親子関係の再確認(2)

 

Aさん:4歳と5歳の子どもがいます。瞑想会に参加するためにはどうしても子どもを置いて行かないといけませんし、また瞑想しようと早起きすると子どもも一緒に起きてしまって出来なくなることがあります。

 

アドバイス:
  お子さんに瞑想している姿を見せると良いですよ。

 

Aさん:うまくいく時もあります。それから、瞑想しているからここで寝なさいとか言って膝の上に乗せることもあります。

 

アドバイス:
  いや、膝の上では寝せないでください。膝に載せないで、お子さんが来たらサティを入れながら、「今ちょっとお母さん大事なことをしているの。終わったら遊んであげるから・・・」と言うようにすると良いですね。
  このような場合の私の答えはいつも決まっています。親が瞑想している時間というのは明らかに日常のモードとは何かが違っています。小さな子はそのバイブレーションというか雰囲気の違いが一発で分かるものです。最初は「お母ちゃん何やってんの?」とか言って遊びに来たりもしますが、「あ、これは何かちょっと違う」「何かやっているんだ」というように、特別で神聖な時間になっているという雰囲気をすぐに感じるんです。
  そうすると瞑想している時には絶対に邪魔しに来なくなります。そういうけじめはつけた方が良いんですよ。神棚のある家の子はグレないと言うような、冗談みたいなことも言われているほどですから。
  こういうことは世界的に見ても普遍的にあてはまります。つまり、境界を設定するようなある特別な時間、空間での畏怖を教えるということですね。日本で一つの例をあげれば秋田に「なまはげ」があるでしょ。大みそかの夜に鬼の面をかぶって、「悪い子はいねがー」「泣く子はいねがー」と家々をめぐる民俗行事です。これは悪を懲らしめると同時に吉をもたらす意味があると言われているのですが、それはともかく、子どもはとても怖がるじゃないですか。ああしたことはとても大事なんですよ。
  同じようなシステムは、世界のどんな民族でも長い歴史の中で多かれ少なかれ必ず持ってきました。そういうシステムの中では子どもは暴走しません。家庭内暴力で歯止めが利かないとか、手が付けられない、グレてどうしようも無いというような育ち方はしません。やはりこの世には本当に畏怖するものがあるんだという感覚を小さい頃に教えておくわけです。
  ですから、たとえ私たちみたいな普通の凡夫の親であっても、瞑想している時だけは何か神聖な畏れ多い、ちょっと近寄りがたいような雰囲気は子どもに教えておいたほうが絶対に良いですね。いずれ大人になって、人生のことで悩んだりした時には必ずそれを思い出しますから。
  「自分が子どもだった時、何か分からないけど親が普通の日常の時と明らかに違う意識状態に入っていた。あれは何だったんだろう」と言うように。そうすると、そのことから瞑想などに必然的にアクセス出来ていくという、とても良い刷り込みになっているわけです。
  つまり、瞑想の時にはけじめをつけましょうということです。そうすると、膝の上で寝かせて瞑想するのは「ない」ということです。それは日常の働きと神聖な時間とをゴッチャにするような話ですから。人を説得しようとする時、あるいは理解してもらおうとする時には、どなたでもきちんと説明するように心掛けるでしょう。これは子どもに対しても同じです。たとえ言葉は幼児語であっても、その姿勢は変わりません。瞑想は瞑想としてお子さんに堂々と毎日その姿を見せながら実践してください。子どもが小さくてもそうして夫婦で瞑想しているカップルが結構おられます。必ず分かりますよ。

 

Bさん:いま言われた「なまはげ」の例に関連しての質問ですが、畏怖というか「絶対に怖いものがある」と教えるつもりで、「なまはげ」的なものを家庭でもやれるでしょうか。

 

アドバイス:
  なぜ「なまはげ」のような民俗があるのかというと、家庭では出来ないからです。いろいろな文化での習俗を見てもそれは同じで、家という閉じた単位で行われるわけではありません。外部からとても怖いお面かぶったものがワーっと出てくる。そうすると、子どもが泣き叫んで父親や母親の胸に抱きついて守ってもらおうとする。そこは役割を分担しているわけです。
  どこかにそういう怖い、越えがたい存在があるという、それは畏怖として改めて教えるべきであって、家の中で父親や母親が「なまはげ」に似たことをするというのでは筋が違うわけです。

 

Cさん:私は瞑想を始めてからそれほど長くはありませんが、少し心は落ち着いてきて、世の中のこともわりと客観的に観られるようになった気がします。でも、まだ子どもを見ていると、今まさに欲を作っているただ中で、欲の塊のように見えてきて、そんな時には感情的になったりイライラしたり、叱る時に逆上してしまうようなこともあります。そういうのもやはりこの瞑想で何とか解決されていくものなのでしょうか。

 

アドバイス:
  怒りについては『瞑想クイックマニュアル』という本でまとめて書いてありますので、よろしかったらぜひお読みになってください。
  子どもを叱るというのは、本来は教育や躾のためにするわけですね。これから立派な人間になっていくために教えるべきことを教えるという、いわば大切なメッセージを伝える重要な行為であるわけです。ところがその時に怒りを伴っていると、そのメッセージは伝わっていきません。
  なぜなら、子どもは怒られた瞬間にはもう反射的に耳を塞ぐか、表面では聞いているようでも心の扉はしっかりと閉めているというように、防衛体制を取りますから。ですから、怒りを伴ってしまうと肝心なことは伝わらないのです。
  そうではなく、教育や躾などは落ち着いて、冷静さをもって、しかも力強くメッセージを伝えるべきなのです。たとえ声が大きかったとしても、そこに怒りが入っているかどうかはどんな小さい子でもすぐにわかります。声が大きいということと怒りをぶつけられたということとは全く別ですから。
  大人であっても、自分に向かって怒りがぶつけられているかどうか、それが分からなかったら生きていくのが難しいでしょう。何かに出会った時、相手の怒りを感じたら瞬間的に防いだり逃げたりする、あるいは逆に攻撃したりというような反射的行動を取らなければ生存が脅かされることになります。それはもちろん人間にかぎりません。生命は命を守るために怒りの波長を検出する速度が本能的にとても速くなっているのです。
  これは心理学的な実験ですでに報告されています。例えば、50人くらいの顔写真を並べておいて、中に 1枚だけ怒りの顔を入れておきます。そうすると、その怒りの顔を見つけるスピードはとても速いのです。反対に、喜んだ顔を見つけるのは遅い。つまり、怒りはすぐに相手に伝わり、相手もまたすぐにそれを察知する、そしてその逆もまたありと言うことです。
  ですから、怒りを抱きながら子どもに対して教育や躾をしようとすると、子どもには怒られた印象しか残らないという結果になりかねません。そして反射的に身をすくめて聞き流すだけ、心は閉じてしまって知らず知らずに反発する心が溜まっていくという、かえって逆効果になってしまいます。
  さらに言えば、怒りというのは最終的に人を支配するための感情だとも説明されています。つまり、言うこと聞かない時に強制的に言うことを聞かせる、その手段として最後に使う切り札のようなものですね。そこから考えても、そんな最後の手段をしょっちゅう使うのは良くないでしょう。
  そんなやり方とは全く次元が違う、しかも効果が絶大なのは慈悲の瞑想です。この瞑想会では最後にやりますからそれをしっかりと身に付けて、子どもに大事なことを伝えたい時、あるいは言うことを聞かなかったりした時に、ぜひ子どもの名前を入れて心からやってみてください。
  例をあげれば、夫婦喧嘩をして言い合いになりそうな時、相手の怒った声を聞きながら目の前で旦那さんや奥さんの名前を入れて慈悲の瞑想をやってしまうのです。そうするとたちまち大人しくなります(笑)。
  大人でもそうなのですから、子どものほうがより純粋なだけ驚くほどの結果が得られるはずです。
  慈悲の瞑想の働きについては多くの人が検証し、膨大な実例があります。先生が生徒に対して、家族が家族に対して、職場で同僚に対して、怒りモードで荒れ狂ってる時に相手の顔を見ながら「うんうん」と頷きつつも心の中で慈悲の瞑想をすると、本当にたちどころに怒りモードがなくなってしまうというレポートは枚挙にいとまが無いほどです。是非実践してみてください。

 

Dさん:父親に対する感情の問題で1DAY合宿の面接でご指導を受け、実践しています。まだ「大好き」とまではなりませんが、だんだんニュートラルな状態になってきました。そうすると、日常生活でも焦燥感とか焦りのようなものもだんだん治まってきていたんです。
  ところが、先日職場の人からきついことを言われてとても傷ついてしまい、それから瞑想していてもサティもうまく入らなくなったりとか、またモヤモヤと不安定な気持ちが沸きあがってきます。

 

アドバイス:
  幼少期の経験というのは、成人になってからのものとは違って、かなり深く入っていると言えます。ですから、終わったかなと思っても、そうではなくてまた蒸し返して出てくるケースが多いのです。そこでその都度やり直しをする。そういうことを何度も繰り返さないと完全に終わりにはできないという根深さがあります。「三つ子の魂百まで」と言いますが、3歳ぐらいを中心とした数年間の刷り込みというのは実に頑固なのです。
  もちろん、瞑想の合宿中に完全にスパッと終わったようなケースもあります。男の方で、幼いころ生まれて初めて紙パックのジュースを飲もうとした時のことだったそうです。それを口につけて飲もうとしたら、いきなり後ろから父親に、「みっともないことするな!」と怒鳴られた。それは「コップに入れて飲め」という意味だったらしいのですけれど、紙パックに入っているジュースを初めて楽しそうに飲もうとしたら、いきなりガーンと背後からものすごい恐怖がやってきたという経験をしたということになってしまいました。そうしたら、それがずーっと尾を引いていて、いろいろな所で恐怖とか不安という心の現象を引き起こしていたらしい。
  でもそのような現象の要因は自分では長い間わからなかった。それが合宿中にその幼いころの出来事にたどりついた。そしてそれを完全に自覚した時に、「今までトラウマになっていた恐怖や不安がバーンと終わりました」というように、劇的にしかも完璧に解放されたのです。このような形で問題が解けてしまうと、もうぶり返すことはありません。
  しかし先ほども言いましたように、幼児期の刷り込みはとても頑固ですし、人それぞれ経験はみな違っています。ですから、劇的にドーンと終わる場合もあれば7〜8割で道半ばだったりとか、それはさまざまなケースがあるわけです。
  ですから、最終的に解けていなければやはり何かの折にぶり返してきたりはするでしょうが、たとえそうであっても、それはそういうものだと受け止めて、出てきたときにはもう一度やり直そうという感じでやっていけば、必ず終わりになる時が来ます。頑張ってやっていきましょう。(文責:編集部)