慈悲の瞑想(2)
Aさん:
5、6年前ですが、会社の上司ととにかく全くウマが合わずダメでした。あるとき心随観の瞑想中にいきなり「殺意」という言葉が出て、しかもそのとき腰の痛みも消えてしまい2度びっくりしました。それまでの「怒り」とか「憎しみ」というラベリングでは全く何も変わらず、どうにもならなかったので本当に驚きました。
それから主に慈悲の瞑想を続けて5年になりますが、この1年くらいはもうほとんどその人のことが気にならなくなり、先日「嫌いな人々が・・・」の慈悲の瞑想では、もうその中にその人がいない感じになりました。根っこのところはまだ分からないですが、このごろは接触する機会も少なくなって非常に感謝しております。
アドバイス:
「怨憎会苦」と言いまして、怨みや憎しみを感じてしまう嫌な人にどうしても出会ってしまうのは、仏教で言う「四苦八苦」の六番目に当たります。そういう因縁がある場合には絶対に別れられない、人事異動でも一緒に転属してしまうという風です。
ところが、嫌いだった人が嫌いでなくなる。こちらにそういう変化が起きた時にはその因縁が解けたようなものです。そうすると今度は本当に会わなくなってしまうという現象が起きます。犬猿の仲だった人とやっと仲良くなれたら遠方に転勤するとか、本当にそういうことは多いですね。
こちらが嫌だ嫌だと思っている間はどうしても別れられなかったのが、むしろ「この人と一緒にいたいな・・」といった気持ちになると、逆に引き離されるケースはたいへん多いです。そのような事例は枚挙に暇がありませんから、何か法則性のある構造が存在するのではないかと考えても不思議ではありません。
Aさん:
こちらの気持ちが変わっていくから向こうもそれを受けるということでしょうか。
アドバイス:
そうですね。いわゆるテレパシーというのもありますし、「量子もつれ」という素粒子レベルでの不思議な現象もあります。2つの量子の間で相互影響が生じる特別の状態になると、一方の量子に与えられた刺激と同じ影響が他方の量子にも現れるという、非常に興味深い「量子もつれ」の研究もあるのです。
慈悲の瞑想をやると相手も慈悲の心になり、こちらが怒りモードになると相手も怒りモードになったりと言うことです。このような現象は、やがてそう遠くない将来に科学的な証明がなされるのではないかと期待されます。いずれにしても経験的に私たちに分かっているのは、こちらが怒りや憎しみを持っていれば以心伝心で必ず相手にも伝わってしまうということです。そうであれば、たとえ相手が敵意や怒りを持っていたとしても、こちらが心から慈悲のバイブレーションを放てば、それが圧倒して必ず相手に伝わるだろう。こちらにその気持ちさえあれば、慈悲の心で怒りに打ち勝つことができるのではないかということです。そう信じて、これからも頑張ってやりましょう。とても良いレポートでした。
Bさん:
世の中には悲惨なことがたくさんあって、そんな情報が入るたびに心が痛みます。でもやはり身近なところから始めたほうが良いのでしょうか。
アドバイス:
仰るとおり、自分の足元からです。苦しんでいる人を助けてあげたい、世界平和を実現させたい、というのは美しい理念ですが、まだ自分の中にいろいろな不善心が残っているかぎり、それを放置していきなり壮大な世界平和や、全人類の苦しみをなくすという方向に走るのはいかがなものでしょうか。私たちはまず自分の中のネガティブなものから乗り越えていくべきです。
親や兄弟と折り合いが悪く、常にトラブっていながら家を出ることもせず、問題解決の方向になんら展開しないまま同じ屋根の下で暮らしている方が、アフリカの飢餓難民の人たちにお布施しなければ・・とか言ったりしていました。「なんで世界から飢餓がなくならないんでしょうか」「戦争がなくならないのはどうしてでしょうか・・」と、本当に憂えていました。たしかにそれは崇高で尊い精神ですけれども、アフリカの戦争や飢餓を憂える前に、あなたが兄弟や親と争うことから先ず治めて和解していきましょう、と。やはりどうしてもそういうアドバイスにならざるを得ませんでした。
親や兄弟と争っている状態を直視したくないので、地球の反対側の飢餓とか戦争の問題にあえて心を向けているのではないか。大事なものをすり替えて、逃避しているのではないか、という風に私には思えました。自分のいちばん身近なところの赦しと救済から始めることを強調しておきたいですね。
Cさん:
完璧な慈悲の瞑想というのはなぜ難しいのでしょうか。
アドバイス:
完璧な慈悲の瞑想が難しいのは、エゴの問題を乗り超えるのが難しいからです。自己中心的な我執の立場から慈悲の瞑想をすると、いつの間にか慈悲というより欲の瞑想に近いものになってしまうものです。
例えば、夫が妻に対して、妻が夫に対して、あるいは親が子に対して、子が親に対して慈悲の瞑想をするのはごく自然なことであり、誰もが行なっているでしょう。しかし慈悲の瞑想の修行としては、これは本当はとても難しく、むしろ後まわしにすべきものと論書には説かれているのです。なぜなら、純粋な慈愛の念を発信する修行なのに、エゴ感覚の強い、愛執の深いものになってしまいがちだからです。家族というのはとても大切なものですが、一方では強烈な渇愛や執着にとらわれてしまう関係とも言うことができるでしょう。
慈悲の瞑想の構成因子である「慈悲喜捨」と最も似て非なるものは愛執であり、これが慈悲の瞑想を難しくしている最大の原因です。人は自分の一番大事な人には優しくしてあげたい、深く愛したいと思うのが自然です。皆さんもそのような溺愛に陥りがちな対象をお持ちではないでしょうか。愛し合っている夫婦や親子というのは強い愛情で結ばれているがゆえに、愛情が強烈な執着に変わり、失われることを怖れ、脅かす者には怒りを覚え、醜い嫉妬も独占欲も攻撃性も何でもありの、およそ慈悲とはほど遠い渇愛にエスカレートして苦の原因になり変わっていくこともあるのです。
このように、愛というものは貪りの要素が多分に含まれている傾向があります。貪りというのは慈悲の対極にあります。愛情から貪りを抜かないと慈悲にはなりませんので、やはり慈悲の心を養うことはものすごく困難な仕事だということが言えるのです。
ところで、原始仏教には、ブッダがラーフラに向かって説法している経典があります。そこには「「ラ−フラよ、慈しみの瞑想を修習しなさい。なぜなら慈しみの心が成長することによって、悪意、反感、敵意、憎悪、恨みが心から追放され、取り除かれるからである。
またラ−フラよ、憫れみの瞑想、悲(Karuna)の瞑想を修習しなさい。なぜなら憫れみの心、悲の心が成長することによって、残酷さや冷酷さ、人を傷つけたい心などが追放され、取り除かれるからである…」と説かれています。
怒りというのは、対象を否定する、壊す、打ち消すという破壊的なエネルギーです。それに対して、慈悲というのは対象をまとめる、和合させる、くっつけるという調和的なエネルギーです。やはり慈悲のエネルギーと怒りのエネルギーは正反対なのですね。
このように、怒りは慈悲の心を妨害する要因ですが、貪りもまた怒りと同じくらい危険なのです。貪りとは、好ましい対象に執着する強烈なエネルギーで、なめるように可愛がるという言葉があるとおりです。しかしそのように愛する対象への激しい執着を抱えていると、その対象を失った時には身の置き所がないくらいに苦悩することになります。
心変わりについても同じことが言えます。心から愛している人に裏切られた時には可愛さ余って憎さ百倍になってしまいます。夫婦や親子の絆がこじれたあげく、「殺してやる!」とまで憎しみ合うことも無くはないのです。愛と憎しみとはまさに表裏一体の関係にあるということです。
怒りは慈悲の正反対であることは誰でも普通に理解できるでしょうが、貪りである愛執の方は案外盲点になっているようです。愛執も一応は優しさを見せますので、一見すると慈悲と見分けがつかないのです。しかし、本質的には、その二つはまったく相反する要素です。
こんなことがありました。
自分では夫に対して慈悲の瞑想をやっているつもりでしたが、よく観てみると夫に自分の思い通りにしてほしいという要求めいたものが入っていたというのです。例えば「子どもをもっと可愛がってくれますように」「家事を手伝ってくれますように」というように、夫に対する文句の箇条書きをやっている感じで、慈悲の瞑想をしているのか欲の瞑想をしているのか訳がわからなくなったというようなことでした。
清浄道論でも「夫婦を対象にした慈悲の瞑想は、貪りの要素が入るので避けなさい」と記されています。夫が妻に対し、妻が夫に対しての慈悲の瞑想は、愛執と貪りが最も起きやすいので、慈悲の心を育てる練習には相応しくないと戒めているのです。誰かに対して強烈に慈悲の瞑想をやってあげたくなったら、貪愛が混入しているかもしれませんね。
でも、こうした話をしたところ、欲がそれほど強くないタイプの人なので、慈悲の瞑想をやっても問題なさそうな女性が、「じゃあ、私は今度から夫に対して慈悲の瞑想をするのをやめようかしら」と言い出しました。
私から見ると、欲が強いタイプなのでやらない方がいいだろうという人がやりたがり、その逆の人は自粛するというのが面白いと感じます。
とにかく、こうした理由で、慈悲の瞑想をするには貪りと怒りを引き算しなければなりません。これはすなわち、貪・瞋・痴のすべてを抜きなさいということです。痴は貪にも瞋にもセットで入っていますから、要するに慈悲の瞑想を完璧にするためには悟れということと同じなのです。これが、慈悲の瞑想の難しさが半端ではない理由です。
謙虚な愛情や見返りを求めない愛情には、傲慢さはありません。逆に傲慢な優しさほど慈悲からほど遠いものはないのです。傲慢を抜けということはエゴを抜けということでもあります。エゴを無くせというのは悟れということと同じですから、ここまで突き詰めていくと、慈悲の瞑想が完璧にできる人なんて誰もいなくなってしまうのではないでしょうか。
つまり、慈悲の瞑想ができるということは、仏教の奥義を極めるということと同じなのです。怒りや貪りをなくして謙虚になって、しかもエゴも無くしていくわけですから、それは煩悩を全部引き算するということですね。
でも、慢をなくせと言われても、慢は不還果になっても残ると言われていますので、慢がゼロにならないと純粋な慈悲の瞑想ができないとしたら、不還果の聖者でさえ慈悲の瞑想の純度は100%ではないということになります。
そんな話を聞いたら、もう気が遠くなって、私には到底できませんということになってしまいますね。ですから慈悲の瞑想には、限りなく慈悲と呼べないレベルから限りなく阿羅漢に近いようなレベルまでものすごい段階があるグラデーションなのです。
心の清浄道というのは、果てしない頂上に向かって斜面を登っていくような感じです。登り始めて麓付近にいる人はその辺から、何合目かに達している人はそこからさらに上を目指して登頂を続け、互いにレベルアップを心掛けていけば良いのです。
Dさん:
そのような中でも、なるべくピュアな慈悲の心を育てるためにはどんなことを理解しておくべきでしょうか。
アドバイス:
タイで修行していた時の話です。
お坊さんたちが蛇に咬まれることを心配して、「蛇が出るから気をつけなさい」とか「懐中電灯持っているか」とうるさいほど言ってくれたのです。それを聞きながら、この寺では蛇の被害が相当あったのかなと思いました。
でも、私は大丈夫だと言って申し出を丁重に断っていました。その時の私は、毎日慈悲の瞑想をやっていたので、攻撃する邪悪な蛇とは波動が合わないだろうという自信がありました。本当にその時は、一日中瞑想をしていて、朝晩必ず集中して慈悲の瞑想をやっていました。
「タイ王国のすべての人々が幸せでありますように。この僧院のすべての人々、鳥も獣も虫も魚も爬虫類も両生類も、あらゆる生きとし生けるものが幸せでありますように・・・」と、丁寧にイメージを浮かべ文言を唱え、心から慈悲のバイブレーションを放って一体感を味わいながら慈悲の瞑想をやりまくっていたのです。もちろん蛇に対してもやりました。イメージの中ですからマンガの中のようなかわいいヘビになってしまうわけですけど、それでも真剣にやっていたわけです。
そこまで徹底してやっていると、歩いていて蛇に襲われるという発想が出てこなくなるものです。この世のさまざまな煩いから解放され、僧院で瞑想だけに徹していれば、自ずから慈悲の瞑想はピュアになっていくでしょう。環境設定というか、慈悲の心になりきっていく条件に恵まれているということです。
ここから言えることは、この世的なものにドップリ浸かれば浸かるほど渇愛や執着の煩悩が刺激されるし、寺の聖域のような特殊な条件では世俗のしがらみから誰もが解放される傾向にあるということです。 「聖人は俗務に従わず」と言ったのは莊子ですが、慈悲の心を育てるには、われわれも心がける方向性を示しているのではないでしょうか。瞑想もそうですが、崇高なものやこの世を超越した世界に想いが馳せるだけでも、あまりにもこの世的な俗世にまみれ切って押し流されていたことに警鐘を鳴らしてくれるかもしれません。
もう一つ、身内に対してよりも通りすがりの赤の他人に対しての方が、純粋な優しさや慈悲の心に近いものが自然に発信できるということも考えてみるべきことでしょう。
慈悲の瞑想の最重要ファクターである「捨(ウッペカー)」の心は、自分から離れた遠い存在に対しての方がきれいに働くということがあります。
家族や身内に対しては、どうしても生々しい執着やエゴ感覚が働いてしまうのです。例えば、お母さんにとっては赤ちゃんは自分の命の象徴のような一番可愛いい存在でしょう。その赤ちゃんが熱を出して死にそうになったら、それこそ自分も死ぬほどの苦を感じるでしょう。激烈すぎる愛情は「捨(ウッペカー)」の心から遠ざかります。
ある若いお母さんが、子どもを守るためなら人を殺すことだってできるかもしれないと感じて慄然としたと言っておりました。「惜しみなく愛は奪う」とも言います。濃密な激しい愛が慈悲の世界から遠く離れていくのは、やはり「捨(ウッペカー)」の要素が弱くなるからでしょう。
純粋な優しさの流れは、むしろ血の繋がっていない人との間に起こる方が可能性として高いかも知れません。私が学生時代、地下鉄の階段を上がって外に出ると土砂降りの雨でした。呆然と突っ立っていたら、60代くらいの男性の方が「入りなさい」と傘を差し出してくれたことがあります。この方は私にとっては赤の他人だったのですが、すごく純粋な優しさを感じました。
何をしゃべっていいのか分からず、ほとんど無言で歩きながら傘に入れていただきました。何か、とても純粋な父性のような、(どの子に対しても)完全に平等で、公平で、静かな温かさを感じて、心が洗われたような感動を覚えました。純粋な、無償の愛を与えられた心地よさでした。「ありがとうございました」と礼を述べ、そのまま別れましたが、あれは慈悲の波動に包まれることがどれほど素晴らしい感覚かを暗示してくれました。
これが女の人でそれも若い人だったりしたら何か違った印象になっていて、素直に優しさを受け取れないというところがあったかもしれません。あの時の男の方の優しさは今思い出しても本当にピュアだと感じさせるものがありました。もう40年以上前の話ですが、いまだにあの方の顔をはっきり憶えています。
最後に、諸法無我を見極めることが苦楽を超えて「捨(ウッペカー)」の心に通じるもう一つの道ではないかと申し上げたい。ありとあらゆるものが相関関係の中で成り立っていることを観ていけば、親子関係がうまくいっている場合もそうではない場合も、すべては父母、祖父母、曾祖父母と続く一連の関係性の中に現れた現象にすぎないことに気づけるはずです。どんな些細な一瞬も、無量無数の諸力が働いて成立していることに気づければ、一つの対象だけやひとりの個人だけにのめり込む愛や憎しみは妄想の所産ではないか・・。ありのままに現象の本質を観じきっていけば、自ずからあらゆるものが相関関係の網目の中に織り上げられているがゆえに、平等に、公平に臨むべきではないか・・という「捨(ウッペカー)」の精神が垣間見えてくるかもしれません。
(文責:編集部)