特集サマーディA サマーディとは何か?−2
さて、サマーディの一番のポイントは、『尋』(Vittaka:ヴィタッカ)である。
No.1で触れたように、他の対象を振り払い、除外しながら、瞑想対象の一点に心を据えつけていく能力である。いわゆる集中力の根拠である。
懸命に修行を続けるうちに、やがて、すべての条件が整う幸運にめぐまれると、瞑想対象への一点集中が安定し、揺るぎないものになってくるだろう。
すると、瞑想者とその対象とが一つに融けあい、合一したかのように、主体と客体とが未分化の状態になってしまう瞬間が訪れる。
観想し、瞑想している自分の意識が突然、脱落し、瞑想対象だけが意識野に独存し、照り映えているかのように……。
自分からコントロールする感じは全くなく、いきなり<それ>が襲来したかのような印象を受けるのが普通である。
これが「三昧」や「禅定」ともいわれる<サマーディ>の意識状態である。
対象に没入し成りきってしまうと、心が止まったかのように感じるが、実は、瞬滅する意識がつぎつぎと同一の対象を取り続けているにすぎない。
形のある対象なら『有想三昧』、無念無想の無が対象なら『無想三昧』とヨーガ・ス−トラなどは分類する。
テーラワーダでは、有形の瞑想対象なら「色界禅」、無形の瞑想対象にサマーディが成立すれば、「無色界禅」と呼ばれる。
次の心も、その次の心も等しく同一の対象を持つが故に、サマーディを昔は『等持』とも訳した。
ちなみにヴィパッサナ−瞑想の『瞬間定』とは、このサマ−ディの力をいわば分散し、生滅変化する事象と一瞬の合一を矢つぎ早にくりかえしている状態といえるだろう。
心が形成した瞑想対象との合一を持続するか…。
それとも、刹那々々に生起し、存在し、滅していく、あるがままの事象を対象にするか…。
この違いがサマタとヴィパッサナ−をわける分水嶺でもある。
ここはヴィパッサナ−瞑想にとっても重要なポイントなので、もう少し徹底して考えてみよう。
サマ−ディという極度に高まった集中力がなければ、瞬滅する万物の真実相が眼のあたりに見えてくることはない。
サマ−ディの定力は絶対に不可欠である。
しかしそのサマ−ディにも落とし穴がある。
ヴィパッサナ−瞑想のコツは、現実の知覚や感覚をよりいっそう研ぎ澄ましながらサマーディをたもつことだが、サマタ瞑想のゴールは「静かさと没入」である。
その性格上サマタの三昧にハマると、現実の知覚世界にフタをして、たこ壺や繭玉に入ったような閉鎖した内的世界に没入してしまう危険性があるのだ。
この世の現場である事実の世界からシャットアウトされれば、必ずイメージや思考が作り出す内的世界が現れ、自分の心が産み出した偽せものの悟り体験になってしまうだろう。
悟りに必要なサマ−ディの構成因子を、正確に理解しておかなければならない所以である。
原始仏教では、『尋・伺・喜・楽・一境性』の5つの心の要素がそろうと、サマ−ディの第一段階である初禅が確立したと定義する。
『尋』が「狙い定めた対象に注意を向ける最初の粗大な働き」だとすると、『伺』(Vicara:ヴィチャーラ)は「その安定した継続的な働き」である。
『尋』が確立されると他の対象を除外しようとするエネルギーは必要なくなり、その結果、フォーカスされた対象がよく伺察されるのである。
さらに、それまで雑念や眠気と戦うだけで精一杯だったのに、『尋』『伺』が確立されると探し求めていたものが手に入ったかのような喜びが生まれ、サティの対象にも新鮮な興味が湧いてくる。
修行実感としては多様多彩に経験されるが、総じてこれを『喜』(Piti:ピィティ)という。
『楽』(Sukha:スカー)は抑制されたエクスタシーであり、静かな喜びである。
欲しい物が手に入った瞬間の激しい喜びを『喜』とするなら、一段落してその物の味わいをゆっくり吟味して楽しむような幸せが『楽』に譬えられる。
注意が一つの対象の上に完全に止どまる一瞬の静止状態……。
もしくは、対象に突き刺さり没入するような合一感が、『一境性』(Ekaggata:エカガター)である。
サマ−ディが成立する瞬間ともいえる。
以上のサマ−ディの構成因子を踏まえた上で、さらに具体例に則して考察を続けよう。