サティの成長 (1)   --様々な場面で--

 

<中心から外れた時>
Aさん:時々集中が中心対象から外れてしまいます。そうなった時には、どう対処するのがベストでしょうか。

 

アドバイス:
  まず、どんな現象が起きても一旦中心に返すという、この命令をしっかり心に入れておいてください。
  その命令が強力に入っていれば、たとえ咳の音が聞こえても即座にサティが入って「音」とラベリングされ、自動的に中心に戻る可能性は大きくなります。
  では、命令がその時点では働かずに、サティが上手く機能しなかった場合にはどうでしょうか。その時は「誰々さんの咳だ」とか「咳をしたのは誰?」と思ったり、あるいは咳をしているイメージが浮かんだりするでしょう。その時にも、「『咳だ』と思った」とか「イメージ」というサティが入れば直ちにお腹に戻れます。
  もしそこでも入らなければ、今度は情緒的な反応が起きてきます。「風邪をひいているの かな」「気の毒に」とか、「うるさいなあ」「我慢できないのかなあ」「うつったら嫌だなあ」というような心配やら嫌悪が起きてくるかも知れません。でも、そうなっても、そこから始まる連想に巻き込まれないで、「考えた」とか「嫌悪」とサティが入ればそこで中心に戻せます。こうして中心に戻せるということは、その現象は自分にとっては完全に終了するという、いわば証ということでもあります。
  このように、私が常に「どんな現象でも必ず一旦中心に返すように」と言っている理由は、その直前の現象に心がどこまで執着していたか、執らわれていたか、という度合いを観るのにちょうど良いバロメーターになっていて、そこから離れようとする時に客観的に対処しやすくなるからです。
  肝心なのは、「あるがままに観る」ことであって、たとえ心が次々と展開していってもあるがままに観ることが出来れば、「私の心はこのようなのだ」と分かる訳です。「こんな欲があったのか」「あんなことに腹が立つのか」というように、実にいろいろな面に気づけます。ですから、かりに中心に返せないまま心が勝手にポンポンポンと行ってしまったとしても、それは起きてしまった現象ですから、それはその通りに気づけばよろしいのです。
  ただ修行の方法としては、どんな現象でもサティを入れたら一旦中心対象に戻すことを繰り返す、その作業をピンポンのようにしていくのがまず優先されます。心は組み込んだ命令を因として反応しますから、中心に戻そうという意志が明確に入っていれば必ずそう頑張ります。同様に、「適当で良いだろう」と思ったり、煩悩を容認したり世俗的なことに興味を持つという心があれば、やはりそれに相応しい反応が起きることになります。
  そうした心の特性からも、ブッダの教えをしっかり受け入れていったなら、「私は煩悩を絶対に容認しない」「煩悩を断つのだ」という決意も明確に固まってきますし、またそれが可能な状況になっていきます。そのようななかで、例えば、かつてはすぐにカーッとなったような場面に遭遇した時にも怒りが全く出なかった、というような経験をすると、「怒りが出なかった!」「私には怒りが無かった!」という自覚と喜びが生まれ、心が満たされてさらに善なる法を学んでいこうという展開になっていくでしょう。

 

Bさん:歩く瞑想の時に妄想してしまいました。でもその時は全く気づかず、後になってさっき妄想していたなと気づきました。そういう時にはどう対処すれば良いでしょうか。

 

アドバイス:
  その気づいた瞬間の状況、その事実をラベリングします。
  例えば、「○○のことを考えてしまった」と頭に浮かんだとしましょう。そうすると、「なぜ○○を思い出したのだろう?」「そう言えば、あの時こうだったからだ」等々、心は連想によってそちらに向かってしまうものです。でも、思い出した内容はすでに過去のことであり、サティという仕事とは関係ありません。その内容に執らわれてしまったら、もう現在の瞬間に気づくという作業からは外れています。
  現在の瞬間というのは、「○○のことを考えてしまったという事実」に気づいた、まさにその瞬間のことです。今まで妄想に嵌まっていても、「あ、妄想していた」と気づいた瞬間です。その「あ、妄想していた」という気づいた時にはサティは戻っているのです。集中が乱れたのは事実であって、それに気づくサティは本物です。
  このことから分かるのは、サティというのはいつでもどの瞬間にでも立ち直れるということです。「集中が乱れた」「○○のことを考えていた」と頭に浮かんだまさにその瞬間に、「妄想」「雑念」「思い出した」「回想」とラベリングをしてください。そうすると足やお腹の感覚にすぐに戻れます。
  こうして、現在の瞬間というのは次々と過去になっていきます。ですから、とにかくその瞬間を捉えて過去は潔く捨ててしまいましょう。初めのうちは内容に執らわれそうになることが多いですが、これは訓練です。めげずに頑張っていると必ずその瞬間に気づけるようになります。

 

<学習とサティ>
Cさん:受験生です。連続的な行為、例えば本を読むときなどどうやってサティを入れれば良いのでしょうか。

 

アドバイス:
  本を読むのは内容を理解するためです。内容を理解するという意味は、概念やイメージなどを把握することですから、もしその時に思考を止める瞑想をやってしまえば、内容は分からなくなってしまいます。
  ですから、例えばページをめくる時の手の感覚だけを取って、読み始めたらサティは入れないで内容を理解することだけに集中して宜しいです。ただ、読んでいて意味がキレイに取れている時もありますが、途中で何か連想が入って、「これに似たことは自分にもあるな」とか、「これはあれと関連しているようだ」というような感じで、脱線していくこともありますね。そうなったら、それに気づいて戻すようにすれば良いということですが、それはまぁ、そうしたければするというだけの話です。なぜかと言うと、集中して読むことも大事ですが、対象によっては頭の中で脱線して自分の記憶を照合させながら読むのも、時間はかかるけれど、受け取るものがより深く沁み込むということもあるからです。
  いずれにしても、自覚的であることがサティの瞑想の大切なところですから、先ずはページをめくる時の訓練をすると良いでしょう。これは入れようと思えば必ず入れられます。それから、読み始めたら今度はサティが邪魔になるので、ここは内容を理解することに集中するようにします。
  そして、正確にゴールにたどり着こうということなら、脱線した時は必ずサティが入るようにします。本を読むことから脱線して連想が続くと、「アレ、どこ読んでいたっけ?」状態になってしまいますから。ですから「脱線した」と気づきが入るように心に命令を入れておくとよろしいですね。
  ところで、学習に関連してはこういうこともありました。勉強にちょっと自信を無くしていた受験生だったのですが、「絶対出来るから」と少し励まして、サティの瞑想を始めるようアドバイスしました。そうしたら、先ず歴史の年号がどんどん覚えられるというようなことが起きて、本人もビックリしたそうです。それで、「サティってすごい!」みたいなことになって俄然意欲が湧いてきたのですが、なかなか時間がなくて瞑想のためだけに時間を取れない。そこで、私が教えたわけでもなく、その子は自分で工夫して、学習に使っていた英単語や短いセンテンスをネイティブが発音した後に1、2秒のポーズがあるCDの、そのほんの少しの空白の時間にサティを入れたそうです。そのほかにも、家に帰る時の自転車に乗っている10分間だけサティ入れるとか、とにかく隙間の時間を簡潔に利用して集中を繰り返していました。そして、結果として志望の大学へ見事に合格したのです。
  このように、英語のテープのわずか1、2秒のところにサティ入れるだけでも、やればやるほど余計な妄想は止まって頭脳は明晰になっていくものです。この子の成績がうなぎ登りに上ったのは完全に瞑想の力だと思いました。頑張ってください。

 

Dさん:いま先生が話題に出されました受験生の話ですが、ネイティブの人の発音の後のポーズにはどうサティを入れていたのでしょうか。

 

アドバイス:
  例えば、教室の昼休みなどで、皆が遊んでいる時にCDを聴いていたそうです。そして、その時椅子に座っていたとすれば、その感触を感じて「坐っている」とか、要するに中心対象なしで意識に触れたものをただやっていたのだと思います。ただポーズの間にサティを入れていたということですから。
  なぜこのやり方が学習に効果的だったのかと言えば、たとえ短い1、2秒のポーズであれ、周期的にサティ、サティ、サティと気づきを繰り返していれば、それが集中と安定した心の訓練になっていたからです。つまり、中心対象があろうがなかろうが、サティを入れた瞬間には、前頭葉のある箇所に電気信号が通るわけです。そして、それが集中して積み重ねられていくことによって、それが通る道もしっかり出来てきて、その結果、当然サティは安定し集中力もそれに伴って付いてくるということです。
  これは作業としては足し算のような話です。たとえ中心対象がなくても、現在の瞬間の事実を確認する、自覚する、気づくという仕事をすれば、その時は1個のサティが入っているわけで、この個数を増やすことがいわば修行なのです。この定義さえ崩さなければ中心対象なしで全くかまいませんし、結果として、繰り返しになりますが余計な妄想は止まって頭もクリアーになるわけです。

 

<日頃の努力を>
Eさん:人を見て嫌悪が起きて批判の気持ちが湧いた時、それにサティを入れて、慈悲の瞑想をしたらとてもたくさん言えました。そこで質問なのですが、そういうふうに不善な気持ちが起きたらそこで切ってしまった方が良いのでしょうか。

 

アドバイス:
  時間を取って瞑想をしている時には、起きた心の状態に気づくだけにしないとサティを中断して考えごとをするようなことになり、やはり瞑想修行としては良くありません。ですから、慈悲の瞑想は慈悲の瞑想として別個にやる方がよろしいのです。
  ただ、サティによっていろいろなことに気づくことができます。それは病院で検診を受けるのと似ていて、自分のいろいろな問題点がいくらでも出てきますから、瞑想が終わった段階で悪いところを列挙して紙に書き出すと良いでしょう。そして、それらについて一つ一つ治療を施すということをしていきます。
  例えば、嫌悪が多ければこうしよう、欲望が止められなければこうしようとか、心の組み替え作業にはいろいろな方法があります。サティによって自分の心のいろいろな問題点が観えてきても、ただ観えただけでは終了とならないものの方が多いですから、「何としても自分は乗り越えていくぞ」という強い決意で臨んでください。繰り返し心の訓練を行うことによって心が変わってきます

 

Fさん:会社の行き帰りや日常生活でのサティの入れ方を教えてください。(『月刊サティ』2002/1再録)

 

アドバイス:
  悟りのために人生設計をした出家なら、修行が一番の目的ですが、在家の者が日常生活を送る場合には、修行よりも目的のある行為が優先されなければなりませせん。その結果として、日常生活のサティは大ざっぱにならざるを得ませんが、それで構いません。
  足裏や腹部に中心対象を定める目的は、サマーディを高めることと、対象を徹底的に観察する仕事のためです。これは、目的を優先する日常生活では相応しくありません。サマーディよりも気づきの要素を重視すべきです。
  具体的には、中心対象を設定しないで、六門に触れた現象を無差別平等にサティしていくやり方になります。心のエネルギーを一点に絞るのではなく、今、自分は何をしているのか、何を経験しているのか、たえず気づいて、自覚できていればOKです。
  ルーティン・ワーク(決まりきった仕事)ならば、一点に集中してもよいでしょう。一点集中には、求心性のあるポジティブなエネルギーが働きますが、日常生活の中では、それは生活行動に向けるべきです。道を歩いていても、危険回避のために常に注意は注がれなければなりません。それを無視して、歩行のセンセーションに集中をかけ過ぎるのは問題です。
  ポジティブなエネルギーは行動の目的遂行のために費消させ、修行のためのエネルギーはひたすら受動的にマインドフルネスを維持するために使う。これが日常の瞑想では基本形です。
  なぜ日常生活でも、常にサティを維持すべきなのか。ひいてはなぜ、ヴィパッサナー瞑想をやるのか。その本来の目的は、煩悩が出ないようにするためなのです。苦の発生原因である煩悩と、煩悩が生れてくる心の妄想状態に気づいて、ドゥッカ(苦)のない幸福な人生を生きるためです。(文責:編集部)