帰依と戒 ビク・ボディ

 

 翻訳部より

 

 ここにお送りする「帰依と戒」は仏教入門ともいうべきものです。普通私たちが仏教を学び、生活の指針とするとき、「仏教に帰依する」と表現します。日本 語で言う「帰依する」とは、「信じる、支えとする」というような意味合いを含みますが、パーリ語や英語での表現は少し違っています。パーリ語では 「Saranam gacchami」、英語では「Going for refuge」であり、共に「帰依処へ行く」という意味です。
 では、「帰依処」とは何でしょうか。大まかに言って二つの意味があるようです。一つは「依り処」ということで、これは私たちにも理解しやすいものです。 もう一つは「避難処」という意味です。「避難処」という意味合いは日本語の「帰依」という言葉からは想像しにくいものです。

 

 では、「避難処」という時、一体何から避難するのでしょうか。避難しなければならない危険が存在するのでしょうか。あるいは、私たちはどんな依り所を必 要としているのでしょうか。このあたりが、私たちの生きている世界への見方に係わることであり、テーラワーダ仏教の基礎を成している所だと思われます。今 回は、そこのところを掘り下げ、説いている法話を翻訳してみました。翻訳に当たって、「帰依処へ行く」という表現を、「帰依する」、「依り処とする」、 「避難処へ行く」、と訳し分けてみました。元々は同じ言葉の違った表現です。なお原著にあった章のうち、次のものは紙面の関係で省略してあります。(帰依 の対象について・帰依の堕落と違反・帰依についてのたとえ・八戒について)。いずれ機会を見て訳出したいと考えています。

 

 

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目次

 

T.帰依について
1、帰依処へ行く理由
2、帰依処(依り処)の存在
3、帰依するという行為
4、 帰依の役割
5、 帰依の方法

 

U.戒について
1、戒の本質的意味
2、五戒
3、戒を守ることの利点
4、戒を受け入れること
5、戒を受け入れること
6、戒を破ること
7、戒についてのたとえ

 

はじめに

 

 在家の仏教徒になるための最初の二つのステップは、帰依することと、五戒を受け入れることです。帰依することによって、私たちは人生を導く理想としての 三宝(仏・法・僧)を受け入れることを誓います。そして戒を受け入れることによって、行ないを正し、人生を導く理想と自らの行動を調和させる決意を表わし ます。これからお話しすることは、主としてブッダの教えを受け入れたばかりの人々のためのものですが、以前から伝統的に仏教徒ではあるものの、自分達のな じんできた実践の意味を知りたいと思っている人々にも役立つでしょうし、仏教徒になることの意味を知りたいと思っている人々にも役立つでしょう。

 

 

T 帰依について

 

 ブッダの教えは、特有の土台、階層、階段、屋根をもつ一種の建物と考えることができます。他の建物と同じように、ブッダの教えにも入口があり、中へ入る にはその入口から入らなければなりません。その入口にあたるのが、三宝に対する帰依です。すなわち完全な悟りを得た師であるブッダと、ブッダによって説か れた真理である法(ダンマ)と、貴い弟子たちの集まりであるサンガ、の三つに対する帰依です。

 

 はるか昔から今に至るまで、帰依することはブッダの教えの体系への入口の役割を果たしています。その入口から入って初めて、ブッダの教えを一番下の階か ら最上階まで学ぶことが許されるのです。ブッダの教えを受け入れる者は誰でも、帰依という入口から入ることによって教えを受け入れることになります。一 方、すでにブッダの教えに自らを委ねている人々も同様に、次のような三つの宣言をすることによって、常に自らの信を再確認します。

 

 ブッダン サラナン ガッチャーミ
 (私はブッダという帰依処に行きます)
 ダンマン サラナン ガッチャーミ
 (私は法(ダンマ)という帰依処に行きます)
 サンガン サラナン ガッチャーミ
 (私は僧(サンガ)という帰依処に行きます)

 

 このステップは、その後に成就されるべき高邁な成果に比べると、取るに足りないありふれたものに見えるかもしれません。しかし、それこそが仏教徒の実践 の全てを方向付け、前進する勢いを与えるものであり、その重要性は決して過小評価されてはならないのです。帰依することは、そのように決定的な役割を果た すので、その行為を次の二つの点において正しく理解することが重要です。すなわち、帰依すること自体の本質的な意味と、帰依することが、今後、仏教の道に おいて心を成長させる上でどんな影響をもたらすのか、という二点です。

 

1、帰依処へ行く理由

 

 ブッダの教えの実践が帰依にはじまるというとき、すぐさま重要な疑問が生まれます。その疑問とは、「私たちは帰依処(避難処)に対して何を求めているの か」ということです。帰依処とは、危害や危険から保護してくれる人物、場所、もしくは物です。だから、私たちが帰依による実践をはじめるとき、その実践と は、私たちを危害や危険から守ってくれるものであるという意味を含んでいます。「帰依処の必要性」をめぐるそうした疑問は、もう一つの疑問に言い換えるこ とができます。すなわち、「私たちが保護を必要とする危害や危険とは何だろうか」ということです。

 

 私たちは、自らの生活を顧みても、差し迫って個人的な危険にさらされているとは思えないかもしれません。仕事は安定しており、健康状態は良好、家族は何 不自由なく養われていて、財産もちゃんとあるかもしれない。私たちが思い浮かべるこれらすべての事柄が、自らは安全であると考えるに足る理由になっていま す。このような場合、帰依処に行くことは全く無用なことになります。

 

 帰依処(避難処)の必要を理解するために、私たちは自らの境遇が本当はどのようなものであるかについて、観察することを学ばなくてはなりません。すなわ ち、正確に、全体的な状況に照らして、私たちの境遇を見るのです。仏教の観点から見ると、人間の置かれた状況は、氷山に似ています。氷山は、氷塊の小さな 一部のみが水面に出ており、巨大な下層部は水中に隠れていて、私たちには見えません。心の視野には限界があり、私たちの洞察力は、心の表面の下まで、すな わち、心の深いところに横たわる自らの状況まで見通すことができません。しかし、見ることのできないものについて語る必要はありません。それどころか、じ かに目に映るものでさえ、私たちが正確に知覚することは稀です。

 

 ブッダは、認識とは願望に従属するものであると説いています。私たちが気付かないような巧妙な仕方で、願望は知覚を左右します。自分にとって都合のよい 鋳型にねじ込んでしまうのです。このように、私たちの心は、選択と排除を行ないながら働いています。私たちは、先入観に合う物事には注意を向けますが、先 入観を混乱させる怖れのある物事は見えなくしてしまったり、歪めて受け取ったりします。

 

 より深く、より大局的な見地から見るならば、普段抱いている安全という感覚は、私たちが気付かずにいるということと、ごまかしを行なう心の能力によって支 えられている、偽りの安全だということがわかります。私たちの境遇は、見方を限定したり歪曲したりすることによってのみ、確固としたものに見えるのです。 しかし、安全に至る本当の道とは、正確な洞察によるものであり、願望の詰まった思考によるものではありません。恐怖と危険を越えて行くには、洞察力を研ぎ 澄まし、視野を広げなくてはなりません。自らをだまして、心地よい自己満足の中に誘い込もうとする、心のごまかしを見抜き、不安げに目をそらしたり気晴ら しを追い求めたりすることなく、自らの存在の奥深くを直視しなくてはなりません。

 

 そうすると、私たちが狭い小道を横切って、危険きわまりない断崖絶壁のふちに立っていることが徐々に明らかになって来ます。ブッダの言葉によると、私た ちは沼地や絶壁に接する深い森を通り抜ける旅人のようなものです。あるいは、川で流された人が助かろうとして葦をつかもうとしているようなものであり、荒 れ狂う海を渡る船乗りのようであり、毒蛇や殺意ある敵に追いかけられている人のようです。

 

 私たちがさらされる危険は、いつも直ちに分かるほど明白なものとは限りません。しばしばそれらは捉え難く、偽装していることもあり、見つけるのが困難で す。それらの危険をただちに見出すことはできないかも知れませんが、それでも危険がそこに存在しているという、明白な事実に変わりはありません。危険から 逃れたいなら、私たちはまず、それらをありのままに認識する努力をしなくてはなりません。しかしそのためには、勇気と決意が必要です。

 

 ブッダの教えに基づけば、帰依処(避難処)を必要とする危険は、三つに分類されます。(1)現世に係わる危険 (2)来世に係わる危険 (3)生ある者が繰り返したどる過程に係わる危険
 これら各々には二つの側面があります。(A)この世界における物質的側面と、(B)私たちの精神構造に対応した主観的側面、です。各々を順番に考えてみましょう。

 

(1)現世に係わる危険
(A)物質的側面  
 私たちが直面している最も明白な危険は、肉体とそれを支えている物質が極めて脆いということです。私たちは生まれた時から、病気、事故、怪我といった危 険にさらされています。自然は、地震や洪水といった天災によって私たちを苦しめ、社会生活では、犯罪、搾取、抑圧、戦争の脅威が、私たちをさいなみます。 政治、社会、経済の各方面での出来事が、危機に陥らずに推移することはめったにありません。変革や革命への試みは必ず、停滞と暴力を経て幻滅に至るとい う、昔から繰り返されている結末に行き着きます。比較的平穏な時にあっても、私たちの生活のあり方は決して完璧ではありません。常に何かしら、ピントがは ずれつつあるように見えるのです。思わぬ障害と苦境が入れかわり立ちかわり絶え間なく続くのです。

 

 幸いにして、重大な災難から逃れることが出来たとしても、決して避けることが出来ないものが待ち受けています。それは死です。私たちは死ぬように定めら れています。あらゆる富、知識、権力を手にしていても、死という避けられない運命の前においては無力なのです。死は、生まれた瞬間から私たちに重くのしか かってきます。刻一刻と私たちは避けがたい死へと近付いています。安楽さの中で安全だと思いながら死へと引き寄せられている様は、凍った湖の上を歩きなが ら、足元の氷が割れているにもかかわらず安全だと信じ込んでいるようなものです。 

 

 私たちに迫りくる危険は、それが不確実であるせいで、更にやっかいなものになります。危険がいつ迫ってくるのか、まったく分かりません。もし災難が起こ りそうだと分かれば、少なくとも冷静にそれを受け止めるよう、事前に準備することができるかもしれません。しかし私たちは、それだけのことでさえ、未来に 対して先手を取ることができないのです。 私たちには予知する能力がありません。そのため、さまざまな希望が、ぼんやりとした嫌な予感と共に、次から次へ と立ち上がってきます。しかし、それらの希望は、すぐにでも一瞬にして、突如こなごなに砕かれてしまうかもしれません。健康は病に害され、仕事は失敗し、 友人は敵対し、最愛の人を亡くすかもしれません。これらの不運が訪れないという保証は決してないのです。死ぬことは確かだとはいえ、私たちに確実に分かっ ているのは、死が必ず襲って来るということだけです。正確にいつ死が訪れるかは、わからないままなのです。

 

(B)主観的側面
 逆境は、私たちの世界に組み込まれている客観的特徴です。この世界には災難、危機、苦境がある上、もともとそれらすべてに不確かさがつきまとっていま す。このような二重の重荷に対して、私たちは「否定的な反応」を示します。が、実はそうした反応にこそ、現世における危険の主観的側面が現れているので す。
 うわべの自信の下にずっと潜んでいた不安が、物事の不確かさにあおられて浮上するのはよくあることです。私たちは、自分が支えにしているものの不安定さ や移ろいやすさ、変化に対するもろさを、心の深いところで感じています。そうした不確かさに気づくと、心配が頭から離れなくなり、ときには不安の大波が生 じます。

 

 不安の原因をいつも特定できるとは限りませんが、心の奥底に不安はつねに潜んでいます。慣れ親しんできた支えが突然取り去られ、ふだん物事を理解したり行動を起こしたりする際の視座が失われるのではないかという、漠然とした不安があるのです。
 こうした不安があると、それだけで心は動揺します。ところがその上に、不安はしばしば的中し現実のものとなります。さまざまな出来事の展開は、私たちの 意志と係わりなく、独自の法則性に従っています。出来事の展開と私たちの意志は必ずしも一致しません。この世でもたらされる病気、喪失、死は、機が熟せば 私たちを襲います。出来事の展開が私たちの意志に反すると、苦痛と不満足が生じます。

 

 願望と現実の不一致が小さい場合でも、私たちは怒ったり、動揺したり、落ち込んだり、困惑したりするものです。不一致が大きければ、苦悶、悲嘆、絶望を 経験することになります。いずれにせよ、願望と現実との間にある溝から両者の根本的な不調和が浮かび上がり、私たちに苦をもたらすのです。
 生じた苦はそれだけでは、さして重大な意味を持ちません。しかし苦には、その下により深く根を張った病弊が潜むことを示す、兆候としての意味があるのです。その病弊は、この世界に対する私たちの態度の中に巣食っています。

 

 私たちは、期待や予想、要望によって作り上げられた心の枠組みにもとづいて行動します。さらに、現実が私たちの願望に従い、要求を受け入れ、予想どおり になることを期待します。しかし現実はそんな期待を拒絶します。期待が拒絶されると、私たちは、期待と現実の不一致から生じる苦痛と失望にさらされます。
 この苦しみから逃れるには、私たちの意志かこの世界か、二つのうちいずれかを変えなければなりません。自分の意志に合わせてこの世界の本質を変えるのが 不可能である以上、残された唯一の方法は、この世界への執着や嫌悪を捨てることによって、私たち自身を変えることです。執着を手放し、渇望と貪欲を断ち、 高揚したり落胆したりする心の揺れから離れ、物事の絶えざる変化を超然とした平静な心で眺めることを学ばなくてはなりません。

 

 世間的な対立がもたらすさまざまな変化にとらわれない、バランスのとれた平静な心こそ、この上ない避難処であり保護手段なのです。しかし私たちがこうし た平静さを得るためには、導きが必要です。とはいえ、私たちが得られる導きは、実在の逆境そのものから私たちを守ってくれるわけではありません。心配、悲 哀、落胆、絶望といった「否定的な反応」がもたらす危険から守ってくれるだけです。けれども、これが唯一可能な保護なのです。そして私たちにとって絶対必 要なそうした保護を与える導きこそ、真の依り処(帰依処)であると考えられるのです。
 以上が、帰依処(依り処)に行く、すなわち帰依することの一番目の理由です。つまり、この世で私たちを取り巻く危険に対する「否定的な反応」から自分自身を守るために、帰依処を必要としているのです。

 

(2)来世に係わる危険
(B)客観的側面
 危害や危険にさらされがちな私たちの境遇は、死によって終わるわけではありません。ブッダの教えの観点から言えば、死という出来事は、新たな生への導入 部であり、さらなる苦しみにつながる通路でもありうるのです。無明と渇愛に囚われた生きとし生けるものは再生を免れない、とブッダは説いています。生存へ の本能的欲求が変わらずにある限り、個々の生きものによる生存の流れは死後も続きます。そして前生で蓄積された心象や性質が受け継がれます。一つの生から 次の生へと転生する「魂」というものは存在しません。しかし、継続する「意識の流れ」のようなものは存在し、その中で優勢な性向に応じて、死後、新たな生 の形をとって現れます。

 

 ブッダによれば、再生は六つある生存の世界のいずれかで起こります。六つの中で最も低いところにあるのが地獄です。数々の悪業に対するそれ相応の罪滅ぼ しとして、激しい苦痛と拷問を受ける世界です。地獄の一つ上には、苦がはびこり、暴力が支配する畜生界があります。その次は、餓鬼の世界です。餓鬼とは、 決して満たされることのない強い欲望に苦しむ、薄気味の悪い存在です。これらの上にあるのが人間界です。ご存知のようにそこでは、幸福と苦しみ、美徳と悪 などが共存しています。その次に来るのが、半神である阿修羅たちの世界です。嫉妬と野望に取り憑かれた巨人の世界です。そして最上に位置するのが、神々 (デーヴァ) のいる天上界です。

 

 最初の三つの再生の世界、つまり地獄、畜生、餓鬼の世界は、阿修羅の世界と共に、「悪趣地」とか「離善地」と呼ばれています。こうした名前が付いたの は、その世界では苦が優勢だからです。これに対し、人間界や天上界は、幸福が優勢なため、「善趣地」と呼ばれます。悪趣地への再生は、その世界特有の苦だ けでなく、もう一つの理由によっても、とりわけ不幸だと考えられます。悪趣地への再生が悲惨だというのは、そこからの脱出が極めて困難だからです。善趣地 への再生は、善行(クーサラ)を積むかどうかにかかっています。しかし、悪趣地に住むものには、善行により徳を積む機会がほとんどありません。したがっ て、悪趣地の苦は、断ち切るのが大変に難しい永続的な悪循環を作ってしまいがちなのです。

 

 ブッダは言いました。「穴の一つあいたくびきが大海を漂い、盲目のウミガメが100年に一度だけ、海面に現れるとする。それでも、悪趣地に住むものが人 間界に戻る可能性にくらべれば、そのウミガメがくびきの穴に首を入れる可能性の方が高いのだ」と。悪趣地固有の苦難と、そこから逃れることの困難さという 二つの理由によって、悪趣地への再生は、来世に係わる由々しき危険であると言えます。私たちは、その危険から保護されることを必要としています。

 

(B)主観的側面
 悪趣地に転落することからの保護は、他者から得られるものではありません。悲惨な世界に再生する原因を作らないことによってのみ、保護は得られるので す。どの世界に再生するかは、私たちのカルマ(業、行い)に係わっています。つまり、私たちの意志と、意志による行いが重要になります。カルマは二つに分 類されます。善業(クーサラ)と不善業(アクサラ)です。善業は、無執着や慈悲、正見(正しい見解、理解)によって動機付けられた行為。不善業は、貪欲、 憎悪、無知によってもたらされる行為です。これら二種類の業が、二つの次元への再生を引き起こすのです。善業は善趣地への再生を、不善業は悪趣地への再生 をもたらします。

 

 私たちが悪趣地そのものを消し去ることは出来ません。この世界が存在し続ける限り、悪趣地も存続します。悪趣地への再生を避けるために私たちにできるの は、自らを観察し、行動を制御することだけです。そうすることにより、自分の行動が、悲惨な世界への再生につながる悪業の道に入り込まないようにするので す。しかし、不善業を作り出さないようにするには、助けが必要です。その理由は主に二つあります。

 

 第一に、私たちが取りうる行動の選択肢は多様で数多くあり、どれを選ぶべきか分からないことがしばしばあるので、助けが必要なのです。善か不善かが明ら かな行為もありますが、判断が難しく、直面したときに迷ってしまう行為もあります。正しい選択をするためには、導きが必要です。あらゆる行為の道徳的価値 と、さまざまな生存世界へつながる道に精通している人物による、明確な導きが必要なのです。

 

 助けを必要とする第二の理由は、善と不善の区別ができても、私たちは往々にしてまともな判断に反し、つい不善を追い求めてしまうからです。私たちの行動 は、冷静な判断にもとづく計画にいつも従っているわけではありません。それはしばしば衝動的であり、自分でも抑えたり制御したりできない非理性な欲望に駆 られることがあります。私たちはこのような衝動に屈し、自らがそうするのをなすすべなく見つめながら、不善を働いてしまいます。

 

 私たちは、自らの心を制御するようにしなくてはなりません。そうして自らの行為を、より高い智慧からもたらされる分別によって制御するのです。しかしそ れには、自らを律する必要があります。自らを律する道を学ぶには、心の微妙な働きを熟知している上、私たちを不善で自己破壊的な行動パターンへ駆り立てる 妄想を克服する道を教えてくれる人物に、導いてもらうことが必要です。これらの導きや、導きを与えてくれる人物は、将来の危害や苦から私たちを保護する手 助けをしてくれますから、真の「依り処」(帰依処)であると考えられます。
 以上が、帰依処へ行く第二の理由です。すなわち、来世において悪趣地に落ちるのを避けるため、自らの行いを制御できるようになる必要があるというわけです。

 

(3)生ある者が繰り返したどる過程に係わる危険
(A)客観的側面
 実をいうと、私たちがさらされている危険には、これまで述べてきた危険よりもはるかに大きいものがあります。今世ではっきりそれとわかる逆境や災難、 あるいは悪趣地へ落ちる危険以上に、この世の生ある者すべてに共通する根源的な危険があるのです。それが、輪廻(サンサーラ)に内在する苦です。
 輪廻とは生成の循環、つまり生、老、死の回転であり、始点のない無限の過去からずっと繰り返されています。再生は一回だけ起こるものではなく、次の生、 また次の生というふうに永遠に続きます。生の過程は何度も何度も繰り返され、新しい生を受けるたびに、死に至るまでの同様の流れをまた逐一たどります。一 つ一つの生は朽ち果てて死ぬという結末を迎え、一つ一つの死は新しい生へと続きます。

 

 再生して幸運だったり不幸だったりしますが、再生という車輪の回転は中断することがありません。一切のものは無常であるという法則は、感覚をもった生命 すべてにあてはまります。どのようなものが生まれても、やがては終わりがくるのです。輪廻から抜け出る出口は天上界にもありません。天上界に生まれるカル マが終わるとそこでの生も終わり、どこか他の世界に再生します。もしかしたら次の居場所は悪趣地であるかもしれません。

 

 輪廻を条件づけられた生きとし生けるものの状態は、それらに共通する無常性ゆえに、本質的にドゥッカ、つまり、決して満たされることのない苦であると、 智慧の目には映ります。私たちが支えとし頼りにするものはすべて、変化と死から逃れられません。ですから、私たちが慰めや快楽を求めて身を寄せるものも、 実は、隠された状態にある苦に過ぎないのです。安全を求めて私たちが頼るもの自体も、危険にさらされているし、保護してもらおうと頼みにするものも、それ 自体が保護を必要としています。私たちがずっとしがみついていたいと思うもので、消滅することなく永遠に存在できるものは何一つありません。「崩れ落ち、 滅び去る、それゆえここは『この世』と呼ばれる」

 

 若者はやがて老い、健康な者も病に倒れ、生ある者は死を迎えます。すべての出会いには別れが訪れ、別れには痛みが伴います。さらに理解が深まると、そう した状況は無限と言えるほど数多く起こっていることが分かります。始点のない無限の過去から、私たちは生存の循環の中で転生を繰り返してきました。めまい がするほどの頻度で、何度も同じ経験に遭遇しています。生、老、病、死、別れ、喪失、失敗、挫折などを経験してきたのです。

 

 私たちは、繰り返し悪趣地に落ち、数え切れないぐらい動物や霊にもなったし、地獄の住人だったこともあります。何度も何度も苦、暴力、悲しみ、落胆を経 験してきました。ブッダは、私たちが輪廻の中で流した涙と血は海の水より多く、死後に残した骨を積み上げたならばヒマラヤの山々より高くなると言っていま す。私たちは過去に数え切れないほど何度もこのような苦を経験しましたが、輪廻における循環の原因が断ち切られない限り、この先も転生を繰り返しながら、 さらにたくさん同じことを経験する危険性があるのです。

 

 訳者注:この法話によると、阿修羅の世界は人間界の上となっていますが、「アビダンマッタサンガッハ」では人間界の下に位置付けられています。

 

(3)生ある者が繰り返したどる過程に係わる危険
(B)主観的な側面
 転生を繰り返すという危険から逃れ、救われる道が一つだけあります。いかなる形の存在にもならないようにするのです。この上なく崇高な形の存在にさえな らないのです。しかしそのためには、私たちを輪廻に縛りつけている原因を断ち切らなければなりません。輪廻の世界をさまよい続ける原因は、私たち自身の中 にあります。ブッダはこう説いています。「私たちは生から生へとさまよっている。それは、自分という存在を永続させたいという、根深く飽くことのない衝動 に駆られているからだ」

 

 ブッダはこの衝動を「存在への渇愛」(バヴァ・タンハ)と呼んでいます。「存在への渇愛」がたとえ潜在的にでもある限り、生の流れが死によってはばまれ ることはありません。渇愛は、死によって生じた空白状態に橋を架け、新しい形の存在を生み出します。どんな形の存在になるかは、生前に蓄積されたカルマ (業、行い)によって決まります。このように渇愛と存在は互いにつながり、支えあっています。渇愛が新しい存在を生じさせ、その新しい存在が渇愛の下地を 作り、再び満足を追い求めるようになるのです。

 

 渇愛と転生の繰り返しとの悪しき結びつきの根底には、「無明」(アビッジャー)と呼ばれる、さらに根源的な要素があります。無明とは、物事の本性につい ての根本的無知であり、始点のない過去から続いている、精神面での気づきのない状態のことです。無明は、二つの著しい働きをします。一つは、正しい認識を あいまいにする働き。もう一つは、ゆがんだ認識と知覚の網を作り上げる働きで、私たちはその網によって物事をとらえがちです。

 

 無明のせいで、私たちは、本当なら胸が悪くなるようなものの中に美を見出したり、はかないものを永遠だと思ったり、不快なものに喜びを感じたり、一時的 で実体や自己などない現象の中に自我を見出したりするのです。このような錯覚はさらに渇愛を助長します。荷馬車から吊り下げられた目の前のニンジンをロバ が追うように、私たちは見かけが美しいもの、永遠に見えるもの、喜びや自己があるように見えるものを追い求めて、向こう見ずに突進します。が、結局何も得 られず、いっそう強く輪廻に縛りつけられるはめになるのです。

 

 こうした無駄で無益な行いの繰り返しから解放されるには、その原動力となっている渇愛を根絶する必要があります。単に一時的にではなく、完全に永久に根 絶するのです。そのためには、渇愛を支えている無明を取り除かなければなりません。無明が妄想を創り出している限り、渇愛が再生する下地が存在するからで す。
 無明をなくしてゆくのが、智慧(パンニャー)です。智慧とは、無明という覆いをはぎ取る鋭い洞察力であり、智慧があれば、「物事をあるがままに見られ る」ようになります。それは単に頭の中で行なわれる認識ではありません。智慧は、私たちの心の中での経験を通じて産み出されるべき実践的能力であり、「各 自が、端的かつ即座に」発揮しなければならないものです。

 

 智慧を目覚めさせるには、指導、助け、案内が必要です。私たちが何を理解し、何を見なければならないかを教えてくれる人物と、智慧を目覚めさせる方法が 必要なのです。転生の繰り返しに私たちを縛りつけている絆を智慧によって断ち切ることで、私たちは輪廻から解放されます。そのための手引きをしてくれる人 たちやその方々の指導は、転生という危険から私たちを保護してくれますので、真の依り処とみなすことができます。
 これが帰依処(依り処)を求める三番目の理由です。輪廻という、いつまでもついてまわる苦から逃れる必要があり、それで帰依処を求めるのです。

 

2、帰依処(依り処)の存在

 

 依り処を求めざるを得ない状況に人間が置かれていることを理解するのは、依り処へ行きたい気持ちを起こさせる必要条件ですが、それだけでは充分ではあり ません。依り処へ行くには、頼りになる依り処が現実にあることを確信しなければなりません。とはいえ、依り処があると決め込む前に、依り処(帰依処)とは 何かを正確に定義する必要があります。

 

 辞書では「帰依処」を、「危険や苦からの避難処や保護、そのような保護を与えてくれる人物や場所、そうした保護を得るための手段」と定義しています。こ の定義はパーリ語では「サラナ」の語義に相当し、パーリ語のさまざまな注釈書では、「帰依処」の意味で「サラナ」という言葉が使われています。それらの注 釈書では「サラナ(帰依処)」を説明するにあたり、「打ち砕く」という意味の「ヒムサティ」という語を用いて、「人が帰依処に行くと、まさにその行為に よって、恐れ、苦悩、苦痛、不幸な再生と煩悩をこうむる危険が打ち砕かれ、一掃され、取り除かれ、滅する」と述べています。この説明から帰依処(依り処) であるための二つの条件が分かります。

 

(1)一つ目は、依り処そのものは危険や苦を超越していなければならないということです。危険にさらされている人物やものはそれ自体が安全ではありません から、他者を保護することなどできません。恐れや危険を超越している存在のみが、保護を与えてくれるものとして信頼が置けるのです。

 

(2)二つ目は、依り処とされるものは私たちが近づけるものでなければならないということです。恐れや危険を超越した状態が近づけないものであるなら、そ れは私たちとは無関係であり、依り処としての役目を果たしません。依り処となり得るには、それが近づけるもので、危険から守ってくれる能力がなければなら ないのです。

 

 では、「依り処」の抽象的な定義はこれくらいにして、目下の具体的な問題に戻りましょう。先に論じられた三つのタイプの危険、つまり「今世で不安や挫 折、悲しみ、落胆を味わう危険」「死後悪趣地に行き着く危険」「輪廻の中で繰り返し再生する危険」から私たちを守ってくれる依り処が存在するのでしょう か。この質問の答えは慎重に出してゆかねばなりません。

 

 まず私たちが受け入れなければならないのは、客観的に証明できて皆の前に示しうるような答えはあり得ないということです。依り処というものが存在するこ とや特定の依り処の詳細を、誰にも反論できないやり方で論理的に証明することはできません。せいぜいできるのは、「ある人たちや事物は依り処としてふさわ しい」と信ずるに足る程度の、説得力ある根拠を示すことぐらいです。あとは、信念、つまり信頼から生じるある種の確信によるしかない。少なくとも、最初の 段階でいちおう認めたことが自分自身の経験を通じて明確に理解されるまでは、他に手立てはありません。しかしたとえ明確に理解できたとしても、依り処があ ることの証明は、個人の内面的な経験による主観的な事柄であり、論理的に証明したり客観的に例示したりするものではないのです。

 

 仏教的な見方からすると、危険と苦から完全に守ってくれる依り処が三つあります。それがブッダとダンマ(法)とサンガ(僧伽)です。この三つはそれぞれ 別個の依り処ではなく、一つの依り処の中で互いに関係しあっている要素であり、その性質や働きを明確にするために三つに分けられているにすぎません。その ように分ける必要がある理由は、三者が示される順番を考えると明らかになります。

 

 三者の中で最初に来るのが、人間であるブッダです。私たちは人間ですから、指導してくれたり、鼓舞してくれたり、進むべき方向を示してくれたりする、誰 か他の人間を求めるのは当然なことです。危険から究極的に解放されるか否かがかかっている時、私たちが第一に探すのは、その人自身が危険から完全に解放さ れていて、私たちを同じ安全な状態に導いてくれる人物です。それがブッダ、すなわち悟った人であり、依り処を見出してそこに到達し、はっきりと示してくれ た人物だから、三者のうちで最初に来るのです。

 

 私たちが第二に必要とするのは、(1)恐れや危険を超越した依り処の状態、(2)そこに到る道、そして、(3)道案内になる教えです。それがダンマ (法)であり、この三つの内容を示しています。第三に必要なのは、もともとは私たちのように苦悩を持った普通の人でありながら、教え導かれた道に従い、恐 れと危険を超越した安全な状態にたどり着いた人たちです。それがサンガ(僧伽)なのです。修行の道に入って目標を達成した人たちの集まりであり、他者に道 を教えられる集団です。

 

 三者は協同して、効果的な救いの手段に万人が近づけるようにしています。ブッダは依り処を示す役目を果たします。ブッダは、ブッダ自身の力によって人々 を救う救世主ではありません。救われるかどうかは私たちにかかっています。私たち自身が、教えられたことの実践に熱心に励むかどうかによるのです。ブッダ は基本的には道を詳しく説明してくれる教師であり、私たちは熱意を持ち知性を働かせて、その道を歩まねばなりません。

 

 そこで実際的な依り処となるのがダンマ(法)なのです。ダンマを、教えの到達点としてとらえるならば、それは危険から解放された安全な状態を示すもので す。道としてとらえるなら、目標に到達する手段です。そして教えを言葉で表わしたものとしてみるならば、修行の実践方法を示した教えの体系です。しかし私 たちがその方法を自在に効果的に使えるようになるには、修行の道を熟知した他者の助けが要ります。そのような道に精通した人たちの集団がサンガ(僧伽)な のです。彼らは依り処を見つける手助けをしてくれる人たちであり、私たちが道を達成できるよう導いてくれる、修行の道を歩む友人の一団です。

 

 これら三つの依り処が形づくる構造は、簡単な類推によって理解できます。私たちが病気になった時、治りたいと思ったら、病気を診断し治療薬を処方してく れる医者と、病気を治す薬と、看病してくれる介護人が必要です。医者と介護人だけでは私たちの病気は治りません。彼らに出来るのはせいぜい、正しい薬を与 え、私たちがそれを必ず飲むようにすることぐらいでしょう。薬が、健康を回復させるための、実際的な治療をするのです。

 

 

 これと同様、苦や不幸から救われたいと思う時、私たちは医者であるブッダに頼ります。ブッダは私たちの病気の原因を見つけ出し、治る方法を教えてくれま す。そしてダンマ(法)が私たちの苦を取り除く薬であり、サンガ(僧伽)は私たちが薬を飲むのを手伝ってくれる介護人なのです。治るためには薬を飲まなけ ればなりません。自分では何もせず、医者が治してくれるのを期待しているだけではいけません。同じように、苦から救われるには、ダンマを実践しなければな らないのです。なぜならば、ダンマ(法)こそ、救済された状態へ私たちを導いてくれる実際的な依り処だからです。

 

3、帰依するという行為

 

 ブッダの教えの道を歩み始めるならば、帰依する対象について知るだけでは不十分です。教えへの入口を入るには、ブッダとダンマ(法)とサンガ(僧伽)に 帰依しなければなりません。帰依する対象の意味を知ることと、帰依することは、別物なのです。「帰依する」ことによってのみ、実際にブッダの教えの道に入 ることができます。

 

 では、「帰依する」とは、どういうことでしょう。一見すると、三帰依文を唱えて三宝(仏、法、僧)に形式的な誓約をすることが、帰依であるかのように思 えるかもしれません。三帰依文を唱えるのは、ブッダの教えを受け入れることを示す行為だからです。しかし、それは、表面的な理解に過ぎません。真の帰依は 型通りの誓いにとどまるものではないと、いくつもの注釈書が明言しています。実は、帰依の言葉を唱えると同時に、「もう一つの変化」が起きているというの です。その変化とは、精神における変化であり、心の底から帰依することを指しています。

 

 注釈書の定義によると、帰依とは、ある意識が生じている状態のことです。それは、「三宝に対する確信と尊敬によって動機付けられた、煩悩のない意識であ り、三宝を最上の拠り処として受け入れた状態である」と定義されています。帰依する意識には「煩悩がない」という指摘は、目的の誠実さが必要であることを 強調しています。認められたいという欲望、プライド、非難されることへの恐れなど、不善な動機があるならば、純粋な帰依にはなりません。

 

 三宝に対する確信と尊敬だけが、帰依にふさわしい動機です。確信と尊敬により動機付けられた意識は、三宝を「最上の依り処」とします。それは、三宝を救 済の唯一の源として認めることを意味します。三つの対象(仏、法、僧)を「最上の依り処」とすることにより、帰依は、心を開いた、自己放棄の行為となりま す。私たちは、帰依の対象を前にして自己防衛をやめ、三宝の救済能力に対して心を開きます。自己を満足させたいという要求やエゴを捨て、三宝の導きによっ て混乱や動揺や痛みから解放されることを信じて、帰依するのです。

 

 意識による他の行為と同様、帰依は、数多くの要素からなる複雑な過程です。それらの要素は、精神における三つの基本的なはたらきに分けることができま す。すなわち、「知性」と「意志」と「感情」です。では、帰依という行為がどのようなものかをもっと明確にするため、外面的な行為の背後にある精神の過程 に目を向け、帰依を三つのはたらきに分けてみましょう。そして、三つのはたらきが、それぞれどのように帰依という全体に貢献しているかを見ることにしま す。つまり、帰依という行為を、「知性」と「意志」と「感情」という三つの面から調べるのです。

 

 しかし、その前に注意が必要です。どんな現象でもそうですが、ある現象を深く詳しく調べたとしても、そこには直接知覚できない深淵なものが潜んでいま す。たとえば種子は、見た目には小さな有機体の粒ですが、実際にはもっと重要な要素をはらんでいます。種子は殻の内側に、種子が生まれるまでの、樹木の全 歴史も集め持っているのです。その上、将来の樹木としての可能性もたくさん秘めています。

 

 帰依に係わる意識のはたらきにも、同様のことがいえます。帰依する時の意識のはたらきを観察してまず明らかになるのは、前や後ろや外側などあらゆる方向 へ向かおうとする意識の力の広大なネットワークが存在することです。と同時に、その意識のはたらきは、記憶のはっきりしない遠い過去から今に至るまでの数 多くの経験が寄り集まり、現在の意識を形づくっていることを、暗に表わしています。その一方で、現在の意識においては輪郭さえほとんど描かれていない、未 来への発展の可能性をも示唆しているのです。

 

 同様のことは、帰依の行為全体と、帰依を構成する各要素にも当てはまります。帰依全体にせよ各要素にせよ、私たちの目には見えない過去と未来という壮大 な歴史を伴いながら、一瞬一瞬に具現化していることを、私たちは知らなければなりません。それゆえ、「帰依という行為」を分析的に調べたとしても、それに よって分かるのは、過去の背景と将来への展開までをも含む「帰依という行為」の意味のほんの一断片でしかない、と理解すべきです。
帰依の行為に話を戻しますと、帰依は第一に、「理解」という知性のはたらきです。帰依する気持ちは尊敬と信頼によって強まりますが、帰依する行為自体は洞察力によって導かれなければなりません。盲目的感情がもたらす危険から帰依を守る、明敏な知性の導きが必要なのです。

 

 知性のはたらきは、解脱を望む熱意が現実化される方向へと、帰依の行為を導きます。知性は、目標とそこから注意をそらすものを識別し、熱心な修行者が本 来の目標追求からそれて修行が徒労に終わることの無いようにします。それで、八正道の第一に「正見」があげられているのです。悟りへの道を進むには、その 道がどこから来てどこへ向かうかを知り、ある地点から別の地点へ移るための方法についても知らなければなりません。

 

 帰依しようとする際に、知性のはたらきによってまず理解することは、存在にはそもそも不満足性(苦)があり、私たちは帰依処に頼る必要があるということ です。苦はあまねく行き渡る性質を持ち、私たちの存在の根源までも侵していることを理解しなければなりません。苦をうわべだけの一時しのぎの手段で消し去 ることはできません。徹底的な対処によってのみ、消し去れるのです。私たちはさらに、不満足と不安の原因が、私たち自身の内側、私たちの執着・貪欲・妄想 などの中にあることをも理解しなければなりません。そして、苦から自由になるには、苦の原因を絶やす道を進まなければならないことも理解する必要がありま す。

 

 私たちはまた、帰依する対象が信頼するに足るものであることも、知性をはたらかせて把握しなければなりません。ブッダの教えには苦から解放する力がある という絶対的な確信は、悟りの道が成就した後に生まれるものです。しかし、帰依の対象に私たちを助ける力があるという知的な確信は、始めの段階からなけれ ばなりません。そのためには、ブッダの生涯と徳性の記録を調べ、ブッダのことを検討する必要があります。また、教えに矛盾や不合理がないかどうかを調べな ければなりません。さらに、サンガ(僧伽)が信頼と確信に値するかどうかも検討する必要があります。これらの検討に合格した時にはじめて、三宝は私たちの 最終的な目的達成にとって信頼できる支えであると見なされるのです。

 

 知性は、帰依を決意する最初の時だけでなく、修行全体を通してはたらきます。三宝についての理解が進めば、帰依の度合いも深まり、帰依する気持ちが深ま れば、理解も促進されます。こうして理解と帰依が互いを深め合い、それが極致に達すると、世俗を超えた道が成就されるのです。この修行の道を成就して、教 えの真理を洞察すると、直接経験によって帰依処の正しさが実証されるので、帰依処への信が揺らがなくなります。

 

 帰依することは、「意志」の行為でもあります。帰依は、強制や外側からの圧力と関係なく、自発的決意によって成されるものです。パーリ語の「アパラパッ チャヤ」、つまり「他から強制されていない」選択でなければなりません。自由な選択によるこの行動は、意志に対して重要な構造改革を引き起こします。帰依 する以前、意志はさまざまな興味と関心に振り向けられていたかもしれません。しかし帰依が優勢になると、意志は新たな誓いによって統一された様式にしたが い、秩序だった状態になるのです。精神的理想が内面生活の中心になる一方、重要度の低い関心や理想にそぐわない事柄は、追い出されたり低い位置に追いやら れたりします。こうして帰依の行為は、価値観の調和をもたらします。そのように調和のとれたさまざまな価値はより高いものとなり、心の底から解脱を望む強 い願望としてまとまって、すべての行動を導く目的となるのです。

 

 帰依という行為はまた、意志を今までとは反対の方向へ確実に向かわせます。帰依する前には、意志は「自己」という意識の領域を拡大しようとして、外界へ 向かいがちです。意志は、「自己」の領域を拡張し、所有、統制、支配の範囲を広げようとします。しかし、ブッダの教えの中に依り処が見出されると、それま での意志の傾向はくつがえされ、方向転換が起こる基礎ができあがります。

 

 「自己を拡張しようとする衝動は、私たちを束縛するものの根源である」とブッダは説いています。自己拡張の衝動は、渇望や貪欲や執着から生まれ、たちまち のうちに不満足と失望に陥ります。このことが理解されると、エゴに囚われて追い求めることの危険性が見えるようになり、意志は方向転換して、離欲と無執着 へ向かいます。執着の対象は徐々に手放され、対象に貼り付いていた「私が」「私の」といった感覚も離れていきます。究極的な解放は、際限ないエゴの拡張の 中には無く、エゴという妄想を完全に根絶する中にあることが見えてきます。

 

 帰依することに係わる第三の側面は、「感情」です。帰依するには熱烈な感情だけでは不十分ですが、自らを鼓舞し向上させようとする感情の力なしには、完 全な帰依の達成は不可能です。帰依する行為の中で浮上する感情は、おもに三つあります。「確信」と「尊敬」と「親愛」です。「確信(パサーダ)」とは、帰 依処の持つ保護する力を信頼する清らかな心であり、帰依処の特質とはたらきに対する明確な理解にもとづく感情です。「確信」は「尊敬(ゴーラヴァ)」を生 み出します。この尊敬は、気高く卓越した三宝の特質に対する認識が深まると湧き起こる、畏敬、尊重、崇敬の念です。けれどもこの尊敬の念は、三宝に対し て、いつまでも控えめで形式的で打ち解けないままであり続けるわけではありません。

 

 人生に変化をもたらす法(ダンマ)の力を私たちが経験するにつれ、尊敬の念は「親愛(ペマ)」の情を呼び起こします。三宝に対する親愛の情は、精神生活 に熱意と活気を与えます。そうした親愛の情は、帰依への情熱をかき立て、その情熱は熱心な修行という形となって表われます。修行に打ち込むことによって、 私たちは、三宝(仏、法、僧)という帰依処のもつ、苦から保護し解放する力が他の人々にも及ぶよう努めることになるのです。

 

4、 帰依の役割

 

 帰依することはブッダの教えへの入口です。帰依は、ブッダの教えに沿って仏教徒をあらゆる修行の実践へと導く、入口の役割を果たします。適切な環境で修 行を行なうには、レストランで食事をする時に入口を入らなければならないのと同じく、帰依という入口を通って修行に入らなければなりません。レストランの 外に立ってウィンドウのメニューを読むだけならば、料理についてはすっかり頭に入るでしょうが、食欲の方は満たされないまま、その場を離れることになって しまいます。

 

 同様に単にブッダの教えを勉強し賞賛するだけでは、仏教の実践を始めたことにはなりません。仮に仏教の修行の要素をいくつか抜き出して自分なりに実践し ても、最初に帰依していなければ、ブッダの教えを本当に実践しているとは見なされません。そのような取り組みは、ブッダの教えから単に派生しただけの行 為、もしくは、教えと一致しているにすぎない行為でしかありません。修行の実践が「三宝に帰依する」という精神的な態度と結びつかない限り、ブッダの教え の実践にはなっていないのです。

 

 帰依の意義を明らかにするために、二人の対照的な人について考えてみましょう。一人は細かいところまで五戒にのっとり、道徳的な原則を守っています。こ の人は、仏教徒としての道徳を実践するつもりで正式に戒律を受け入れているわけではなく、生来の善悪の感覚によって自発的に、戒律が要求する行ないの基準 に従っています。つまり、生まれつき持っている道徳律の一部として戒律に従っているのです。さらに、瞑想実践も1日数時間していますが、ダンマ(法)に 従ったものではなく、ただ単に「今、ここ」における心の平安を楽しむために行なっています。その上、ブッダの教えに出会い、ありがたい教えとして尊重して はいますが、それを真理と認めて確信するまでには至っていないし、帰依したいという強い気持ちもありません。

 

 対照的にもう一人の人は、戒を完全に遵守できる環境になく、瞑想を実践する時間もありません。しかし、実践は完全にはできないものの、十分な誠実さと理 解と意志をもって、心の奥底から三宝に帰依してきました。長い目で見ると、この二人のうち、どちらの態度に、より大きな精神的価値があるでしょうか。帰依 はしていないが、五戒と同様の道徳的な行動規範を守り、1日数時間の瞑想実践をしている人と、実践は十分にできないとはいえ、心からブッダ、ダンマ、サン ガに帰依してきた人との、精神的態度の比較です。
 この事例について、経典と注釈書にはっきり書かれているわけではありません。しかし、理性的に推測する上で助けとなる記述はあります。それらの記述にも とづけば、二番目の人、つまり、はっきりと理解し誠実に帰依してきた人の精神的態度のほうが、長期的にいっそう大きな精神的価値を持っているといえそうで す。

 

 このように判断する理由は次のとおりです。一番目の人は、道徳的な行ないと瞑想実践の結果として、現世で平和と幸福を楽しむでしょうし、徳を積むことに よって、将来、好ましい再生に導かれるでしょう。しかし、積んだ徳が熟しても、徳の力は好ましい再生のために使い果たされてしまい、それ以上の精神的成長 にはつながりません。徳の結果である幸運な再生が終わりを迎えれば、それまでに蓄積されたカルマ(業)に従って他の世界に再生し、輪廻の生をめぐり続ける ことになります。こうした徳の積み方では、輪廻を超越することには直接結びつかないのです。

 

 これとは対照的に、心から三宝に帰依してきた人は、高度な実践ができなくても、帰依処を求めるという心からの行為だけで、未来の生において精神を成長さ せる基礎を作っています。とはいえ、もちろん自らのカルマの結果は刈り取らなければなりません。帰依したからといって、カルマの結果から逃れることはでき ないのです。しかしそれでも、帰依が本当に精神生活の中心に置かれているならば、帰依という精神的行為そのものが、強力な善のカルマになります。

 

 帰依は、未来の生においてもブッダの教えにめぐりあう絆の役目を果たし、いっそう成長する機会を得る助けとなります。たとえ現在のブッダの教えで悟りに 達することができなくても、未来のブッダたちの教えへと導かれ、最終的には目標を達成することができるのです。これらはすべて、帰依という精神的行為が行 なわれて初めて生じることですから、帰依することがいかに重要であるかがわかるでしょう。

 

 帰依の重要性は、「信」を種子になぞらえている経典の例えを通じて、より深く知ることができます。信は帰依を後押しする推進力ですから、信の代わりに 「帰依」を種子になぞらえてもさしつかえないでしょう。帰依するという精神的行為によって、知性、意志、感情という三つの基本的なはたらきが活動しだすこ とは、すでに説明しました。これら三つのはたらきは、帰依処を求めるという極めて単純で基本的な行為のなかにも、すでに存在します。それらは、仏教徒とし ての精神生活の花や果実へと育つ種子として、帰依という行為のなかに含まれているのです。

 

 人が帰依処を求めようとするのは、輪廻する存在としての危険と恐怖を理解するからです。こうした理解は、智慧のはたらきへと育つ種子です。やがて、その 智慧のはたらきによって、四聖諦を直接的に洞察できるようになります。決意という要素は、「離欲」への意志を生む種子です。決意は、悟りをもとめる人に渇 愛や快楽や利己的な執着を捨てさせる原動力になります。決意はまた、八正道の六番目の要素、「正精進」の実践へと育つ種子でもあります。正精進によって私 たちは、不浄で不善な心の状態を捨て、汚れのない善の心を育てる努力をします。

 

 三宝に対する献身と尊敬は、「迷いのない信」を芽生えさせる種子にもなります。「迷いのない信」とは、仏、法、僧への信頼が外からの力によって揺るがさ れることは決してないという、高潔な仏弟子としての確信です。このように、帰依するという単純な行為は、「正見(理解)」、「正精進」、「不動の信」とい う三つの高度なはたらきへと発展する種子でもあるのです。この例からも、帰依することが非常に重要であることがわかるでしょう。

 

5、 帰依の方法

 

 帰依することは、心を成長させる一つの方法です。日課の一部として毎日繰り返し、日々新たに行なうべき、精神的成長のための実践です。私たちは身体を洗 うことで、身体の手入れをします。同じように、ブッダの道に沿った成長にとって不可欠の種子である帰依を、毎日心に植え付けることによって、心の手入れも するべきです。できれば、帰依の行為を毎日二度行ない、そのつど、帰依文を三度繰り返し唱えることが望ましい。しかし、二回行なうことが困難ならば、少な くとも毎日一度は帰依文を三度繰り返し唱えましょう。

 

 日常の帰依は、聖堂あるいは仏像のある祭壇の前で行なうのが最上です。帰依文を唱える前に、ろうそくやお香、そして可能なら花の供物を捧げます。供物を 捧げた後に仏像の前で三拝し、それから跪いたまま、合掌した手を差し出します。三帰依文を実際に唱える前に、帰依の三つの対象の面前にいるという思いを起 こすため、それらを心に思い浮かべるとよいでしょう。

 

 ブッダを思い描くには、心を奮い立たせるようなブッダの絵や像を思い浮かべましょう。ダンマの象徴としては、仏教の聖典である「三蔵」があげられます。 ブッダの前に置かれた三巻の経典を思い浮かべるとよいでしょう。ダンマチャッカ、すなわち法輪も、ダンマの象徴になります。法輪は、八正道を象徴する八本 の輻(や)が、涅槃を象徴する輪の中心へと集まる形をしています。そしてその法輪は美しく輝き、金色の光を放っているのです。サンガの象徴としては、ブッ ダの両隣に、二人の偉大な弟子、サーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者がいる姿を思い浮かべればよいでしょう。あるいは、ブッダの教えに精通し、煩悩を克服 して解脱に達した阿羅漢たちが、ブッダのまわりにいる光景を思い浮かべても結構です。

 

 深い信頼と確信を起こすには、三宝のイメージをありありと思い浮かべながら、感情と確信を込めて三帰依文を唱えるとよいでしょう。瞑想実践を始めるなら ば、実践の前に三帰依文を唱えることはとりわけ重要です。三帰依文を唱えることで奮い立ち、修行上でさまざまな困難に出会っても努力を維持できるようにな るからです。ですから、集中的な瞑想を始めるために孤独な状態に入る人々は、瞑想実践に先立ち、通常の帰依文とは異なる、次のような特別な帰依文を唱えま す。

 

 「アハン アッタナン アーブッダサ ニヤッテミ ダンマッサ (私はこの一身を、ブッダ、ダンマ、サンガにゆだねます)」。身体と命を三宝にゆだねるこ とによって、行者(ヨーギ)は、修行の妨げになる障害や、達成目標に対する利己的な執着から、自分自身を守るのです。しかし、このような変形の帰依文は軽 々しく唱えるべきではありません。その結果が非常に重大だからです。特別な目的がないかぎり、毎日唱えるのは、通常の三帰依文で十分です。

U 戒について

 

  仏・法・僧という三宝に帰依することは、仏教への入口です。そこで帰依して仏教への入口を入ったならば、さらに一歩踏み込んで、ブッダの教えを実践することが必要です。ブッダの教えは、信仰による救済の方法を説くものではありません。仏教は本来、涅槃、すなわち苦の終わりへと、私たちを導く道です。最初は、この道へ進もうとする動機として、ある程度の信仰が必要です。しかし最終目標にどれだけ近づけるかは、おもに、教えの道の各段階における、私たち自身の努力と理解力にかかっています。ブッダの教えは、自分以外のものに頼って「輪廻からの解放」を達成しようとすることをいましめ、私たち自身の手に解放の達成をゆだねます。私たちはブッダの教えに従いながら、自分のために、自分の内側で、自分へのはたらきかけよって、目標を実現しなければなりません。

 

 ブッダの示す解放への道には、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャー)の三要素があります。これら三つの要素はそれぞれ、先行する要素がもとになって生じます。戒を守ることにより定が得られ、定が得られることにより智慧が出てくるのです。
 このことからわかるように、修行の道の全般にわたって基礎となるのは、「戒を守る」ことです。「戒を守る」ことは、仏教において中心的役割を担っています。ですから、真剣な修行者にとって、戒の本質的な意味とその守り方をはっきりと理解することはきわめて重要です。その理解をさらに深めるために、「五戒を守る」という最も基本的な形に的を絞って、「戒」の説明をすることにしましょう。

 

1、戒の本質的意味

 

 道徳的規律という意味のパーリ語、「シーラ(戒)」には、三つの段階があります。
(1) 内面的な徳、すなわち、優しさ、足るを知ること、純真、誠実、忍耐力などの特質を備えていること
(2)内面的な徳を外に向かって表わす、身体と言葉による徳のある行ない
(3)道徳的理想と一致するように、身体と言葉による行ないを制御する行為規則

 

 三つの段階は互いに関連し合っており、必ずしも別個の段階として区別できるものではありません。しかし、あえて区別するならば、それぞれの戒の段階は次のような役割を果たしています。
(1)「内面的な徳」としての戒は、道徳的規律を守る訓練がめざすべき「目標」
(2)「身体と言葉による清浄な行ない」としての戒は、「内面的な徳」という目標を外に向かって「明示すること」
(3)「行為規則」としての戒は、「内面的な徳」という目標を実現する体系的「方法」

 

 ですから、「内面的な徳」としての戒は、「身体と言葉による行ない」を道徳的理想と一致させることによって保たれるのです。さらに、「身体と言葉による行ない」と道徳的理想との一致は、それらの理想を具体化するための「行為規則」に従うことによって実現します。仏典は、戒には身体と言葉による行ないに調和をもたらす特質があると述べています。戒は、私たちのさまざまな行ないを、私たち自身の真の利益、他者の幸福、普遍的な道徳律と一致させることにより、それらの行ないに調和をもたらすのです。戒に反する行ないは、罪悪感、不安、後悔などを特徴とする自己分裂の状態を生じさせます。しかし、戒を守ることにより、こうした分裂は癒され、私たちの内面のはたらきは、バランスのとれた統一ある状態へと導かれます。

 

 戒は人間関係にも調和をもたらします。道徳的原則を無視すると、競争、搾取、攻撃などによって人間関係が損なわれますが、戒の原則を具体化しようとする行ないは、平和、協力、相互尊重など、人と人との友好的な関係を生み出します。戒を守ることで得られる調和は、社会的なものにとどまりません。感覚を持つ存在の世界全体を支配する「カルマの法則」、すなわち、行ないがあれば結果が生じるという、目に見えない高次元の法則とも、私たちの行ないは調和するようになるのです。

 

 ブッダの説いた道を歩むには、その基礎として徳を身につける必要があります。そのための善き行ないの指針として、一連の戒がまとめられています。ブッダの教えにみられる最も基本的な戒のまとまりが、「五戒」です。それは、次の五つの訓練規則からなります。
(1)生きものを殺さないという訓練規則
(2)与えられていないものを盗らないという訓練規則
(3)性的な不道徳をしないという訓練規則
(4)偽りを語らないという訓練規則
(5)放逸の原因となる、発酵酒や蒸留酒を飲まないという訓練規則

 

 これら五つの戒は、仏教の在家者が最小限守るべき道徳律です。五戒は、ほとんどの礼拝や儀式において三帰依のすぐ後に、僧によって在家者に授けられます。また、熱心な在家者は日課の一部として五戒の内容を唱え、それらを守ることを改めて誓います。
 戒は、道徳的な自制心を養う訓練において、中心的な役割を果たします。戒のねらいは、体系的な訓練を通して、心の中にある意志と動機を浄化することにあります。浄化された意志と動機は、徳のある言動となって表われます。戒の同意語「Sikkhapada(シッカーパダ)」は、文字どおりには「訓練の要素」という意味であり、道徳的な自制心を身につける「訓練の要素」を指しています。しかし、「行為の規則」という形で「徳を定式化すること」に対しては、今日一般に広まりつつある傾向を反映して、異論が呈されています。

 

 そうした異論を唱える、道徳全般にくわしい人々は、徳を具体的な規則として形式化する必要があるのかという疑問を投げかけます。私たちはただ善意をもって、自分の直感で善悪を判断すれば、それだけで十分だというわけです。行為の規則に従うことなど不必要であり、悪くすると、自由をさまたげる道徳観や、抑圧的で規則至上主義の倫理体系を生み出しかねないというのです。

 

 それに対する仏教の立場からの答えは次のようなものです。たしかに、徳を、一連の規則や、規則に従った表面上の行為と同一視することはできません。それでもなお、規則には内面において徳の発達を助けるという点で価値があるのです。意志のはたらきだけで人生を本質から変えられるのは、数少ない例外的な人のみです。圧倒的多数の人々は、いろいろな足がかりを頼りにしながらゆっくり前進し、「貪・瞋・痴」の激流を徐々に渡らなければなりません。

 

 仏教の核心である自己改造を道徳的訓練によって始めるならば、具体的には、五戒に示された内容と一致する行動をとるようにします。自己改造をすすめるには、そのための適切な手段である五戒を遵守することが求められるのです。五戒は外部から強制される命令ではなく、各自が自発的に受け入れる訓練の原則であり、気づきと理解を伴いながら成しとげるべき努力目標です。
 戒の文体は、「汝〜するなかれ」という表現をとりません。「生命を奪わない、という訓練規則を私は受け入れます」といった形で表現されています。すべての過程を通じて強調されるのは、自己責任です。戒は、不善な性質の代わりに善い性質を組み込む過程を通じて、徳のある性向をもたらします。

 

 戒によって禁止されている行為(殺す、盗む、性的な不道徳など)は、すべて仏教用語で「煩悩」(Kilesaキレーサ)と呼ばれる不善心所によって動機付けられています。これらの行為を故意にすすんで行なっていると、煩悩への執着が強まり、心の中で煩悩が優勢を占めるようになってしまいます。
 しかし、戒を守る訓練を始めると、私たちは不善心所の流れにブレーキをかけるようになります。そして「心所の入れ替え」が起きます。煩悩は、善心所に取って代わられ、私たちが訓練を続けるにつれ、善心所はさらに深く心に染み込んで行きます。この自己改造の過程の中で、戒は心のもう一つの法則による効果を生み出します。すなわち、「繰り返すことにより成長する」という法則です。訓練を実践してみると、はじめは心の内側からいくらかの抵抗が生じますが、理解と決意をもって何度も繰り返せば、いくつかの徳性が活性化して、わずかずつ心の構造に染み込んでいきます。

 

 私たちは一般に、さまざまな不善の感情に捉えられており、最初は否定的な心の状態から逃れられずにいます。しかし、そうした状態が苦を引き起こすことや、苦から解放されるためにはそのような状態を手放さなければならないことを理解すると、それらに立ち向かう訓練をしようという心構えをもつようになります。この訓練は、「戒を守る」という外面的な行動から始まり、その後、「瞑想」と「智慧」を通じて内面における自制へとすすみます。はじめは戒を守るのに、特別な努力を必要とするかもしれません。しかし、戒によって具体的な形で表わされる徳性はしだいに力を増し、やがて私たちの行動は、泉から湧き出る水のように、自然に戒に従っている滑らかなものになります。

 

 五戒は、他の人々との関係においていかに行動すべきかの基準となる、一連の道徳上の規則と一致するように定められています。その原則は、「自分を他人と似たものと考え、他人を自分と似たものと考えよ」と表現されています。実際にどのようにやるかといえば、自分と他人とを想像の中で置き換えるだけでよいのです。ある特定の行動方針に従うか否かを決めるさい、私たちは自分自身を基準にして、自分にとってなにが快でなにが苦かを考えます。その時に、他人は基本的に自分と似ているのだから、自分にとっての快や苦は、他人にとっても同じように快や苦であると考えるのです。そう考えれば、私たちが他人によって苦しめられたくないのと同様、私たちも他人を苦しめるべきではないと思うようになります。

 

 ブッダは次のように説明しています:
「この問題について、その高貴な仏弟子は次のように思いをめぐらす。『私はここに存在し、自分の人生を好ましく思い、死を望まない。快適さを好み、苦痛を嫌う。誰かが私の生命を奪えば、それは私にとって好ましく喜ばしいことではない。同じように、彼らも死を望まず、快適さを好み、苦痛を嫌っている。私が彼らの生命を奪えば、それは彼らにとっても好ましく喜ばしいことではないだろう。私にとって好ましくも喜ばしくもないことは、他人にとっても、好ましく喜ばしいことではない。私にとって不快な状態を、どうして他人に押し付けることができるだろうか』

 

 そのようにかえりみて、彼は生き物の生命を奪うことをやめ、他人にも生命を奪うことをしないよう奨励し、そのような自制を褒めたたえる」   「サンユッタ・ニカーヤ、55,No.7」

 

 ブッダが使ったこの演繹的な論法によって、はじめの四つの戒が導き出されます。「酒、麻薬類を使用しない」という五番目の戒は、自分の体に取り入れるものについてなので、自分自身にしか関係しないように見えます。しかしこの戒に反することは、他のすべての戒に違反し、さらには他者に害を及ぼすことにつながるので、その社会的影響は一見したところより大きいのです。したがって五番目の戒も、他の四つの戒が導き出されたのと同じ論法により導き出されることになります。

 

 仏教の説く道徳は、五戒で定められた事柄からもわかるように、否定するばかりでまったく消極的であるという批難を受けることがあります。積極的行動の理想を欠いた、単なる回避的な道徳にすぎないというわけです。この批判に対しては、いくつかの答えがあります。
 第一に、五戒はもちろんのこと、ブッダが定めたより長いさまざまな戒でさえも、仏教の道徳のすべてを表わしているわけではないということです。戒は道徳的な訓練の最も初歩的な規則を示しているだけですが、ブッダは他の道徳律も示して、建設的な徳をも明確に説いています。例えば、吉祥経では、敬意、謙虚さ、足るを知ること、感謝、忍耐、寛容などを賞賛しています。他の法話では、より良い社会を作るための家族や社会や政治の義務をたくさん定めています。これらの義務は、「無量心」と呼ばれる、「慈・悲・喜・捨」という四つの心構えを基礎としています。

 

 五戒に話を戻しますと、その否定的な表現を擁護するために、いくつか述べておくべきでしょう。五戒に含まれているそれぞれの道徳的原則には、禁止する規則によって示される「否定的側面」と、徳を育てる「建設的側面」の二つの側面があるのです。これらの側面は、それぞれ、vqritta(ワーリッタ)「回避」とcqritta(チャーリッタ)「積極的行動」と呼ばれます。第一の戒は、生命の破壊を避けることを述べているので「回避」であり、禁止の原則です。しかし、これに対応して、この戒の実践に関する記述の中には、発達させるべき建設的な資質である「共感」についても述べられています。

 

 すなわち、経典には次のように記されています。「仏弟子は、生命を傷つけないという戒を守り、棍棒も剣も持たず、良心的で、共感に満ち、生きとし生けるものの幸福を願って生きる」
 生命を傷つけないという禁止的な側面に対応して、すべての生命に対する同情と共感を育てるという建設的な側面があるのです。同じように、盗まないことは、正直さや満足することと対になり、性的な不道徳をしないことは、在家者の夫婦間における忠実さや、僧の独身主義と対になります。嘘をつかないことは、真実を語ることと対になり、酒、麻薬を使用しないことは、注意深さと対になります。

 

 このように二つの側面があることを理解しても、なお次のような疑問が湧いてくるでしょう。それぞれの戒に二つの側面があるなら、なぜ戒は禁止の言葉で言い表されているのか。共感や誠実さなどの建設的な徳を発達させる訓練規則も実践してはどうだろうか。
 これに対する答えは二つあります。第一に、建設的な徳を発達させるためには、それに対立する否定的な行ないをやめることから始めなければならないのです。建設的な徳の成長は、煩悩が野放しになっている限り、歪められるか、発展をさまたげられるだけです。殺生にふけりながら同時に憐れみを育てることはできないし、盗んだり騙したりしている時に正直さを育てることはできません。

 

 最初は、禁止という側面を重視し、不善の行為をやめることから始めなければなりません。不善の行為を避けるという基礎が出来上がった時にはじめて、建設的な行ないの要素を育てることに成功する期待がもてるのです。徳を清浄なものにしていく過程は、耕されていない土地に花を育てることに例えられます。私たちは、豊かな実りを期待して、いきなり種をまいたりはしません。まずは除草や苗床の準備など退屈な仕事から始めなければなりません。雑草を取り除き、土に栄養を与えた後にようやく、花々が順調に生育するだろうという自信をもって、種をまくことができるのです。

 

 戒が禁止的な言い回しで述べられているもう一つの理由は、建設的な徳の成長は規則によってうながすことができないからです。訓練の規則によって、外面的な行ないで「すべきことや、してはならないこと」を決めることはできますが、自分の中に何を成長させるかを決定できるのは、規則ではなく、目標となるような理想だけです。例えば、常に他者に対して愛情深くあるようにすることは、規則でできることではありません。そのような規則を押し付けられたならば、私たちは板ばさみの状態に置かれてしまいます。なぜなら、私たちの心というものは、外側からの命令に支配されるほど従順ではないからです。

 

 慈悲は、私たちが心の内側で行なう実践の結果として生じるのであり、単に戒に賛同しただけでははぐくまれません。まず私たちにできるのは、戒を受け入れ、生命を殺さず傷つけないようにすることです。そうすることにより、私たちは慈悲の心を成長させる決意ができるし(この決意はなるべく大げさに言い立てないほうがよろしい)、慈悲を成長させるための心の訓練に専念できます。
 戒の表現に関しては、もう一言つけ加えておくべきでしょう。戒は、その否定的な言い回しにもかかわらず、自分のみならず他者にもたいへん大きな建設的利益をもたらします。ブッダは次のように述べています。「生命を傷つけない人々は計り知れない安全と安心感を、数え切れないほど多くの生命に与える」

 

 一つの戒を単に守るだけで、どうしてそのような結果が生まれるかは、すぐには理解できないでしょうから、少し考えてみましょう。いま私一人だけでは、いかなる積極的行動によっても他の生命に安全と安心感を与えることはできません。世界中の畜殺場に抗議したり、延々と戦争反対の行進をしたりしたとしても、そのような行動によっては、動物虐待を止めることも戦争の終わりを確実にすることも決してできないでしょう。

 

 しかし、私が「生命を傷つけない」という戒を守るならば、その戒により私はどんな生命をも意図的に傷つけないようになります。それゆえに、私の前にいる生命は安全と安心を感じることができます。すべての生命は、私から傷つけられる恐れがないことを保証されるのです。もちろん、だからといって、他の生命が害や苦から完全に免れるようになると私が保証することはできません。それは、いかなる人間の能力をも超えた事柄です。私の能力や責任の範囲でできることは、私から他者に向かって発せられる態度や行動にかぎられます。つまり、生命を傷つけないという訓練規則によって私の態度や行動が制限されているかぎり、私の前で脅され、私から害や苦を加えられる恐れを感じる生命はいなくなるということです。

 

 同じ原則が、他の戒にも当てはまります。「与えられていないものを取らない」と私が誓うならば、誰もが私から自分の持ち物を取られるという恐れを抱かなくなります。他の存在の所持品は、私によって奪われる心配がなくなるのです。「性的な不道徳をしない」と私が誓うならば、私が他人の妻と罪を犯すという心配を誰もしなくなります。「嘘をつかない」と私が誓うならば、私と話す誰もが真実を聞いているという信頼感を持ちます。決定的に重要な事柄についても、私が述べた言葉ならば、信頼に値し確実なことと見なされるようになります。

 

 そして、私は「酒、麻薬類を使用しない」戒を守っているので、酒類が原因の犯罪や違反行為に私が決して係わらないことを、誰もが確信しています。このように五戒を守ることによって、私は心の中で五つの静かなそして力強い決意を固めていますから、計り知れない安全と安心感を多くの生命に与えることになるのです。

 

2、五戒

 

(1)第1の戒:殺生をしないこと
 五戒の第1番目は、パーリ語で「Panatipata veramani
 sikka padamsamadiyami(パーナーティパータ ウェラマニ シッカーパダン サマーディヤーミ)」、「私は生き物の命を奪わない、という訓練規則を受け入れます」というものです。「Panaパーナ」という語は「呼吸するもの」を意味します。呼吸し、意識を持つ、あらゆる生き物を意味しています。人間はもちろんのこと、動物も昆虫も含まれます。しかし、生命はあるものの、呼吸せず意識のない植物は含まれません。「生き物」という言葉は通常の言葉であり、普通によく使われる表現ですが、厳密に哲学的な用語としては「生命機能」を意味します。

 

 「atipataアティパータ」は、文字通りには「殺すこと」、つまり「殺害」や「破壊」を意味します。つまり、第1の戒は「生命を奪うのを止める(veramaniウェラマニ)こと」を定めているのです。この戒は、言い回しのうえでは「生き物を殺すこと」を禁じていますが、その根底に横たわる目的から見て、「傷つけること、不具にすること、拷問に掛けること」をも禁止していると理解されます。パーリ語の仏教の注釈書では、生命を奪う行為を次のようにきちんと定義しています。「生命を奪うことは、身体または言葉のどちらかの門を通じて表現される、『殺しの意志』である。それは生き物の生命機能を断つという結果をもたらす行為であり、その時に(行為の加害者は)生き物が存在していて、それが生き物であることを知っている」

 

 この定義で第一に注目すべき重要な点は、生命を奪う行為を「意志(cetanaチェータナー)」として定義していることです。意志は、行為(kammaカンマ)を引き起こす原因となる、心の要素(心所)です。つまり意志は、特定の目的を成し遂げるために、心の機構全体を呼び起こす働きを持っているのです。この場合の目的は「生き物の生命機能を断つこと」です。生命を奪う罪と意志を同一視しているということは、殺すという行為に対する最終的な責任が心にあることを意味します。なぜなら、その行為を引き起こす「意志」は、心の要素(心所)の一つだからです。身体と言葉の機能は、「意志」が外に向かって表出されるための門にすぎません。言い換えれば、言動は通路であり、そこを通じて、命を奪おうとする意志が表現されるのです。殺生は、一般的に身体を使って行なわれますから、肉体の行為として分類されます。しかし、殺生を本当に行なっているのは、その目的を実現する道具として身体を使う「心」なのです。

 

 二番目に注目すべき点は、殺生は直接的に身体を使って行なわれるとは限らないということです。命を奪おうとする「意志」が、言葉の門を通じて表現される場合もありうるのです。言葉や文書や身振りによって他者に与えられる、「命を奪え」という命令も、殺生の事例と見なされます。そのような命令を出す人には、生き物から命を奪う意図が達成されるやいなや、その行動に対する責任が生じます。

 

 殺生戒を完全に破ることになる殺生の行為には、つぎの五つの要件があります。(1)対象が生き物であること、(2)対象が生き物であるのを知っていること、(3)殺生を行なおうとする思考または意志、(4)殺生に向けての努力、(5)行為の結果として実際に対象が死ぬこと、の五つです。「殺生を行なう者が、対象が生き物であると知っていた時にのみ、殺生に対する責任が生じる」ことは、2番目の要件によって規定されています。ですから、もし私たちが目にしていない虫を踏んだとしても、生き物という認知や認識が欠けているので、戒は破られていません。

 

 3番目の要件は、「命を奪うことが故意である」場合にのみ、殺生戒の違反になることを述べています。単に手で蝿を追い払ううちに蝿を殺してしまった時のように、「意志」という要素がないならば、違反ではないのです。4番目の要件は、「その行為が命を奪うことに向けられている」場合にのみ、殺生戒の違反になることを述べています。5番目の要件は、「対象の生き物が、その行為の結果として死ぬ」場合にのみ、殺生戒の違反になることを述べています。生命の機能が断たれなかった場合は、生き物を害したり傷つけたりした点では殺生戒の本質的な目的には反するとはいえ、戒の完全な違反にはなりません。

 

 殺生は、その根底に横たわる動機によって、さまざまな種類に分類されます。動機を特定する基準の一つは、その行為に対しておもに責任を負うべき煩悩です。殺生の行為はすべて、三つの不善な根源、つまり、「貪欲、憎悪、迷妄」に由来します。憎悪は、迷妄とともに、殺生の直接的原因として、その行為の根っこで働いています。殺生という行為を引き起こす力は、対象の生き物を破壊しようとする衝動、つまり憎悪のひとつの形なのです。とはいえ、三つの不善な根源のいずれもが、殺生という行為を進める原因や、決定的な役割を果たす脇役として、ある期間を通じて働いています。貪欲と憎悪が同時に生じることは決してありませんが、殺生を行なう場合には、それぞれが別々の時に一定期間にわたって働き、互いに協力することがあります。

 

 おもに貪欲によって動機づけられた殺生は、物質的な利益や高い地位を得るためや、自分の満足と安全への脅威を除外するため、あるいはスポーツとしての狩りや釣りのように「楽しみを得るための殺生」の場合などに見られます。憎悪によって動機づけられた殺生は、強い嫌悪や残酷さや嫉妬を動機とする凶悪殺人の場合などに見られます。そして、迷妄によって動機づけられた殺生は、宗教的に見て善であると信じて動物を生け贄にする人々や、宗教の義務であるとして他の宗教の信者を殺す人々の場合に見られます。

 

 命を奪う行為はその道徳的な重みによって区別されています。すべての殺生の事例が同等に非難されるわけではありません。すべての殺生が不善で戒に違反するものではありますが、仏教の注釈書では、さまざまな種類の殺生にともなう道徳的な重みに区別を与えています。第一の区別は、道徳的な性質を持った生物を殺すことと、道徳的な性質を持たない生物を殺すことの間につけられています。実際上、前者は人間、後者は動物であり、人間を殺すことは動物を殺すことより倫理的に重大であると考えられています。

 

 そのうえで、動物と人間のそれぞれの区分の中で、さらなる区別が行なわれています。動物の場合、道徳的な重みの程度は、動物の大きさに比例しています。小さな動物を殺すよりも大きな動物を殺すことの方が、より非難されるべきことであると言われています。道徳的な重みを決定するその他の要因は、動物に所有者がいるかいないか、家畜か野生か、穏やかな性質か御しにくい性質か、です。道徳的な重みは、それぞれの区別において、前者のほうが大きく、後者のほうが小さくなります。

 

 人間を殺す場合、道徳的に非難される度合いは、犠牲者の個人的な資質に依ります。精神的な成長において進んでいる人や、個人的な恩人を殺すことは、精神的成長の低い人や自分と無関係の人を殺すことよりも非難されるべきことです。最も咎められるべき殺生として挙げられる三つは、「母殺し」、「父殺し」、そして「阿羅漢殺し」、すなわち完全な聖者を殺すことです。

 

 道徳的重みを決定するもうひとつの要因は、その行為の動機です。前もって計画した殺生と衝動的な殺生とは区別されます。前者は冷血な殺害であり、故意にあらかじめ計画され、強力な貪欲や憎悪によって引き起こされるものです。後者は前もって計画されていない殺害で、かっとなった時や、自己防衛で他人を殺してしまった場合です。概して、計画的殺害は衝動的な殺害よりゆゆしい犯罪と見なされます。

 

 また、憎悪という動機は貪欲の動機よりも非難されるべきものと見なされます。残酷さをともなったり、その行為から加虐による喜びを得たりした場合は、道徳的な重大性がさらに増します。道徳的重みを決定する他の要因としては、殺生の行為にともなう煩悩の力と悪事に含まれる努力の量がありますが、紙数が限られているため、それらの役割についてここで十分論議することはできません。

 

(2)第二の戒:与えられていないものを取らないこと
 二番目の戒は次のとおりです。「Adinadana veramani sikkhapadam samadiyami,アディンナーダーナー ウェラマニ シッカーパダン サマーディヤーミ」、(与えられていないものを取らない、という訓練規則を受け入れます)。「Adinna」という語を文字通りに訳すと「与えられていないもの」となります。それは、「他人が誰にも咎められることなく合法的に所有権を有している物」という意味です。したがって、所有者がいない物の場合は、取っても罪を犯すことになりません。たとえば、燃料用に薪を集めたり、壁を作るために石を集めたりしても、この戒を破ることにはなりません。

 

 さらに言うと、所有者は、非難されることなく合法的に物を所有していなければなりません。つまり、所有物について正当な権利を有しており、その物の使用にも何ら非難されるべき点があってはならない、ということです。ある物の法的所有権を取得しても、入手方法が不正だったり、倫理にもとる目的でその物を使ったりする場合には、「所有物について正当な権利を有しており、その物の使用にも何ら非難されるべき点があってはならない」という規則に、明らかに反することになります。そのような場合は、所有者からその物を取り上げる正当な根拠がありえます。たとえば、法律の定めるところによって、軽犯罪を犯した人に罰金が課されたり、あるいは合法的に所持されている武器でも、破壊目的で使用する人からはその武器を取り上げられたりするような場合です。

 

 「与えられていないものを取る」という行為は、正式には次のように定義されています。「与えられていないものを取るとは、他者が非難されるべき点なく合法的に所有している物を、他者の物だと知った上で、盗もうという意志をもって盗む行為」。第一の戒と同じく、ここで言われている戒の違反は、結局、「意思」によって成り立ちます。その「意思」が身体あるいは言葉による行動を起こさせることにより、盗むという行為が生じます。したがって、その「意思」を持った本人が、直接誰かから何かを取ることにより罪を犯す場合と、間接的に何かを取る、つまり自分が欲しい物を取るよう、他者に命令することにより罪を犯す場合があることになります。戒の基本的な目的は、個人の所有物が他者から不当に奪われるのを防ぐことにあります。そしてそれが、正直に正しく生活を営むのを促すという倫理的効果につながるのです。

 

 注釈書によると、次の五つの要件に当てはまる場合、戒の完全な違反になります。(1)その物が、非難されるべき点なく合法的に他人により所有されていること、(2)その物が他人の所有物であるのを知っていること、(3)盗むという意志があること、(4)物を取る行為を行なうこと、(5)物が実際に奪い取られること、です。二番目の条件があるので、他人の持ち物を自分の物だと思い込んで取ってしまった場合、たとえば、似たようなコート、傘などを間違えた場合などは、戒を犯したことにはなりません。三番目の条件も、故意でなく人の物を取ってしまったのは、戒の違反ではないことを示しています。五番目の条件は、所有者からその人の物を奪い取る行為があれば、それで戒の違反になるという意味です。つまり、所有者が自分の持ち物がないことに気づくかどうかにかかわらず、たとえ一瞬でもその物が所有者の管理の及ぶ範囲から取り去られれば、戒の違反になるのです。

 

 「与えられていないものを取る」ことは、さまざまな違反行為に分類できます。最もはっきりしているものから見ていきましょう。まずは「盗む」、つまり所有者に知られないように、自分に与えられていないものを取ることです。たとえば、家宅侵入による窃盗、真夜中に銀行に侵入する泥棒、スリなどの行為です。次は「強盗」です。与えられていないものを力づくで取ることで、その人の所有物をひったくる、脅してその人の手から取り上げるなどです。三番目は「欺瞞」です。他人の所有物を得るために偽りの証言をしたり、嘘をついたりすることが、これに当たります。もう一つは「詐欺」で、人の物を取ったり金儲けをしたりするために、人をだます手段を使うことです。たとえば、商店主が正確でないはかりを使ったり、紙幣を偽造して使ったりすることなどが、これに当たります。

 

 この戒の違反は、必ずしも重大犯罪になるものばかりではありません。この戒には解釈が微妙な点もあるので、往々にして違反してしまうこともありますし、取るに足らないと思えるような違反もあるでしょう。たとえば、従業員が、会社に見つからないだろうと思って、雇用者の所有する小物をくすねることも、この戒の違反に当たります。承諾を得ずに他人の電話を使って長距離電話をかけ、電話の持ち主に電話代を払わせる。関税を払いたくないがゆえに税関に申告せず、物品を国内に持ち込む。勤勉に働くことを期待され、賃金が支払われる仕事でありながら、怠けて過ごす。適切な手当を与えることなく従業員を働かせる、なども戒の違反です。

 

 与えられていない物を取る行為は、その根源を探ってみると、「貪欲」と「憎悪」から生じる場合が多く、どちらも「迷妄」と結びついています。「貪欲」が原因の盗みは、理解しやすいでしょう。しかし、「憎悪」から生ずる盗みもあります。他人の物を奪う動機が、それが欲しいからというよりも、他人がそれを所有していることが気に食わなくて、それを失わせることでその人を苦しめたいという場合は、「憎悪」が原因と言えます。

 

 盗みの行為に対して非難される度合いは、二つの基本条件で決まります。それは盗んだ物の「価値」と所有者の「道徳的資質」です。価値の高い物を盗んだ場合は、あまり価値のない物を盗んだ場合より、非難される度合いは明らかに大きくなります。しかし物の価値が同じである場合、非難の度合いは、誰に対して罪を犯したかによって変わってきます。徳の高い人や恩人から盗んだ場合は、徳のあまり高くない人や関係のない人から盗んだ場合より、重大な違反行為になります。実は、こちらの要素のほうが、物の現金価値よりもっと重要なのです。

 

 もし誰かが、瞑想に没入している僧から、食べ物の托鉢のために必要な鉢を盗んだならば、貪欲のせいで何千ドルものお金をゆすって奪うよりも、道徳的に重大な罪となるのです。行為の背景にある動機や、煩悩の影響力が、道徳的な重さの度合いを決定するものとなります。「憎悪」が原因のものは、「貪欲」が原因のものより罪が重いとされています。

 

(3)第三の戒:性的な不道徳をしないこと
 第3の戒は、つぎのように表現されています:「Kamesu micchacara veramani sikkhapadamsamadiyami カーメス ミッチャーチャーラ ウェラマニ シッカーパダン サマーディヤーミ」、(私は、感覚的な快楽に関して不道徳をしない、という訓練規則を受け入れます)。「Kamaカーマ」という言葉は、一般的に感覚的快楽や感覚的欲望という意味を持ちますが、多くの注釈書はそれを「性的関係」として説明しています。
「Micchacaraミッチャーチャーラー」とは「不道徳な行ない」を意味します。したがって、第三の戒は、不道徳で不正な性的関係を避けることを述べています。

 

 性的な不道徳は、正式には「身体の門を通して生じる性的な意図を持った『意志』であり、『不正な相手』との関係によって戒の違反を引き起こすものである」と定義されます。この定義から生まれる第一の疑問は、「不正な相手」と見なされるのは誰か、ということです。男性に関して、経典は「不正な相手」として20種類の女性をあげています。

 

 これらは三つに分類されます。(1)養育義務のある年長者などの保護下にある女性、たとえば、両親、兄や姉、その他の親戚、もしくは家族全体の保護下にある女性、(2)因習によって交際を禁じられている女性、すなわち、一族の伝統のもとで交際を禁じられている近親や、精神的修行として独身主義を守っている尼僧やその他の女性、その土地の法律によって相手として禁じられた女性、(3)他の男性と結婚または婚約している女性、あるいは一時的にせよ同意によって特定の男性と結びついた女性も含まれます。

 

 結婚している女性の場合、夫以外のいかなる男性も、「不正な相手」になります。すべての女性にとって、伝統や宗教的な規則により交際が認められていない男性は、相手として禁じられています。男性にしても女性にしても、無理強いされた、暴力的かつ強制的な結びつきは、肉体的衝動によるものであれ、心理的圧力によるものであれ、たとえ不正な相手ではない場合でも、戒の違反と見なされます。しかし、未亡人や離婚した男性や女性は、自らの選択によって自由に再婚することができます。

 

 経典は、非難されるべき戒の違反を引き起こすものとして、四つの要件を挙げています。(1)上で述べた不正な相手、(2)そのような相手との性的関係をもとうとする考えと意志、(3)性的関係の行為、4)性的関係の容認、です。最後の要件は、不適切な性的関係を不本意に強要された人を違反者と見なさない目的でつけ加えられたものです。

 

 戒の違反としての道徳的な重さの度合いは、行為の動機となる「欲望の強さ」と、行為の対象とされた「人間の資質」によって決まります。戒の違反が、高い精神性をもつ人を巻き込んでいる場合、欲望が強かった場合、あるいは力によって強要した場合は、精神性のあまり高くない相手の場合、欲望の弱い場合、または力による行使のない場合より、罪が重くなります。最も重大な戒の違反は、近親相姦と阿羅漢に対する暴行です。この戒の違反の根底にあるのはいつも、「迷妄」をともなった「貪欲」です。

 

(4)第四の戒:嘘をつかないこと
 第4の戒は、つぎのように表現されています:「Musavada veramani sikkhapadamsamqdiyamiムサーウァーダー ウェラマニ シッカーパダン サマーディヤーミ」(私は嘘をつかない、という訓練規則を受け入れます)。嘘とは、「人をだまそうとする意図をもった、身体または言葉の門を通じて起こる、不善の「意志」であり、他人をだまそうとする身体的または言葉による行為を引き起こすもの」として定義されます。

 

 戒の違反になるのは、「故意」によるものであると理解すべきです。単に間違ったことを話すだけでは違反ではなく、間違ったことを真実のように話そうとする意思が違反になります。それは嘘や人を欺く言葉と同じことです。「意志」は身体的もしくは言語的な行為として現れるといわれます。だますために言葉が用いられるということは理解しやすいですが、身体もまたコミュニケーションの道具として使われます。たとえば、書くことや身ぶり手ぶりなどの動作は、他人をだますために用いることができます。

 

 つぎの四つの要件が、“嘘をつく”という“戒の違反”を成立させます。(1)真実でない事柄を述べること、(2)他人をだまそうとする意志、(3)それを言語もしくは肉体的に表そうとする行ない、(4)他人に誤った印象を与えること、です。
 ここでも「意図」が条件になっているため、誤ったことを正しいことだと信じて話すときのように、他人をだますつもりがなくて誤ったことを話してしまった場合は、違反にはなりません。しかし、実際にだますことだけが戒の違反になるのではありません。誤った印象を他人に与えたならば、それだけで戒の違反になります。たとえ自分では虚偽の中身を信じていなくても、自分にとって偽りであることを語り、語っている内容を自分で理解しているならば、嘘をつくという“戒の違反”が成立します。

 

 嘘をつく動機は、「三つの不善な根源」のいずれでもありえます。それらの根源は、主要な三種の嘘を作り出します。(1)「貪欲」に駆られて、自らの利益を増やしたり、自分や自分にとって大切な者の地位を向上させたりすることを意図した嘘、(2)「憎悪」にもとづき、他人の幸福を壊したり、損害や苦痛を与えたりしようと意図した嘘、(3)主に「迷妄」が動機となっている、あまり深刻でない類の嘘で、さして有害でない程度の「貪欲」または「憎悪」と結びついているが、自らへの特別な利益も、他人への害も、もたらそうとする意図のない嘘。たとえば、冗談で嘘をついたり、話を面白くするために誇張したり、他人を喜ばせるためにお世辞を言ったりすること、など。

 

 違反の重大さを決定する主要な要素は、嘘の「受取人」、嘘の中でとりあげられる「対象」、そして嘘の「動機」です。「受取人」とは嘘をつかれる人です。嘘をつくことの道徳的な重大さは、受取人の人格に比例し、最も非難されるのは、恩人もしくは高い精神性を持った人への嘘です。道徳的重大さは、嘘の中でとりあげられる対象、嘘が影響をおよぼす人によっても変わり、「受取人」の場合と同様、嘘の中でとりあげられる人の精神性の質や、嘘の対象となる人と嘘をつく者との関係に比例します。

 

 そして第三に、嘘の重さはその動機によっても変わり、最も重大なのは、他人の幸福を壊すという悪意をもって嘘をつくことです。嘘をつくことにおいて最も悪い例は、ブッダや阿羅漢を中傷する目的での嘘です。また、自らの利得と地位を増すために、より高い精神的境地に達した、と嘘の主張をすることです。比丘の場合、後者の違反はサンガからの追放につながります。

 

(5)第5の戒:人を酔わせる酒類と薬物を避けること
 第5の戒はつぎのとおりです:「Surameraya majjapamadattana veramani sikkhapadamsamadiyamiスラーメーラヤ マッジャパマーダッターナ ウェーラマニ シッカーパダン サマーディヤーミ」、(私は、放逸のもととなる、発酵もしくは蒸留された「酔わせるもの」を避ける、という訓練規則を受け入れます)。「merayaメーラヤ」という言葉は「発酵した酒」を意味し、「suraスラー」はアルコールの強さと香りを増すために「蒸留された酒」を意味します。

 

 「majjaマッジャ」という言葉は、「酔わせるもの」を意味し、酒に限定する解釈と、酒以外のものも含む解釈とが成り立ちます。前者の場合は、「酔わせるものである発酵酒および蒸留酒」を意味し、後者は、「発酵酒および蒸留酒と、その他の酔わせるもの」という意味になります。二番目の解釈を採るなら、この戒の対象には、医療目的以外につかわれる、人を酔わせる「薬物」、すなわちアヘンや大麻や幻覚剤といったものも明らかに含まれることになります。しかし、一番目の解釈を採るとしても、「人を酔わせる」物質の摂取が引きおこす「放逸」を防ぐという目的からして、この戒はそうした薬物をも暗に禁止しているのです。

 

 「人を酔わせるものの摂取」と見なすかどうかは、「発酵または蒸留された『酔わせるもの』を摂取するという、身体の行為を行なおうとする『意志』があるかないか」によって決まります。人を酔わせるものの摂取は、他人の命令によるのでなく、もっぱら自らの意志によって行なわれ、身体の門を通じてのみ実行されることです。第五の戒の違反には、四つの要件があります。(1)摂取する対象が人を酔わせるものであること、(2)それを摂取しようとする意図があること、(3)それを摂取する行動をとること、(4)人を酔わせるものを実際に摂取してしまうこと、です。

 

 戒の違反の動機となる要因は、「迷妄」と結びついた「貪欲」です。他の四つの戒とは異なり、この戒の違反については、道徳的重さの格付けはありません。アルコールや麻薬類を含んだ薬を医療目的で摂取することは、戒の違反にはなりません。また、香りづけのために微々たるアルコールを含む食品を摂ることも、戒の違反にはなりません。

 

 この第五の戒は、先の四つの戒とは、つぎの点で異なります。先の四つが、その人の周囲の人々との関係に直接影響を与えるのに対して、この戒は、表面上、その人自身の体と心に係わることだけを述べています。そのため、はじめの四つの戒は明らかに道徳的なことを述べているけれども、この戒は本当に道徳的性質のものなのか、あるいは単に衛生上のものなのか、という疑問が起こるかもしれません。答えは、道徳的性質のものである、ということになります。その理由は、人が自分の体と心に対してなすことは、その人に関わる周りの人々に決定的な影響を与えるはずだからです。

 

 「人を酔わせる」酒や薬物を摂取することは、他の人々との交流のしかたに影響をあたえ、五戒の違反につながる行動を引き起こしかねません。酒や薬物など「人を酔わせるもの」の影響下では、ふだんなら抑制がきいているであろう人も、自制心を失い、不注意になり、殺し、盗み、性的不道徳、嘘といった、戒の違反を犯しやすくなります。「人を酔わせるもの」である酒や薬物を避けるという戒は、個人が自己を守ると共に、家族と社会の幸福を築くために不可欠である、という理由から定められています。したがって、この戒は、「人を酔わせるもの」である酒や薬物を摂取する結果として生じる、富の喪失や、争いごと、犯罪、病気、評判を失うこと、恥知らずな行為、怠惰と狂気などの、もろもろの不幸を、未然に防ぐことになるのです。

 

 この戒が単に「酔うこと」を禁じているのではなく、人を酔わせるものを「摂取する行為」自体を禁じていることを、ここで強調しておかなければなりません。たまに摂取することがそれだけですぐさま有害というわけではなくても、「人を酔わせるもの」である酒や薬物がもつ、人を惹きつける性質と中毒性はよく知られています。誘惑に対するもっとも強力な防衛手段は、それらをすべて避けることなのです。

 

3、戒を守ることの利点

 

 戒を受け入れることによってもたらされる利点は三つあります。(1)今生でもたらされるもの、(2)来世でもたらされるもの、(3)最高の善という利点、の三つです。これらを順番に見ていきましょう。

 

(1) 今生での利点
 ごく基本的なことですが、人は五戒を守っていると、少なくとも戒によっていましめられている行為に関しては、俗世間において罰されることがないので、法律上のトラブルに巻き込まれることがなくなります。殺生、盗み、性的不道徳、偽りの証言、酩酊によって引き起こされる無責任な行為など、法によって処罰されるべき罪があります。五戒を守っている者は、罰を課せられるような行ないを避けるので、それらの行為の結果として受ける罰も避けることが出来ます。

 

 戒を守ることによって得られる現世での利点は、他にもあります。戒に従っていると、賢者や徳のある人たちの間で信望を得やすくなります。そして、内面においては、心にやましいところがなくなってきます。基本となる道徳律である五戒を繰り返し犯していると、たとえ発覚を免れたとしても、良心は動揺しがちになります。罪の意識による苦痛、不安、後悔などにさいなまれます。しかし、戒を守っていれば、後悔にかられることもなく、安心していられます。そして、自分がしたことを振り返り、それらが健全で良いことであったと自覚すると、安心感は、「非難されることがないという安楽」へと進化します。

 

 心にやましいところがないと、さらに別の利点ももたらされます。恐れや混乱なく、安らかな死を迎えられるのです。死ぬ間際には、人生において常々してきたさまざまな行ないが、スクリーンに映し出される映像のように、心の表面に浮かび上がってきます。不善な行ないを多くしていると、その映像が優位を占め、死に近づくにつれ恐怖心が引き起こされ、混乱し苦痛に満ちた最期を迎えることになります。しかし、人生において善の行ないが優位を占めていると、反対のことが起こります。死がやって来た時、心穏やかに最期を迎えられるのです。

 

(2) 来世でもたらされる利点
 ブッダの教えによると、私たちが次の生で迎える再生の形はカルマ(業、つまり今生において意識的に行なった行為)によって決まるということです。再生の過程をつかさどる一般的法則は、「不善なカルマは不幸な再生を、善のカルマは好ましい再生をもたらす」というものです。さらに詳しく言いますと、五戒を破って作り上げられたカルマは、四つの離善地、すなわち、地獄界、餓鬼界、畜生界、阿修羅の世界のいずれかに再生する原因となります。五戒を常に破っていた人が、それにもかかわらず、いくばくかの良いカルマの結果として人間に再生したとしても、不善なカルマが結生した時には、人間界での痛みと苦しみにみまわれます。どのような苦しみにみまわれるかは、その人がどの戒の違反をしたかによります。殺生は若死にをもたらし、盗みは富の喪失を、不道徳な異性関係は憎しみを、嘘は他人からの裏切りや中傷を、酒などの摂取は理性の喪失をもたらします。

 

 一方、五戒を守っていると善のカルマが積み上げられ、人間界や天上界など、善趣地への再生につながります。このカルマはまた、未来の人生において熟成した時、守った戒に応じて好ましい結果を作り出します。殺生を避けると、長生きになります。盗みをしないと、財産に恵まれます。不倫をしないと、人望が得られます。嘘をつかないと、名声が得られます。「酔わせるもの」の摂取を慎むと、注意深さと智慧が得られます。

 

(3)最高の善という利点
 最高の善とは、涅槃に到達し、輪廻から解放されることです。その境地は、個々人の心の成熟に応じて、今生あるいはいずれかの来世において到達し得るものです。「道徳、集中力、智慧(=戒、定、慧)」という三つの段階において、解放への道、すなわち八聖道を実践することにより、涅槃に達することが出来ます。この三つの段階で一番基本となるのが道徳律、つまり戒であり、その出発点が五戒を守ることです。ですから、五戒を受け入れることは、解脱への道における最初の実際的な一歩であり、集中力や智慧といったより高い段階に到達するための欠かせない基礎なのです。

 

 戒は二つの点で、解脱への道を歩むための基礎となります。まず一点目は、戒を守ると、善悪に対するはっきりとした分別力がつくということです。それは集中力の発達には欠かせないものです。戒に反する行ないをしょっちゅうしていると、後悔にかられやすくなります。後悔は、瞑想で座っている時に、心の表面に浮かび上がってくるので、心が落ち着かなくなり、罪の意識が生じてきます。しかし、戒に従って行動していると、心は幸福感に満たされ、やましさがなくなり、たやすく集中を得られるようになります。

 

 二点目は、戒を守ると、集中力がつくということです。戒を守ることは、瞑想を乱すような相矛盾する衝動のぶつかり合いに巻き込まれる危険から、私たちを守ってくれます。平静と洞察を得るための瞑想の実践には、煩悩を静めることが必要です。ところが、故意に戒に反する行ないをしていると、私たちは、貪欲や憎悪や迷妄など不善な根源に突き動かされて、行動を起こすようになります。そのような行動にふけっていると、煩悩が呼び覚まされ、瞑想中、それらに打ち勝つための努力を強いられることになります。そのような行為の結果、自己を真っ二つに裂いてしまうような対立や不調和が生じ、瞑想により到達しようとする心の統一の障害となります。

 

 心の中の煩悩を細かいものまですべて一挙に取り除いてしまうことは、最初は期待できません。それはいずれ、より深い瞑想段階で取り組むことです。最初の段階では、粗大な煩悩が生じるのを阻止することから始めなければなりません。そのためには、粗大な煩悩が身体や言葉の回路を通じて表面化するのを抑制しなければなりません。このような抑制が、戒の真髄なのです。つまり、心の修行として、煩悩を封じ込めて噴出しないようにする手段として、戒を受け入れるのです。煩悩を封じ込めて、流出するのを阻止できたら、次には集中力を高めて瞑想を進め、煩悩の根を絶やす作業に取りかかることが出来ます。

 

4、戒を受け入れること

 

 仏教の伝統では、戒を守ることについて、三つの別々な方法が認められています。一つは「そなわった自制」と呼ばれるもので、生まれつきの鋭い道徳観あるいは教育や修行を通じて習得されたものによって、不善な行ないを自然と慎むという方法です。二つ目は「受け入れによる自制」と呼ばれるものです。正しい道への案内役としての戒を、決意をもって受け入れ、その結果として自制するという方法です。三つ目は「根絶による自制」と呼ばれるもので、煩悩から生ずる戒の違反が起きたときに、その煩悩を根絶した結果として、戒の違反をしなくなるという方法です。

 

 仏教では、自己修養の目的として、二番目の「受け入れによる自制」を重視しています。「そなわった自制」も賞賛に値しますが、修行の土台としては十分ではありません。なぜなら、それは強固な良心があることを前提としており、圧倒的多数の人にとって現実的なものでないからです。心の強さを養い、煩悩が湧き起こるのを防ぐには、熟慮の上で自らの意思によって戒を受け入れ、真剣にそれを守る決心をすることが不可欠です。

 

 正式に五戒を受け入れるには、二つのやり方があります。入門当初に行なうものと、繰り返し行なうものとです。これは、帰依の仕方が二つあるのに対応しています。入門当初行なわれる五戒の受け入れは、帰依のすぐ後に行なわれます。志望者が儀式で僧から三帰依を授かる時、それに続いて五戒も授かるのです。僧が戒を一つひとつ順番に唱え、在家の弟子がそれを繰り返します。帰依と戒の儀式を執り行なう僧がいない場合は、志望者が強く確固とした決意をもって一人で行なうこともできます。その場合、できれば仏像の前で行なう方がいいでしょう。僧が立ちあう必要はありませんが、仏弟子の伝統が受け継がれるという意味あいを持たせるためには、僧の立ちあいがあるほうが望ましいのです。

 

 戒の受け入れは一回だけ行なって、後は記憶の貯蔵庫にしまっておくというような、一度きりのものではありません。むしろ帰依と同じように、いくども繰り返し、できれば毎日行なうべきです。それが戒の受け入れのもう一つの方法、すなわち「繰り返しの受け入れ」です。仏弟子がダンマに対する信を強めるために、日々三帰依を繰り返すように、三帰依の後すぐに五戒を唱えるとよいでしょう。それは行動においてダンマを実践していくという表明です。

 

 しかし、単に戒の文言を唱えることと戒の実践を混同してはなりません。形の上で戒を唱えることは、戒を実践する決心を強める役には立ちますが、口で唱えるだけでなく、戒を日々の生活の中で、特に適切な場面で実践しなければならないのです。戒の受け入れは、列車の切符を買うようなものです。切符を買えば列車に乗ることはできますが、切符を買うだけで自動的に目的地へ運んでもらえる訳ではありません。同様に、正式な戒の受け入れにより戒の修行を始められることになりますが、その後は戒を行動に移さなくてはいけません。

 

 戒を修めようという初心がひとたび固まると、戒の遵守を保護する心所が立ち現われます。その第一はサティ(sati)、すなわち「注意深さ」です。サティとは「気づき」、「絶え間ない注意力」、「鋭い観察力」のことです。サティには、身体的活動、感覚、心の状態、思考の対象など、私たちという存在のあらゆる面への気づきが含まれます。鋭いサティが入ると、自分がいま何をしているのか、いかなる感覚や心の状態が自分に特定の行動を取らせようとしているのか、どのような思考がさまざまな動機を生むのかなどに、正確に気づくことができます。そして、このサティという手段によって、不善なものを避け、善なるものを育むことができるのです。

 

 戒を守る助けとなる第二の心所は、智慧(pannaパンニャー)、すなわち理解力です。道徳律を守る訓練は、外部から与えられた規則にただ盲目的に従うことでなされるべきではなく、自らの知性に導かれて、充分に意識的になされるべきです。智慧という心の働きは、私たちの導きとなる知性を与えてくれます。戒を正しく守るためには、自分にとってどのような行為が善で、どのような行為が不善かを理解しなければなりません。また、なぜある行為が善で、別のある行為は不善なのか、なぜ善を追求すべきで、不善は捨て去るべきなのか、その理由も理解する必要があります。理解が深まると、自分の行ないの原因、つまりその行動はどういう心所から生じているかとか、その行ないがもたらす結果、自分や他人に与える長期的影響などが見えてきます。智慧により先見の明を得ることができ、それにより結果が見えるだけでなく、他の選択肢、つまり状況を客観的に見て他の行動を取った場合のことも見えてきます。そして自分が取り得るさまざまな選択肢についての知識と、どれが他のものより良いかを見分ける分別力が備わるのです。

 

 戒を守る上で助けとなる第三の心所は、精進(viriyaヴィリヤ)、すなわち努力です。行為の指示を与えるのは心ですから、行ないを正す修行は基本的に心の訓練です。しかし心の訓練は、努力なくして行なうことはできません。心を善の回路へ導くよう努力をかたむけることによって、心の訓練ができるのです。精進はサティ(気づき)と智慧と共に働いて、私たちが次第に純正に戒を守れるようにします。サティにより、心の状態が自覚できます。智慧により、心の状態の傾向、性質、原因と結果を確かめることができます。そして精進により、不善なものを捨て、善なるものを育む努力ができるのです。

 

 戒の実践の助けとなる第四の心所は、忍耐(khantiカンティ)です。忍耐があれば、他人による不快な行動にも怒ったり仕返しを考えたりすることなく耐えることができるし、不本意な状況下でも不満や落胆を感じることなく耐えることができます。忍耐は欲や嫌悪を抑制し、欲深に追い求めることや暴力的な報復によってもたらされる罪から私たちを守ってくれます。

 

 「根絶による自制」は、戒を守る最も崇高な形であり、聖者、つまりダンマを直接理解するに到った人には、おのずと身につくものです。仏弟子が、聖者の第一段階である「預流」(流れに入る)の段階に到達すると、その人は多く生まれ変わったとしても七回の生のうちに完全に解脱することができます。悟りへの道から後退してしまうことはあり得ません。また「流れに入る」と、他人が奪うことのできない四つの資質、預流の四要素(預流支)と呼ばれるものが備わってきます。

 

 最初の三要素は、仏、法、僧へのゆるぎない信頼です。四番目の要素は、完全に純正に戒を実践する力です。高潔な仏弟子は、戒の違反を引き起こす動機となる煩悩を取り除いています。したがって、故意に戒を犯すことは決してありません。戒を守ることが「破られたり、ほころびたり、汚れがついたり、ゆらいだりすることはなく、むしろ、もろもろの束縛を解き放って、賢者の賞賛を受け、無執著をなしとげて、意識の集中を助ける」ようになります。

 

5、戒を破ること

 

 戒の受け入れとは、戒に従って生きると決意することですが、それによって戒を決して破らないことが保証されるわけではありません。私たちの決意にもかかわらず、不注意あるいは煩悩から生ずる心の状態によって、戒に反する行動を取ってしまうことがあります。そのような場合にはどうすればよいのでしょうか。
 戒を破ってしまった時にしてはならないのは、罪悪感や自己卑下に陥ることです。涅槃の状態に到るまでは、時として煩悩が現われ、不善な行ないをしてしまうものです。罪の意識や自己非難は何の解決にもならず、自己嫌悪の念を積み上げて状況を悪化させるだけです。恥の意識や道徳的な厳正さは戒を守るための基本ですが、それらと罪悪感とを混同してはなりません。

 

 戒を破ってしまった時には、いくつかの善後策があります。比丘が僧院の戒律に違反してしまった時、過ちから解放されるために講ずる方法は「懺悔」です。出家者の場合、ある種の戒律違反については、自ら犯した罪を他の僧に懺悔するだけで赦されます。同様の処置は、在家者が少々重い違反をした場合にも、少しやり方を変えれば適用できるでしょう。もし真剣に仏教の道を歩もうとしている在家の信者が多数いて、一人が戒を破ってしまったら、その人は自分の法友に逸脱したことを懺悔すればいいし、法友がいなければ、仏像の前で一人で懺悔すればよいのです。

 

 しかし、懺悔が赦しを目的としている訳ではないことは、強調しておかなければなりません。倫理的な過ちを犯したからといって、誰かが怒ることもなければ、その過ちを赦してくれる人がいるわけでもありません。また、戒の違反によって作られたカルマが、懺悔によって取り消されることもありません。カルマは意思と行ないによって生じ、時がくれば結実するものです。懺悔の基本的な目的は、戒を破ったことで深い悔恨にかられている心をきれいにすることなのです。懺悔はとりわけ、堕落を隠匿しようとするのを防ぎます。自我は、自らが思い描いている完璧さのなかでプライドを保つため、巧妙な手段で過ちを隠そうとするものです。

 

 善後策は他にもあります。五戒を受け入れなおし、僧の面前もしくは仏像の前で、戒を一つひとつ唱えることです。このように改めて戒を受け入れることは、三番目の善後策、つまり将来において再び過ちを犯さないと強く決意することにより、強化されます。この三つの方法を実行することにより、より徳の高い行ないを実践することができます。それらの行ないによって善いカルマが積まれ、戒を破ったことにより積まれた不善なカルマを中和するでしょう。しかし、カルマはしかるべき結果を生み出すものであり、その勢いが強い場合、私たちがその結果をぬぐい去ることはできません。

 

 とはいえ、カルマは常に必ず結果を生み出すものでもないのです。カルマの勢いは、複雑な因果関係のなかで互いに押したり引いたりしています。あるカルマは他のカルマの結果を強め、またあるカルマは結果を弱めます。結果が現われるのを妨げるカルマもあります。徳のある行ないにより善のカルマが作られると、そのきれいなカルマは不善なカルマを抑制し、それが形となって現われるのを阻止します。ただし、必ずそうなると保証はできません。カルマとは変化しつづけている過程であり、機械的なものではないからです。しかし、カルマの性質を理解することはできます。その性質の一つが、善のカルマは不善のカルマを中和し、望ましくない結果を防ぐというものです。したがって、戒を破った悪影響に打ち勝つうえで大いに助けとなるのは、徳のある行ないを実践することなのです。

 

6、戒についてのたとえ

 

 経典には、戒の性格を表わすのに多くのたとえ話が載っています。三つの帰依処の場合と同じように、ここではいくつかのたとえを紹介しましょう。
 戒は「清流」に例えられます。誤った行ないによりこびり付いてしまった、他の川の水では落としきれない染みを、戒が洗い去ってくれるからです。戒は「白檀」にも例えられます。古代インドにおいて、白檀は体の熱を取ると信じられており、それと同じように、戒は煩悩が発する熱を取り除いてくれるからです。戒は「高価な宝石で作られた装飾品」のようでもあります。それを身につける人をいっそう魅力的にするからです。戒は「香水」にも例えられます。戒がかぐわしい香り、すなわち「徳という香り」を発するからです。しかし戒は、普通の香水とは違い、風と逆方向にもその香りを放ちます。

 

 戒は、また「月光」にも例えられます。月が太陽の熱を冷ますように、戒が激情の熱を冷ますからです。戒は、徐々に私たちを上の段階へと導くので、「階段」のようでもあります。戒は私たちを、幸運に満ちた来世における、より高次の存在へと転生させます。あるいは、集中と智慧がより高くなる段階や、人知では知りがたい力の獲得へ導きます。そして解脱につながる道と成果を経て、最終的には涅槃への到達という最も高い目標へと導いていくのです。