人生は苦だけではない タニッサロ・ビク
翻訳部より
Thanissaro Bhikkhuのこの法話は、西洋人向けに書かれており、私たちが読むと、理解しづらい所もあります。私たちにとって不必要と思われるところは省略しました。
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皆さんは、仏教 は悲観的であり、「人生は苦だ」ということがブッダの第一の聖なる真理だという噂を、おそらく聞いたことがあるでしょう。これは、立派な大学の先生、さら には瞑想の教師によっても広められたお墨付きの噂ですが、やはり噂にすぎません。聖なる真理についての真相は、はるかに興味深いものです。
ブッダは人生について、四つ(一つではありません)の真理を説きました。それは、「苦があり、苦の原因があり、苦の終わりがあり、苦を終わらせる修行の 道がある」、というものです。これらの真理を全体として捉えると、決して悲観的ではありません。それは現実的な問題解決法であり、医者が病気に対処した り、整備士が故障したエンジンに対処したりするのと同じやり方です。まず問題を特定し、その原因を探します。それから原因を取り除いて、問題に決着をつけ ます。
ブッダの方法の特殊な点は、ブッダが取り組む問題は人間のすべての苦であり、ブッダの提供する解決法は人々が自分で取り組めるものだという点です。はし かの確実な治療法を知っている医者がはしかを恐れないのと同じように、ブッダは人間のいかなる苦をも恐れません。ブッダは完全に制約のない幸福を経験して いるので、私たちのほとんどができれば見たくない部分、つまり私たちが執着する制約付きの幸福に内在している苦を、ためらうことなく指摘します。ブッダ は、苦を否定したり苦から逃げたりするのではなく、その場にとどまり苦に立ち向かえ、と私たちに教えます。苦を慎重に吟味しろと教えます。苦を理解するこ とによって、苦の原因を突き止め、苦を終わらせることができます。しかも、完全に、です。さて、皆さんはどの程度確信が持てるでしょうか?
かなりの数の著述家が聖なる四つの真理は基本的に信頼のおけるものであると述べてきましたが、仏教が悲観的だという噂はいまだに絶えません。なぜなのか 不思議に思います。ブッダは、苦があることを第一の真理として説きはじめることによって、西洋で長い歴史を持つ問題の一つ、すなわち世界は基本的に善か悪 かという問題について、ブッダ自身の立場を表明しているようでもあります。
旧約聖書の創世記によると、神が天地創造を終えたときに最初の疑問が生じました。つまり神は、自分は善い仕事をしたのだろうか、と思ったのです。そこ で、神は世界を見まわし、善し、とされたのでした。そのときから、西洋の人々はこの答えに関して、神に賛成したり反対したりしてきましたが、そうすること によって、西洋人はその疑問がそもそも尋ねるに値するものであることを肯定してきたのです。
ヨーロッパがアジアを植民地化したとき、キリスト教と対決した唯一の仏教部派であるテーラワーダは、仏教の布教にとって脅威になると思われるキリスト教 の教えを阻止する方法を探していました。キリスト教の宣教師から教育を受けた仏教徒たちは、世界は善か悪かという疑問自体はもっともな疑問であるとみなし ました。そのうえで、キリスト教の神が「善し」と述べたことへの反証として、四聖諦の第一真理を持ち出したのです。そして、「人生がどれほど苦しいものか 見てご覧なさい。そうすれば、神のなした仕事に対する神自身の判断が受け入れがたいものであることがわかるでしょう」と言いました。
この論争戦略は、その当時、ある程度の成功を収めました。今日でも、いまだに植民地時代の過去に生きているような気持ちで、かつてと同じ論じ方によって 仏教を擁護しようとする人は少なくありません。しかし本当の問題は、そもそもブッダが、第一の聖なる真理が神の疑問への答えとなることを意図していたの か、という点にあります。さらに、より重要なことですが、その観点から第一の聖なる真理を理解するとして、そこから私たち仏教徒が最大の恩恵を受けられる のか、という問題もあります。
「人生は苦である」という言葉から、それによって到達する境地を想像するのは難しいことです。人生に苦以外のものを見ている人々にそれを想像してもらう には、時間をかけて議論しなければならないでしょう。ブッダ自身もほぼ同様のことを経典の中で述べています。あるとき、「長い爪(ディーガナカ)」という 名のバラモンがブッダのところへやって来て、「自分は何も肯定しない」と宣言しました。このとき、ブッダが望みさえすれば、人生は苦であるという真理を述 べるまたとない機会になったことでしょう。しかしブッダはそうする代わりに、人生が肯定するに値するかどうかについてその立場を明確にしようとする考え方 そのものを問いただしました。
人生が肯定するに値するかどうかという疑問に対しては、三つの回答が可能です。(1)何も肯定するに値しない、(2)全てが肯定するに値する、(3)肯 定に値するものもあれば、値しないものもある。ところが、このうちのどれを選んだとしても、残りの二つのどちらかの立場を取る人と議論することになってし まいます。それで最終的に結論が出るでしょうか。
そこで、ブッダは‘長い爪’バラモンに、第一の聖なる真理の例として、自分自身の肉体と感覚を見つめなさいと説きました。つまり、肉体も感覚も苦が多 く、たえまなく変化し、自我として執着するに値しないことを理解させようとしたのです。‘長い爪’バラモンはブッダの指示に従いました。そして、肉体と感 覚への執着を手放すことによって、ブッダが説く「不死」、すなわち苦からの完全な解放がどのようなものかを初めて一瞥し、預流者となったのです。
この話の要点は、神の疑問に答えようとすることや世界に対して判断を下すことは、時間の無駄だということです。そしてこの話は、第一の聖なる真理のより 上手な使い方を示しています。つまり、「世界」とか「人生」の観点から物事を見るのではなく、単にそこに苦があることを見いだすだけでよい、というわけで す。その結果、苦を理解し、それを手放し、解放を達成することができます。第一の聖なる真理は、私たちが物事に対して一律的な判断を下し、実質的に盲目的 な信者になることを求めているのではありません。苦という問題がどこにあるかを正確に見るよう求めているのです。
他の経典では、問題は肉体と感覚自体にあるのではないと述べられています。肉体と感覚自体は苦ではありません。肉体と感覚に執着することに苦があるので す。ブッダは第一の聖なる真理の定義で、すべての苦を「執着にまつわる五つの集合体(五蘊)」という言葉にまとめています。すなわち、肉体を含む物質的形 態(色)、感覚(受)、知覚(想)、思考の形成(行)、そして意識(識)、という五つに対して執着があるというのです。
しかし、五蘊が執着から解放されると、五蘊は長期にわたる恩恵と幸福をもたらします。もちろん、ブッダはこの「幸福」という言葉を、新聞の日曜版に載っ ているような芸術、食べ物、旅行、スポーツ、家族生活などについて使っているのではありません。ブッダは、不死へ至る道における要素として五蘊を扱うとき に生じる、確固たる幸福について語っているのです。五蘊そのものは苦でも楽でもありません。真の楽へ至る役割を五蘊がはたすか、あるいは苦へ至る役割を演 じるかは、私たちが五蘊に執着するかどうかにかかっています。
ですから第一の聖なる真理とは、簡単にいうと、「執着は苦である」ということです。肉体の苦しみが心の苦しみになるのは、執着があるからです。老、病、 死によって心に苦悩が生じるのは、執着のせいです。では、私たちはどのようにして執着するのでしょうか。経典には、四種類の執着が挙げられています。それ は、(1)官能的な激情への執着、(2)概念や見解への執着、(3)世にあるさまざまな戒律と修行への執着、(4)自我に関する考え方への執着です。
通常、心に何の執着も起こらずに一瞬が過ぎ去ることはめったにありません。たとえ特定の執着を捨てたとしても、それはその執着が別の執着の邪魔になった からというのが普通です。官能的な快楽の邪魔になるという理由で、禁欲的な考え方を捨てることもあるでしょう。あるいは、健康維持のためにすべきことにつ いての見解と相いれないという理由で、官能的快楽を捨てることもあるでしょう。
自分は何者かという見解は、「私」にまつわる数多くの観念のうちのどれが最も苦を感じているかによって、拡大したり縮小したりします。小さな心身の複合 体という限界によって自分が制約されていると感じると、自分という概念は拡大し、私は宇宙と一つであるという観念になります。いっぽう、この宇宙は残虐さ と思慮の無さと荒廃に満ちていると思い、その宇宙と同一化していることによって自分は傷ついたと感じれば、自分という概念は縮小し、小さな殻に閉じこもっ てしまいます。そしてまた、自我が有限であって取るに足りないという思いに耐えがたくなると、私たちに自我は無いという考えに飛びつくこともありますが、 じきにその考えにも耐えられなくなります。
つまり、私たちの心は籠の中の鳥のように執着から執着へと飛び移っているのです。そして、自分が囚われていることに気づくと、当然の成り行きとして、抜 け出す方法を探します。ここに、第一の聖なる真理が「人生は苦である」とは言っていないことの肝心な点があります。というのは、もし人生が苦なら、苦の終 わりをどこで探せばいいのかということになるからです。私たちには死と絶滅しか残されていないことになってしまいます。しかし、実は真理が「執着は苦であ る」ということなら、執着がどこにあるかを正確に突き止め、執着しない方法を身につければよいだけのことです。
ここで私たちは思いがけなくも、戦略家としてのブッダの大いなる手腕に出会うことになります。つまり、ブッダは私たちに、放棄しなければならない執着を とらえ、その執着を変容させることによって、執着を放棄するための道にしなさい、と説いたのです。官能の激情を乗り越えるための力を得るには、ある程度の 感覚の喜び、すなわち適切な食べ物、衣服、住居などが必要だろうというのです。また、概念や見解への執着を弱めるには、概念や見解も含めたすべてを四つの 聖なる真理に照らして見るという、正しい見方が必要だと、ブッダは説きました。さらに、世にあるさまざまな戒律と修行への執着を捨てられるよう、心の姿勢 を確固たるものにするには、五戒による摂生と瞑想の実践が必要だといいます。これらすべての基礎となるのは、自我に関するさまざまな考え方への執着を断ち 切る洞察を得ることです。そのための修行を極めるには、自己責任と自制をたもつという強固な意識が必要だと説かれたのです。
そこで私たちは、即座に執着を捨てようとするのではなく、執着のしかたをもっと戦略的にすることによって、苦の滅尽への道を歩み始めることになります。 言葉を変えていうと、現在自分がいる場所から出発し、すでに身につけている習慣を最大限に利用するのです。つまり、執着すべきより良い対象と、より上手な 執着のしかたを見つけることによって、道を進んでいくのです。それは、はしごを登って屋根へ上がるときに、下の横木を手放して上の横木をつかみ、それから さらに上の横木をつかんで登っていくのと同じやり方です。つかむ横木が地上から遠くなればなるほど、心は明晰になり、執着のありかが正確に分かるようにな ることに気づきます。
経験のどの部分がどの聖なる真理に属し、その部分をどうすればいいのかを、心はより鮮明に理解するようになります。つまり、苦である部分は理解すべきで あり、苦の原因(渇愛と無知)である部分は捨てるべきだ、ということが分かります。また、苦の滅尽に至る道をなす部分は発達させるべきであり、苦の滅尽に 属する部分は本当にそうかどうかを検証すべきだ、ということも分かります。こうなると、はしごをどんどん登っていけるようになり、やがて気づいてみたら確 かに屋根の上にいるということになります。そうなったとき、あなたはついにはしごを手放し、完全に自由になれるのです。
ですから、私たちが直面している真の問題は、神にとっての疑問、つまり神がどれほど巧みに世界や生物を創造したかに判断を下すことではないのです。私た ちにとって問題なのは、私たちがどれほど巧みに人生の素材を扱っているか、ということです。言いかえれば、私たちは単に苦の輪廻を続けるように執着してい るのか、それとも苦を減少させ、最終的には成長して、執着する必要が無くなるようなかたちで執着しようとしているのか、ということです。
私たちが四つの聖なる真理のすべてを把握し、人生には苦と苦の滅尽の両方が含まれていることを認識して人生に対処するなら、希望があります。すなわち、 人生のどの部分がどの真理に属するか選り分けることができるという希望があるのです。そして、今生でいつの日にか、「ああ、本当だ。これが苦の滅尽なん だ」と言って、ブッダと同じ見方ができるときが来るという希望もあるのです。