揺れ動いているものです。その時々に応じたやり方を自分で調整しながらセルフインストラクションできるようになるためには、基本的な知識を取り入れるとともに経験的に体得する必要があります。
Dさん:集中がよくなり妄想のチラつきが取れてきたところでサマーディ状態を経験し、恐ろしくなりました。そうしたら、継続したい気持ちと恐怖心の葛藤が生じて集中を維持できませんでした。
アドバイス:
惜しいことをしましたね。多くの人にとって、サマーディ状態は得がたい体験ですから、そのチャンスが到来した時には完成形に持ち込むように頑張った方がよいでしょう。
サマーディは変性意識状態と呼ばれるように、日常意識とは異なるモードに入っていくので突然その状態に切り換わると恐怖感を覚える人も少なくありません。しかしそこがサティの瞑想の正念場です。サティというものは、妄想を離れて現実の瞬間に戻ってくる修行です。何も考えない完全な無思考状態で恐怖感が生じることはない、と心得ておいてください。目の前の現実の出来事から心にさまざまな想いが駆け巡ってきます。その思考のプロセスで怒りも恐怖も喜びも・・あらゆる情動が起きてくるのです。つまりセオリー通りサティが入って妄想が止まれば、どんな恐怖もパニックも立ち消えになるということです。
何が起きても、どんな状態になっても、サティさえ入れば大丈夫、と心に叩き込んでいただきたいのです。怖くなってきたら「不安」「恐怖」とサティを入れます。きちんとサティが入りさえすれば、その状態は必ず雲散霧消していきます。不安な、恐ろしい状態が対象化され見送られてしまうからです。サティが入った瞬間、その状態にのめり込んでいないからです。
しかしラベリングをしてもこの対象化が完全にできていないと、恐怖感は多少弱まりはしますが、結果的にあまり変わらないでしょう。するとますます焦るかもしれません。そうしたら、その焦っている状態に「焦っている」「恐怖感が続いている」「(サティを入れても恐怖が止まらないんだ)と思った」・・と、どこまでも次の瞬間の状態を対象化しようと、サティを入れ続ける「無限後退」をしていきます。たとえ効果のないラベリングでも、ラベリングできたということは対象化や客観視のファクターがあるのです。100%呑み込まれてしまって髪の毛が逆立つような状態とは違うのです。どんな状態になっても、次の瞬間の心がその状態を対象化するという原則が機能すれば、その情動から脱することができるしパニック状態も止まります。
「サティが入れば、絶対に大丈夫!」という確信を持っていただきたいのです。これが身について成功体験を重ねると、人生を生きていく上での最強の武器になっていくでしょう。心が落ち着く。冷静さを取り戻す。その時が最も賢明な正しい判断や意志決定ができるものです。
Eさん:どのようになった時にサマーディと言われるのでしょうか。
アドバイス:
集中の良い状態が極まっていくのがサマーディです。周囲の人も物音も気にならなくなり、頭や手や上半身など中心対象以外の身体感覚も意識されなくなります。足の歩行感覚やお腹に注意が絞り込まれ、自然に集中していきます。センセーションが非常にクリアーになり、努力感なしに安定してサティが入っていくのです。今まで感じたことのない鮮明さで中心対象が知覚されるので、思わず興味が惹かれて魅せられていく人も少なくありません。
サマーディが高まってくると、対象への集中度、意識の明晰さ、知覚の透明感が印象的です。瞑想を意識的に展開させている印象が乏しくなり、無努力感が極まってくると完全に自動化して、コントロール不能性に陥るでしょう。固まるというか、没入感と合一感がピークに達してくるということです。
この状態は、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想に共通する集中の完成ですが、ヴィパッサナー瞑想では、この状態にさらにサティというファクターが連動するのが特徴です。対象と合一し融け合ってしまうほど集中が極まっている状態に加えて、現在の瞬間の事実に気づく仕事が連動するのです。猛烈なスピードで生滅する事象のひとつ一つに対して、ブツブツにサティが入り続ける「瞬間定」と呼ばれる状態です。ヴィパッサナー瞑想者としては、この瞬間定を目指していくのが正道です。
Fさん:サマーディの状態になった時に注意すべき点を説明して下さい。
アドバイス:
サマーディが未完成の時には、さらに集中を高めて安定した状態を確立するのがよいでしょう。サマーディが壊れない状態になれば、集中を高める努力は不要になるので、そこから意図的にサティを強化していくことが大事です。ヴィパッサナー瞑想の正しいサマーディは「瞬間定」だと心に刻んでおいてください。これを忘れてサマーディ状態になると、多くの人が快感ホルモンの気持ちよさにサマーディを楽しんでしまう傾向があります。
崇高なものや美しい対象と合一するサマタ瞑想の方が楽しいし、面白いと感じられるのが普通です。ヴィパッサナー瞑想は、苦(ドゥッカ)を徹底的に見ていく瞑想です。しかも他人や世の中の苦の状態を観察するのではなく、自分自身の苦しみの原因である不善心の状態をありのままに直視していかなければなりません。多くの人が、ヴィパッサナー瞑想を続けていくのが苦しくなる一因はここにあります。サマタ瞑想のサマーディは、エクスタシーとも言える強い快感に惹き込まれる要素がありますから何度でも繰り返したくなる誘惑に駆られるのです。瞑想の心地よさを楽しんでも、人生の苦しみから根本的に解放される道は開かれてはこないのです。何のための瞑想修行か・・が問われます。
「気持がよい」と感じたら「快感」とサティを入れ、それが生理的なものなのかメンタルなものなのか仕分けられるように観察眼を働かせてみるとよいでしょう。ダンマの知識があれば、メンタルな気持ちよさはサマーディの構成因子である「喜(ピーティ)」と判断されて「喜」とサティを入れることもできます。
この「喜」の状態にサティを入れるタイミングが微妙なのです。繭玉の中の快感や蜜の味の蛸壺感覚に溺れ込まないと決心し、ヴィパッサナー瞑想をやり抜く覚悟が定まっていても、「喜(ピーティ)」が十分に成長しないうちにサティを入れて対象化してしまうと立ち上がってきたサマーディ感覚そのものがしぼんで元の木阿弥になることも多々あります。サマーディを安定させる努力とヴィパッサナー瞑想を貫こうとする努力は拮抗し合うので、ここが一番気をつけるポイントでしょう。
ヴィパッサナー瞑想を維持しながらサマーディが成立すれば、サティが自動化して無努力で、どんな対象にもサティが勝手に入っていくようになります。サティの瞑想をやりながら自然に集中が高まってきた時には、力の配分として、サティをやや弱めてサマーディが安定するように集中をたかめるほうがよいでしょうね。
私の場合も日によっては集中が悪い時もありますから、時間を区切って意図的にサマタ瞑想をやる、と決めて集中をかけることをよくやりました。サマーディ感覚が高まってくると「ニミッタ(相)」と呼ばれる視覚像やヴィジョンが出てくることがよくあります。この時そのニミッタにサティを入れてすぐに消してしまわず、その鮮明度や明るさや輝度をさらに高める方向に注力してサマーディの確立をうながすようなことをしましたね。サマーディが安定してきたら、再びサティを連動させてオーソドックスなヴィパッサナー瞑想を展開させるという具合にです。このあたりの展開は、一回一回の瞑想が微妙に異なるので失敗を重ねながら経験的に体得していくことになるでしょう。
こんな事例もありました。長年に渡って寝る前にサマタ系の瞑想をやっていた方がいました。眠気が来た時点で瞑想を打ち切り、就寝するというパターンです。その方がヴィパッサナー瞑想を覚えて、いつも通り寝る前にサティの瞑想を始めました。するといつものパターンが崩れてしまって「眠れなくなった」というレポートです。眠くなってきた時に「眠気」とサティ入れたために、眠気が対象化されて消えてしまい、頭が冴えてきて眠れなくなったらしいのです。
サティの特徴がよく現れていますね。サマタ瞑想のサマーディは心がシーンと静まり返って、昏沈睡眠と紙一重の際どさがあります。順調にサマーディ感覚が高まってきたのに、スルリと昏沈睡眠に移行してしまうことも珍しくないのです。サマーディに入っていましたとレポートされる方に、厳しく突っ込みを入れると「ひょっとしたら寝ていたのかもしれません・・」などと言うのです。
サマーディという因子は、散乱する心を鎮めて、微動だにしない対象と融け合っていくような静けさの極みなのですが、意識活動が抑えられ停滞し静かに睡眠に移行する状態と酷似する一面があるということです。
しかるにサティというのは、現実感覚に鋭く目覚めさせていくのが特徴ですから、これがうまく機能すると眠気が消えてしまうだろうし、高まってきたサマーディもかき消されてしまうことがあるということです。
また、よく報告される事例としては、トローンとした気持ちのいい状態になってサティそのものが完全に失われれば、さすがに自分でもわかります。しかしそのような状態でも「膨らみ・縮み」「膨らみ・縮み」とラベリングが頭の中でメトロノームのように繰り返されていることが多いのです。『ラベリングしているのだからサティは続いているはずだ。大丈夫だろう・・」と現実のセンセーションに対してではなく、脳内にイメージされている腹部感覚に対して「膨らみ・縮み」とラベリングしているのです。
これは厄介な事態です。光がキラキラしていたり綺麗なヴィジョンが出現したり、明らかにニミッタと分かれば、サマタ瞑想になっている自覚が生じますが、ニミッタの内容が「膨らみ・縮み」では当人に気づきづらいのです。これが、ヴィパッサナー瞑想がいつの間にかサマタ瞑想に陥っていく典型的なケースです。
肝に銘じていただきたいのは、ヴィパッサナー瞑想が正しく実践されているか否かは、現実感覚の有無が目安だということです。怪しいと感じたら、現実の音に耳を澄ませてみたり、身体感覚の生々しさを確かめてみたりして「現在の瞬間の事実に気づく」というサティの鉄則が守られているかを確かめてみるとよいでしょう。
話し始めるとキリがないのですが、最後に、サマーディを高めようと頑張り過ぎると上手くいかないことが多いということです。サマーディが完成するのは、成立するだけの全ての条件が自然に整った結果なのです。意識的にサマーディを狙っても、そうなるだけの流れになっていなければ良い結果にはなりません。欲が邪魔してしまうのです。がつがつサマーディを狙う、という点にそもそも問題があります。自然に来るものは来るし、来ないものは来ない、と心得て、淡々とその時の展開に身を任せ、何が起きてもそのように、ただあるがままに気づいていくだけ・・という覚悟が定まっている時の方が成功するでしょう。(文責:編集部)