特集サマーディ@ サマーディとは何か?-1

 

 サマーディとは何か?
 サマーディを構成しているものは?
 どうしたらサマーディを高めることができるだろうか?

 

 サマ−ディ(Samadhi:三昧:禅定)の確立という瞑想修行の最も重要な問題を、特集のシリーズで考えてみたい。

 

  「…集中が弱いのでどうしても雑念が鎮まらないんです。なにかサマタの集中瞑想をやるべきでしょうか?」
  ヴィパッサナーの瞑想者なら一度は浮かぶ質問である。

 

 「集中力→禅定力」を高めることは『戒→定→慧→解脱』の『定』の修行の基軸であり、ヴィパッサナ−瞑想が高いレベルで成功するか否か、本当の仏教の『智慧』が ヒラめくか否かも、この『禅定力』の達成にかかっていると言えるだろう。

 

 「集中」とは一つの対象に心を据えつけていく能力、『尋』(Vittaka :ヴィタッカ:狙い定める)を意味する。
  『尋』の力が弱ければ、私たちの心は、次々と六門(眼耳鼻舌身意)に飛び込んでくる情報に飛びつき、散乱状態になる。
  猿が飛び回ってはキョロキョロするのに喩えられ「モンキ−・マインド」とか「心根は猿猴の如し」などともいう。

 

 一つの対象に心を据えつける『尋』の力は、他の対象を除外する能力でもある。
他の対象を必死で除外しながら、心を一点に集中させようとする努力が『尋』を確立するといってもよい。
 その結果、灰かぐらのような心の散乱状態が静まっていくのは当然であり、なぜ瞑想修行が集中力や記憶力を飛躍的に向上させ、能力開発になるかの根拠の一つがここにある。

 

 では、どうしたら「集中力→禅定力」を高めることができるだろうか。
 まず、瞑想修行の大前提として、五戒をしっかり守ることは必ずクリア−しなければならない。
  「そんなことより、瞑想中の集中をどうやって高めるかを知りたいのです…」
 と言いたい方も多いだろうが、これがサマーディ確立の第一番目の秘訣なのである。

 

 酒を飲んでは酔っ払い、悪口と自慢話ばかりしている者、キセルやネコババは当たり前、嘘をついては不倫を重ねているような者に、禅定が生じる見込みはまったくない。
 五戒が守れないことと心の混乱状態は、完全にイコ−ルなのである。
 心の散乱を鎮めていく作業が、そのままサマーディを確立することになる。

 

 アビダルマでは、煩悩が生まれるときに必ず共通のセットで働く心の因子を4つ指摘している。
  『共一切不善心所』とか『全悪心共通心所』と呼ばれるもので、その一つが『掉挙(じょうこ:Uddhacca:ウダッチャ)』、すなわち心の散乱状態なのである。
 程度の差はあれ、煩悩が出るときには必ず「想いの乱れ、昂奮、浮動、落ち着きのなさetc.」が含まれている。

 

 例えば、夜、テレビのチャンネルを変えた瞬間、いきなり男女の喘ぐ声と愛欲シーンが眼に飛びこんできたとする。
  「ボクはテレビを見ながらでも、カタトキもサティの修行を忘れないんです」
  なんていうのはウソに決まっているから、当然サティが入らない。入らなければ画像が眼に入った瞬間、パッと灰かぐらが立つように、極めて短い一瞬の間にさまざまなものが舞い上がり、妄想され、欲望が生まれて、胸がドキドキするかもしれない。
  『掉挙』の一瞬である。

 

 心に混乱があれば、真実の姿をあるがままに見ることはできない。
 不正確に対象を認知するのだから,必然的に心は善行為や善念から逸脱し、煩悩が暴れ出すのである。
  『掉挙』の灰かぐら状態が強まれば、行動や言葉のレベルにまで表出してしまう。
 言動の威儀が乱れている者に、より微妙な想念レベルでの乱れを統一することはできるわけがない。
 悪をすれば、意識するしないにかかわらず、必ず後悔が伴ない、隠蔽しようと戦々恐々になるだろう。

 

 五戒を守ろうとする努力、悪を避けようとする意志こそ、諸悪の共通因子である『掉挙』を鎮め、対象の本質をあるがままに洞察する第一歩である。
 このときに事実上の瞑想がスタートしているといえる。

 

 <諸悪莫作>は仏教の眼目である。
 悪を避ける努力とは、つまり心に不善心所が現れるのを阻止する努力である。貪り、怒り、高慢、嫉妬、物惜しみ、後悔…など14の不善心所が一つでも浮上したならばただちにサティ(Sati;気づき)を入れて見送ってしまわなければならない。
 放置すれば、その瞬間に心は汚れ、禅定は不可能になるからである。

 

 五戒完守こそ、サマーディ(集中力→禅定力)の完成に到る第一の関門である。