ラベリング(2) ―言葉と認識―

 

 ◎ラベリングの言葉

 

Aさん:
  良くないラベリングとはどのようなものでしょうか。

 

アドバイス:
  例えば、ニャーニャーと聞こえたときに「猫」、ワンワンで「犬」、こんなラベリングはありません。
  猫である犬である、あるいは赤ちゃんだ激辛ラーメンだという判断は、「見た」「聞いた」という直接知覚と、その直後にそれまでの経験やイメージに照らし合わせて推測しているいわば非法の部分とが混ざっている状態なので、厳密な意味で法の対象にはなっていません。
  このように、対象の意味内容の方に意識が分け入ると、ラベリングの言葉も情報の中身を指示してしまいます。結局それは法から外れていく一瞬ということになるので良くないのです。視点は常に心と身体に向け、あくまでもナーマ(n?ma:心)、ルーパ(r?pa:体)を観ていってください。
  ものごとを概念化する能力は、人類の知性の礎となる偉大なものです。しかし同時に、ありもしないものを在ると錯覚し妄想する能力にも通じるマイナス要因と裏腹なのです。事実と妄想&概念がゴッチャになるのを無明と言い、ここからあらゆる苦が発生してくると仏教は考えています。
  ヴィパッサナー瞑想は、厳密にこの法と概念を仕分けていくことから始まるのです。

 

Bさん:
  怒り狂っている時などは「妄想」というラベリングが貼れますが、軽い状態だと「妄想」よりは「夢心地」みたいな方が合っているような気がします。でも、そんな時でも、「これでも妄想なんだ」ということは分かっていますので、「妄想」というふうにラベリングする方が良いのでしょうか。

 

アドバイス:
  それは個人差があります。あまり時間やエネルギーをかけずにスッと言葉が出てくるなら、そのとき感じたままの言葉でよいでしょう。同じ「妄想」「雑念」でも価値の良し悪し重さ軽さをつけて、善いことを考えている時には「思考」とラベリングして、悪いことを考えた時に「妄想」のラベリングを付けるやり方もあり得ます。
  しかし、ヴィパッサナー瞑想の立場からは、内容が良くても悪くても、基本的に思考モードに入ること自体が駄目なのです。ですから「いかなる思考モードもダメ!!」と心に刻み込むために、どちらにもあえて「妄想」という強烈な言葉を使うのも十分理由のあることです。
  かつて「妄想」が多発する人が合宿に参加したのですが、その方に「妄想」の一本槍ではなくラベリングを換えるようにインストラクションしたところ、「回想」「追憶」という未練系ばかりのラベリングになってしまいました。そのことに、その方はショックを受け「覆水盆に返らずというのに、自分はいかに過去にとらわれ続けていたか・・」とガーンとやられたという例もあります。「未来形の妄想はほとんどしていない。全部過去のことばかりだ」と目の前に突き付けられた感じになって、「過去にとらわれていてはいけない。過ぎ去ったことは過ぎ去ったことで、前を見なければ」と、未練が吹っ切れるキッカケになったのです。
  「妄想」「雑念」とラベリングを繰り返していたのでは、おそらくこのことに気づけなかったでしょう。まさにラベリングの力がものを言っているわけで、このあたりがヴィパッサナー瞑想の醍醐味です。正確なラベリングを打つことによって、ありのままに自分の現状認識ができ、それまでの同じことの繰り返しから抜け出すことができたのです。

 

Cさん:
  ラベリングの言葉を捜す時間が長くて、次の瞬間には状況が変わってしまいます。その時は、ラベリングを「落とした」と入れた方がいいのか、状況が「変わった」と入れた方がいいのか、どうしようかなと思うのですけれど・・・。

 

アドバイス:
  そうですね。適正なラベリングの言葉が見つからず、モタモタしているうちに状況が変わり、ラベリングを「落とした」事実が意識された・・ということですね。
  まず、ラベリングの言葉探しでモタモタ時間を費やしてしまうことがあまり良くありません。
  しかし、この場合はそうなってしまったのだから仕方がなく、今気づいた事実は、@ラベリングできなかったこと、A情況が変わってしまったという印象・・・の2つです。
  これは心に浮かんできた順番の早い方をラベリングすべきです。もしくは、印象の強かった事実が「優勢の法則」上、ラベリングされるべきです。
  初心者が、現在の瞬間をきれいに捉え続けることは至難の業なので、どうしてもサティが落ちてしまいます。
  サティが落ちた事実は事実として、ハッと今の瞬間に気づいたところからサティを復活させれば良いのです。サティが落ちている時間が短ければ短いほど望ましいのです。
  そのためには、正確な言葉でラベリングしなければ!・・と神経質にならない方がよいのです。
  「素速く」と「正確にラベリングの言葉を選ぶ」のは両立しがたいのです。正確なラベリングを瞬時に貼れる人は上級者です。初心者はなかなか理想どおりにできないので、毎日練習するわけです。
  以前に詳しく説明したこともある(注)基本的なことですが、心の働きの9割は知覚、1割程度がラベリングというのが原則です。ラベリングが不正確でもサティを持続することが一番です。立ち止まって思考モードになれば、瞑想としては「×」と心得ましょう。修行が進むと、一瞬にして現状を把握し正確なラベリングが飛び出すようにだんだんなっていきます。(注:『月刊サティ』2009年7月号)

 

Cさん:
  ラベリングの言葉が飛び出してこないのは、単にまだ智慧が出ていないからですか。

 

アドバイス:
  まあ、そうですね。(笑)
  これまで人生をどのように生きてきたかによって、脳の使い方は千差万別、右脳型の人、論理や言葉優位の左脳型の人など個人差があります。例えば、直観やイメージ把握など右脳的働きが非常に良くて実に深い経験をしているのだけれど、ボキャブラリーも乏しく言語化して表現するのが苦手という人もいます。しかし今は苦手でも、ボキャブラリーを増やし普段から言葉を正確に使うように努力すれば、必ず上達します。
  最も大事なのは、今自分が何を経験しているのか正確に客観視できることです。その瞬間うまくラベリングの言葉が見つからなかったら、ただ「感覚」や「感じている」など大雑把な概念的なラベリングでもよいのです。
  ヴィパッサナー瞑想のラベリングには二つの方向性があります。正確な認知よりも、とにかくサティを入れ続けることが何よりも大事と考えて、サティの持続を重視する「撤退型」。これは、どんな現象に対しても巻き込まれず、相手にせず、サティを入れて「撤退」し、中心対象に帰っていくのです。
  二つ目は、その瞬間の経験事象の本質まで見抜こうとするように、注意を対象に絞り込み分け入っていくやり方です。対象の本質を正確に特化していくので「特化型」と呼びます。どんな対象や現象からも撤退する方向と、対象の本質を洞察するように注意を注ぎ込む方向との二つです。
  「特化型」は智慧の閃く瞬間であり、ものごとの本質が一瞬にして洞察され、今まで誤解や錯覚や間違いだらけの生き方をしてきたことを覚る方向です。
  「撤退型」は、初心者向きと上級者向きの2段階構えになっています。前者は、初歩的なサティの安定化を目指しています。後者は、最終的に現象世界そのものから撤退していく段階です。結局、ヴィパッサナーというのはどんな現象も最後は全部ゴミ箱行きなのですけれど、そういうレベルの高い修行をやるためには、正確に対象を認知する能力が必要だということです。
  ともあれ、その場で一瞬もたついたら仕方がないですから、大雑把なラベリングをしておけばいいのです。どんなことも「妄想」や「感じている」で括れるでしょう。そのうちだんだんと、正確に、一瞬にして分かるようになっていきます。修行ですから。

 

Dさん:
  いつも頭の中で音楽が鳴っています。そんな時のラベリングはどうすればよいのでしょうか。

 

アドバイス:
  中心対象のお腹や足の感覚もどこかへ飛んでしまって、明らかに頭の中の音楽に心が奪われているような状態であれば、それにラベリングを入れます。外界音も脳内音も聴覚野の神経細胞が興奮しているはずですから、「音」「聞いている」でいいでしょう。この場合、音も妄想ですから、音を聴いている印象よりも、フワフワした妄想の印象が強ければ「妄想」でも構いません。脳内音も音のイメージなので「音像」などと洒落たラベリングをしていた人もいました。
  「聞いている」でも「妄想」でも、チラチラ鳴っている程度であれば無視して、あえてラベリングはしません。優勢の法則です。あまり細かなことまで気にすると中心対象から外れっ放しになってしまいますので。微かな副流のように絶えず流れている雑多な妄想は、いちいち立ち止まらないで「何かゴミみたいに流れているなあ」くらいで気にしなくてもいいのです。
  サティを入れてもその音楽が消えない場合には、普通は何か原因があるものです。例えば、瞑想に飽きてくると妄想が出始めるのは定番ですね。大好きな心地よい音楽が鳴れば快感が得られますから、それによってストレスや心の凝りから解放されようとしていることもあるでしょう。あるいは一般的な話ですが、音楽の聞き過ぎや、瞑想の直前まで音楽を聴いていたことが原因ということもあります。なぜ音楽の妄想が出るのかが分かれば自己理解が深まるかもしれませんし、現象も収まるかもしれません。気をつけることは、サティを持続することです。思考や考察でそんな分析を始めれば、瞑想としては脱線ですから。
  ヴィパッサナー瞑想は、その瞬間の現象に気づくだけです。ただ認知しその状態を確認するだけで、意味が分からなくても結構です。考察ではなく、瞬間的に閃いて解ったことなら素晴らしいサティです。修行を続けていけば、やがて一瞬にしていろいろなことが洞察できる智慧が成長してきます。それを信じて、今は思考モードで考察したくなっても、そう気づいて、中心対象に繰り返し帰っていくようにしましょう。

 

◎ラベリングの言葉と認識
Eさん:
  ラベリングの言葉の付け方によって効果は違うのですか。

 

アドバイス:
  こんな例があります。
  眠気が起きたので、「眠気」「眠気」と入れてみたけれども消えなかった。その人は「いい修行をしたいのに、こんなに眠かったら修行にならない。・・ったく、イライラする」と感じていました。そのときどういうわけか「怒りかも知れない」と気がついて、「イライラ」「怒り」とラベリングしたら消えたのです。これは「眠気」というラベリングでは、その瞬間の状態を部分的にしか捉えられていなかったのです。確かに眠いのだから「眠気」で当たっていますが、よく観れば「眠気」+「(眠気に対する)イライラ」がミックスしていて、むしろ苛立ちの方が強かったので「イライラ」「怒り」とラベリングしたら消えたということを表しています。
  また、「眠気」でダメだったところが「貪り」としたらパタッと眠気が消えたという例もあります。これは、実は昏沈睡眠を楽しんでいる、修行が嫌になっていてトローンとしたぬるま湯のような快感といえば快感を楽しみたがっている心があったということです。こういうときは「貪り」というラベリングでうまくいく可能性があります。
  言葉を換えることは認識の角度を変えていくことです。例えば、納豆を食べるとき口に入れた瞬間のラベリングを考えてみます。「(箸を持つ手を)引いた」「(口を)開いた」「(口に)入れた」「触れた」「粘った」「味」等々、同じ口に入れた瞬間の動作ですが、どんな言葉でラベリングしたかによって、その瞬間の経験と意味が特化されると言ってよいでしょう。
  「入れた」とやれば、自分の意志で食べるという行為を実行しているという印象が出てきます。「触れた」とラベリングすると、唇や口内の皮膚感覚や接触感の経験を確認したことになります。「粘った」となると、食材の材質感の特徴である粘り気に注目していたことになるし、「味」なら味覚が優先されていたということです。
  たかが納豆を口に入れた動作ですが、どういったラベリングが飛び出すかはその人の経験の仕方に依っています。今、自分が何を経験しているかを厳密に理解するためにはきちんと観察しなければならないのです。「入れた」「食べた」などと機械的にワンパターンでやっていては、ものごとの本質を洞察するという仕事まではなかなか道は遠いでしょう。そのような意味で、ラベリングを正確に緻密に貼れるようになる過程と、今、経験している現象の本質を洞察する深まりは並行関係にあるのです。
  このように、ラベリングは非常に重要です。今の一瞬一瞬、眼耳鼻舌身意によって何を見、何を聞き、何を考えたか、その中身の本質を言葉で正確にラベリングできる能力、これはヴィパッサナー瞑想の基本であり、基礎です。ちょうど一字一字を正確に書く楷書のようなもので、それがしっかり書けるようになってから、初めて行書や草書で崩したりできるのです。ラベリングも楷書で画数や撥ねをきっちり書くように、しっかり基本を身につけてください。

 

Fさん:
  ラベリングが変われば認識も変わるというのは具体的にどういうことですか。

 

アドバイス:
  ラベリングが変われば認識も変わるのは事実です。例としては随念の修行があります。ただ、この隨念の修行は、インストラクションを受けながら正確に段階を踏んでその人に合わせながらやっていかなければなりませんので、ここではその特徴だけを申し上げます。
  隨念の修行は、経験に概念をかぶせていくやり方で、その意味で法の直接知覚ではなく、純度の高いサティの瞑想とは言えません。しかし、これは反応系の心を組み替えるためには非常に優れた方法で、何が浮かんでもその概念一筋にラベリングしていくわけです。ですから、それを一日中やっていれば心はその影響を受けるのは当たり前なのです。さらに、ラベリングする概念、つまり言葉もいくつかあって、それを順に集中的にやっていくと、この現象世界全体に対する認識が変わっていきます。
  要するに、ラベリングとしてどういう言葉を付けるかで、自分が経験していることの意味づけまで変わってきてしまうということです。つまり、今経験していることは長年にわたって意識下で続いてきた心の状態を表していること、そして問題の本質がどこにあったのかが、ラベリングの言葉によって観えてくるのです。
  そして、これまでの自分の心の反応パターンに問題があったなら、正しい認知の仕方と反応系を新たに組み込まなければなりません。同じ出来事であっても、ネガティブな言葉でラベリングするのとポジティブな言葉でラベリングするのでは、その後の展開も反応の仕方も生き方も異なるものになっていきます。
  だからこそ、意識的にネガティブな認知の言葉をポジティブな認知の言葉に換えていくのが清浄道の心の修行になるわけです。一瞬一瞬の出来事をどのように認知し、どう反応するかが「生きる」ということです。未来を苦しくするのも楽しくするのも、今、この瞬間の認知と反応しだいで決定されていく・・・。その最も重要な一瞬が、ラベリングする瞬間と言ってよいでしょう。
(文責:編集部)