ヴィパッサナー瞑想の構成(1) --反応系の心の変化とは--

 

<理論の理解を>
Aさん:理論と実践とはどちらが大切ですか。

 

アドバイス:
  何ごとによらず理論の理解と実践とはどちらも大切ですが、とくに原始仏教やヴィパッサナーは、ダンマの理解を抜きにしては成り立ちません。執着を離れて掴んでいたものを手放すことや離欲してゆく方向は、ダンマの正しい理解があってこそ確固としたものになります。
  例えば、四聖諦の諦の字は「真理」、また「真理を悟ること」と言う意味ですが、そのほかに「あきらめる」「おもいきる」という意味があります。これはとてもふさわしい訳語です。まさに「真理を悟ること」の裏付けがあって本当に「あきらめる」ことができる、潔く離欲して捨てられるのです。
  ということは、ものごとの本質についての理解がないままの「あきらめ」は、本物の諦めではないということです。
  イソップの酸っぱいブドウの話のように、どうしても諦めなくてはならないので、無理にあのブドウは酸っぱいのだと思い込むことで自分のなかで合理化し、口惜しさに囚われてその考えに固執するのです。本当に酸っぱいかどうかは分かりませんし、それではいつまでも悔しい思いが残るでしょう。
  そのような「あきらめ」ではなく、いま対象としていることは本当に必要だろうか、これは一時的な欲望ではないか、因果というところから考えるとどのような結果が予測されるだろうか等々、いろいろな立場、特に一歩離れた客観的な視点から総体的に検討するのです。
  そのようにすると、欲望に基づく妄想と現実との間の隔たりもクリアーに観られるようになり、理解を深めて冷静に判断することが出来るようになります。
  このようにして諦め、潔く捨てていけば愚かな反応はしなくなっていきます。これが本物の諦めです。
  したがって、ダンマを正しく理解していくことは、執着を捨てて離欲できるかどうかの度合いはどのくらいなのか、そして実際に諦められる可能性はどうなのか、こうしたことすべてと並行していると言えます。そのような意味でたいへん重要なファクターですから、しっかり学ぶことが大切です。

 

<煩悩の制御と反応系の修行>
Bさん:煩悩はどのように生まれてくるのでしょうか。そしてその解決方法は。

 

アドバイス:
  それはむずかしい問題です。十二因縁の構造を語りたくなるような話です。
  先ず対象があります。食べ物でも何でも先ず対象があって、眼の門、耳の門、鼻の門から情報が入り、意識と接触して「見た」「聞いた」「匂った」となり、そこには「嫌な音だ」「良い匂いだ」などの苦受や楽受、そして苦でも楽でもないニュートラルな受が生まれます。そして次には、「これはおいしそうだ」(「想」の働き)となって、そこから心の注意をどこに向けるか(「尋」の働き)で欲が出たり出なかったりするわけです。
  ヴィパッサナーの世界というのは、そのような欲が起こる前、現象がただむきだしの状態にある、それだけを確認するものです。そうすれば怒りも貪りも出ません、ということです。
  しかし、普段の生活ではどうしても、情報が入ってきた瞬間に潜在的な意識が働いて注意をどこかに向けてしまいます。
  例えば、昨日私は頭をぶつけたのですが、その瞬間私の心は「脳のどの場所か」「後頭部だったら視覚に影響がでるだろう」「側頭葉だったら記憶に影響が出るだろう」「頭頂部には、触覚など感覚を感じる機能がある」という方向に向かいました。頭に痛みを覚えた次の瞬間になぜこういう発想が飛び出すかというと、私は常にそういう面に興味があるため、潜在意識がそこに注意が向くようにしっかりと頑張っている、そういう道筋ができあがっているからです。
  欲しいものを見たら前後の見境もなく手に入れたくなる。嫌いな人に会えば自動的に嫌悪が立ち上がる。すべて同じことです。ある現象に触れた時、それを心のどこかにくっつける作業をマナシカーラ(manasik?ra:心の注意力、作意、思念)と言いますが、その働きの方向はその人の潜在意識の状態がどうか、つまり浄化のされ方や汚染のされ方で違ってきます。
  ヴィパッサナーは、そのようなマナシカーラが働く前の段階で気づく、サティを入れようとするものです。ですからそれが完璧にうまくいけば、頭をぶつけても痛みは「痛み」で止まってしまい、それで終わりです。
  しかし、普通にはいつもそううまくとは限りません。直前の段階で止まらなければ心は次々と展開していきます。その時に、潜在意識が欲や怒り、また妄想などで溢れていると、心は必ず悪い方向へ、煩悩に巻き込まれて貪瞋痴へ向かっていってしまいます。
  そこで、これが肝心なところなのですが、もし直前の段階で止められなくても、心が貪瞋痴の方向へ向かわないように、「悪を避けて善をなす」という認識を知的に理解して徹底的に心に納得させ、染み込ませておくのです。ヴィパッサナー瞑想の修行の一環としてこの努力を重ねることで、心の反応は確実に変わっていきます。
  またこれに加えて、修行の一環として大切なのは、これからは殺しません、盗みません、嘘をつきません、不倫しません、お酒を飲みません、という五戒を絶対に受け容れていくという決意です。これだけで潜在意識による自動的な反応パターンは決定的に影響を受け、煩悩に対して抑止がかかるようになります。
  そしてこのような決意、訓練をスタートとして、これまでの自分の生き方や生い立ちからの経験の背景、これらを深く考察していけば、反応パターンの組み替えは次第に実現していきます。こうして心が全体的にきれいになってくるということは、イコール「苦がなくなる」こと、まさにそのような状態を意味しているのです。
  ですから、私たちはサティの訓練に加えて、このような反応系の修行という二本立てでいくべきなのです。

 

Cさん:マナシカーラはどのように起こるのですか。

 

アドバイス:
  マナシカーラは意識的なものではありませんから全くの自然展開で、自覚にものぼらないのです。
  私たちの意識というのは、例えば今までは見る方に働いていたのにいきなり聞く方に移り、今度は匂いや感覚の方に飛んでしまうことが常です。そして、それは自分からそうしたというよりは、勝手に現象が飛び込んでくるという印象があるはずです。しかし本当のところは、マナシカーラが選択しているのです。
  六門から入ってくる情報のどれかに注意を注いで、そしてたくさんの選択肢の中からあるものを選んで連想を繋げているのです。その辺りは自覚にのぼらない部分ですが、だからこそ、そこをあらゆる角度からトータルにきれいにしていく、善の方向に選択が向くようにしていくのが清浄道ということです。

 

Dさん:なぜ反応系の修行が必要なのかをもう少し説明してください。

 

アドバイス:
  人が何らかの現象に出会った時に、どういう連想が飛ぶかでその人の心のくせ、煩悩の傾向というのが良く分かります。例えば、怒りのタイプの人なら先ず嫌悪の心が起きますし、欲のタイプの人であれば、腹を立てるような場面に出会っても何とか快なる情報を見つけようとする傾向があります。
  ですから、先ずは自分がどのようなタイプなのかをよく知ることが必要です。それによって、今度はどのようにそれらに対処し、怒りをなくし、欲をなくしていくかという仕事にかかれるからです。
  心の注意力であるマナシカーラが、必ず貪瞋痴を離れる方向に働いてくれれば問題はありません。「これは解脱一直線ですよ」と言うブッダの言葉があります。ヨニソマナシカーラ(yoniso-manasik?ra:如理作意、正しい思考・連想の流れ)というわけです。
  逆に、アヨニソマナシカーラ(ayoniso-manasik?ra:非如理作意、邪な思考・連想の流れ)が働くと、何を見ても聞いても、心は必ず貪瞋痴の煩悩の方にくっついていってしまいます。もちろんそれには原因があって、そのようなプログラムを長い時間をかけて作ってきたからです。そうであれば、そのプログラムを組み替えていかなければ先に進みません。
  気づきの訓練によって常に「欲」「怒り」とサティを入れていけば、とりあえず不善心からは撤退できます。しかし一時的に抑えられ隠されても、煩悩はまた浮上してきますから、サティの瞑想だけでは根本的な解決が難しいのです。言いたいことは、「どうしてもマナシカーラの組み替えがなされなければならない」ということです。そのためには、戒の受け入れや聞法による正しい理解、あるいは内観や随念、慈悲、懺悔、善行という諸々の作業による心の反応プログラムの組み替えということがどうしてもなければならないということです。
  このことは、別の言い方をするとまた良く理解できるでしょう。それは、「煩悩は現象そのものから生まれるのではなく、その現象を経験したことに対する判断や解釈が妄想によって汚染されているために生まれる」ということです。そういう意味からは、先ず、妄想や思考の世界に入るなという訓練がサティであり、さらに根本的な解決のためには汚染されたプログラムを正しく書き替える作業が必須であるということです。

 

<苦しみを解決するために>
Eさん:現世で解決できない問題は来世で解決する、いつかは解決しなくてはいけないと言う話を聞いたことがあります。その時は必ずヴィパッサナー瞑想でということになるのでしょうか。それとも、他の方法でも良いのでしょうか。

 

アドバイス:
  ブッダの定義する悟り、解脱に関してはヴィパッサナー瞑想以外ではちょっと無理でしょう。ですから、最終的な仏教の悟りは必ずヴィパッサナーのシステムに基づかないとあり得ないと思いますし、また、ヴィパッサナー瞑想で全て解決できると思います。
  ただ、生きていく上でのこの世的な悩み苦しみであれば次元も違いますし、また非常に広範囲のものですから、それ以外にも方法は多々あると思います。例えば、何らかのやり方でこれまでの苦しみが完全に無くなった、解放された状態になったとすれば、それは「悩みが解決した」と言って良いはずですし、そういうことは充分あり得ることです。
  涅槃経に出ているのですが、ブッダ自身は、「いかなる教えや戒律であっても八正道さえあれば、預流果、一来果と悟る人が現れる」と、かなり妥協した言い方をしています(注)。仏教でなくてはダメだなどとは言っていません。涅槃経というのは亡くなる直前の集大成のようなものです。その最後の教えとして、八正道が完全に実践されている限りは必ず悟る人が現れるだろうと言われるのです。この言い方からしても、仏教以外のシステムではダメだということは伺えません。
  私が知るところでも、例えばキリスト教の福音書では、殺すな、盗むな、姦淫するな、偽証するな(偽るな)とあります。人が人を殺す状態、他の財産を不当に奪う状態、嘘をついて欺く状態、これは善くないのだということは人間にとって普遍性がありますから、細かい部分に多少の違いはあっても、仏教の戒もキリスト教の戒もけっこう似ていると言えます。特殊なカルトでない限り、普遍的な宗教と呼ばれるものの定める戒はおおむね共通しているとも言えるでしょう。
  そうであれば、人を殺したり盗んだり嘘をついていた人が、悪しき行為をやめて人間として本来の振る舞いに行いを修正していく、こういうことは仏教以外の教えによる戒律でも出来るはずです。それは、涅槃経でブッダがおっしゃっている言い方と通底していると思います。
  ですから結論としては、原始仏教以外では悩みや苦しみの解決があり得ないなどとは言えないということです。仏教以外のものでも、多くの悩み苦しみを解決するものは多々あるでしょう。とりあえず幸せになるだけだったら、仏教に限らなくてもけっこうだと思います。
  ただ、最終的な仕上げである輪廻からの解脱、悟りについては、仏教は他の宗教や教えとは考え方も方法論も違います。その点で、ブッダのヴィパッサナー瞑想は、どのような苦しみにも対応しうる行法が階段を一段ずつ上っていくように体系化されている巨大なシステムです。私には、これ以上のものはあり得ない、完璧なものに見えるのです。
  この世界ではどれほど幸せになっても、老いていく苦しみや死の苦しみというのはどうしようもなくつきまとっています。ですから、幸せに生きていくためにはいろいろ良い教えがあるけれども、最終的には必ず老いの苦しみや死の苦しみにぶつかって、幸せが崩れるのです。
  もしそのような根本的な苦しみまですべて乗り超え、克服しようとするなら、やはり本格的に原始仏教に挑戦しなければならないのではないでしょうか。ブッダの瞑想法は、この世的な悩み苦しみから解き放たれるためのものであり、同時に、生存そのものに伴う苦を根本的に乗り超えることのできる究極のシステムだということです。(文責:編集部)

 

注:「スパッタよ、・・・しかしいかなる数えと戒律とにおいてでも、<尊い八支よりなる道>が認められるところには、第一の<道の人>が認められ、そこには第二の<道の人>も認められ、そこには第三の<道の人>も認められ、そこには第四の<道の人>も認められる」