修行上の質問  実践編(6)

 

Aさん:坐る瞑想での膨らみ縮みですが、膨らみの感じを最後までしっかり感じてからラベリングすると、縮みの感じがすでに始まっているような具合になり、どうもうまくいきません。どうタイミングを取ったらよいのでしょうか。

 

アドバイス:
  歩く瞑想では、一足一足の動作を最後まで見切って、余韻を感じてからラベリングするタイミングがよいと教えられていますよね。この方がセンセーションの知覚に没頭できるので妄想が出現する余地がなくなり集中もよくなります。
  しかし、このやり方をそのまま座る瞑想に適用すると問題が生じてきます。呼吸のタイミングと腹部の動きは連動しているので、膨らみや縮みの動きをピークに達するまで観て、さらに余韻まで感じようとすると息が苦しくなってしまうのです。
  深く長い呼吸に慣れている方は、余韻まで充分に感じてラベリングしても問題ないでしょう。しかしそうでない方は、膨らみや縮みがピークに達する手前でラベリングするしかありません。頂上に達する少し手前の8合目か9合目までの感覚を「膨らみ」とラベリングすることになります。
  膨らみ終わって縮みに切り換わるタイミングを意識的にちょっと早めれば、膨らみのピークをしっかり感じて縮みに移行できるでしょう。
  縮みの場合も同様です。凹んでいく感覚がボトムに達する手前の8合目か9合目で「縮み」とラベリングするか、余裕を残して凹みを完成させれば膨らみへの切り換えがスムーズにやれるでしょう。

 

Bさん:妄想が過去形か未来形か区分する時に一瞬迷ってしまい、タイムラグが生じてしまいます。それと関連して、ラベリングは瞬時に行わないといけないのですか。かなりたってから気づいて言語化してもいいのでしょうか。

 

アドバイス:
  まずラベリングの上達法は、サティの瞑想現場よりも常日頃から言葉を正確に使うことです。良い本を読んで素晴らしい言葉の使い方を真似たり、ボキャブラリーを増やすことを心がけます。
  また、出てきた妄想をカテゴリーに分類する練習をしておくのもよいでしょう。とっさの修行現場では、それまでに培った能力が問われます。同じ言葉を現在形や過去形、名詞形でどう使われるかを正確に整理しておくことも役立ちます。誤解や錯覚や曖昧さを排除し、正確な対象認知や認識確定にかかわってくるので、ラベリングを上達させてくれます。
  ヴィパッサナーは現在の瞬間をあるがままに観ていく瞑想なので、過ぎ去ったことは対象外です。1秒か2秒後なら、敢えてラベリングして印象を深めておく方が良い場合もありますが、原則として過ぎ去ったことは潔く省略する覚悟を定めておかないと、今の瞬間が捉えられなくなります。完全主義の人ほど律儀に巻き戻してラベリングしたくなる傾向があります。
  正確なラベリングを貼ろうとすると、言葉選びに一瞬迷ったりタイムラグが生じるのも当然です。不完全であっても、とっさに浮かんだラベリングで良いと考えましょう。エエト、エエット・・と言葉選びをしている間に、次々と新たな思考が浮かぶし音も耳に入るし、アッという間に現在が過去に変わってしまうのです。正確にラベリングできたとしても、回想や思い出と同じ過去形の出来事になっていたのでは意味がありません。
  ですから、たとえ的はずれのズッコケたラベリングしか貼れなかったとしても、それは、もうそうだったのだから仕方がありません。すぐに切り換えて次の瞬間に集中すべきです。「ラベリングが不正確」とサティを入れ、全然サティが入っていなくても「サティが入っていない!」とその状態にサティが入れば瞑想としてはOKだということです。
  例えば、歩きの瞑想がうまくできていなかったとします。瞑想として悪い状態ですが、「(これじゃダメだ)と思った」「迷っている」などのラベリングができたら、ダメな状態に気づいて対象化ができているということです。直前が最悪の状態でも、次の瞬間それを対象化し客観視できたので素晴らしい瞑想になるのです。よろけて転んでしまっても「よろめいた」「転んだ」「痛み」「(恥ずかしい)と思った」とサティが入れば、まともに歩きの瞑想ができている人と同じです。むしろ淡々と瞑想ができている時よりもはるかに難しい、パニックを起こしかねない最悪の事態にサティが入る方が高度な瞑想かもしれません。ここがこの瞑想の凄いところなのです。本当はペケなのに、ペケだと気づいたらマルになるのです。
  瞑想もお稽古ごとやスポーツと同じですから、一度1Day合宿に参加してマンツーマンの指導を受けてください。1Day合宿が終わるまでに、やり方の基本だけは完璧に教えるつもりでいますから。正確なやり方をマスターできれば、これは必ず効果が検証できる瞑想です。結果が出れば、瞑想することが楽しくなります。瞑想のモチベーションを上げるコツは、良い瞑想をすることです。もっとやりたいという気持ちが高まりますので頑張って続けてください。

 

Cさん:サティの瞑想は、自己客観視の瞑想でもあるということですが、何かに気づいている自分を観ている自分、その自分を観ている自分・・・というようにどんどん後退していくとキリがなくなります。どこでそれを切ればいいのか、またどこからどこまでが妄想で、どこからが自己客観視の領域なのかわからなくなるのですが・・。

 

アドバイス:
 「何かに気づいている自分を観ている自分、その自分を観ている自分・・」という表現に、サティの甘さが感じられます。ごめんなさい。いきなりダメ出しをして。
  現在の一瞬一瞬にサティを入れるとは、眼耳鼻舌身意の六門から情報が入った瞬間、厳密にその現象だけに気づいてラベリングすることです。例えば、ドン!と物音がしたので「音」とサティを入れますね。これは音が聞こえた状態に気づいているわけです。この刹那に、音を聞いたのは自分だという千分の1秒の思考が入ると「私が音を聞いた」という印象になります。ここで経験の主体であるエゴが妄想として登場してくるのです。
  しかし通常そんな微細な一瞬に気づける瞑想者は多くはないでしょう。音を聞いたのは確かだが、「聞いたのは自分だ」という印象は漠然としているはずなので、それにサティが入らなくても気にしないで結構です。しかし次に「観察している自分がいる・・」という感じが現れたら、これは「(ドン!という)音を聞いている自分」を対象にした思考が浮かんだということです。これが、あなたのおっしゃる「何かに気づいている自分を観ている自分」という意味です。
  この時あなたが瞑想者としてやるべきことは、例えば「(音に気づいているのは自分だ)と思った」とか「(ドン!という音に気づいている自分を観ている自分という)妄想」とラベリングすることです。このサティが入らないまま、さらに「音に気づいている自分を観ている自分」を観ている自分・・という考えごとが続いていた情況ではないかと思われます。
  ヴィパッサナー瞑想というものは、何かの現象を経験した瞬間、それに気づいた一瞬の心のことです。それを千分の1秒か万分の1秒後の思考が「経験したのは私だ」となんとなく考えてしまい、その考えたことに無自覚なので「自我感」や「経験の主体者」が幻のように現れ、「自分を観ている自分」「その自分を観ているもう一人の自分」とどこまでも後退していく印象になるのです。
  これはサティが甘いからで、「どこからどこまでが妄想で、どこからが自己客観視の領域なのかわからなくなるのですが・・」とあなたのおっしゃる通りになってしまいます。厳密に説明するとこういうことなのですが、おわかりいただけたでしょうか。
  ポイントは、どんな短い思考にも気づいていくことです。今すぐわからなくても、だんだん明瞭になってくるでしょう。妄想と自己客観視の違いはラベリングの有無が一応の目安なので、取りあえず、気づけたことをきちんとラベリングするようにしてください。「ちゃんと瞑想ができているか迷っている」とか「(このやり方では不安だ)と思った」というラベリングでも、客観視できていた証拠になるでしょう。完璧なサティではなくても、たとえ30点や40点程度のサティでも入っていたことは確かだし、サティの要素があったのです。
  練習とは、こういうものです。どの分野でも、練習の内容は不完全なものだし、不完全だから完璧な理想を目指して日々努力するわけです。ラベリングが付けられていたら、ラベリングできたご自分を褒めてあげてください。不完全な自分を責めない方が、次のヤル気につながります。

 

Dさん:瞑想を知る前は幸せな楽しい毎日でしたが、瞑想を始めてからは自分の感情(不善心所)が見えるようになったことで、苦が多くなった感じがします。それでよいのでしょうか。

 

アドバイス:
  素晴らしいですね。まさにそれがヴィパッサナー瞑想というものです。修行が順調に進んできた方の典型的レポートだと思います。昔「悟りとは、自分の程度の低さに気づくことだ」と定義したことがありますが、心が浄らかになればなるほど、自己客観視がうまくできればできるほど、自分の心が汚れていることに気づけるようになるものです。
  愚かな人、心が汚染されている人ほど、自分は優れている、自分は立派な心の持ち主だと錯覚しています。あるがままの実情が視えないからです。自分の心が真っ黒なのに気づかず、多くの人人に迷惑をかけたり苦しめたりしていることも、皆から嫌われ顰蹙をかっていることも一向にわからず、私のような素晴らしい人はいない、皆んな私のことを大好きで尊敬している・・と自惚れながら幸福感に浸っている人がいたりしますが、滑稽ですよね。真実に気づいて愕然とするまでは楽しき日々なのでしょう。
  以前のあなたがそうだと言ってるわけではありませんから勘違いしないでくださいよ。でも、多かれ少なかれ、私たちは誰もそうなのです。それだからこそ、もしヴィパッサナー瞑想を始めて、ありのままに自分の心の感情の動きに気づいたらどうでしょうか。不善心所だらけなのに打ちのめされるのではないでしょうか。暗澹として自己嫌悪にかられるかもしれません。しかし、それで良いのです。自分で気づいた方が、痛い目に遭って思い知らされるよりよいでしょう。
  心の便所掃除と言われるヴィパッサナー瞑想を始めて、自分の正体がありのままに見えてくると誰でも嫌になるし、続けるのが苦しくなるものです。あなたの感じられていることは、誰もが経験する通過儀礼のようなもので、そうしたプロセスを経ながら心がきれいになっていくのです。全ての苦しみを乗り超えていくための王道を歩んでいると言ってよいでしょう。素晴らしい瞑想レポートをなさっているのですから、どうぞ安心してそのまま頑張ってください。

 

Eさん:サティを入れて意識化している時と潜在意識下の思いのギャップを大きく感じます。例えば泥酔した友人に「大丈夫?」と声を掛ける自分と、そうして他人に迷惑を掛けるのを見下している自分という感じで、罪悪感を覚えます。本心に嘘をついているようで、これは五戒に反するのではないでしょうか。

 

アドバイス:
  いや、それを嘘と考え、五戒を破っていると解釈するのは妥当ではありませんね。欺く意志があって、虚偽の発言をしているのではないと思いますよ。もし破戒をしたと自分を責めれば、反省よりも自己嫌悪などの怒りが混入しがちです。そうではなく、あるがままを観るヴィパッサナー瞑想者らしい、正確な観察をしていたと考えてよいのではないでしょうか。人の心は多層構造で、その時々のさまざまな条件によっても大きく影響されるし、本質的に矛盾に満ちたものです。そうした実情に気づかれたレポートで結構だと思います。
  友人を介抱する優しい心の一瞬も本当だったし、他人に迷惑をかけてしまうだらしなさを見下している一瞬の心も本当だったのでしょう。そのことに罪悪感を感じたのも、あるがままに直視するのは辛いし苦しいので隠蔽したくなったのも、それを本心に嘘をついていると感じた一瞬も・・全部真実だったと認知しておけばよいのです。 
  どの瞬間も、どの心も全部本当の自分なのだ、と自覚し、悪い心や好ましくない傾向は必ず修正していく、浄らかにしていく・・と決意して進んでいくのが清浄道の瞑想者です。 

 

Fさん:瞑想が進むにつれて、執着が減ってきた分、逆に自分を引っ張るエネルギーも減り、無気力な感じがあります。瞑想を進めながら、無気力にならずに離欲するにはどうすればよいのでしょうか。

 

アドバイス:
  コンプレックスや過去のネガティブ体験、個人的な欲望など、不善心のエネルギーを起爆剤にしてヤル気や成功へのモチベーションを高めている方が結構いらっしゃいますね。強大なエネルギーの起爆剤にはなるので、それで金持ちになったり、社会的な成功をおさめた人も少なくありません。しかし望み通りの成功者になることと、真の幸せが得られることは必ずしも合致しません。幸福度は案外低い場合も少なくありません。
  ネガティブ体験やコンプレックスを起爆剤にしている場合は、エネルギーを動かしている根本には怒りがあるので、カルマ的には成功をもたらすかもしれませんが、破壊のエネルギーを出力した結果も味わうことになるでしょう。健康を害したり、人間関係が壊れたり、かけがえのない家族の和合が破れるかもしれません。温かい家庭や和合した優しい人間関係が壊れてしまえば、社会的に成功し望みが叶っても幸福と言えるでしょうか。不善心は、人を幸せにしないのです。
  欲望系の不善心はどうでしょう。怒りのように壊すエネルギーではありませんが、貪れば貪るほど不満足性という名のドゥッカ(苦)に苦しみます。欲望とエゴはワンセットですから、欲を基盤にした人生は渇愛や執着が強まっていくのでその我執の臭み故に、人に嫌われ敬遠される傾向もあります。現象の表れとしては異なりますが、欲望も怒りもその根底には、妄想とエゴイズムと渇愛が元凶になっています。セオリー通り、苦の発生する構造です。
  欲の妄想を肥大させていく時のワクワク感は、ドーパミンという快楽ホルモンに由来しています。正確には、ドーパミンは快楽そのものを味わい体験している時のホルモンというより、快楽を幻想してワクワク感が催され、人を欲望に駆り立てていく原動力のようなホルモンであることが知られてきています。快楽ホルモンではなく、「渇愛ホルモン」と言った方がぴったりですね。だから、欲の妄想をしてワクワクすればするほどヤル気が刺激され、結果的には自分を引っ張るエネルギーが高められ、鼻先にぶら下がった人参を欲しがって疾走する馬のような具合になるでしょう。ところが、そんな欲望や執着に執われてはならないと仏教では言われているので、渋々それに従っていると無気力になってしまった・・と訴える人はとても多いのです。
  では、瞑想を進めながら、無気力にならずに離欲するにはどうすればよいのでしょうか、というあなたの質問になるわけです。
  まず、あるがままを観る瞑想をしているのですから、ご自分の心の底までありのままに観て、自分は本当は何を欲しているのか、自分にとって真の幸せとは何か、何のために自分は生きているのか・・、こうした問題にきちんと向き合うことが必要です。具体的に取り組まないと有効打が打てませんから、自分が死ぬまでにどうしてもやりたいことを紙に書き出してみるとよいでしょう。最初はランダムに頭の中に散らばっているものを紙の上に吐き出す感じで、次にその項目に順番をつけるのです。譲れるものと譲れないもの、一番やりたいことと2番3番にやりたいことを並べ替えてジッと眺めるのです。
  反対に、これだけはやりたくない、こんな情況だけは絶対に回避したいという、嫌なことへの順位づけをするのもよいでしょう。心の中をきちんと整理するためには、思い浮かぶことをただ考えているだけでは堂々めぐりになって混乱が整理されないものです。
  これで自ずから正解が導き出されるのではないかと思いますが、仏教的なヒントを申し上げると、自分自身の個人的な満足感を基盤にせず、人のため世の中のためにささやかながら貢献する要素があるか否かを検討してください。心理学的にも、自分の喜びのためよりも、人に喜んでもらえることをした方が幸福度が高いことが知られています。
  自分よりも人のために、世の中のためになること・・と発想する時には、不善心やエゴが入りづらいのです。人生を苦に導いてしまう欲や執着を回避させるのに、人世のために貢献する要素が入っていることは重要なことです。自分のためであれ、世の人々のためであれ、明確な目標に向かって頑張りはじめると、ヤル気も張り合いも出てくるので、毎日が生き生きしてくるでしょう。正しい生き甲斐の創出ができている状態です。自分のための欲望は不善心の執着になりがちですが、世の中のため皆んなの幸せのため・・と利他行の要素が入ってくる行為の実行が成熟の証しであり、大人になるということでしょう。
(文責:編集部)