修行上の質問  実践編(7)

 

Aさん:日常生活でサティを入れると余計なことを言えなくなったのはよいのですが、理論的な説明をする時にも言葉が出づらくなってきた感じです。

 

 

アドバイス:
  毎日瞑想される時間はどのくらいでしょうか。一日の瞑想が1〜2時間以内だったら、その瞑想が原因で言葉が出づらくなることはあまりないように思われます。瞑想が終われば、普通に妄想し、会話し、メールを読んだり書いたり新聞を読んだり・・と言語の脳は必ず使っているからです。
  私の経験では、瞑想リトリートに入った3カ月間、来る日も来る日も1日中サティを入れ続けるだけで、本もパソコンも他人との会話も皆無になります。週に2回程度のダンマトークと面接時間以外は、言葉をほとんど使わないのです。言語脳は短いラベリングを入れるだけで休止状態になってきます。
  その結果、修行が終わって帰国直後、言葉が出にくくなっていることに驚いたことがあります。言語野が凍結したかのようでしたが、2〜3日で回復し、その後は頭の回転が速くなり、適確な言語が流れるように出てくるのにまた驚きました。
  ディープなサマーディに入っている時間が長いと、その直後はやはり言葉が出づらくなる傾向があります。しかし在家の普通の生活をしている限り、深いサマーディも長時間の修行時間もなかなか取れないでしょうから、深刻な影響が出るとは思えません。読んで書いて会話をしている限り、言語脳を使用しているので大丈夫でしょう。
  これまで無自覚に言いたいことを言っていたことに気づき、人を傷つけてはいけないとか、正確に表現しなければ・・とマインドフルになり、失言しないよう慎重になり過ぎた結果、言葉が出づらくなるということは考えられるかもしれません。サティの瞑想というものは、ものごとを正確に観察し、分析的な見方が訓練されるようになっています。論理的思考が正確になり、理路整然と無駄のない説明をする能力はむしろ向上するはずです。正確にサティの瞑想を修行している限り、心配ありませんのでがんばりましょう。

 

 

Bさん:サマタ瞑想のサマーディに入り込まずにヴィパッサナー瞑想に戻るにはどうすればよいでしょうか。

 

アドバイス:
  多くの瞑想者がサマーディの快感に溺れて、サティの瞑想に戻りたくない傾向があります。肝心なのは、決意です。サマーディを高めることよりも、厳密にサティを入れ続けることに覚悟が定まっていれば、必ずヴィパッサナー瞑想に回帰できるものです。もしサティの瞑想が復活しづらいとしたら、ご自分の心をよく観察してください。サティよりも快感の伴うサマーディを楽しもうとする心はないか。対象と融合していく、とろけるようなサマーディ感覚に陥っていくと、変性意識状態ゆえに、いかにも瞑想をしているという達成感も起きがちです。
  サマタ瞑想ではなく、ヴィパッサナー瞑想をするのだと決意がしっかりできれば、サティを強化することが一番です。思考に手を出さない決意と、現実感覚を生々しく感じることがポイントです。中心対象の感覚を鋭く実感し、現実感覚を強化することが、サティに回帰してくる道です。
  もしサマーディが強すぎて、サティが入りづらくなっていたら、例えば、歩く瞑想中だったらわざと意図的にドスン、ドスンと歩いてサマーディ感覚を弱めます。あまりやり過ぎると、サマーディ感覚も破壊され失われるので適当にです。
  坐る瞑想中だったら、閉じていた目をパッと開いて、視野に飛び込んできたものを強く意識に焼き付けて「見た!」とサティを入れます。音に耳を澄ませて聞こえた瞬間に「音!」「聞いた!」と力強くラベリングして現実感覚を呼び戻すやり方もあります。
  普通に淡々とサティを入れ続け、強めていくのが最も望ましいのです。そうすると、高まった定力と明確なサティが連動して、瞬間定というヴィパッサナー瞑想に特有のサマーディが完成してきます。これが目指すべき正しい道です。

 

 

Cさん:少し前に瞑想をしていたら、自分ではとてもよい状態になりました。でも、その状態を再現しようとすると、焦って空まわりしてしまいます。再び同じ状態になるのは、どのようにしたらいいのでしょうか。

 

アドバイス:
  結論は、諦めることです。その状態は、1回だけでも体験できてありがたいことだった。良い思い出になりました・・と(笑)。
  どういうことかと言いますと、初体験の時は、淡々と無心に瞑想をしていて、たまたま良い瞑想ができる全ての条件が自然に出揃ったのです。ところが今度は、最初の記憶に邪魔されてどうしても期待や欲が出てきて初期条件が異なり、同じことが起きない構造です。
  過度の期待も欲も不善心所です。善心所のサティが不善心所の欲と同居はできないので、二度と起きないのです。
  無欲になれば、また初期条件が合致して同じ体験ができる可能性があります。しかし、無欲になるのは難しいでしょう。「無欲になれば、またあの同じ体験ができるのか・・。よし、わかった! 無欲になってやる」と無意識に狙い始めてしまうものです。これは、多くの瞑想者が繰り返し検証してきた事実です。欲は巧妙に忍び寄り、こちらはオモチャにされてしまうのです。
  だから「キッパリ諦めることです」というインストラクションにならざるを得ないのです。本気で諦めない限り、つまり少しでも欲がある限り絶対に同じことが起きないと心底理解した人に、再び同じ体験が起きるものです。「狙っている」「諦めようとして、諦められないでいる」と、起きた通り、感じた通りにサティを入れていく原則です。サティの瞑想というのは、どんなものも現れてくるままに見送って手放していく、離欲の訓練なのですから。

 

 

Dさん:歩行瞑想はゆっくりの方が瞑想の効果があるのでしょうか。また、自宅で歩行を中心に30分ほど瞑想すると気持ちがよく、手も熱くなり、頭の中もスッキリしてきましたが、これは瞑想の効果なのでしょうか。

 

アドバイス:
  中心対象の感覚が微妙に変化していくのを丁寧に感じ取ろうとすれば、動作のスピードは遅くなるのが自然です。だからといって、レベル高く瞑想しなければならないと頑張ってしまうのは、ヴィパッサナー瞑想としてちょっとおかしいですね。あるがままを観ていく原則から外れていくからです。
  心がザワザワして知覚力が弱ければ、感覚は詳細には感じられません。動作もそれ相応の速度になるでしょう。ゆっくり歩いて瞑想している人たちは、自然に集中が高まり、センセーションが微妙に推移し変化していくのを感じているので、自ずからゆっくりした速度で歩いているだけです。
  それを横から眺めて、あんな風にゆっくり歩くのが良い瞑想なんだ・・と猿真似で自分もゆっくり歩くのは勘違いです。真似をして動作だけゆっくり歩いても、感覚がしっかり知覚できていなければ、妄想が多発するし音に注意が取られるし、上手くいかないものです。
  感覚が丁寧に感じられたら「鮮明に感じた」とラベリングするし、大雑把にしか感じられないのなら「右・左」や「離れた・着いた」の段階に戻した方がよいでしょう。どちらが良い悪いと考えるのではなく、どのような状態であろうとも、その瞬間に経験されている現実をあるがままに自覚していくのがヴィパッサナー瞑想です。鋭く感じられたら鋭く、鈍くしか感じられないなら鈍く、ありのままに確認していけば、どちらも立派にサティが入っている状態であり等価なのだと考えましょう。自分のその時の知覚力に応じたスピードで行なえばよろしいです。
  また、手が熱くなったり頭がすっきりしてくるのは、瞑想が順調な時の兆候と考えてよいでしょう。過度に精進すれば、体に緊張やコリが発生しがちです。体が冷たく、固く、鈍く、重くなるのは不善心所の特徴であり、反対に、軽く、柔らかく、しなやかに、温かく、軽快であれば善心所の体感と考えてよいでょう。
  頭がスッキリしたのは、妄想が減少した証しです。妄想を止める瞑想が首尾よく機能したのです。ネガティブな妄想が激減すれば、心は善心所モードになり、善心所モードに特有の体感が感じられてくるということです。

 

 

Eさん:ヴイパッサナ一瞑想がうまくできるコツがあったら教えてください。

 

アドバイス:
  2つあります。
  1つは、徳を積むことです。どんなことでもよいから、世のため人のためになるボランティアや善行を続けていくと、不思議に環境が整ってきて、良い瞑想ができるようになります。サティがきれいに入る一瞬にも、無量無数の因縁因果が働いています。その瞬間の物理的環境、体調、心の状態、周囲の協力・・等々。膨大な要因が有機的に結晶し、一瞬のサティが成立したのです。良い瞑想ができるのは、無数の徳の賜物と理解すべきです。
  徳のない、カルマの悪い人はどうでしょうか。まず瞑想時間が思うように取れません。時間があっても体調が悪い。ちょうどいいところで邪魔が入る。仕事や家庭に由々しい問題が発生する。心が乱れる。ヤル気が出ない。集中できない。坐ればとにかく眠いだけ。毎回コックリ舟こぎをする・・等々。良い瞑想ができるために必要なすべての条件が満たされなければ、瞑想はうまくいかないのです。
  なぜ仏教では、あらゆる悪を避け、善をなすことが奨励されているのか。その答の一つがここにあります。環境が整わないのは、不善業の結果であり、その責任は結局これまでの自分自身の行ないにあると考えられます。
  しかしたとえ悪条件の中にいる人でも、これから五戒を守って、あらゆる善をなしていくならば、必ずヴィパッサナー瞑想ができるようになります。希望も救いもあるのです。徳を積むこと。必死で頑張っているのに、修行が進まないと感じている方はぜひ試してみてください。
  もう1つは、心の中だけで構いませんから、瞑想中は一時的にこの世のことを捨てる覚悟をするのです。本物のこの世を捨てることは、おそらくできないでしょう。だから捨てるのは想いの世界だけでかまいません。浮かんできたどんな想念も、所詮この世のことであり、そのこの世の事柄に執着している証左なのです。
  瞑想がうまくいかないと感じるのは、多発する妄想にとらわれ巻き込まれてサティが入らなくなるからです。執着がある限り、その妄想は手放せず、巻き込まれて弄ばれてしまいます。だから、一時的に、今だけは、この世のことはどうでもよい、と潔く捨ててしまうのです。本気でこの世を捨てることなど、在家の私たちにはできません。でも今は、想いの世界だけですが、この世を捨てる覚悟をしてみるのです。その覚悟に比例して、妄想は激減するはずです。それが、今の一瞬一瞬に全てを懸けるということです。すると、きれいにサティが入り始めるでしょう。しょせん私たちには、一日に短い時間しか修行できないのですから、その束の間だけこうして腹をくくってみると良い瞑想ができます。

 

 

Fさん:瞑想をしていてもネガティブな方に心が向いていくことを止められず、結局瞑想もできなくなります。そこで他のことをして気をそらそうとするのですが、やはりうまくいきません。そのような状態の時には、どのように瞑想すればいいのでしょうか。
  状態が悪い時は、瞑想をやらない方がいいのでしょうか?

 

アドバイス:
  まず、歩く瞑想や坐る瞑想の最中だけが瞑想ではなく、瞑想が正しくできるように諸々の条件を整えていくことが瞑想の一部であると考えてください。
  あなたの場合、ネガティブな妄想に囚われて瞑想ができなくなり、気をそらそうとしてもうまくいかない状態ですね。ということは、気分転換やストレス解消のテクニックではダメだということですから、そのネガティブな問題にきちんと自分なりの解答を与えないと先には進めないし、瞑想状態に入ることもできないと考えるべきです。
  ネガティブな何に心が傾いていくのか、まずそれを整理してください。思考モードで構いませんから、その問題にどう対処すべきかを徹底的に考察し方向性を見つけます。もしうまくいかなければ、信頼できる人に相談します。自分とは異なる視座や発想やさまざまなヒントが得られるでしょう。自分よりも優れた智慧者と話すのが理想的です。
  もしそのような適当な人がいなかったら、ジャーナリングのように、思いつくことを手当たりしだい書き出すやり方も良いでしょう。頭の中だけで考えるのと、文字に書き起こすのとでは大きな違いです。
  きちんと紙の上に問題を書き出して、内観などの確立された技法で発想の転換を試みるのも効果的です。例えば、@恩恵を受けたこと、A自分がしてあげたこと、B自分がかけた迷惑や自分の落ち度や問題点に着目する、のが内観ですが、こうした自己中心的な発想を転換するためのきちんとした思考法に則って整理していくことが大事です。
  問題にきちんと向き合えば、仮に明確な対応策に至らなくても、今の自分にできることはここまで・・とやるべきことが整理されます。すると、同じ問題が堂々めぐりして、どうしても心が囚われてしまっていた状態に終止符が打たれます。
  ここまで来ると、瞑想ができる状態といっていいでしょう。サティを入れ、思考モードを徹底的に離れていくと、考察の次元では決して浮かばなかった智慧の閃きが得られたりします。
  以上のような営みはオーソドックスな瞑想とは言えませんが、「心の全体的成長」と言われるヴィパッサナー瞑想の一環と見なしてよいし、広義の瞑想になります。
  状態が悪い時は瞑想をやらない方がいいか、という問題も考えておきましょう。
  基本的に、コンディションの悪い時間帯に瞑想をするのはお勧めできません。瞑想する時間が自由に決められるのであれば、体調が良い時や心が整っているタイミングを狙って修行した方がよいのは言うまでもありません。瞑想は体調しだいです。瞑想を開始した瞬間にはすでに勝負がついているとも言えるほど、良い瞑想をするためには、その全ての条件を整えていかないとならないのです。
  とはいうものの、毎日仕事をし、諸々の人間関係を持ち、家庭があるのですから、こちらの望む通り、ベストコンディションの時間帯に悠々と瞑想ができる人は少ないでしょう。頭がスッキリ、体調も抜群、さあ、瞑想しよう・・と思っても、子供がビービー泣いていたり、「早く〇〇やってよ!」と奥さんに怒鳴られたりして、思い通りに静かに瞑想などできないのではないでしょうか。
  致し方ありません。それが在家の宿命です。やっと瞑想する時間が到来した時には、血糖値が下がって冴えなかったり、疲れて眠気に襲われたり、茶の間から聞こえてきたニュース番組の一言が心に刺さって妄想が多発するのを抑えがたくなったり・・等々。状態が悪い時にしか瞑想できない悲しさです。
  それでも毎日最低10分間以上は瞑想をすると決めたのですから、やるしかありません。サティが入らず、脱線するたびに戻して、眠気に襲われるたびに再び「眠気」とサティを入れて悪戦苦闘する。こんな瞑想でよいのか・・と疑が生じてくるでしょう。大丈夫です。それが修行というものです。ボロボロになりながら、負け戦をなんとか立て直そうと奮闘努力している時に力がついてくるのが練習というものです。
  スイスイ、スラスラできる練習はあまり効果がないかもしれません。できないことができるようになっていくのが練習であり、修行なのです。崩れながらも頑張って気づこうと努力している限り、立派な瞑想であり修行と考えてください。闘う気力が失せ、思いっきり眠気を貪っていたり、妄想に耽ってしまえば、それは修行とは呼べなくなるでしょう。でも、現場はボロボロでも、精進している限り必ず良い結果につながっていきます。
  一方、それとは対照的に、瞑想が深まり、心が澄み切って、サティの切れ味も鋭く、禅定感がいや増していく・・。こういう修行現場は素晴らしいですね。良い瞑想ができる条件をできるだけ揃えて臨んだ方が瞑想が進むのはもちろんです。そのためにエクササイズやヨーガをしてから瞑想を始めるのもよいでしょう。瞑想のために栄養バランスのよい食材を選び、過食しないよう細心の注意を払って腹7分目、6分目に抑えることも大事でしょう。ヤル気を高めるために「ダンマパダ(真理のことば・感興のことば)」の傍線を引いたページを再読し、感動を新たにするのも賢明な瞑想技術と言ってよいでしょう。
  まとめますと、時間が許すなら、状態の悪い時に瞑想するのは避ける。良い瞑想ができるための条件作りをする。やむを得ず、状態の悪い時にしか瞑想できないのであれば、果敢にチャレンジする精神さえあれば立派な瞑想になると心得る・・。以上です。 (文責:編集部)