ラベリング(1) −その働きと付け方−

 

<ラベリングの基本>
Aさん:ラベリングと認識の関係について教えてください。

 

アドバイス:
  まずラベリングは対象の中に入らない、情報の中身には入らないというのが大原則です。
  「カァカァ」と聞こえたら、「からす」ではなくただ「音」「聞いた」とします。同じように赤でも紫でも色が出てきたなら「色」「見た」あるいは「イメージ」です。
  ここからはラベリングの威力の話になります。例えば「からす」とした人と「音」で止まった人はどこが違うかということです。もし「音」で止まれば、その先、スズメのチュンチュンだろうが犬のワンワンだろうが、「音」というラベリングの貼り方をするでしょう。そうすると、認識というのはラベリングの影響を必ず受けるので、自分の貼ったラベリングに沿うような認識になっていきます。つまり、そういう経験なのだ、「音」という経験なのだという見方に変わっていくのです。
  このように、現象に対する経験をどのようなラベリングで終了させるか、それがその人の認識の仕方に現れます。つまり、ラベリングの言葉は、その人がどのように現象を認識したかということとイコールだということです。したがって、その付け方によって、気づきの深さや客観視の程度まで解るわけです。
 もちろん、ラベリングは正確でなければなりません。認識の仕方をきちんと正しく捉えられるラベリングを使わなければ、心の変化は起きないのです。
  例えば、どんな色に対しても「見た」、どんな音に対してもただ「音」「聞いた」であれば、眼、耳に情報が接しただけの話です。このような、個々の対象の中身には入らない形でのラベリングは、すでにあらゆる現象から撤退する方向を向いています。ということは、心もすでにそちらを向いているわけで、これはそのまま欲や怒りを起こさない、煩悩を出さない訓練になるということです。
  こうして、言葉選択の方向性は、幸せになる技術という面からもたいへん重要なのです。
  対象の中身をいろいろ取捨選択しながら「好き」「嫌い」と反応しているのが世間です。「そういう反応をするな。中身に執着するな。それが幸せになる技術なのだ」ということです。面白い対象が出てこようが嫌いな対象が出てこようが、ただの音の現象、眼の現象という認知の仕方をして心は余裕綽々としている。対象から離れた、要するに無執着の心を作る一瞬一瞬、それがヴィパッサナー瞑想の訓練の現場です。

 

Bさん:中心対象から外れた時も、その外れたものに必ずラベリングして、行ったり来たりしています。

 

アドバイス:
  妄想が浮かんでそれに行ったり来たりしながらもサティが入っている、そういうことですね。これは、よく気づけていると言う意味では結構なのですが、オーソドックスな瞑想理論からは、集中力を高めていくためにやはり中心対象に帰るようにします。
  中心対象が感じられている時でも、他の妄想やら何やら、細かな泡みたいなものは観ようと思えば、いくらでも観えるのです。その泡みたいなものに対して行ったり来たりを繰り返していると、お腹の中心をもっと細かく細分化して生滅まで観ていくような仕事が出来なくなります。ですから、微かにチラチラしているような妄想は無視してください。それに対して、泡のようなものではなく、はっきりとお腹の感覚が消えてポーンと妄想が出た時には、立ち止まってしっかりラベリングを付けるのです。
  中心感覚が消えるほど強いものであれば何回ラベリングしても良いし、チラチラ程度のものには手を出さないで中心対象をもっと細かく観るようにします。一点に注意を絞り込み集中力(=サマーディ)を高めていく仕事と気づく仕事(=サティ)を並行して養っている状態と考えてください。ですから、微細なものにまで行ったり来たりは、基本的にはやらない方が良いでしょう。

 

 

<ラベリングの重要性>

 

Cさん:ヴィパッサナー瞑想でラベリングはなぜ重要なのですか。

 

アドバイス:
 ラベリングを付けるのは、気づきという意識状態になっていくために必要かつ有効だからです。そしてもちろん、気づきがなければ妄想に引っ張られて心のコントロールは出来ないと言うことです。
  例えば、瞑想中に思考やイメージが出てきたとします。普通にはその時、「これは良くない」とか「もっと集中しよう」などと思うでしょうが、そう思ったところで心が統一されて思考やイメージの動きが止まるわけでもありません。因果関係によって次々に心は展開しますので、やはり妄想に巻き込まれる傾向は避けられないでしょう。つまり、心というものは心の法則に従って独自の展開をしていますので、基本的にコントロールが難しいわけです。自分が心を支配しているようでいて、実は心に振り回されている奴隷状態なのです。
  自然にしていれば心と心から生まれる感情に支配されてしまうのが私たちですが、サティという技法を使って一瞬一瞬気づきを打ち込んでゆくと、心が次々とかってに繋がっていくのを断ち切ることができます。サティというシステムの力を使えば心をコントロールすることも出来るのですが、それをきちっと訓練していくためにはどうしてもラベリングによって「妄想」「イメージ」「見ている」と言葉にすることから始めなければなりません。
  初心者の方にラベリングなしで歩く瞑想をしてごらんなさいと言うと大抵の方はすぐにサティが続かなくなります。ラベリングの力に頼ってなんとかサティを維持しているのが初心者の現状です。ラベリングの技術があるので、気づけるのです。ラベリングしないで「気づく心」だけを養おうとしても至難の業です。ですから最初はラベリングを丁寧に付けて一瞬一瞬の気づきを持続させることに集中しなければなりません。ラベリングに助けられながら気づく力(=サティ)が育ってくると、やがてラベリングなしのサティも入るようになるでしょう。
  「歩く」「座る」などの身体動作はセンセーションがはっきりしているのでラベリングなしでも出来そうです。実際ラベリングしない方が感覚をしっかり感じて集中できるのではないかと言う人もいるのですが、サマーディに偏ってサティが成長しないケースも多いのです。
  身随観はまだしも、心の微妙な動きや感情を随観する仕事は、言語による明確な認識確定効果を活用しないと不可能と言ってよいでしょう。さらに申せば、洞察の智慧というものはラベリングの進化(=認識の深まり)とともに養われていくものです。ですから慣れないとラベリングが面倒に感じるでしょうが、正確なラベリングが貼れる能力と智慧の発現は比例すると理解して正確なラベリングを心がけてください。

 

Dさん:ラベリングはどのように付ければ良いのでしょうか。

 

アドバイス:
 ラベリングは明確に言語で確認します。自己理解を深める、対象を明確に認識し確定するために、はっきりと言葉で断定的に言い切るという形です。
  心の現象であれば、これは「怒り」だ、「嫉妬」だというふうに断言すると終了できるのです。
  歩行やお腹の感覚の場合は、ラベリングは短めの方が望ましいでしょう。長いと言葉が感覚の展開に追いつかないからです。そうすると、順番待ちのようになって、いつまで経っても現在の瞬間に追いつけなくなります。中心対象に対しては記号的に、例えば膨らむ、縮むを「ふ」「ち」「ふ」「ち」と簡略化して、センセーションを感じることに集中するのも一理あると言えるでしょう。しかし原則として、サティの地力が付いていない初心者は丁寧にラベリングを練習した方がよいのです。
  また、ラベリングを外すことと局部的に省略することは違うので気をつけましょう。予定通りのラベリングを必ず付けなければと律儀に考えすぎる方に多いのですが、次の現象が起きてしまっているのに一つ前に戻ってラベリングしようとするのは間違いです。例えば、バランスが崩れて足が床に着いてしまったのに、一つ前の「進んだ」とラベリングしてから慌てて「着いた」とラベリングするような「巻き戻し」をやっていたのではいつまで経っても現在の瞬間を捉えることができなくなります。たとえ「進んだ」のサティが入らなかったとしても次の現象が明確に起きてしまったなら、潔く省略して「(足が)着いた」「(バランスが崩れ)よろめいた」と今の瞬間にサティを入れるのが原則です。
  基本的に「経験すること(感じること)」と「ラベリング」の比率は9対1ですから、感じたことを全てラベリングしようとするとラベリングだらけになってしまいます。ラベリングの個数を減らして、一つ一つの現象をよく観る、感じる、経験することが大事です。 

 

Eさん:ラベリングを付けないでもサティを入れられるでしょうか。

 

アドバイス:
  先ほども申したように、サティの地力が付いていない者にはラベリングを付けないでサティを入れられるのは短時間に限られるでしょう。「気づきの心」をラベリングなしで長時間続けるのは大変難しいのです。
  また、ラベリングを付けないとサティが入っていた証拠が出せないのです。
  私たちの普段の生活は、心が高速で相当スゴいことをしているにもかかわらず、それに気づかないでボーッと生きている状態です。それに対して、ヴィパッサナーの修行が深くなると、心がものすごい速さで生滅し、イメージが次々と転変しているのが分かるし、観えてくるのです。そんな時には高速すぎて一つ一つにラベリングは貼れませんから、自動的にラベリングなしのサティが入っていく状態になります。ラベリングなしで明確な気づきが連続しているのがはっきり観察できているのであればOKです。
  しかしそれは、合宿などでかなりトレーニングした結果体験するようなレベルで、普通はなかなかそうはいきません。「ラベリングなしのサティをちゃんとやっていました」と言う人がいますし、また実際そういうこともありますが、自己申告通り本当にできていたかどうかは疑わしい場合が多いですね。そういうわけで、ともかくラベリングが付けられていればサティが入っていた証拠になると言うことです。第三者に対しての証拠にもなるし、自分自身に対してもその瞬間サティの心が存在した証拠になるのです。先ずはきちんと基本が身に付くようにオーソドックスな修行に努めてください。

 

<ラベリングのポイント>

 

Fさん:ラベリングを付ける要点を教えてください。

 

アドバイス:
  先にも申しましたように、ラベリングで肝心なのは対象の中に入らないこと、つまり客観視の 要素が入っていることです。
  例えば、瞑想会に参加している時、「次は何やるんだろう」とポッと頭に浮かんだとします。それをそのまま「次は何やるんだろう」と心の中でオウム返ししただけでは客観視の要素があるか微妙です。ですがそれを括弧で括って、「(次は何をやるんだろう)と思った」とラベリングすれば、そういう思考をしたという確認になり、客観視が出来たことになります。
  このように、思考が出てきても、ラベリングによって今の自分の状態を客観的に正確に観ることができればそれで終わりになり、その結果、思考モードを離れて気づきモードに移ることが出来るということです。
  また別の角度から要点を言えば、センテンスや言葉で何か浮かんできた時には「妄想」「思考」とし、映像が出てきた時には「イメージ」「妄像」と仕分けてラベリングするのも良いでしょう。この仕分け方もヴィパッサナーが進んでいけば厳密になっていきますが、正確であるなら、とりあえず始めのうちは好きなようにやっていいのです。
  ラベリングは杓子定規にはいきません。こういうラベリングでなければ駄目だと考えると、言葉にとらわれて本来の仕事がやりづらくなってしまいます。

 

Gさん:ラベリングの言葉はどう選んだらよいのでしょうか。

 

アドバイス:
  アドバイス:瞑想修行中ということで考えてみましょう。例えば、一瞬特殊な感覚が頭皮に起こったとか、そういうものは、その瞬間に厳密な表現が出来なくてもまあ仕方がありません。原則としてラベリングの言葉探しに長々と考えてしまうのはバツですから、その時はただ「感じた」「感覚」とかするしかないでしょう。「違和感」などと即座に浮かんでくるとよいのでしょうが・・・。
  一過性の現象はその程度で良いのですが、お腹を中心対象にしている時にはそうはいきません。中心対象というのは一時的な現象ではなく、繰り返しずっと観るものです。したがって、それが曖昧な表現であったり、ずれた感じで付けているラベリングでは、実際に感じていることと違う認知をやっていることになるので良くないのです。
  ですから、もしいつもとは違う、固かったり緊張している感じがあったりして、その感覚が良く分かってしかも長く繰り返されている時には、「硬直している」とか「緊張している」とか、その現象に相応しい表現にします。
  実際に感じていることとズレたラベリングを長く続けているのは、まさに現実を正しく認識出来ずに、心が現実と食い違った妄想で占められていることになります。ところが正確なラベリングができれば、そのラベリングに触発されて「硬直しているのはお腹だけではないかもしれない」と観察のポイントがメンタルなものに向かい「心の緊張状態」に気づきが深まっていくかもしれません。正確なラベリングは、正しい認知の証しです。ありのままに現実を正しく観ることと、それを正確に認識することは不可分なのです。
  ところが瞬間的に正確なラベリングの言葉が浮かばないのが多くの人にとって悩みの種になっています。ラベリングの正確さにこだわってモタついていると現実から置いてきぼりにされてしまうし、現在の瞬間を逃さずに気づき続けようとすると当たらずとも遠からずの甘いラベリングで妥協しなければならない。・・・こうした不完全な印象の中でやっていくのが練習であり修行なのです。
  ではどうしたら良いかと言えば、洞察の眼を養い、正確に分析する力をつけ、ボキャブラリーを増やし、常日頃から正確な言葉を選んで話し、明晰な文章を書くように心がけるとラベリングは上達します。とても大変なことですが、智慧の人になるためにチャレンジしていきましょう。

 

Hさん:音を聞いた時に「音」とラベリングを入れ、それから「戻ります」とラベリングしてからお腹に戻しましたが、それで良いのでしょうか。

 

アドバイス:
  それで結構です。もう少し厳密に言うと、ちゃんと音なら音を聞いてサティを入れ、その直後に「お腹に戻らなければ」という意志を感じた場合には、そういう心が生じたのですから、「(戻らなくては)と思った」あるいは「戻りたい」「戻ります」という形でラベリングし、それでフッとお腹に「膨らみ」「縮み」を感じた。これならマルです。
  ただ、「戻ります」というラベリングは微妙なところがあります。今お話ししたように、「お腹に帰らなくては」「戻りたい」「戻ろう」と現象として経験したならたいへん結構なのですが、そうではなく、機械的に「音」と付けて、掛け声のように「戻ります」と言ってお腹に帰っているのだとすると、ラベリングとしてはちょっとどうでしょうか。その瞬間の経験をどのように捉え認識したか、その言語的表現がラベリングだ、という定義からは、別に「戻ります」と言う必要はないのではないかという感じもします。「戻ります」と言わないとお腹の中心対象に意識が向けられないのなら、そう言うことに意味はあります。もしそうでもなければ、省略してもよいのではないでしょうか。

 

Iさん:私は、どこの感覚で捉えるかということを明確にしたい気持ちがあって、音がしたときに「聞いた」ではなく「耳」、「見た」ではなく「目」とういうふうにしていました。それで良いのでしょうか。

 

アドバイス:
 方向としては、正しいです。ただ、これはシステムに沿ってきちんと進んでいくようになっています。あなたのそのラベリングは「六門確認」という技法なのです。全ては六門の現象に過ぎないと認識を深めていくのは段階的に進められていくべきなのです。まずその瞬間瞬間の自分の経験を自覚し、意識化する基本的な認識確定のラベリングを修練し、自分の人生を整理して捨てるべきものは捨て、残っている煩悩は煩悩としてありのままに心得ておく仕事が先です。それから全ての煩悩を手放し、この世から撤退していく方向に意識をフォーカスしていく。そういう段階に達した時にこの「六門確認」のラベリングが真価を発揮するのです。
  ですから、基礎トレーニングが終わっていない人がやってもうまくいきません。まず一瞬一瞬の自分の経験を自覚する具体的なラベリングが安定して付けられるようなサティの訓練が基盤になります。その上でのラベリングの変化、イコール認識の変化と間違いなく進めていくのがヴィパッサナーのシステムです。それにって着実に進められるよう頑張ってほしいです。(文責:編集部)