日常生活でのヴィパッサナー瞑想体験集

 

 

うつ病とヴィパッサナー瞑想
〈K.Mさん、男性〉

 

《ヴィパッサナー瞑想との出会い》
 私は10代の頃より仏教に縁があり、苦を根本的に解決するというブッダの教えに重大な関心を寄せてきました。しかし、仏教教理の学習と易行、利他行などに 邁進するだけでは、無常・苦・無我などのブッダの教えを真に理解することは不可能だと感じていました。そこでヨガや禅など、いろいろな瞑想実践にもチャレ ンジしてみたのですが、それが苦の根本解決にどうつながるのか、疑問は深まるばかりでした。

 

 ところが1996年のこと、マハーシ長老の『ミャンマーの瞑想』(国際語学社)を読み、ヴィパッサナー瞑想が無常・無我を見る解脱の瞑想法であると理解し ました。本に従って実践してみると、人間が六門からの情報を高速マルチ平行処理していることを実感し、驚きました。しかし、本格的に修行するにはどうした らよいのか、わかりませんでした。

 

 数年後、配置転換により仕事が大変忙しくなり、結婚も重なって、瞑想どころではなくなってしまいました。瞑想とは無縁の日々が数年続きました。ところが ある日、意外にも妻が地橋先生の朝日カルチャー講座を受講したのです。妻の話で、日本にヴィパッサナー瞑想の指導者がいることを、はじめて知りました。私 はヴィパッサナー瞑想への興味が再燃し、『月刊サティ』をはじめ、ヴィパッサナー関係の書籍やHPなど、暇さえあれば読み漁りました。忙中閑あり、ちょっ とした時間を見つけてサティの練習をつづけ、念願のグリーンヒル一日瞑想会にも参加することができたのです。

 

《うつ病になる》
 ところが仕事はさらに多忙化、本当に瞑想どころではなくなってしまいました。気がつくと、私は病的な慢性疲労を起こし、遅刻、早退を繰り返すようになっ ていました。内科を受診したのですが、検査の結果に何も異常がなく、「うつ病」を疑われました。大変ショックを受け、まさか、そんなはずはないと思ったの ですが、試しに抗うつ薬を飲むと、いくらか状態が良くなるのです。こういう症状を「仮面うつ病」と呼ぶそうです。身体症状という「仮面」をかぶった「うつ 病」なのだそうです。やむなく上司にも人事にもうつ病であることを伝え、仕事が一段落したところで負担の少ない部署に異動させてもらいました。

 

 しかし、うつ病は思った以上に悪化していました。ちょっとした軽作業をしただけで極端に疲労し、3日も自宅で寝ないと疲労が回復しないのです。医者に相談 すると、では薬を強くしましょうと言われ、その薬をのむと意識が朦朧として食事とトイレ以外は寝たきりの状態になってしまいました。その薬は1週間飲んで 止めましたが、その後、歩行さえも困難になり、歩いて10分の道のりを20分かけて歩く始末です。進退窮まり、結局「休職」という最悪の事態に追い込まれ てしまいました。

 

《離脱症状とサティの威力》
 薬の服用が長くなってくると、副作用で体に異変が起こってきました。体重が数ヶ月で10キロも増え、胃腸の具合がおかしくなり、年中下痢をするようになり ました。にもかかわらず、薬の効果は頭打ち、これでは体力が落ちる一方です。私はすっかり医者不信に陥り、勝手に少しづつ薬を減らして、うつ病治療に実績 のある鍼灸や漢方を試すことにしたのです。
 ところが、減薬のスピードが速かったらしく、断薬した直後から薬の離脱症状が起こりました。離脱症状とは、抗うつ薬を突然止めると、うつ病の症状がか えって悪化することを言います。意味もなく落ち込む。将来がひどく悲観的に思え、絶望的な気分になる。しまいには、意味もなく「死・に・た・い」の四文字 が頭をよぎる。いわゆる自殺念慮です。朝起きてから夜寝るまで、暗い思考が頭を回転し続け、さすがに、「これはまずいことになった」と思いました。

 

  そんなある朝のこと、まだ元気だった頃に仕事をしながらサティの練習をしたことを思い出しました。仕事上のトラブルで、押さえがたい怒りが発生した時、 「怒り」「怒り」としつこくサティを入れているうちに、怒りの感情が完全に消失したことがあったのです。私は、藁にでもすがりたい気持ちでしたので、ダメ でもともと、効果があるとは思えませんでしたが、わずかに残っている気力を奮い起こして、落ち込んだ気持ちをめがけて「落ち込み!」「落ち込み!」とサ ティを打ち込んで見ました。

 

 実際のところ、やってみただけで、何の期待もありませんでした。妻が用意してくれた朝食を前に、食欲などまったく湧かず、片ひざを立ててうなだれた姿勢 のまま、3秒がたち、5秒たち、10秒ほど経過したとき、私は気持ちの変化にハッとしました。あれ、おかしいぞ。さっきまでの暗い思考が、ない……何も ない……。なんだ?どうした?さっきまで、確かにあった、あのどうしようもない暗い思考は、どこへいった?
 本当にないのです。消えてしまったのです。さっきまで、あんなに苦しんでいたのが、うそのようです。それっきり、離脱症状が現れることはありませんでした。正直、私はサティの威力がここまであるとは思いませんでした。

 

《緊張発作とサティ》
 サティに助けられたのは、それだけではありません。やっと病気が快方に向かいはじめ、今日からリハビリ出勤をしようという日、スーツに着替え、支度を整 えて玄関を出ようとすると、急にめまいがして息が苦しくなり、しゃがみこんでしまいました。動悸が激しくなって顔が真っ青になり、やっとのことでパソコン の前にあるイスに座りましたが、そのまま動けないのです。なにが起こったのか、さっぱりわかりません。

 

 そこで、自分をしばらく観察してみると、どうやら極度の緊張状態にあるようなのです。職場に行くことに対し、身体が拒絶反応を起こしているらしい。私 は、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせましたが、一向におさまらない。そこで、「緊張している!」「緊張している!」とサティを入れてみました。する と、泣き叫んでダダをこねる子供がアイスクリームで機嫌を直すような感じで、スーッと症状がおさまりました。こうして久しぶりに職場に顔を出すことができ たのです。

 

 また、こんなことがありました。やっと少し体力が回復してきたので、私はリハビリ期間を利用して、念願の朝日カルチャー講座「ブッダの瞑想法とその理 論」の受講を申請しました。ところが受講当日になると、なぜか行きたくないのです。それでもがんばって新宿行きの電車に乗ったのですが、車中で具合が悪く なってしまいました。すっかり困り果て、家に戻ろうかとも思いましたが、ふと、心が何かを拒絶しているような感じがしました。
 そこで、心に注意を向けてみると、もうこれ以上、つらい思いはたくさんだという本音が見えてきました。考えてみれば、病院以外で大勢の人が集まる場所に 行くのは、仕事のとき以来、久しぶりでした。状況はまったく異なるのですが、仕事でつらかったときの状況に似ている、そのことに反応してしまっているよう なのです。私は混んだ電車の中で真っ青になり、フラフラになりながら、サティを入れてみました。万感の思いを込めて「つらい思いはしたくない!」 と……。
 サティを入れた瞬間、瞑目した目の前がパパパッと明るくなる感じがしました。それと同時に、行きたくないという感情、体の具合の悪さが消し飛んでしまっ たのです。背筋はシャンと伸びるし、足腰に力が入ってきたのです。ウソのような出来すぎた話のように思われるかもしれませんが、本当の話です。決して作り 話ではありません。おかげで元気に地橋先生の講座を受講することが出来たのです。それ以来、このような症状は起こらなくなりました。

 

 ※その後、私は副作用のない天然ハーブの抗うつ薬を処方してくれる心療内科を見つけて通っています。鍼灸や漢方も一定の効果がありましたが、やはり抗う つ薬は不可欠です。私のように、勝手に薬を止めるのは危険です。気長に休養をとりつつ、自分に合った医者や薬を見つけることが重要なのだと思います。

 

《機縁が熟す》
 サティの技術を知らなければ、私はもしかしたら薬の副作用や離脱症状に苦しみ続けたかもしれません。うつ病だけでなく、パニック症を併発した可能性すら あったように思います。サティの力には、底知れないものを感じます。ブッダが説いたという苦を滅する技法……。私は闘病を通して、図らずもその一端を垣間見 たのです。そのはるか延長線上には、一切の苦を根こそぎに滅した境地が、確かにある。そんな手ごたえさえ感じます。

 

 今ではリハビリも順調に進み、職場への復帰も見えてきました。最近では短期瞑想合宿にも参加し、私にしては大きな成果を得ることができました。逆説的ですが、合宿に参加できたのも、病気で休職になったお陰さまなのです。あのまま忙しい状況がつづけば、合宿など定年退職後でもなければ不可能でした。なにが 幸か不幸かわかりません。うつ病になったことは災難でしたが、別の角度から見れば、瞑想に取り組むチャンス到来とも言えるのです。ここ数年で諸条件がガラ リと変わり、まさに機縁が熟したかのようです。数十年来の念願が叶い、ブッダの瞑想法を本格的に学ぶ時がやってきたようです。