特集サマーディB 56億7千万光年のサマ−ディ……
サティ(気づき)が安定し、揺るぎなく確立することが、ヴィパッサナ−修行者の第一の目標である。
しかし、たとえサティが完全なものになっても、正しいサマ−ディが確立されない限り、解脱の智慧には到達しないだろう。
サマーディは、サマタ瞑想系のものとヴィパッサナー瞑想のものとに大別されるが、サマ−ディそのものの構成因子は、どちらの場合にも共通である。
今回はサマタ瞑想の具体例を呈示しながら、サマ−ディがどのように達成されていくのかを考えてみよう。
サマ−ディがあるレベルに達してから、ヴィパッサナ−に移行すると修行内容が格段によくなるのは誰もが経験する。
サマ−ディの特徴を控えめに表現すると、散乱や逸脱が全くない意識状態だともいえる。
つまり歩行感覚や、坐禅瞑想の腹部感覚の実感に、揺るぎなく注意が集中し、逸れなくなれば、対象がよく観えてくるのは当然であり、気づきから洞察へと、ヴィパッサナ−はひとりでに成長する。
問題は、サマーディが達成されたときの素晴らしい快感や喜悦を捨て、現実世界のドゥッカ(苦)の本質ばかりが観えてくるようなヴィパッサナ−瞑想を続けるのがイヤになることかもしれない。
私がヴィパッサナ−瞑想を本格的に始めたのは、今から12年前だが、それまでの11年間は、サマタ・サマ−ディの瞑想に専念していた。
死にかかるほど激しい断食をなんどもくり返したり、滝行や真冬の水行などさまざまな苦行を10余年に渡って続けたのも、ただ一つ、瞑想のため、完全なサマ−ディに入定するためであった。
当時のサマタ瞑想の心象風景を、言語化して表現したものが残っているので、以下にそれを紹介する。
これは、足指に発症した水虫を、瞑想の力で治そうと試みたときのものである。
毎日「強力タムシチンキ」という薬液を患部に塗り、ウチワでパタパタあおぐのだが、10日たっても一向になおらない。
そこで、はたして瞑想で治療が可能なのか、まず、サマ−ディに没入してから、水虫の完治したイメ−ジを観想し、実感し、主客未分の合一感のなかで、全快イメージと融け合い、成りきって、キリストが奇跡の癒しを行ったように、一気に病気治しをやってのけようとしたのだ。
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【……まず、坐禅を組んだポーズで半眼に目を閉じ、長く深い腹式呼吸をはじめるが、それを意識するのも最初のうちだけで、やがて息をしているのかしていないのかすらも気にとまらなくなっていく。
空間を静かにながめ、すべてを空間にゆだねたリラックス状態をかぎりなく自分に許していくと、いつのまにか、自分をつつむ空気が、海のように、ゆるやかなたゆたいをはじめ、私は、空間の海に漂っており、その海が、全宇宙であることに気づきはじめる。
頭骨の内部、自我の内側にしがみついていた私の意識は、いつのまにか空間に放射され、ひろがり、宇宙の果てから果てまで満々とみなぎりみちわたる全宇宙意識(ブラフマン)と連続し、つながり、一体化しようとしている。
宇宙を、銀河を、生命を発生させた力は、私の骨をつくり、血液をつくり、脳細胞をつくった力と同じチカラであり、それはいま、この瞬間にも、目の前の空間にみなぎり、私の身体を貫通し、天地一切のものを貫いて全宇宙に遍満している。
その全宇宙意識と私の意識が、すでにはるか昔から連続し、つながっていたという事実に、私は、目覚めようとしている…………。
そのような、トロリとした半覚醒の時間が流れているうちに、なぜだろうか、地球の奥深い中心部で、ドロドロに溶解し、煮えたぎっているマグマの海が、焼けただれた闇のように、意識に浮かび上ってきた。
しかし、それが自分の意識になのか、空間の意識になのか、もはやわからなくなっている。
さるほどに、ドロドロのマグマの核から、金色の一本の直線が、地軸に沿って突きぬけ、地表に達し、床をぬけ、カーペットをぬけ、半跏に組んだ私の尾柢骨から、脊髄をとおり、頭頂部を貫通して、無限の宇宙のかなたにぬけていく……。
その、私をつらぬく金色の直線にそって、地球の全エネルギ−が、私の中に限りなく収束され、私は、遠くはるかな私の生の起源である地球と、とけあい、合体し、一つのものになってしまった……!
私の中には、宇宙の全歴史が刻まれ、封印されている。
私が、まだ胎児だったころ、私は、あたたかい母の羊水のなかで、30数億年におよぶ進化の夢をみながら、私の祖先の姿をすべて追認し、生きてきた。
北京原人も、ヒツジも、トリも、ワニも、サカナも、ナマコも、ミドリムシも…、すべて、私であった。
今、このときの記憶が、ゆくりなくも、鮮やかによみがえる。
私は、アメーバ。
私は、原始の海。
遠い、なつかしい、帰郷の感覚のなかで、私は、さらに深く沈んでいく……。
私が地球と合体し、合一しうるのは、私のなかに地球の痕跡が存在し、地球と私は同じものからできているからだ。
私のなかには、塩がある。
マグネシュウムがある。
リンがある。
強い引き潮で海流が流れていくように、私のなかでも、真っ赤な海が循環し、ドクドクと流れていく。
冬の朝、田畑のしめった土の表面が、朝陽の光のなかで、白い湯気をたてるように、私の一本の髪の毛の中から、土の香りがたちこめる。
私の骨のなかで火山が爆発し、溶岩が流れ出す。
私は地球だ…………
さるほどに、
透明な意識の波が、
どこかで微かに、ゆらいだように思われた。
五十六億七千万光年のかなたの宇宙空間に、非常に微細な、チリのような星間物質が浮遊している。
全宇宙に放射された私の意識は、そのチリの一粒の中にまで達し、<チリの中の私の意識>が、ピクピクと波動を伝えながら、ほの暖かい微光をなげかけていた。
その光は、急速に明るさをまし、もはや上なのか下なのかわからない虚空の中、空一面にヒカリカガヤク無数の銀河が、星の海となって、キラメキながら、降りそそぎ、落ちてくるのが、感じられる。
それは、にわかに強い現実感をおびはじめ、私の体を貫通し、天球をつらぬく直線にそい、燦然と光る銀河の海が、私のなかに、ふりそそぎ、流れこみ、私は、マバユイばかりに光り輝きながら、無限の宇宙と合一し、同体となっていた。
いや、私は、生れる以前から、すでに銀河であり、光であり、宇宙そのものであったことを、ついに憶い出したのだ!
失われていた記憶の究極…………。
この、無限の宇宙の空間と光こそ、ブラフマンであり、久遠実成の仏であり、私と仏とは、もはや帯のように連続して、ーつのものになり、自他の分別も、「私」という意識もなく、ただわき上る恍惚とともに、光り輝いている……。
なにもかもが、ただ光であり、
光であることの意識も、
時が移りゆく意識もない、ただの、マバユサ…………!】
** ☆ **
まだヴィパッサナ−瞑想の存在すら知らなかった23年前には、自分の心が作り出すこんな有想三昧の法悦に浸っていたのだ。
苦笑を禁じ得ない。
さまざまなイメージが氾濫しているにもかかわらず、すべて、地球や宇宙との合一感という一点に絞られているのは、『尋』の力が働いているからだ。
同心円が輪を拡げるように、中心のテーマから、さらに詳細なイメ−ジや想念がのび拡がっていくのは、『伺』や、ヨーガでいう『静慮』の働きである。
全編にわたって、『喜』『楽』が溢れているのはいうまでもない。
本人が深々と体験しているサマ−ディの実感は、とても文字情報では表現しきれないとも痛感される。
肝心の水虫はというと、こうして、自分のなかに収束された宇宙エネルギ−が、マバユイ光の奔流となって、足指の突端までブチ抜き、『私』は、ただ、水虫の滅却=マバユイ光感覚に、没入していた。
夜9時頃だった。
翌朝、患部を眺めて、おお、と目を瞠った。
なんと、水虫は、完全に、アトカタもなく消え失せて、なにひとつ、痕跡すら残ってはいなかった。
完治していたのである。
サマ−ディという善心所の組み合わせには、色法(肉体現象)にこのような奇跡的な変化をも生じさせる力があるのだ。