僕らはみんなエゴイスト

 

 生命は残酷なシステムである。
 生命の基本プログラムである本能にそのまま従えば、おおむね悪をなすように設計されている。

 

 プライド(群れの単位)のメスライオンを狙って、若い放浪オスが年老いたリーダーを殺傷し、群れを乗っ取る。
 メスのライオンは授乳期間中は発情しないが、乳飲み児を失うとすぐに発情し、妊娠できる体制になる。
 乗っ取りに成功したオスは新たな交尾のチャンスを得るために、群れの先夫の子をつぎつぎと一頭残らず噛み殺していく……。
 アフリカの草原に繰りひろげられる「ライオンの子殺し」である。

 

 アカオザルやハヌマンラング−ルの場合もまったく同じプログラムの子殺しが観察され、一夫多妻型の霊長類を中心に現在まで に20種の生物に恐るべき「子殺し」の慣行が報告されている。

 

 これは自分の遺伝子を確実に残そうとするオスの適応戦略であり、他人の子を殺すことにより、自分の子の競争者を減らそうとする勝ち残り作戦としても説明されている。

 

 結果的に生存に有利とあらば、同種内殺戮を命令するこんなエゴイスティックな遺伝子すら継承され、蔓延してゆくのだ。

 

 托卵で孵化したカッコーのヒナは、育ての親の卵をすべて巣外に落下させ、仮り親の愛情と給餌の労力を独り占めにする。
 これほど悪辣で狡猾な悪のプログラムを種全体のDNAに組み込んでいった怖るべき意志……。

 

 ハーレムの獲得闘争に敗退した巨大な南ゾウアザラシは、メスの幼獣を無慈悲にも強姦して欲望を満たそうとする。

 

 動物に生まれれば、非情な利己主義の原理に支配されながら、おおむね略奪と殺しの日々で生涯を了えるだろう。ク−サラ(kusala:善行)をなすことは至難の業となり、動物⇔地獄、動物⇔餓鬼,の再生をなんども繰り返さなければならない。

 

 自分さえよければ…というエゴイズムの起源は、自らのコピーを複製し続けようとする遺伝子の利己的な振る舞いに求められる。

 

 生存を妄執する<無明>のエネルギーが、DNAの利己的なシステムを作り出したと言ってもよい。

 

 限りなく自己複製を続けようとする盲目的な我執のエネルギーこそが、生命の本質そのものなのである。

 

 外界のエネルギーを貪り取りながら(代謝)、自己保存と自己複製だけを考えているのが生命であるならば、生命としての存在に逆らうほどのエネルギーがなければ、善はなし難いことが理解される。
  〈善をなす〉とは、貪瞋痴と正反対のエネルギーを放つことだからである。

 

 生命科学の立場からは、『性善説』や『自性清浄心』などただの観念にすぎない。
 遺伝情報からは、殺しも盗みもウソも不倫も勝手にしろ、である。

 

 DNAは自己保存さえ保証されるなら、どんな極悪のプログラムでも作成するだろう。

 

 解脱しないかぎり無明の不善エネルギーを放たないものはなく、無明があればドゥッカ(苦)があり、一切皆苦の真理は全存在を普遍的に貫いている。

 

 どうしたらよいのだろう。

 

 生命システム上の救いは、遺伝情報を修正する後天的な学習のプログラムが存在することである。

 

 本能行動はなんの練習も経験も必要としない生得的なものである。
 教えられなくてもお腹の空いた赤ちゃんは乳首の吸飲行動を開始する。

 

 しかし遺伝的な本能行動だけでは環境の変化に応じきれなくなり、その結果、多くの哺乳類がそうであるように,学習によって遺伝情報を修正しながら、刺戟・反応系の行動パタ−ンを完成するシステムが登場した。

 

 群れ全体の意志や、環境からの情報が、先天的な遺伝情報で決定された個体に影響を及ぼし、変化を促すのも確かな事実である。

 

 「経験によって行動が変化する過程」を学習という。

 

 この点にこそ、倫理的行動規範である『戒』の受け入れと順守の意義がある。

 

 学習によって組み込まない限り、人は善をなすことはできないだろう。

 

 狼の学習プログラムを刷り込まれた少女は、狼の反応系で行動する……。

 

 ブッダの教えの骨子である『戒→定→慧』の三学は、生命システムの自然摂理に逆らうものである。
 テーラワーダ仏教は、すべての生命にとって本来的な煩悩のエネルギーと闘い、心を浄らかにしていく清浄道なのである。

 

 まず『五戒(@生命を傷つけない。A与えられていないものを取らない。B不倫をしない。C嘘をつかない。Dお酒や麻薬などで酩酊しない)』の受け入れがなければ、ブッダの教えの入り口にすら入れない。

 

 われわれには『戒』を守る自由があるが、しかしそんな『戒』など守らんでもよい、とDNAは囁くだろう。
 その声は体の奥底から力強く響いてくるだろうが、『戒』を守ることによってブッダのプログラムを組み込んだ者は、いつの日かやがて解脱を完成し、常に正しい善の心で反応行動することができるようになるだろう。

 

 諸悪幕作(諸々の悪しきことをなさず)
 衆善奉行(あらゆる善行を行ない)
 自浄其意(自己の心を浄らかにしていく)
 是諸仏教(これがブッダ達の教えである) (ダンマパダ・183)

 

 悪をなすのが生命の自然なのだが、その摂理に逆らって、いつの世のブッダも〈諸悪幕作〉を説き、〈衆善奉行〉を行動理念にしつつ、心を浄らかにしていく道を示したのである。

 

  「……比丘たちよ、これは衆生の心を浄らかにし、心痛や悲しみをのり越え、苦悩と憂いを滅し、聖なる道を達成させ、涅槃を見るための唯一の道である。このただ一つの道とは四つの念住(ヴィパッサナーの瞑想対象である身・受・心・法)である」(大念住経)  

 

 自己の言動を浄らかにし、自己の想念世界を浄らかにし、そして自己の心を浄らかにする究極は、ヴィパッサナー瞑想で涅槃を見る瞬間に完成する。

 

 これが、テーラワーダ仏教が私たちに示しているブッダの方法である。