原始仏教の理論とその最高位の瞑想であるヴィパッサナー瞑想を研究、実践しています。


 このホームページはグリーンヒルWeb会の活動についてお知らせしたものです。


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お知らせ 
 「ブッダのヴィパッサナー瞑想」のオンライン講座 新規開設   
        日時:2021年1月23日(土)15時30分〜17時
    ZOOMミーティングを使いますので、遠方の方々もお手軽に自宅から参加できます。
    お申込みは、朝日カルチャーで!
     朝カル・オンライン講座:「ブッダのヴィパッサナー瞑想」

 今日の一言!

 

 2021年3月までの瞑想会スケジュールをアップ

 

 初めての方を対象に、サティの瞑想を正確に体得していただくための講習会
   12月の地橋秀雄講師による「初心者講習会」の開催 
   12月13日(日) 13時〜17時

 

 地橋所長が講師の泊まらない1Day合宿
   11月の1Day合宿の開催 
   11月29日(日)実施
   10月26日(月) 23時〜予約受付開始

 

   12月の1Day合宿の開催 
   12月20日(日)実施
   11月16日(月) 23時〜予約受付開始

 

 地橋所長が講師の   26年連続の人気講座(10月期、2021/1月期)
   朝日カルチャー講座新シリーズが10月10日(土)より開催中  
   「朝の瞑想」は10階の教室になります。
   「夜の瞑想」は11階の教室になります。

 

   朝日カルチャー講座新シリーズが2021年1月23日(土)より開催  
   「朝の瞑想」は10階の教室になります。
   「夜の瞑想」は11階の教室になります。

 

 地橋所長によるダンマトーク(法話)のDVD・CD、書籍(一部)を購入希望の方へ
   アマゾンや瞑想会場などのほかに、メールでもご注文・購入できるようになりました。
   こちらのご購入方法をご覧ください。 
   DVDなどの内容は『瞑想の本・CD・DVD』をご参照ください。

 

 月刊サティ
   2020年6月号をアップしました。
   2020年7月号をアップしました。
   2020年8/9月合併号をアップしました。
   以下のサイトから、アクセスしてください。
  http://shingekkansati.com/

 

 グリーンヒル瞑想研究所へのメールアドレス
   メールアドレスは、greenhill-meisou@satisati.jp です。

☆☆☆☆ ヴィパッサナー瞑想の本のご紹介動画 ☆☆☆☆

 

マインドフルネスの源流 地橋秀雄による『ブッダの瞑想法』シリーズ
(春秋社刊)内容紹介(4分)

 


DVDブック『実践 ブッダの瞑想法』(地橋秀雄著)
内容紹介(3分半)

 

 

CDブック ブッダの瞑想法 「瞬間のことば」(地橋秀雄著)
内容紹介(3分半)

 

 

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ヴィパッサナー瞑想の本 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 


 



 

 

 

 


 



 

 

 





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☆☆☆☆  最新のツイート  ☆☆☆☆

     

 



今日の一言

 

11月27日
★偉そうに人に説教しながら、自身は身を投げ出して真の懺悔の瞑想ができていなかった。
 その抑圧してきた心の闇に光が射し込むや、解脱の修行を破壊されたであろうお方に、初めて心底からお詫びし涙ながらの懺悔が発露した。
 ひとたび自己正当化が崩れると、次々と懺悔すべき方々が脳裏に浮かんできた・・・。
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11月25日
★どれほどの悪業でも、苦に耐え抜いていけば、終わりになる日が来るだろう。
 蒔いた種を刈り取れば、因果のエネルギーが帰結して悪業が消滅する理論だ。
 だが、苦の現象は無くなっても、真の懺悔を拒んでいる腐ったエゴはそのまま変わらないではないか。
 謝れば、命を懸けて修行してきた全ての過去が崩れ去ると思った愚かさなのか、自分を支えてきた拠りどころを手放しきれなかった・・・。
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11月23日
★なぜそんな破壊的なことが繰り返されるのか、因果応報の理解を徹底させた。
 どれほど辛くても逆ギレせず、受け切る覚悟も揺るがなかった。
 そんな悪業を作った自分の愚かさを深く反省もした。
 だが、被害者の受けた苦を思いやり、心からお詫びするのをどこかで拒んでいたことに愕然とした・・・。
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11月21日
★懺悔の瞑想は、心の腐った者にはできない。
 腐った心とは、自己中心的で、愚かで、傲慢な精神だ。
 苦痛の度合いと分量が増せば、余裕を失った心はより根源的な自己保存の欲動に振り回されてしまう。
 苦を与えられた被害者の心を思いやることができなかった私の心は、愚かで、我執が強く、無明に穢れていた・・・。
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11月19日
★瞑想に人生を懸けてきた者が、最高潮に達した稀有な瞬間を繰り返し破壊される苦痛・・・。
 過去世で解脱寸前だった誰かの修行を何度も破壊してきたからだ、と業の法則を論拠に、自分の苦を受け容れるだけで精一杯だった。
 修行を邪魔された瞬間の被害者の苦しみを忖度し、お詫びする発想が浮かばなかった・・・。
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11月17日
★そもそも私の瞑想修行は、懺悔の瞑想から始められた。
 懺悔の瞑想は、エゴ感覚を弱めネガティブな過去から解放されるのに不可欠な行法と心得てきた。
 これまでに何度も、涙ながらの懺悔を真剣に行なってきたのだ。
 それなのに、なぜ、かくも長きに渡って、当然やるべき修行がないがしろにされてきたのか・・・。
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11月15日
★なるほど、そうか・・・。
 突然、憑き物が落ちたように、己の愚かさと自己中心的な身勝手さが見えてきた。
 皮膚病になるのも修行が破壊されるのも、己の不善業の結果なのだから、ネガティブな反応は一切しないと定めてきた。
 だが、意識の矢印は自らの内省にのみ向けられていたことに気づいて愕然とした。
 過去世で私が犯したであろう悪業の被害者の側に立ち、心からお詫びし謝罪する発想が欠落していたのだ・・・。
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11月13日
★リトリートも終りに近づいたある日、これ以上はない最高の瞑想が展開していた時、まさにその瞬間に狙いを定めたように突然、耳と腕の3ヶ所に水疱が発症し、猛烈な痒みに襲われた・・・。
 その絶妙なタイミングに、天から鉄槌が下されたように感じた。
 まだ終わっていない何かがある・・・。
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11月11日
★毎回同じ皮膚病によって、絶好調の瞑想が破壊され妨害されるのがパターン化して久しい。
 不善業の結果であることは間違いないだろう。
 しかし今回は皮膚病の兆しが現れたものの立ち消えになり、何も処置することなく瞑想が続けられた。
 とうとう悪業も終息したかと喜んでいたのだが・・・。
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11月9日
★火傷の水泡のような皮膚病が顔や手足に発症する苦は、人に恥をかかせ名誉を傷つけた不善業の報いに相応しい。
 上座仏教の寺で瞑想修行に入ると必ずその苦を受けるのは、恐らく過去世にヴィパッサナー瞑想者を中傷誹謗してきたからだろう。
 自業自得と心得て淡々と受けきる覚悟を定めてきたが、盲点があった・・・。
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11月7日
★心の闇を直視しなければならない・・・と発想が変わった要因は2つある。
 必要条件を整える足し算に必死だったが、瞑想が頭打ちになるマイナス要因を引き算すべきだと気づいたこと。
 もう一つは、上座仏教の寺で瞑想修行に入ると必ず悩まされてきた皮膚病の新たな展開とその解釈だった・・・。
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11月5日
★もし心が完全に浄らかであれば、煩悩は滅尽されすでに解脱しているはずだろう。
 しかるにまだ悟りの仕事が完成していないということは、心が汚染されているということだ。
 ・・・と気づくや、PCのウイルス・チェックが開始されるように、一つ残らず穢れを洗い出そうと、意識が探索モードになった・・・。
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11月3日
★サティと智慧と定力が深まれば、もはや人為的にやれることは尽き、真摯に祈り、ただその一瞬を待つしかない。
 だが、最高の状態を懸命に繰り返しても、それ以上のことは何も起きなかった・・・。
 すると超越的な一瞬に絞り込まれていた矛先が、原因を突き止めようと心の内奥の闇に向けられていく・・・。
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11月1日
★強力なサマーディとキレキレのサティが連動してくると「触(パッサー)」に連続的なサティが入り始める。
 すると「見たものを見たままに止どめ、聞いたものを聞いたままに止どめ・・・」の奥義が修行の現場で顕わになり、道心(マッガ・チッタ:涅槃を直接体験する瞬間の心)が生じる一瞬を誓願して待つだけになる・・・。
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10月30日
★この世の一瞬一瞬の事象をいかに体験し認識するか。
 その瞬間的な結論がラベリングであり、ラベリングが変われば経験の意味が変容する。
 具体的な世俗の経験には、特化型ラベリングが適している。
 涅槃を待つ直前のサティは、対象と六門と意識がリンクする「触(パッサー)」に絞り込まれる・・・。
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10月28日
★具体的なラベリングはサティの切れ味を鋭くするが、速度感にブレーキをかける。
 ラベリングを簡略化し、一本化し、ラベリング無しにすると、瞑想は高速化するが、集中が落ちればサティそのものの輪郭がボケてくる。
 認知の瞬間の言語化を鋭くするのか、省略するのか、正反対の瞑想ファクターの矛盾を統合しながら、闇の彼方に向かう・・・。
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10月26日
★この時のサティのキレの良さと速度感は図抜けていたので、自分が雨になって樹々の葉を叩いているのか、地上に拡がった自分の意識の中に雨が降り注いでいるのか分からなくなった。
 対象に成りきった主客未分の状態では、経験する心と気づく心の2心が1心になる印象が鮮明化するのだと検証された・・・。
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10月24日
★雨安居のタイの森では、一日中雨が降ったり止んだりを繰り返している。
 その日は特に集中が高まり、異様なほど鮮明な雨音がワイドに拡がって1秒間に10数個の高速サティが駆けめぐった。
 パラパラと樹々の葉を打ち「ピチッ!」と水溜りに突き刺さる雨滴に成りきったような感覚が輝き出していた・・・。
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10月22日
★昔スリランカの山中で瞑想が深まった時、六門から情報が入った瞬間の心とそれに気づく心が完全に同時になり驚いた。
 経験する心と気づく心が一つになるのは理論上あり得ないのに、2心が1心になる不可思議な異次元感覚に感動しながら繰り返していた。
 その謎が、今回タイの森の中で解けた・・・。
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10月20日
★1ヶ月の間に、まず50時間の断食をして、1週間後に再び48時間の断食をした。
 今回の断食が死ぬほど苦しかったのは、終了後の復食を極端に減らし過ぎたからだった。
 だが、飢餓状態との戦いのような日々は、若い頃とまったく同じ瞑想感覚を甦らせた。
 余分な筋肉ゼロの体から、さらに5kg近い体重を失って帰国した・・・。
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10月18日
★瞑想にさしたる才能もない私のような者がサマーディを深めるには、意識を極限まで透明にしなければならなかった。
 修行時代に私が編み出したのは、断食や超少食で体をピカピカに澄み切らせて意識の透明度を上げることだった。
 今回の森の独房の修行でも、若い頃とまったく同じ条件を組み込んだのだ・・・。
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10月16日
★1ヶ月ぶりの原稿だ・・・。
 タイ北部の森林僧院で、孤独な瞑想修行の日々を送っていた。
 死に物狂いだった40年前とほぼ同じ修行感覚に戻ることができた。
 3年前、サティは進化し智慧も深まったが、定力が落ちたことにショックを受けた。
 今回かつての定力を取り戻すことができたのは、往時と同じ条件を組み込んだからだ・・・。
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10月14日
★これが最後の原稿になる。
 これから1ヵ月、もう書かないでよい。考えなくてよい。
 概念化されない直接知覚のダンマの世界を、言葉を脳内操作して表現する矛盾から束の間、解放される・・・。
 だが、それでも瞑想を始めるや否や、ダンマ妄想が執拗に襲来してくるだろうと覚悟している・・・。
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10月12日
★明後日タイから最後の原稿をアップすると、インターネットも音信も不通になる。
 往復の移動ひとつにしても、バンコックからの帰国の便が雷に襲われ、出発できなかったこともあった。
 何もかも予定通りに展開するなど奇跡のようだ。
 あらゆることが、究極の一瞬に向かって、神業のように美しく整い、成就する波羅蜜は蓄えられてきたか・・・。
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10月10日
★この欄も、あと2回でしばらく休載する。
 タイの森林僧院で瞑想修行に入ることにしたのだ。
 2019年7月22日成田発、8月21日帰国予定。
 体力も気力も残された今、私のやるべきことは、書くことでも、読むことでも、考えることでも、瞑想を教えることでもない。
 ただ、ひたすら瞑想に専念したい・・・。
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10月8日
★学問僧としてミャンマー屈指の指導者だったモッコク・サヤドウは、ある日、弟子も地位も何もかも捨てて修行の旅に出た。
 自分はまるで、自分が搾っている牛乳を飲んだことのない牛飼いのようだ・・・、と感じたのだという。
 仏教は学ぶものではなく、ダンマ(法)の実質に参入し、ダンマを体現し、ダンマと共に生きていくことだ・・・。
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10月6日
★やる気が出ない時は、仏教の本をひもとき、格調の高いダンマに触れて感動するとよい。
 ブッダや阿羅漢の聖者達の物語にも鼓舞されるだろう。
 合宿中に行き詰まった瞑想者が、仏像や偉大な比丘の画像と向き合っているうちに不思議に心が落ち着き、立ち直っていったケースも数知れない・・・。

 

 

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10月4日
★江戸時代の初期には、二人の兄の切腹を目の当たりにした8歳の少年が、作法通り見事に自刃して果てたという。(新渡戸稲造「武士道」)
 切腹は瞑想向きではないが、飛行機での墜落死は、最期の修行として魅惑的だ。
 数十秒後の確実な死に向かって、明晰な意識を保ちながら、死の瞬間までサティを入れて涅槃を目指す・・・。
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10月2日
★自ら命を絶った弟子について、「あれは修行であって、自殺ではない」とブッダはコメントしている。
 なるほど。自ら定めた最期に向かって修行するのも、ありなのか。
 終わりが決まれば、本気になれる。
 意のままに余力を残して走り切るペース配分が設計できる。
 老醜をさらさず、きれいな死に方を選ぶこともできるか・・・。
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9月30日
★火事場の馬鹿力を、意識的に出すことはできない。
 死んだ気になってがんばる決心をするのと、実際に死刑を宣告された瞬間が同じになる訳がない。
 ドゥッカ(苦)に叩かれ、本気で、リアルに追い詰められない限り、命懸けの修行ができない悲しさ・・・。
 あるいは入水し、あるいは剃刀で喉を切り、絶命していくギリギリの間際に解脱していった仏弟子達も少なくなかった・・・。
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9月28日
★自分の意志で選ぼうが、人から与えられたものだろうが、業の結果であれ、ただ流れでそうなったものであっても、ありのままに受け容れ、オモシロイと楽しんでしまえば、最高の人生になっていくだろう。
 全てを心から受け容れることができれば、何も願わない無願三昧と変わらず、エゴを無くす修行が成就したのも同然である・・・。
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9月26日
★老境に達したジャズピアニストが、今後の夢は?と訊かれた。
 「・・・将来の夢は、誰かが与えてくれるものです。自分の人生は、人が作ったものだと考えています。出会った人のお陰で、僕の一生があったのです・・・」
 己の宿業を引き受け、因縁の流れに従い、無我を体現した仏教徒のような答だと思った・・・。
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9月24日
★生き方も変わるし、考え方も変わっていくが、土壇場で露わになる本音の本心が根柢から変わるのは稀有なことだ。
 電光石火の速さで心のドミノをパタパタと倒していく「マナシカーラ」を、意識的にコントロールすることはできない。
 考える、行動する、瞑想する、生きる・・・、人生全体の総力戦でしか変わらない。
 完全に理解し、人生の現場で実践し、瞑想で検証し確立された「信」を貫き通すことができれば、いつの日か、エゴと本心が合致してくる・・・。
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9月22日
★泣け、と言われても、即座には泣けない。
 情動を司る脳は、意志を司る脳の直接支配を受けないからだ。
 だが、死にゆく母を想起すると、涙が溢れてくる。
 そのように、断固たる決意は、意志決定の脳内プロセスに影響を及ぼし、間接支配を可能にする。
 人には、悪を避け善をなす自由がある・・・。
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9月20日
★意志決定の瞬間に分け入ってみると、憤りがあり執着がありプライドがあり、仕事の義務感も、譲ることのできない信条もある。
 劣等感も、トラウマも、損得勘定も、本能の衝動も、遺伝子の命令もある。
 家族の恩愛と束縛、友人やSNSの思惑、その瞬間の体調、筋トレや瞑想の習慣、等々が及ぼしている影響・・・。
 一瞬の意志に、自由はあるのか・・・。
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9月18日
★人に自由意志はあるのか、という疑問は、リベットらの脳科学実験が巻き起こした。
 意志決定の0.5秒前、あるいは7秒前には一連の脳内活動が始まっていたのだ。
 一瞬の意志を形成したのは、諸々の環境要因と、膨大な脳内データと、直前の経験と、それをいかに認知したかの組み合わせではないか・・・。
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9月16日
★一瞬の間断もなく、眼耳鼻舌身意の対象が心に乱入してくる。
 対象と意識が接触して心が生まれる刹那を「触(パッサー)」と言う。
 自覚に上らないが、瞬間的に六門のどれか一つを選んで心を対象に押し付けているのだ。
 直前の経験をどう認識したかが、反射的に生じる次の「触」に決定的な影響を及ぼしている・・・。
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9月14日
★サティを入れた次の瞬間、六門からどの情報を取り、何をどのように経験するのかは、ラベリングによって大きく影響される。
 例えば、@「痛み」、A「感覚」、B「(痛みに対する)嫌悪」とラベリングしたとする。
 @は痛みの観察を続行し、Aは痛みを感覚の一つとして上位から観るだろうし、Bは、痛みに反応する心の観察を続けるだろう・・・。
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9月12日
★ラベリングには、大きく2つの役割がある。
 @は、その瞬間、自分に何が経験されたのか、認識を確定する仕事だ。
 同じものを見ても聞いても感じても、政治家と幼児とブルドッグでは、認知が異なるのだ。
 言葉がなければ、経験の意味が曖昧になる。
 色と形が視覚野に映じただけなら、人の認知もゴキブリも変わらない・・・。
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9月10日
★人は皆、自分の心の中に形成される認知ワールドを現実だと錯覚している。
 自分が正しいと思い込み、同じ幻想を共有し合った者が群れる世界構造ゆえに、「あるがまま」を観るヴィパッサナー瞑想が必要となった。
 一瞬の経験をどう認知し、解釈し、認識革命を起こすか。
 高度な認識確定の仕事には、ラベリングが必要不可欠・・・。
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9月8日
★サティの大事なポイントは、物事を客観的に観ることだ。
 人は自動的に、反射的に、自己中心的な視座から解釈し、判断し、嫌悪し、感動する。
 思考プロセスが働けば、エゴ感覚が生じてしまうのだ。
 思考を止めること、それが無理なら、どの瞬間にも自分の経験を対象化すること。
 サティの秘訣である・・・。
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9月6日
★終わりが見えれば、人は真剣になる。
 若過ぎれば道が定まらず、壮年期には手を広げ過ぎ、熟年では最期が遥かに感じられ、老衰すれば遅過ぎる。
 宿業に組み込まれた己の天命を知り、成すべきことに全てが絞り込まれていく人生の第4コーナー。
 事の是非は天にゆだね、「今」こそ花なるべし・・・。
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9月4日
★仕事も瞑想も人生も、最後の日と残された期間が明確になれば、エネルギーが集約され、余分なものが削ぎ落される。
 「〆切の力」なのか、「終末の自覚」と言うべきか。
 7月にタイの森林僧院で30日のリトリートに入る計画を立てた。
 フライトが確保できたら、途端に日常のサティが驚くほど入るようになった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月2日
★欲しい、欲しい!と頭の中を駆けめぐる妄想にサティを入れ、静かに見送ってやる。
 すると、いま在るもので充分やっていけるし、既に与えられているものが輝いて見えてくる。
 そんなもの無くても、生きてゆけるじゃないか・・・。
 満足してみると、自信が生まれ、人にも自分にも優しくなれる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月31日
★心に余裕があれば、ちょっと優しくなれる。
 優しい心になると、多少嫌なことも「ま、いいか」と受容的になれる。
 全てを受け容れていくと、物事を公平に、等価に観られる。
 すると、自分自身を客観視するきれいなサティが入る・・・。
 与えられたものに満足してみると、心に余裕が生まれる・・・
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月29日
★この世から苦が無くなることはないし、理想郷や仏国土が到来することもない。
 心身に苦を受けた瞬間、嫌悪や怒りの反応が新たな不善業を自動的に形成してしまう生命システムだからだ。
 そこから解脱するシステムを知る者は少なく、実践する者はさらに少なく、達成するのは至難であっても、目指すしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月27日
★たとえ巧妙に自己正当化して罪悪感を抑圧しても、悪業を作るのは本音の本心である。
 よもや自分が、苦の種をばら蒔いていると気づかない。
 その無明ゆえに、激しい苦に叩かれても、なぜこんな目に遭うのだと怒り狂い、報復し、八つ当たりする。
 かくして、果てしなく積み上げていく悪業の山・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月25日
★奪えば奪われる法則だが、対象も動機も心の状態も微妙に異なるので、業論は複雑になる。
 欲に駆られて奪い、復讐の悪意で奪い、金品を奪い、恋人を奪い、名誉を奪い、夢と希望を奪い、迷いためらいながら奪い、情け容赦なく奪う・・・。
 天に向かって唾を吐くように、蒔いた種を刈り取る法則・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月23日
★五戒の2番目「与えられていないものを取らない」は、権利も根拠もないのに不当に奪うことだ。
 誰でも、後付けの大義名分や言い訳をして罪悪感から逃れようとする。
 だが、他人に苦しみを与えても己の利益を得ようとする意志(チェータナー)が業を形成し、未来の自分に同じ苦をもたらすのだと心得る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月21日
★大事なものを不当に奪われることもある。
 過去世で不当に奪った業があれば、必然の力でムシリ盗られるのだ。
 嫌悪や怒りで心を汚さず、相手に同じことが何倍にもなって起きるのを静かに見届けておく。
 過去世から集積されてきた同類の業が縁に触れ、まとめ払いのように噴き出るものだ。
 激しく打ちのめされる姿に「悲」の瞑想をしながら、悪因悪果の法則を心に焼き付けておく・・・。
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8月19日
★心を自ら律していくのが難しい時は、外部の力を使う。
 どんな狭い家でも、神聖な一角を作るべきである。
 気持ちが乱れていても、場の力、環境の及ぼす影響によりこちらの心が変わっていく。
 絵葉書の仏像ですら、目に入れば、注意がダンマに向かう。 
 一本の線香、一輪の花、法友の一言・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月17日
★現状をありのままに受け入れて客観視していくのがサティの基本だが、執着したり失望したり、容易ではない。
 感心した事例を紹介する。
 「眠気」とサティを入れたが、何も変わらなかった。
 すかさず、「へえ、消えないんだ」とサティを入れた。
 その瞬間、完全に眠気が消えていた・・・という。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月15日
★眠いのも事実、「眠気」のラベリングも間違ってはいない。
 だが、ドンヨリした意識状態は何も変わらない・・・。
 おおむね当たりのサティと、対象の本質を正確に客観視したサティは違う。
 ボールの真っ芯をとらえたホームランと平凡な内野ゴロのように。
 「眠気」と「眠気に対する嫌悪」も違う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月13日
★一点集中型のサマタ瞑想にのめり込んで、現実逃避をする者もいる。
 サティの瞑想で思考を止め、現在の瞬間に釘づけになって過去から逃避する者もいる。
 トラウマやネガティブな記憶を抑圧し、問題のある過去から目を背ける手段として悪用される「気づき」!
 瞑想修行には、守るべき順番がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月11日
★型どおり正しく踊っていても、凡庸な弟子の舞には、師匠のような花もなければ、肝心の心が表現されていない。
 そのように、本物のサティと、ただの技術的なサティには開きがある。
 たとえ怒りや嫉妬の現象が消えても、煩悩に汚れたその瞬間の自分自身に、心底から向き合っていたのか否か・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月9日
★神という名のエゴとエゴが激突し、正義と正義が打倒し合うのが戦争の歴史だった。
 三宝帰依は仏法僧を拠りどころに生きていく覚悟であり、絶対的な神を拝むように信仰するものではない。
 尊いものにお辞儀をしてへりくだる心がエゴ感覚を弱め、ヴィパッサナー瞑想を進ませる一助になるだろうということ・・・
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8月7日
★不還果の聖者になっても「慢」の煩悩は残るという。
 自他の比較をするエゴ感覚は、阿羅漢になるまで根絶されないらしい。
 エゴがギラついていては瞑想にならないので、一時的に弱めるのに三宝帰依を活用するという発想だ。
 神仏への絶対的帰依を求める「信仰」になってしまうと、弊害も生じてくる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月5日
★妄想が止まらない時は、三宝帰依をしてから瞑想をするとよい。
 「愚かな私を赦してください。・・私の進むべき道を示してください」
 と謙虚に祈りを捧げると、暴れ回っていたエゴが鎮まり、おとなしくなってくるだろう。
 静かに客観視ができれば、瞑想も事の展開も良くなるものだ。
 感謝の念を忘れないこと・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月3日
★大変な出来事に巻き込まれ混乱している時こそ、瞑想しなければならない。
 サティを入れ、妄想を止め、心をリセットすれば、自分を取り巻く客観的な情況が対象化されてくるものだ。
 たとえ乏しい知識と未熟な経験値であっても、心が静かになれば、何を捨て、何を守りきればよいのか見えてくる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月1日
★瞑想をすれば、心が変わり、生活態度も、人生の流れも、幸福度も変わるだろう。
 だが、深層の心は変容しづらく、「三つ子の魂百まで」を完全に乗り超えるのは至難の業だ。
 今世でできることには限界がある・・・。
 宿業に組み込まれた己のタスクをやり抜いて、来世につなぐ・・・と考える。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月30日
★この世の事象を生起させ展開させている根本的な力を、仏教では「行」(サンカーラ)と言う。
 「行」は「業」(カルマ)とイコールであり、一瞬一瞬の悪意や善意の集積が「業」になると理解してよい。
 業の力が単発の意志を圧倒するのは当然だが、新たな業を形成していくのも、その自由意志・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月28日
★7年前にグリーンヒルの10日間合宿に入り、5年前に出家を決意し、晴れて比丘となって3年目を迎える若者がタイ語の通訳をしてくれた。
 ネットカフェ難民になり自滅しかかっていた往時が思い出され、感慨を覚えた。
 堕ちていくのも、颯爽と衣をまとうのも、来し方も行く末も、個人の自由意志を圧倒する業の力・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月26日
★タイの森林僧院でお世話になった比丘の方々を下館の道場にお迎えし、食事の供養をした。
 日本に居ながらにしてタイと同様の供養ができ、美しい返礼の経が誦されるのを拝聴しながら、胸がジーンと熱くなった。
 意味の理解こそ最重要と思ってきたが、全員の比丘によって唱和される経の美と力を感じた・・・。

 


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7月24日
★子供は、親の実態や実状、本音にしかアンテナを張っていない。
 テレビを見ながら「勉強しろ!」と言っても、伝わるのは「テレビを見ろ」だけだ。
 家族を説得して瞑想会に連れてきても、定着することはまず無い。
 瞑想を心から楽しんでいる姿や、本当に心がきれいになっていくプロセスを目の当たりにすれば、家族は必ず瞑想に興味を持つだろう・・・。
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7月22日
★12歳の娘と父親が1Day合宿に参加された。
 一昨年の初心者講習会でも、親子仲良く瞑想していた姿が印象的だった。
 父娘で座禅を年に4回、1週間の内観も共に修行してきたという。
 娘の面接で、強制や無理はないのか確かめると、受験勉強の集中力に効果が感じられるし、何よりも父親の修行する背中を見てきたからだという・・・。
 シャーリプッタとモッガラーナのように、過去世で親友だった修行者が今世は父娘になったか・・・という妄想。
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7月20日
★ブッダは、命を懸けて修行せよと説いたが、命がけで仏教を宣伝しろとは言わなかった。
 法を説くべきは、聖なる修行の完成者だろう。  
 波羅蜜を積むために瞑想を教えてはきたが、その集大成を刊行するために己の修行を犠牲にするのは愚かしい。
 足りても足りなくても、徳をすべて費いきって修行する覚悟・・・。
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7月18日
★理由Bは、「ヴィパッサナー瞑想大全」を分冊刊行する企画が浮上したからだ。
 高価な単行本の購入はためらわれるが、廉価なブックレットなら入手しやすくなるだろう。
 採算が取れないのに多額の自費出版をする余裕はない。
 五月雨式の分冊なら、執筆の負担も軽減される・・・。
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7月16日
★長らく懸案だった「ヴィパッサナー瞑想大全」は、当初の出版計画を3つの理由から中止することにした。
 理由@は、予定通り完成させようとすると、私の修行時間を犠牲にしなければならず、それでは何のために生きているのか解らなくなるからだ。
 Aは、販売価格が5千円以上と高価になり過ぎるから。
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7月14日
★下館道場に、新しい仏像が到来した。
 雑然とした古道具屋に置かれていたのを見つけた友人が写メを送ってきたので、即決した。
 2ヶ月前に入手した朝靄に煙る湖畔の写真の前に設置すると、見事に融合した。
 調光器を暗転させ、仄かに明かるい仏の前で瞑想を始めると禅定感に包まれていく・・・。

 

 

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7月12日
★瞑想が進めば、必ず智慧が閃くのだろうか。
 サティ(気づき)が安定しサマーディ(集中)が深まれば瞑想が進んだと言えるが、洞察の智慧が自動的に閃く保証はない。
 深い瞑想に入っても、智慧の出る人と出ない人がいる。
 智慧のファクターを仕込まなければ、直観智も洞察智も現れないだろう・・・。
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7月10日
★その瞬間の自分自身を対象化し俯瞰する視座を「メタ認知」とも言い、この自己客観視を繰り返すのがサティの瞑想修行である。
 安定してサティが入るようになったら、見た、聞いた、感じた・・・瞬間の自分に何が起き、何が経験されているのか、本質まで見抜くように注意を絞り込む。
 気づき→観察→洞察の流れ・・・。
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7月8日
★お腹や足の中心対象に集中しようと必死になると、妄想が始まる瞬間には気づきにくくなる。
 センセーションの身の門にのめり込めば、妄想の意門がおろそかになるのは当然だ。                           対策としては、一点集中をひとまず犠牲にして、思考やイメージが出てくる瞬間に注意を払う。
 モグラ叩きのように、思考が出た瞬間にその頭をポンと叩いてサティを入れるのだ。
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7月6日
★黄昏が近づき、命の輝きを失い夜の闇に消えていく準備をしているような裏山の桜も見た。
 夜が明ければ再び生存を続け、やがて雨に打たれ、泥にまみれた花びらが土に帰り、春が来ればまた束の間の花を開く・・・。
 なぜ、何のために、虚しい変滅のプロセスを果てしなく繰り返すのか・・・。

 


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7月4日
★やがて命が尽きる夥しい数の桜が、地上にではなく、青空の彼方に向かって舞い散り、吸い込まれ、姿を消していく幻想。
 無常に生滅する命のシステムを超越した静けさの中に・・・。
 エンドレスに輪廻転生してきた生存の流れに終止符を打つだけの、力と時間と徳が残されているか・・・。

 

 

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7月2日
★人生の終末を見据えてからは、何事もこれが最後・・・の想いが強まっていく。
 今年も庭木が美しい花をつけたが、自分がこの世から消滅した後にも、年々歳々花開き、散った後には新緑が木洩れ陽に輝くだろう・・・。
 青空が異様に透みきった日に、最寄りの雨引山で満開の桜を観た・・・。

 

 

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6月28日
★強烈に集中するサマーディの力と、どんな対象も淡々と見送るサティの力を、同時に訓練するのは難しい。
 公平に客観視すると細部に鋭く絞り込む観察ができないし、集中が強烈になれば執着や抑圧にもなりかねない。
 たとえ中心対象への集中が悪くなっても、サティを入れ続け安定させる特訓が撤退型だ・・・。
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6月26日
★撤退型のサティを持続させるコツは、音や思考などに心が逸れた瞬間に気をつけることだ。
 頭に痒みを感じた瞬間、ピーポ、ピーポ・・・と何か聞こえた最初の瞬間、必ずサティを入れると決めておくとよい。
 モグラ叩きのように、雑念が浮かび連想が始まる瞬間に狙い定めてポン、と叩く心構え・・・。
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6月24日
★何のためのヴィパッサナー瞑想かを問い直せば、答は自明だろう。
 どんな音や妄想にも反応しないで撤退し、サティを持続できるかが最初の目安だ。
 強い怒りや欲望の対象には反射的に巻き込まれ、サティが脱線してしまうものだ。
 そこが自分の弱点であり、執着の拠りどころになっているという自覚・・・。
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6月22日
★熱い物に触った瞬間、素早く手を放すように、対象から退いていくので「撤退型」のサティと呼ばれる。
 反対に、注意を対象に絞り込んで、本質を洞察しようとするサティは「特化型」という。
 対象から素早く離れる意識と、対象の本質を突き刺すようにフォーカスする意識は、どこで切り換えるべきだろうか・・・。
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6月20日
★ヴィパッサナー瞑想者が最初にやるべきことは、妄想に巻き込まれず、徹底的にサティを持続させることだ。
 眼耳鼻舌身意に情報が飛び込んできた瞬間、内容に手を出さず、即座に中心対象に戻すのだ。
 すると、
 「いつまで続けるんですか? 対象をよく観ないでいいのですか?」
 とよく質問される。
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6月18日
★絶望的な所見を断言されたのに、必ず治してやると思っていた。
 外国の寺に修行に行けば、必ず医薬品のお布施をしてきた。
 ジャパンハートや国境なき医師団等々にも、定期的な財施をしている。
 長年瞑想者を助ける徳も積んできたのに、体を痛めて、自身の瞑想修行が妨害される?
 冗談ではない、必ず治る、治してみせる、という揺るぎない意志を支え続けたカルマ論・・・。
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6月16日
★「もうこれは治らないんですよ」
 と、膝を痛めた時に言われたが、根性でがんばり、1時間の座禅ができる程に回復させた。
 だが、油断するといつ膝に痛みを覚えるかわからない。
 結果、家の中で普通に暮らしていても、一足一足の筋肉の動きに注意を注いで自覚することができる。
 禍を転じて福となす・・・。
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6月14日
★グリーンヒルHPの「月刊サティ!」には「Web会だより」という欄がある。
 在家の方々がどのようにヴィパッサナー瞑想と出会い、自分の人生に瞑想が無くてはならないものになっていくかがリアルに語られている。
 千差万別の人生の苦しみが、瞑想によって超克されていく事例に、毎回目を見張る・・・。
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6月12日
★侮蔑すべき最低の人に出会い、はらわたが煮えくり返ったような時は、サティを入れても一時停止に過ぎないだろう。
 怒りを鎮める反応系の修行が不可欠だが、私の切り札だったのは「よく見ておけ、お前の姿だ」だった。
 眼前の嫌らしい人のどこが自分と同じなのか、と共通因子を探し出す発想・・・。
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6月10日
★自由意志が発動する0.5秒前に準備電位が始まっているのは周知の事実だが、倒れていく心のドミノの前にもその前にも、別のドミノがあった筈だ。
 外界からの情報が処理され、知覚され、連想され、判断され、意志決定されていくプロセスを因数分解していけば、「私」も「エゴ」も妄想だと検証されるだろう。
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6月8日
★どの瞬間の心も本気だったなら、否応なく善業が作られ不善業が形成されていくだろう。
 業を作る意志(チェータナー)の正体は何なのか・・・。
 遺伝情報、幼少期の家庭環境、刷り込み、経験知、譲れない信条、理想、義務感、師や先達の感化、周囲の環境、その時の情況、心を過ぎっていく連想、宿業の圧力・・・。
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6月6日
★幼かった日も、ヤンチャだった頃も、幸福の絶頂期も、全てを失った今も、どの瞬間も本当だった・・・と考えるべきだ。
 優しさがこぼれたのも、残酷だったのも、清らかな心も、真っ黒な心も、ふざけていたのも、命懸けの一瞬も、どれも真実だったし「私の人生」だったのだ。
 何が起きようとも、あるがままに、潔く引き受けていく人生は輝きを放つ・・・。
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6月4日
★家族を失い、地位や名誉や財産を失い、生きる拠りどころを奪い取られ、絶望に立ちすくむ悲嘆・・・。
 得られたのも失ったのも、いかんともしがたい因縁の流れによって、そうなるべくしてなったのだ。
 天からお預かりしたものを、天にお返ししただけではないか、と考える。
 元々無一物だった原点に帰れば、「私のモノ」という執着が作り出した心理的苦痛は必ず乗り超えられる・・・。
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6月2日
★「ボーッと生きてんじゃねーよ!」
 と、永遠の5歳児チコちゃんに、大人達が次々と叱られる。
 これは、ヴィパッサナー瞑想の本質を突く名言ではないか。
 「余計な妄想で、頭の中を充満させてんじゃねーよ!
 よく気をつけて、今の一瞬一瞬をあるがままによく観て、真実を見極めろ!つーの」
 というお叱りだ・・・。
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5月31日
★究極に達した阿羅漢の聖者でも、この世に留まる限り、業が展開する事象の流れに逆らうことはできない。
 病むのも、罵られるのも、殺されるのも、因果が帰結するのはいかんともしがたい。
 善業を作ろうが不善業を作ろうが、楽受を受けようが苦受を受けようが、エネルギーが意味もなく生滅する宇宙内現象に過ぎない。
 現象世界にいささかの執着もなくなり、悠々と苦受を受け、淡々と楽受の過ぎ去るのを観ている聖者たち・・・。
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5月29日

★苦楽は等価と納得していても、土壇場では、快楽を貪り苦を嫌悪してしまう。
 それが、知的理解の限界だ。
 サマーディがもたらすウペッカー(捨)は、悟りを錯覚させるほど強烈で全身的だが、それも禅定が醒めれば消えていく。
 究極のウペッカーの完成は、涅槃の体験が煩悩にトドメを刺す瞬間・・・。

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5月27日

★苦受を味わう瞬間に不善業が消え、苦を受け容れ、苦を乗り超えようとして、自己中心的な視座が手放される。
 快楽が人を堕落させ、苦が智慧の眼差しをもたらすのであれば、苦に腹を立て、楽を貪り求めることもなくなるだろう。
 こうして、苦楽を等価に視るウペッカー(捨)の心が確立していく・・・。

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5月25日

★激烈な苦が乗り超えられていく時にこそ、人の心は成長する。
 高慢の鼻がへし折られ、因果の理法が骨身に沁み、失意のどん底から立ち上がり、怒りを手放し、赦しがたいものをゆるす度量が培われる・・・。
 苦が掛けがえのない宝となり、災いをもたらした加害者が菩薩に見えてくる日が、必ず来る・・・。

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5月23日

★怖れることはない。
 どれほど激烈な苦しみにも、必ず終わりがある。
 命も、事象も、現象の世界は、無常の法則に貫かれている。
 幸福も壊れていく。
 ドゥッカ(苦)も変滅していく。
 苦を受ける瞬間に、不善業が消えるのだ。
 怒りや絶望や復讐のエネルギーで、新たな悪業を作らない覚悟・・・。

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5月21日

★最低の人に出会い、最悪の事態に巻き込まれ、最大の苦を受けるのは、自分が埋めた不善業の地雷を踏んだからだ。
 悪業の大量一括返済のスタートだ・・・。
 タイトルマッチのリングに上ったボクサーのように、ドスン、ドスンとパンチを受けながら、悪業が消滅していく晴れ舞台を楽しもう・・・。

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5月19日

★撮影地は岐阜県揖斐郡徳山湖、その水底には徳山村が沈んでいる、と会場で作者が説明してくれた。
 だが、そんな過去の伝聞は、私には妄想と同じだった。
 それよりも、靄の中に消えかかった森と湖そのものが一瞬一瞬、妄想と同じ素材に変滅しつつあるのではないか、という問いに向き合っていた・・・。

 

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5月17日

★命を懸けて修行していた八王子も、第二の故郷のような外国の森林僧院も、眼前には常に深い樹木の連なりが拡がっていた。
 森を眺めながら瞑想修行を開始するのが、あまりにも当たり前の感覚になっていた。
 タイの蓮池も、風にそよぐミャンマーの竹林も、スリランカの断崖の谷間も・・・、眼を閉じれば、すべて妄想として見送っていかなければならないのは心得ている。
 その瞑想モードに、素早く切り替えてくれる森と水のイメージ・・・。

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5月15日

★この朝靄に煙る湖畔の写真を所有しなければならない、と我ながら不可解な強い衝動だった。
 夜明け前の闇に拡がる蓮池を前に、命がけで瞑想していた懐かしきタイの僧院・・・。
 来る日も来る日も、眼前に拡がる蓮池に日が落ちていくのを眺めながら瞑想し、暁闇が破れる前に起床し、朝が訪れてくる気配を感じながら、ひたすら瞑想に専念していた日々・・・。
 あの感覚をもう一度、下館に再現しなければならないという切望・・・。

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5月13日

★通りがかったギャラリーの一葉の写真に眼が吸い寄せられた。
 朝靄に煙る湖畔の静けさが心に沁み入った。
 広大な蓮池が眼前に拡がるタイの寺で修行していた日々を思い出した。
 下館の道場に飾り、仏像を置き、香を焚いて瞑想したいという衝動に突き動かされて購入した。
 滅していくのか、現れてくるのか、森と湖と靄に煙る静けさ・・・。

 

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5月11日

★悟っている人の座相は美しく、そうでない人は乱れているのだろうか?
 確かに、妄想の飛び交っている人の座相に澄みきった静謐な印象はない。
 だが、微動だにしない美しい座相も一時的なサマーディの深さを示すだけで、欲望や怒りから完全に解放された悟りの心境を暗示するものではない。
 石のような頑迷な静けさもある・・・。

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5月9日

★なぜ何度も同じ決意を虚しく繰り返してしまうのだろう。
 本当は、よく解っていないからだ。
 肝心なものから目を背けていくら誓っても、その場になれば必ず迷いが生じ、愚かな考えに巻き込まれてしまうものだ。
 法を拠り所とし、心底から納得した決意が全てを変えていく・・・。

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5月7日

★喜怒哀楽に巻き込まれ、悪い想念が飛び交い、怒濤のごとく流されてゆく日常の中で、サティを常に忘れずにいることは難しい。
 サティが入らなければ、情報処理も、反応の仕方も、そして人生の流れも、何も変わらないだろう。
 それ故に、娑婆世界の濁流の中では、反応系の心に命じる覚悟と決意が大事と心得る・・・。

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5月5日

★「君子の交わりは、淡きこと水の如し」と言う。
 清潔な距離感の保たれた人間関係は永く続き、苦を生じさせない。
 法を拠りどころとする者には「捨」の心が働き、人を拠りどころとする者には「我所(オレのもの)」が働く。
 人を、物を、情況を私物化するエゴ妄想がギラつき、諸悪の根源になっていく・・・。

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5月3日

★もし苦の値打ちが覚られ、楽の恐ろしさが腹に落ちれば、苦を嫌悪し楽を求める渇愛は減じていくだろう。
 苦楽が等価に見えてくる度合いに比例して、「捨(ウペッカー)」の心が確立する。
 サティの瞑想と慈悲の瞑想を完成させるのは「捨」の成長であり、「捨」の心はエゴが引き算されるのに比例する・・・。

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5月1日

★たとえ自ら不善業を積み重ねて苦しい人生にしたのだとしても、心の成長のために敢えて茨の道を選んだのだとプラス思考した方がよい。
 ドゥッカ(苦)を乗り超えようとして、人は本気で自己に向き合い、反省し、飛躍する。
 苦の果てに成長と悟りへの躍進が始まり、快楽の中に苦の萌芽を洞察する・・・。

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4月29日

★虐待や愛着障害など人生の最初期で決定的につまずくカルマの悪さは、悟りの妨害要因になってしまう。
 溺愛されて我執が助長されるのも、おめでたいのも、頑固なのも、運が悪いのも、自らが作った業の結果だ。
 是非も無いが、全力で乗り超えていく覚悟を定め、なすべきをなし、来世に繋いでいくしかない・・・。

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4月27日

★「もう金輪際、再生したくない!悟りたい!」と表明し、原始仏教に道を求めたのは間違いではないだろう。
 これまでドゥッカ(苦)に叩かれてきたのも想像がつく。
 だが、怒りの心でこの世を蹴り捨てるのは、破壊的な渇愛(無有愛)に過ぎない。
 怒りの煩悩が微塵もなくなる果てに向かって、淡々と引き算を続けながら静かに歩いて行く道・・・。

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4月25日

★人の世のあらゆる事象は、いかんともしがたい必然の力で生じ、展開し、壊滅していく・・・と実感してきた。
 だが、自由意志すら宿業によって定まっていると考えるのは、仏教の業論から逸脱する。
 おおむね全体の3/4は他律的に展開しても、1/4程度は自らの意志で新たな業が作られていくのではないかという印象・・・。

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4月23日

★「今、この一瞬!」「明日死ぬとしたら・・!」と長年言い聞かせてきたのは、心の奥底では余裕を残しているのを直感していたからだろう。
 未だに心身の衰えをまったく感じないものの、どんな仕事にも「これが最後・・」と出し惜しみのない一回性の覚悟が入るようになった昨今・・・。

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4月21日

★たとえ真実だったとしても一瞬のことであり、次の刹那には崩れ落ち、虚しく消え去ってしまうではないか・・・。
 真実の一瞬も、記憶の中で必ず変形し、歪み、妄想の素材になっていく。
 妄想は虚しく、真実もまた虚しく、現象の世界に執着し、渇愛する価値があるのだろうか、という根本的な疑問・・・。

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4月19日

★優しかった瞬間の母もいたが、恐かった瞬間の母親もいた・・・。
 正確に知覚された記憶も、編集されて歪んだ印象も、時が経てば、必ず脳内変形し単純化されていく。
 グレイゾーンはなくなり、美化された白い人と極悪の黒い人がひしめいていく。
 人生は、どの瞬間も真実だった断片が積み重なったものだが、それを正しく視る人は少ない・・・。

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4月17日

★心から愛する人がいれば、執着するだろうし、輪廻して再会したくもなるだろう。
 かけがえのない人生の拠りどころを得れば、必ず束縛されてしまう法則だ。
 「愛する人と会うな。愛しない人とも会うな」
 愛する人も憎む人もいないのがよい・・・とブッダは言う。
 自己完結する成熟した孤独・・・。

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4月15日

★物理的に孤独な空間にいても、大切な家族や親しい人が隣室にいれば、無意識に動静を気にかけてしまうし、故なき安心感にも包まれる。
 この世から一時的に撤退し本当に孤独になれば、意識の矢印は自分の内面に向かい、来し方を振り返り、生きる意味を問い始める。
 愛着するものにしがみつき、面白いもの、楽しいもの、珍しいもの、刺激の強いものを求めて、自分を直視することから逃げ続け、やがて認知症になり、訳の分からない無明の心で輪廻転生を繰り返す・・・。

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4月13日

★では、どうしたら「捨」の心を訓練し、成長させることができるのだろう。
 自己中心的な視座を離れる練習を重ねれば、公平な視座がもたらされるだろう。
 相手の立場から眺め、空を飛ぶ鳥の目で俯瞰し、嫌いな人に対しても敢えて慈愛の念を送る慈悲の瞑想をする。
 嫌な妄想も楽しい妄想も、快感も苦痛も、すべてを等価に見送っていくサティの瞑想に専念する。
 日々繰り返す慈悲とサティの瞑想が「捨」を養う・・・。

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4月11日

★訳がわからず、判断できない、愚かな無関心。
 他人のことなどどうでもよい、冷淡で、エゴイスチックな無関心。
 飢えた幼獣を持つ母ライオンにも、必死で逃げるシマウマの母親にも加担できず、慈しみに溢れながらも、この非情な世界の構造を黙って見ているしかない、明晰な無関心・・・ウペッカー(捨)。

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4月9日

★突然、耳を打つ鋭い音、鼻を衝く焦げくさい臭い、頭に垂れた水滴の冷たさ・・等を感じれば、ハッと我に返って現在の瞬間が意識されるだろう。
 その音や臭いや冷覚を想像することもできるが、しょせん妄想の中身に過ぎない。
 現実の事象は、身体感覚が伴う実感の世界だ。
 不還果の悟りを得て身体のない無色界に住するのはめでたいことだが、妄想の糞壺に永遠にはまり続ける恐ろしさ・・・。

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4月7日

★スリランカ森林僧院のある長老が言われた。
 「無色界では身体がないので、食欲からも性欲からも解放され、怒りも根絶されるだろう。
 だが、その無色界の不還果になっても、掉挙の煩悩は残るのだ。
 妄想に巻き込まれた時、どうやって脱出するのだ? 
 脚の痛みに集中することも、作務で気分を転換することも、物質的存在の苦の本質を洞察することもできないぞ・・・」

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4月5日

★10日間の断食が成功した直後の瞑想は、体の感覚が無になり、意識が直接宇宙に触れているかのような透明感に貫かれていた。
 汚い想念が心を鈍重にするのも確かなことだが、食物を取り込みエネルギーを摂取する代謝のシステムそのものが、意識を濁らせる。
 体は邪魔者!と絶えず感じてきた。
 身体がない世界、食べることもない世界、意識のみの透明な世界への憧憬・・・。

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4月3日

★断食中の虚ろな意識でも、何とかそれを対象化するサティが入るものだ。
 それすらも出来なくなると、ただ眠りに引きずり込まれていくしかない。
 覚めれば再び心は稼働し瞑想も可能となるが、長くは続かない。
 苦しくても、危険と犠牲が伴っても、瞑想のステージを一気に高める可能性のある断食は止められない・・・。

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4月1日

★宇宙にダークマターがあり、陽子に反陽子があり、美しい薔薇に棘があり、陽に陰があり、断食に光もあれば闇もある・・・。
 脱力感と吐き気と意識朦朧に苦しむこともあるが、断食を解いた後に訪れる異様なまでの透明感に包まれる瞑想は最高だ・・・。
 何事もトレードオフと心得、苦楽を等価に観て超えていく道・・・。

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3月25日

★64時間の断食が終った。
 ヴィパッサナー瞑想は引き算の世界だ。
 妄想を、概念を、煩悩を、渇愛を、全てを手放していく究極に向かう。
 豊富な栄養を取り込むほど良かれと肥満になり病気になっていく真逆の、断食という引き算。
 透明な体感、澄み切った意識、心身の静けさ、深まる瞑想・・・。

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3月23日

★この世の無常や虚しさを、どう理解しようが考察しようが、思考されたものなど、土壇場になれば一番でブッ飛んでしまうだろう。
 痛切な体験をしなければ、骨身に沁みることも、腹中に深く落ちていくこともない。
 だが、日々、痛切なドゥッカ(苦)を体験している動物達のように、智慧なき体験は無力なのだ。
 なぜ、ダンマを学び、思考を止める瞑想をするのか・・・。

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3月21日

★知的な執着なら、発想が変わり、物の見方が変われば、手放せるかもしれない。
 だが、頭でいくら分かっても、感情的なモヤモヤや心の奥底に潜む執着はビクともしない。
 切れば血の出るこの世の現実が、どうしたらブッダの言うように「泡沫の如く、陽炎の如く」見えるのだろう・・・。

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3月19日

★生前は「断じて赦さない!」と憤り続けていたのに、訃報に接するや、全てを水に流せるのは、なぜか。
 金と地位と権力を生涯求め続けた俗物も、末期には、この世のことは夢のまた夢・・などと言い残すのは、なぜか。
 金も権力も愛する家族も、死んだ後にまで持ち越せないのだから、諦めるしかないのだ。
 だが、死は全てを奪い去るが故に、生存への渇愛を激烈にし、輪廻の輪を回し続ける・・・。

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3月17日

★戦乱が激化すれば、必ず平和が希求される。
 陽が極まれば、陰になる。
 満月が、完成した瞬間に欠け始めるように・・。
 それ以上はない幸福の絶頂に達した者には、二つの道しかないだろう。
 ゆるやかに衰微し退廃しドゥッカ(苦)の混沌に向かって下落していくか。
 王宮を出たシッダールタのように、因果に拘束され無常に変滅していく現象の世界から静かに離れていくか・・。
 幸福の限界を視る智慧・・・。

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3月15日

★因果論を心得、徳を積み、衆善奉行を重ねれば、完璧な幸福を具現化することができるかもしれない。
 だが、幸福の賞味期限は短い。
 どれほど美味な菓子でも、毎日、毎回、えんえんと出されればうんざりしてくる。
 何もかも上手くいき、嫌なこと困ったことハラハラすることは何一つ起きない。みんな良い人ばかりで、嫌な人も恐ろしい人も悪役は一人も現れず、朝から晩までただ楽受の日々が続いていく。・・そんな映画を観ていられるだろうか。 
 たとえ完全な幸福が得られても、同じ幸福が完璧に維持されても、幸福が永遠に続けば飽き飽きし、ウンザリし、倦怠の苦が始まるだろう。
 幸福が、ドゥッカ(苦)になっていくのだ・・・。

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3月13日

★全身不随で自由になるのは右手一本なのに、短歌を読み、著作を残し、新聞に連載し、車椅子で講演をしながら世の人々に感動を与えている方がいる。
 ある日「先生には障害があるからいいけど、僕には障害なんかないから、どう生きていってよいのかわかりません」と言われた。
 安定した幸せを享受している者が、苦のどん底を生きてきた人を憧憬するのか・・・。

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3月11日

★苦を引き算し、楽を足し算すれば、幸福度が増す・・と囁く本能のプログラムに無明の発端がある。
苦のない楽受だけの日々には、より強い快感を求めさせる力はあるが、人を向上させる力はない。
 苦を乗り超えようとする力が人類の知能を進化させ、超え難い苦をありのままに受け容れる智慧が人格を向上させていく構造・・・。

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3月9日

★自分のしたことは間違っていたのか正しかったのか、判断に迷いながらウジウジと後悔モードに陥るのは愚かしい。
 やってしまったことは、仕方がないのだ。
 もし悪をしていたなら未来に苦受を受けるだろうし、善ならば楽受を受けるだろう。
 それだけのことだ。
 そう腹を括って、前を見る・・・。

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3月7日

★初心者講習会のような瞑想会を、韓国でもぜひ開催して欲しいと要望しながら、「韓国中央日報」の記者は帰国した。
 勝手に思い込んだ妄想世界とあるがままの事実の混同こそが人生苦の発端であり、ヴィパッサナー瞑想は在家の者にも不可欠なのだと納得されたという。
 その時の取材記事は、2019年1月に掲載された。

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3月5日

★人は所有するものに縛られる法則・・。
 大邸宅が全焼した人と賃貸アパートを焼け出された人の苦しみは、同じだろうか?
 幸福の拠り所が、苦の拠り所にもなっていく。
 財産や家族が人生の喜びであり幸福の素だと悪魔が囁く。
 その執着が憂いと苦の種になるとブッダは切り返す。
 引き算の幸福論・・・。

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3月3日

★インタビューの中で印象的だったのは、「競争的な現代社会では、欲望が生産性と競争力を生むエネルギーになり得るが、瞑想をすると、それがなくなって淘汰されないか」という疑問だ。
 お金を、地位を、名誉を、価値あるものを、多く獲得するほど幸せだと考える足し算の幸福原理と真逆の瞑想・・・。

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3月1日

★韓国でも瞑想がブームになろうとしている。
 と、日本の瞑想事情を取材に来た「韓国中央日報」の記者の方から耳にした。
 インタビューをする前に、まず自分も体験したいとのことで、初心者講習会に参加された。
 拙著の韓国語訳を読んで取材を思い立ったのだが、なぜ瞑想を実践したくなったかの背景には挫折体験があるらしい。
 苦の真理から始まる原始仏教・・・。

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2月28日

★思考の流れや心の状態にサティが入れば、足の動きや雨音などにサティは入らないだろう。
 時間差があればどちらにも素早くサティの入る可能性はあるが、2つの現象が同時に起きれば、一方が選ばれ他方は捨てられる。
 身体動作か、感覚か、心の状態か、意識の流れか、千差万別だが、その一瞬の、その人の経験世界を客観的に自覚する技法としてのサティ・・・。

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2月26日

★人は、事実に苦しむのではない。
 過ぎ去った事実の記憶に苦しむのだ。
 我見に固執している限り、死ぬまで否定し、怒り続けなければならない。
 なぜそんなことが自分に起きてしまったのか、事の因果を読み解き、理解し、納得して受容しなければ、今の瞬間に集中できない。
 赦すということ・・・。

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2月24日

★楽を求め苦を嫌悪している限り、サティの瞑想も慈悲の瞑想もうわべだけのものとなり、深まることはないだろう。
 一切の事象を等価に観る「捨(ウペッカー)」の心が確立されないからだ。
 ダンマが理解され、エゴが手放される度合いに比例して、心から納得し喜んで苦を受け容れることができる構造・・・。

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2月22日

★ドゥッカ(苦)に押し潰されていく者もいる・・。
 だが、事実はただの現象であって、それをどう解釈するかによって「経験」の意味は千変万化する。
 心に、体に、苦受を受けることによって、どんな悪業も消えていくし、始まりがあったものには必ず終わりがある。
 楽しい人生はただ過ぎ去るだけだが、苦には人生の流れを変える力があり、自己変革の絶好のチャンスとなる。
 苦がなければ悟りもなく、苦の真理を学び取る者だけが解脱にいたる仏教・・・。

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2月20日

★究極の境地にたどり着いたブッダですら、時に罵られ、ハメられ、足指に怪我をした。
 襲撃に来る刺客の刃を、神通力で二度逃れた目蓮尊者も、三度目には甘んじて受け容れ生涯を閉じた。
 雀も犬も人間もゴキブリも、業によって生じ業によって滅していく流れはいかんともしがたい。
 たとえどれほどの苦が続こうとも、必ず終わりが来るのだから、静かに心の安らぐ道を目指す・・・。

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2月18日

★映画や小説にはハッピーエンドも悲劇的結末もあるが、生きている限り、私たちの物語に終りはない。
 禍福は交差し、敗者が復活し、その時の勝者が再び凋落し奈落に落ちていく。
 どこで、何をもって、どう、ラベリングするのか・・。
 浮き、沈み、事象は続き、どんな結末も認識も仮りそめの真実・・・。

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2月16日

★武蔵の「枯木鳴鵙図」にみなぎる一瞬への集中にも、鬼気迫るものがある。
 後戻りもやり直しもきかない刹那の世界は、振り下ろす剣先も水墨画の筆さばきも同じだろう。
ヴィパッサナー瞑想のサティの一瞬に通じるものがある。
 瞑想が美や剣と違うのは、善悪の倫理を第一義とする戒の存在・・・。

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2月14日

★宮本武蔵は五輪書「水の巻」で剣法の奥義を「見の目(一点集中)」と「観の目(全体の俯瞰)」と表現している。
 サマーディとサティの並立とも言えるが、本来のサティには「気づき」+「俯瞰」+「自分自身の対象化」の要素もある。
 一瞬に命を懸ける剣豪の迫力で瞑想しているか、と自戒する日々・・・。

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2月12日

★簡単に作られたものは簡単に変わるが、長い時間と膨大なエネルギーを費やして形成されたものが変わるには、それ以上の時間と労力が必要なのだ。
 悟れる人は、生まれた時に決まっている(三因結生)と言われる。
 当然のことだ。
 自分に与えられている全てを、あるがままに受け容れることからしか何も始まらない。
 どんな事象も存在も、一定方向に力を加え続け、ブレなければ必ず変化するということ・・・。

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2月10日

★瞑想で心が変わり生き方が変わるのは確かなことだが、遺伝的素因、幼少期の刷り込み、深層の心など、生得の資質と三つ子の魂を跡形もなく無にすることは成しがたい。
 表層の反応パターンは変更可能なので、人生の流れは一応変わる。
 だが、土壇場の本性まで根こそぎになるのは、来世以降に持ち越されるだろう・・・。

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2月8日

★事実を正確に観察すれば、正しく認識されるだろう。
 だが、新たな現実が立ち現れてくる次の瞬間、その「事実」が「妄想の素材」へ推移してしまう。
 事実も情況も記憶も、全てが異なったものに変わっていくのだ。
 サティの瞑想ほど、「正しかったのは一瞬!」と突きつけてくるものはない・・・。

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2月6日

★瞑想ブックレットはアマゾンで好調な売れ行きだが、売れれば売れるほど損をする価格設定とは何事か、と言われた。
 良いではないか。
 われわれは徳を積むのを楽しんでいるのだ。
 瞑想の情報発信は法施、製作上の全ての営みは身施、さらに出版費用の財施まで、オールインワンの善行ができる幸福に感謝している。
 在家でこの世に留まっている意義は、満遍なく波羅蜜を蓄えるチャンスに恵まれているからだろう。

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2月4日

★全ての準備を整え、満を持してタイの僧院で長期のリトリートに入ろうとした直前、父親の肺癌が末期であることが判明し、渡航を断念したことがある。
 なぜ、このタイミングで・・と思ったが、確執のあった父親だからこそ、その最期を看取らなければならないと思った。
 やるべきことをやらなければ、瞑想中にネガティブな思念がチラつき、自分に言い訳をし、やましさや後悔の不善心所モードとのバトルになるだろう。
 一点の曇りもなく、心が晴れやかでなければ、最高の瞑想はできない。
 究極の一瞬が訪れるには、あらゆる妨害要因を引き算し、集積してきた無量無数の善業が結晶する瞬間を待つしかないのだ。
 「波羅蜜無くして、悟りはない」という言葉を検証し続けてきた人生でもあった・・・。

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2月2日

★瞑想の才能に恵まれ、サマーディの集中力とサティの客観視を極めれば、誰でも悟れるのだろうか。
 そう簡単にはいかず、智慧の仕込みがなければ、悟りの瞬間は訪れないだろう。
 良き師、良き環境、修行をサポートしてくれる良き人々にも恵まれなければならない。
 なんらかの妨害要因で修行が邪魔され破壊されていった修行者も数えきれない・・・。

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1月31日

★圧倒的な才能に恵まれた者を<天才>と呼ぶ。
 それ相応の実績を残し、正当な評価も得られて天分を全うする天才もいれば、世に埋もれたまま消えていく者もいる。
 実力、実績、評価、絶妙な事の展開、時流に乗れる運気・・等々、その要素を一つひとつ善業の集積として完備させていく。
 これを波羅蜜と言うが、瞑想を真に進ませる原動力だと古来から伝えられてきた。

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1月29日

★瞑想ブックレットの価格は、瞑想会場で細かな釣銭が出ないようにワンコインの¥500とした。
 一般の流通には乗らず、インターネット上のみの販売となるが、アマゾンでは税込¥540となる。
 法施(情報系の善行)を仲間と協同作業する充実感と楽しさ・・・。

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1月27日

★瞑想ブックレット第1号を発行したのは14ヶ月前。
 これまでの原稿やダンマトークの中から、質の高いものを活字化していくシリーズだ。
 第1号のテーマは、「マインドフルネス瞑想との差異」+「やさしくなれない人が優しくなるには・・・」の2部構成。
 1年に1冊発行予定だったが、第2号が少し遅れている。
 なるべく早く上梓したい・・・。

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1月11日

★概念操作の知的理解で終わることに直感的な嫌悪を感じ、当初から体験的実証に強くこだわってきた。
 思えば、自分の人生そのものが「苦集滅道」の四聖諦を検証するために設計されていたかのような気がしてくる。
 人の評価という妄想に惑わされず、法と共に、ただ独りの道を歩み切っていく覚悟・・・。

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1月9日

★たとえ仏教以外の教えや戒律であっても、この八正道さえあれば、解脱する聖者が現れるだろう、と涅槃経の中でブッダは言明する。
 まさに八正道こそ「道諦(苦を滅する方法論の真理)」そのものであり、仏教の全てが内包されている。
 この道を必ず歩み抜く、という揺るぎない決意が定まっていった・・・。

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1月7日

★ブッダの偉大さは、到達された崇高な境地もさることながら、私たち凡夫にもその究極に至る道を具体的に提示されたことだ。
 日本語の仏教書を読み漁っていた頃は、「四諦・八正道」のどこが良いのかさっぱり分からなかった。
 だが、上座仏教の寺で聞法した「八正道」の深遠さは衝撃的だった・・・。

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1月5日

★大乗仏教もインド思想もタオも、私の目指していた悟りや解脱に至るものではないと感じていた頃、クリシュナムルティに魅了された。
 だが、究極の世界が暗示されていたが、修行する方法論がないのは荘子と同じだった。
 途方に暮れていた時、「よく気をつけておれ」と説く原始仏典に光明を感じた。

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1月3日

★「煩悩即菩提」は嘘だろうと直観しながらも、大乗経典、老子&荘子、「ヨーガ・スートラ」を読みながら修行していた。
 その迷いを一掃してくれたのは、原始仏教だった。
 阿羅漢果に到達し、煩悩が滅尽されたことを高らかに宣言している聖者達に感動した。
 「滅諦」(苦の終滅の真理)の力強い提示・・・。

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1月1日

★怒りと憎しみを抱き続けてきた父親が、実は無言で私を導く菩薩だった・・と、認知を大転換させてくれたのも仏教だった。
 認知が変われば世界が一変するのだ、という衝撃。
 私の積年の苦しみは、全て妄執(渇愛)から生じていた。
 「苦の原因の真理(集諦)」が骨身に沁みて迫ってきた・・・。

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12月30日

★家族に伝えようもない屈折した憤りを吐き出し尽し、完全に空っぽになるまで、自傷行為のような人生が10年余も続いた。
 暗く、孤独で、虚しい愚行だったが、骨の髄まで苦の真理(苦諦)を叩き込まれ、思えば仏教にめぐり会うのに必要な手続きだった。
 陽が極まれば陰に、陰が極まれば陽になる・・・。

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12月28日

★頽廃的なものに美を感じていたのは、自己破壊的な情念がたぎっていたからだろう。
 すべての葉が落ちた晩秋の庭の柿の木にたった一個だけ、取り残された柿が腐ったままぶら下がっていた。
 その柿の先端から深紅の滴がふくらんで、沈みゆく夕陽の残光にキラリと光るのを眺めて感動していた・・・。

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12月26日

★だが高校を中退するような暴挙には出ず、グレるのは大学に入ってから、と計画した。
 今にして思えば、名声や立身出世を目指す模範生のベクトルが、一転、「生きよ、堕ちよ」と負の世界に転じた反動に過ぎなかった。
 悪の哲学や詩を読み耽って理論武装し、自己破壊的なデカダンスが始まった・・・。

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12月24日

★芸術や文学以外には手がつかず、人と社交的な会話をするのが苦痛になり、衝き上がってくる情念に翻弄される日々が始まった。
 もうゴメンだ!幼くして苦しい人生を歩むことになったのも、全てはあの男のせいだ!
 と、父親への憎しみと、自分自身への憤りと、真実と感動を求める混沌状態だった・・・。

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12月22日

★芸術的感動の純粋さが、真実を求め真理を探求していく情熱に火を点けたのかもしれない。
 それ以来、東大を目指してガリ勉する気は失われ、人間とは、真実とは、何かを求め、芸術や文学に傾倒していった。
 世評と噂と虚栄の虚しさに憤りを覚え、過去の全てに復讐してやりたい衝動を感じながら・・・。

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12月20日

★17歳のある日、高名な女流ヴァイオリニストの演奏する「ツィゴイネルワイゼン」に、なぜか異常に感動した私は、コンサートホールに誰もいなくなるまで座り込んでいた。
 何かがブチ切れ、音を立てて崩壊するような感覚に打ちのめされ、その日を境に私の人生は大きく正反対の方向に舵を切られていった・・・。

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12月18日

★母も姉も祖父母も本家の誰もが私を大切にしてくれている愛と、過剰な期待の重圧と、求められた役割に応えなければならない息苦しさと虚しさと、愛されながらも惨めで苦しい自分の境遇が呪わしく、鬱陶しくなっていった。
 過去の人生を全否定したくなる憤りが明確に自覚され、ピークに達したのは17歳の春だった・・・。

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12月16日

★複雑な家庭環境があり、幼い頃から周囲の大人達が私に期待する模範生の役割を全うするのを義務と感じてきた。
 その暗黙の重圧にヘトヘトになりながらたどり着いたのは、真実にほど遠い虚栄だけの世界だったか。
 何のために、誰のために、自分は生きているのか、根本的な疑問が初めて生まれた・・・。

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12月14日

★野球と陸上はやってきたがいつの間にか「スポーツ万能」、学業で校内1番になったことなどないのに「首席で卒業」などと言われて面食らった。
 私の内面の葛藤や繊細さなど家族ですら知らず、まして世間の評価がどれだけデタラメで、真実にほど遠い虚妄な猿芝居か。
 憤りのようなものを感じた・・・。

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12月12日

★教師も生徒も近所の人も親族も、客観的事実や私の実像ではなく、「優等生」の脳内レッテルで眩しそうに見るようになった。
 「世間虚仮、唯仏是真」という言葉はまだ知らなかったが、世間の誰も真実など見てはいない。
 自分の勝手な妄想世界に住んでいるだけではないか・・・という疑問が生まれた。

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12月10日

★中学3年の時に生徒会に立候補し、全校生徒約1500人の投票で私はトップ当選し会長に選ばれた。
 親友だった野球部主将は副会長に選出された。
 統率力のある彼の方が会長に相応しかったが、得票順位で役職が定められていた。
 生徒会長になった途端、私を見る周囲の目が一変したことに衝撃を受けた・・・。

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12月8日

★出家して比丘にもならず、大学に残って研究者になる訳でもなく、在野の一瞑想者で通してきた。
 なぜ自分は、社会的な地位や名声を求める欲があまり強くなかったのだろう。
 思い至ったのは、少年時代に幻滅した体験だった。
 以来、真理を求め、人間の真実を探求しなくてはいられなくなった・・・。

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12月6日

★心の散乱を鎮め一点に絞り込んでいくサマーディの力は、同時に他の対象を除外する力でもある。
 より高度な純粋観察を深めるためのサマーディが、修行の順番を間違えると、煩悩を抑圧する仕事に使われてしまう。
 反応系の心を浄化する戒の瞑想が、何よりも優先されなければならない所以である。

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12月4日

★病気や外的要因に条件づけられた一時的な「捨」の心は、体調抜群、やる気満々の状態になると却って崩れやすい。
 調子が良ければ良いほど、いい瞑想ができるのではないかと期待も欲も強まるのが常だ。
 病気が仮そめの無欲をもたらし、無欲になれば何ものにも執着しないので、「捨」の心が静かに淡々とサティを連続させるだろうということ・・・。

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12月2日

★熱帯の山中に孤立するクーティに独居し、水のような下痢が日に7回も続き、朦朧としながらサティを入れていたこともある。
 意識がある限り六門に情報は入り続け、思考の断片や連想の流れが途絶えることはない。
 憔悴し受身に徹するしかなかったが故に、静かに淡々と連続していくサティ・・・。

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11月30日

★外界から取り込まれる新たな情報が何も無くなると、新奇性に飢えた心は、忘却の彼方に眠っていた記憶を探り出し、妄想として浮上させ始める。
 何十年もの間、一度も想起されなかった記憶の断片が出現する瞬間の驚き!
 新奇な情報を貪り求める心は、妄想を排除する瞑想を嫌がっている・・・。

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11月13日

★電気すら引かれていない森林僧院でリトリートに入ると、新たな情報のインプットが極端に制限される。
 本を読まず、新聞もテレビも音楽もインターネットも・・・何もない。
 僧院に溢れる光も、音も、匂いも、その情報の中身には手を出さず、ひたすらサティを入れ続ける日々・・・。
 だが、どのような環境設定をしても、心は黙ってなどいない・・・。

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11月11日

★テレビ、インターネット、SNS、新聞・・・、なぜ一日中、こんなに情報を取り続けようとするのだろう。
 間断なく撃ち込まれてくる刺激の氾濫に痙攣し、見失われていくもの・・・。
 外界に突き刺さっていく視線を内側に向け直す情報断食。
 溢れ返る思考の断片に食いつくのを止め、聖なる沈黙を目指す瞑想・・・。

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11月9日

★どんな独創的なアイデアも陳腐な思いつきも、断片化された知識と経験の組み合わせから生まれてくる。
 欲や怒りやストレスのエゴ感覚は、脳内データを一つの方向に強引にまとめていくだろう。
 瞑想をして心が空っぽになれば、意識下で束縛から解放された情報同士が自由に、途方もない組み合わせで結晶し始める。
 それが浮上した瞬間、瞑想を取るのか、アイデアを取るのか・・・?

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11月7日

★なぜ、瞑想中に素晴らしいアイデアが浮かびやすいのか?
 エゴの情報操作や干渉がなくなるからだ。
 思索や考察が止まれば、エゴもセットで姿を消す。
 意識にのぼりづらい連想や淡い雑念までストップすれば、知識や経験の脳内データが自在に配列された状態になる。
 閃きが生じる絶好の瞬間・・・。

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11月5日

★孤独にならなければ、瞑想はできない。
 目の前に気になる人がいれば、スマホやテレビの画面を見れば、音楽が聞こえてくれば、晩ご飯の匂いが漂ってくれば・・・、意識の矢は外界に突き刺さっていく。
 独りになって瞑目し、外界の情報を遮断すると、今度は頭の中のお喋りが勢いづく。
 孤独になっても、瞑想ができるか否かは不明なのだ。
 心が沈黙しなければならない・・・。

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11月3日

★仲の良い親子や夫婦でも互いに何を考え、どう感じ、何に感動しているか、完璧に理解し合うことはあり得ないだろう。
 自分の本心を抑圧していることに気づかないのも普通のことだ。
 他人にも自分にも、思い込みとエゴ妄想の投影が外れることはない。
 自分勝手な妄想で編集し、嫌なら目を背ける無明の世界に不可欠となった「あるがままを観る瞑想」・・・。

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11月1日

★人は、事実に執着することはできない。
 今この瞬間の現実が、次の刹那には妄想の素材になっていくからだ。
 皮肉なことに、妄想に深くのめり込む力が、高度な文明を創造する源にもなった。
 諸刃の剣のような能力ゆえに、人間には、事実と妄想を識別して自覚する瞑想が不可欠になった・・・。

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10月30日

★鶏も蛙もどんな動物も目があれば、鏡に映る自分の姿を見ることができる。
 だが、それが自分だと分かるのは、象やチンパンジーやイルカなどわずかである。
 人は誰でも自意識を持つが、訓練しないとメタ認知は生じない。
 私は今「(鏡に映った自分を)見ている」という自覚がサティだ・・・。

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10月28日

★ヴィパッサナー瞑想が腹部や歩行の感覚に集中する目的は2つある。
 同一の対象に繰り返し注意を注ぎ、集中力を高めること。
 もう一つは、自己を客観視するメタ認知の視座を確立するためである。
 髪の毛をまさぐりながら手鏡の中をウットリ眺めている少女に、メタ認知は生じているだろうか・・・。

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10月26日

★孤独になって外界の情報から遮断されると、去来するイメージや妄想の鮮明度が増してくる。
 脳内に飛び交う妄想の嵐が鎮まらないのは、欲望と嫌悪の対象に執われているからだと気づかされる・・・。
 ヴィパッサナー瞑想の真骨頂だ。
 この世への諸々の渇愛を手放さない限り、苦しむ構造・・・。

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10月24日

★孤独にならなければ、自己客観視する瞑想は難しい。
 乳幼児を遊ばせる母親も、死にゆく親の看取りをする者も、片時も対象から目を離せないだろう。
 外界から自分の内面へ、意識の矢印を転換しなければ、瞑想はできない。
 信頼できる絆を持たない者には地獄だが、人を信頼できる者には孤独は最上の宝である・・・。

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10月22日

★執筆のための夏のリトリート中も今も、どんなに忙しくても一日に30分余の座る瞑想と小一時間の歩く瞑想は止められなかった。
 淀んだ水がヌルヌルした緑色に腐り始めるように、瞑想をしないで、概念漬けの認識世界にのめり込んでいると窒息し、頭が腐り始める。
 密林の中で死んだ象の遺体の上で白濁した液体が泡立つように、無数の蛆虫が蠢きながら強烈な腐臭を一面に放っている。
 そんな蛆虫のような思考の断片がブツブツ生滅する妄想世界を離れて、腐臭から蘇生する瞑想・・・。

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10月20日

★「この世に咎を見て、在家に留まっていてはならぬ」とブッダは言う。
 出家とは、職業欄に「僧侶」と書くことではない。
 この世からの真の出離を目指すことだ。
 どんな幸福も楽受も変滅してしまう無常の苦が身に沁み、業の世界で因果の鎖に縛られるのはもうゴメンだ、と生存の流れから離脱したくなった人達・・・。

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10月18日

★良き人に恵まれ、助けられ、支えられてきたことに心から感謝と忝なさを覚えている。
 楽しくて、苦しくて、面白くて、充実した、無意味な人生だった・・・。
 ネガティブ妄想とポジティブ幻想が、脳内に形成していく印象世界の虚しさ・・・。
 いかんともし難い業の法則に縛られた世界が、夢のように変滅していく虚しさ・・・。

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10月16日

★かつてはダンマの仕事に命を捧げるような一途さがあったが、齢を重ね、見るべきほどのものは概ね見てきたし、人の世界と現象世界の虚しさを心得てもきた。
 誰にも見られず裏庭に自生し、秋には人知れず枯れていく何の取柄もない草々・・・。
 その雑草にも人の人生にも何の意味もないことを痛感しながら、茶を淹れ、庭を眺め、原稿を書いている・・・。

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10月14日

★「ヴィパッサナー瞑想大全」の当初の企画は、瞑想に関する過去の原稿をまとめて誰にでも読めるものにすることだった。
 原稿は揃っており構成も完成していたが、再読してみると、新たな知見を盛り込んで書き直さずにはいられなくなった。
 非力非才には過酷な作業なのに、愚かにも着手して自らの首を絞めてしまった・・・。

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10月12日

★思いどおりにならないと、怒りが出る。
 だが、あらかじめ想定され心得ていれば、相当嫌なことでも怒りは出ないものだ。
 今回もPCへの保存ミスから、1週間分の仕事が完全に消失し復元できなかった。
 人の時間を奪ってきた自分には当然のことなので、怒りが出ないのもいつも通りだった・・・。

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10月10日

★下館の道場に独り籠った今回の雨安居も本日をもって終了。
 雨安居は「retreat→隠遁・この世からの撤退」と英訳されることが多い。
 この世からの撤退が、妄想でまとめ上げられた概念世界を手放すことなら、真のリトリートに入るのはなんと難しいことだろう・・・。

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10月8日

★せめて雨安居の夏だけは必ず、30〜40日の瞑想リトリートに入ると決めていた。
 だが、今年は修行ではなく「大全」執筆のために同じ環境設定にし、外界との接触を全て断ちきる。
 雨安居に住する寺を定めると出家者も自由に移動することは禁じられる慣わしだ。
 修行に専念する比丘もいれば、学問に徹する比丘もいるらしい。
 そういう訳で、今日からツイッターも中止する。
 再開は、1ヶ月後・・・。

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10月6日

★電子書籍版「ブッダの瞑想法」が販売開始になった。
 何年も前に実現しているはずの企画だったが、最初の担当者が交替してから何となくうやむやになっていた。
 先日、耳で読む「聴読」ができない不便さから出版社に問い合わせると、すぐに対応してくれた・・・。

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10月4日

★この世からドロップアウトし、瞑想とダンマの学び以外には何もせず、五戒を厳守し、確執のあった父との因縁も解き、真っ黒だった過去の所業に痛切な懺悔の瞑想もした。
 それなのに、無意識下では、これほどまで自分自身に重圧をかけ、否定していたのだ。
 その真実を承認した時、歓喜が沸騰したのだ・・・。

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10月2日

★渾身の力で内観に取り組んだ結果、長年に渡って抑圧され全身を強張らせていた黒い塊に意識の光が照射され、目の当たりになり、吐き出すことができた。
 すると体が軽くなり、異様な軽快感と浮揚感に空を飛んで帰れそうな錯覚が起きた。
 目に映るもの、耳に入る音、体感・・・何もかもがキラキラ光り輝いていた。
 嬉しくて、楽しくて、人生最高のような感動が込み上がり、歓喜と至福感がいつまでも続いた・・・。

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9月30日

★抑圧された黒いものに目を背けようとするのが本心である限り、その頃の記憶は靄がかかり、ほとんど思い出せない特徴がある。
 その闇に包まれたおぼろ気な領域に分け入り、見たくないものを直視する覚悟があるか・・・。
 なんとなく嫌な感じがするのを手がかりに、厳重に鍵を掛け封印してきた暗室に意識の光を照射することができるか・・・。

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9月28日

★渾身の力を振り絞って妄想を駆逐し、あらゆる概念を手放していくサティの瞑想をいくら深めても、もうこれが限界だと感じた時に、内観の修行に行かなければならぬと思った。
 自覚できない潜在意識の汚染を浄化しない限り、ヴィパッサナー瞑想が頭打ちになる限界を感じたのだ。
 深層意識に抑圧されたドス黒いものを、意識化する技術が必要だった・・・。

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9月26日

★いかなる思考もイメージも妄想として退け、生滅していく事象の流れにサティを入れ続けるヴィパッサナー瞑想。
 その新鮮さに衝撃を受け、修行に専念した者が、内観をしなければならないのも苦行だった。
 終日、記憶の世界に浸りきって、認知の歪みを正していく内観。
 心の清浄道に不可欠な崇高な営みではあるが、概念の糞壺にハマり、回想という名の妄想世界に留まり溺れ続ける苦痛・・・。

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9月24日

★ヴィパッサナー瞑想が始まれば、どんな崇高な考えも高尚な言葉もゴミ箱行きのクズに過ぎない。
 妄想を離れた事実だけの世界の清潔さに踏み留まるのが原則だ。
 しかるに、〆切が近づき執筆一辺倒の言葉、言葉、言葉・・の概念漬けが続く苦痛とウンザリ・・。
 煩悩を貪った後のように、概念世界に溺れて脳が腐っていくような爛れた膨満感・・・。

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9月22日

★慈悲の瞑想については、もう書くことは何もない・・・と感じていた。
 ところが、情報を出し尽くした後に当然来るはずの、空っぽになったような虚脱感とは正反対の印象があった。
 食べ過ぎた後の膨満感にウンザリするような感覚だった。
 なぜだろう・・と訝ったが、すぐ謎が解けた・・・。

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9月20日

★今回のブックレットは、過去のダンマトークのほとんどが死蔵されているので、良質のものを再編集して刊行するという企画だ。
 第一号は、@サティの瞑想+A慈悲の瞑想+B瞑想の技術的Q&Aの構成だったが、Aが膨れ上がり、Bを割愛することになった。
 Aが大型化したのは、「慈悲の瞑想講義・総集編」のつもりで書き進めていったからだ。

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9月18日

★長らく懸案だった「ヴィパッサナー瞑想大全」の執筆に専念しなければならない。
 従来のペースでは年内完成どころか永遠に終らないし、残務整理からも解放されないだろう。
 遅々として進まなかった一因は、新たに企画されたブックレットの仕事が割り込んできたからだが、それもやっと終った・・・。

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9月16日

★どんなに忙しくても、毎日30分以上の座る瞑想と1時間以上の歩く瞑想を課してきたが、これで瞑想が本格的に進むなら誰も出家などしないだろう。
 修行に徹するのは、1年に1度、夏のリトリートだけになっていた。
 今夏はどうしようかと思案していたが、リトリートは断念せざるを得なくなった・・・。

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9月14日

★集中型のサマタ瞑想でも、無思考状態のデフォルトモード・ネットワークが強化され、直観や閃きに寄与するだろう。
 だが閃きの骨子は、ものの見方を固定させないこと、つまり豊富なデータを自在に組み合わせる視点の柔軟さだ。
 一瞬一瞬、自身の視座をも対象化し客観視するサティの瞑想の本領発揮・・・。

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9月6日

★直観や洞察智が閃きやすい脳には、各人各様、形成されていった歴史がある。
 どんな本を読み、どんな人とつき合い、何を考え、どんな経験をしてきたのか・・・。
 情報の集積が編み上げた脳内ネットワークの限界を破り、新たな視座と着想を得るには、瞑想が1番、智慧ある人との対話が2番だろうか・・・。

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9月4日

★洞察と閃きの出やすい智慧のタイプでも、情報がなければ、何もできない。
 アイデアとしてまとまっていく素材がないのだ。
 知識と経験から得た情報が分析され、考察され、組み合わされ、視座と発想が変わり、他者と論議され、批判され、検証され、瞑想によって思考モードを離れ、空っぽになることによって、一瞬の閃きに繋がっていく・・・。

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9月2日

★板挟みも葛藤も、物理的な情況や事実に由来するのではない。
 どのようにそれを認知し受け止めるべきか、という認識の問題なのだ。
 ハゲタカ世界とブッダの瞑想の激突・・・と考えるのではない。
 「一切皆苦の煩悩世界を乗り超えるために、清浄道の瞑想システムが不可欠なのだ」
 という一言で、何かがふっ切れたらしい。

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8月31日

★自分から戻った世界を忌避する心が存在し、それでいて瞑想にも専念しきれないという矛盾。
 妨害要因に妨まれなかなか入れなかった1Day合宿にやっとたどり着けたのに、最高潮のタイミングでドロリと眠気に襲われるというまさかの展開が繰り返されたという。
 「瞑想したい」v.s.「瞑想を離れたい」
 心の表層でも深層でも、同じ葛藤の構造・・・。

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8月29日

★人生に悩み、激務に疲弊し、ヨレヨレになって、長期の休息を得た。
 瞑想に出会い、朝カル講座や1Day合宿に通い、心を建て直し、晴れて復帰した。
 程なく激務の日々が再開し、ハゲタカの世界に徐々に巻き込まれ、ダンマと煩悩の葛藤が始まる。
 瞑想は続けているが、心に澱が沈殿していく・・・。

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8月27日

★自由意志が本当に存在してもしなくても、どのようなプロセスで意志決定がなされるのか知らなくても、悪を実行しようとする瞬間の意志にサティを入れることはできるし、悪を制止する瞬間の意志に対してもサティが入るだろう。
 そのサティの一瞬すら既存のデータと諸々の条件によって定まっていたとしても、悪の実行を決めた瞬間にサティを入れることも、止めることも可能なのだ。
 それなら、自由意志など捨て置き、いかに正しく生きるかに徹底することが全てではないか・・・。

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8月25日

★独裁型の王も、国民の声や暴動の怖れに支配されている。
 中央司令塔の脳も、手足や耳目の情報に縛られた「末端の奴隷」に過ぎない。
 細胞も臓器も脳も全身も心も・・、膨大な情報処理に追われ、常に「最適化」をはかりながら「自由意志」の一瞬に収斂していく・・。
 だが、一度決定されかかったその「意志」を覆す自由もある・・・。

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8月23日

★眼耳鼻舌身意の一瞬の知覚から、電光石火の速さで連想や思考の流れが始まる。
 次々と脳内データのドミノ倒しを命じているのが「マナシカーラ(如理作意)」だ。
 自動的に展開する作用なので、意識的にコントロールはできない。
 何が、その流れを一定方向に導いているのだろう。
 これまでの人生の全ての経験と印象だ・・・。

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8月21日

★声が聞こえ、姿が見え、匂いがした瞬間、その知覚をどう受け容れて経験するか。
 その刹那に微かな意志が働く。
 医者や鍼灸師が愛妻の肌に触れた瞬間と、患者の触診の瞬間では、同じ触覚であっても認知のまとめ方に大きな差があるだろう。
 同じ対象、同じ相手、同じ出来事であっても、認知する瞬間と反応する瞬間の意志が異なれば別個の経験になっていく・・・。

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8月19日

★動画を静止画像のコマ送りで見るように、欲望も怒りも立ち上がってくるプロセスにサティを入れることができる。
 眼耳鼻舌身意の対象に苦受・楽受を感じた次の瞬間が運命の分かれ目だ。
 身体的感覚もメンタルな感覚も、甘美なものとして認識されれば、欲望に向かってドミノが倒れ出す。
 苦受が強烈であれば、嫌悪や怒りや恐怖に向かってドミノが倒れていく・・・。

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8月17日

★エゴが自覚する「意志」は氷山の一角に過ぎず、環境要因や外界の刺激、反射的なパターン、抑圧された潜在意識の暗示など、意識化されないものはサティの瞑想の対象にはならない。
 知覚する心(入力系)と反応する心(出力系)を限りなく細分化して仕分け、意志の起動する瞬間に絞り込んでいく・・・。

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8月15日

★意志が発動する0.5秒前に脳活動が始まっていると証したリベットの実験は、人に自由意志はあるか否かの問題を提起した。
 エゴが自覚できる意志もあれば、潜在意識・深層意識・遺伝子・脊髄反射・・など無自覚に形成されていく意志もある。
 心の重層性と、分裂し矛盾する複数の自分が共生する「エゴ」の構造から問い直されるべきだ。

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8月13日

★倫理なきマインドフルネスは、邪悪な瞑想になりかねない。
 「叩いた」→「(ザマアミロ)と思った」→「(もう一発殴ろう)と思った」→「殴った」→・・と自己客観視を続けるのだろうか・・・。
 傷つける・奪う・ダマす等々の邪悪な心は、断固として退けなければならない。
 戒律に守られたブッダの瞑想・・・。

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8月11日

★歩行感覚や腹部感覚を実感し、サティを入れるのがヴィパッサナー瞑想の基本だ。
 これがマスターできたなら次に、行動を命じる一瞬の心にもサティを入れてみる。
 人の頭を叩いた瞬間の手指の実感に「叩いた」とサティを入れるのではなく、『ひっぱたいてやれ』と命令する意志に気づいて振り上げた手を下ろすのだ。
 なぜ一瞬の意志へのサティが必要か、の所以である。

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8月9日

★話そうとする瞬間、やろうとする瞬間、考えが浮かび始めた瞬間、
 『私は、今カルマを作っている・・・。これから話すことが、やることが、考えることが、そのまま、未来の我が身に起きるのだ・・・』
 と呟いてみる・・・。

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8月7日

★私→家族→共同体→祖国→人類→・・・と、エゴ感覚が肥大していった究極が<神>と呼ばれる。
 エゴを正当化する究極の装置である<神>が、敵の<神>と激突し戦争が始まる。
 テロリストの愚劣な蛮行を偉大なものに錯覚させ、正義の戦争という大義名分を与えてくれる、エゴの化け物としての神・・・。

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8月5日

★神は、存在しないことによって機能し、人を支配する。
 巨大な国家や集団を一つにまとめる≪共同幻想≫としての神・・・。
 神の沈黙は、神は妄想に過ぎないという宣言。
 悲惨な苦しみを納得して受け容れる装置として、人類は、存在しないことで万能になる神を必要としてきた・・・。

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8月3日

★小児的エゴイズムの視座から、真実をありのままに認識することは難しい。
 子供の認知世界は未熟で偏りがちだ。
 起きた事実は変えようがないが、経験の意味は正反対にも変わり得る。
 仏教のダンマ的視座から追認された記憶を迫真の定力で再体験し、感謝のフォルダーに納め直す瞑想の可能性・・・。

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8月1日

★怨みと嫌悪のフォルダーから浮上した記憶を、生々しく追体験して元のフォルダーにそっくり保存し直すのは馬鹿げている。
 やらない方が良い。
 トラウマが想起された瞬間に、もう一度傷つき、腹を立て、さらにグチャグチャになりながらカルマを悪くする。 
 断固として、認識革命を起こさなければならない・・・。

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7月30日

★頭で理解したことと実体験で検証されたことの落差の巨大さは、百倍にも千倍にもなるだろう。
 この事実と妄想の中間に、サマーディのリアル感覚がある。
 内観で回想された記憶イメージを対象に、サマタ瞑想の定力が働くと、過去が再体験されたかのような衝撃力で認知の再配置が起きることもある。

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7月28日

★眼球運動と同時にトラウマ体験を想起するEMDR療法が、劇的な効果をもたらすという。
 ピシリと決まった座る瞑想の体感を感じながら、トラウマの原風景に集中するサマタ瞑想・・・。
 回想レベルではなく、過去の事実にスリップし、再体験する生々しさで認知が再統合される可能性はないか・・・。
 極度の集中にダンマの智慧が伴った、認識革命・・・。

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7月26日

★わかっちゃいるけど止められないのが、われわれ凡夫衆生だ。
 理性的自己の命令よりも0.5秒速く、身体的自己が反応してしまう現実が証され、人に自由意志はあるのか?と問われている。
 理性的判断と反射的反応の矛盾をゼロにしていくために、ヴィパッサナー瞑想という総合的システムがある・・・。

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7月24日

★縁がなければ、どんな出会いも経験もあり得ない。
 最低の人に出会い、最悪の事態に巻き込まれたのは、こちらの不徳のなせる業ではないか。
 苦しみの度合いが激烈なほど、巨大な不善業が消え、かけがえのない学びを得る法則。
 最悪が宝になるなら、苦楽も善悪も超えられ、起きたことは全て正しい、と言えるのではないか・・・。

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7月22日

★顔に唾を吐きかけてやりたいような仕打ちをされても、相手が脳や心に障害のある人だったら腹を立てずに「悲(カルナー)」の瞑想ができるだろう。
 だが、腹黒い健常者だったら、どうか。
 怒らずに受容するには、カルマ論を心得て、事の因果を理解しなければ難しいのではないか・・・。

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7月20日

★やるべきか止めるべきか、行くべきか留まるべきか、生きるべきか死ぬべきか・・・。
 駆けめぐる猿知恵を鎮めるためにこそ、瞑想をしなければならない。
 事の展開には、いかんともし難い環境要因と諸々の力が働いている。
 必然の流れで我が身に起きたことは全て正しい、と腹をくくり、引き受けていく覚悟・・・。

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7月18日

★ブッダが悟り得た真理は「世の流れに逆らい、深遠で見がたく微妙なものであるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々には見ることができない」
 と、説法する虚しさを感じ、沈黙を貫こうとした時、梵天がブッダに教えを説くよう要請し、仏教の歴史が始まったと伝えられる。
 煩悩を否定する教えは、世の流れに逆らう・・・。

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7月16日

★ブッダが悟りを開いた瞑想技法から宗教色を抜き、「マインドフルネス」と名を変えて世界的に流行している。
 テクニックだけが、肝心の教えとは反対の方向に利用されているようだ。
 ブッダが悟りを開いた直後の感懐が、仏伝には記録されている・・・。

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7月14日

★欲があれば道を踏み外し、怒りがあれば他人を苦しめ、その不善業はやがて自分を苦しめる。
 妄想で目の曇った愚かさが諸悪の根源であると見抜き、そこから解放される道がブッダによって示された。
 その技法の一部を、ストレスや鬱を解消するテクニックとして利用し、元気いっぱい欲の世界を楽しもうと多くの人が飛びついている皮肉・・・。

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7月12日

★エゴ妄想を別の妄想で駆逐する構造ではあるが、全託の修行は我執を弱めるのに極めて効果的だ。
 エゴ感覚が影をひそめ、連続するサティが確実に対象化を続けていくと、心も体も因果の網目に織られた関係性の流れに過ぎない・・・と覚られてくる。
 そして、現象世界を超越した不可思議な一瞬が、トドメを刺す・・・。

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7月10日

★もし完璧なサティが切れ目なく続き、直前の経験を次の心が確実に対象化していけば、エゴ感覚の入る余地がない。
 「私が・・」と感じた一瞬の所感や思考が次の瞬間、「と思った」と客体化されるのがえんえんと続くからだ。
 だが、聖者ではない我々のサティが、永続することはあり得ない・・・。

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7月8日

★もしエゴが法として実在するなら、ブッダが無我論を説くことはあり得ない。
 つまり「エゴ妄想」に苦しむ凡夫が、「絶対的存在という妄想」に全てを委ねようとする構造が「全託」の修行だ。
 託す者と託されるものが完全に合一するのは、主客未分のサマーディが成立している束の間だけで、醒めれば我執がしぶとく生き残っていることに気づかされる・・・。

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7月6日

★一日一食の托鉢の鉢の中に、たとえバナナが一本しか供養されなくても、聖者達は完璧に満足し淡々と受け容れて日を過ごす。
 因縁の流れを心得、与えられたものを尽く受け取り、絶対肯定しているからだろう。
 「聖者達はどこへ行っても、そこを天国にしてしまう」(【サンユッタ・ニカーヤ】)。

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7月4日

★どんなネガティブな経験も必ず肯定し、受け容れなければならない。
 最初から結論が決まっているのだから、自己中心的な視座を転換させ、無我の立場から発想を試みるしかない。
 この全託の修行ほど、あるがままを観るヴィパッサナー瞑想に役立ったものはない。
 エゴの発想を捨てろ、と絶えず突きつけられる銃口・・・。

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7月2日

★何を見、何を耳にし、何を感じ、考え、どんな経験を積み重ねてきたのか・・・それが人生だ。
 経験とは、我が身に起きた出来事ではない。
 その事象をどのように認知し、意味付け、受け止めたかが経験である。
 蛙にとって、動かないものは認知されず、認知されなければ何もないのと同じだ。
 そのように、人の心に認識されたものだけが経験であり、人生なのだ・・・。

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6月30日

★天命とは、何だろう。
 天の何かが「お前のミッションは、これだ」と命じるのだろうか。
 個人を救済したり罰したりする神仏の存在は妄想の産物であり、おとぎ話に過ぎない。
 現象の世界から般涅槃し、存在の流れから出てしまったブッダは、願いを聞き届けたり嫉妬したりする神々の存在を完全に超越している。
 宇宙に生滅する事象の流れには一定の法則性があり、それを仏教ではカルマ(業)と呼んだ。
 天命に従うとは、無限の過去世から集積された宿業が日々提示してくる事象の流れを受けきっていくことだ・・・。

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6月28日

★原始仏教の瞑想者として足場が定まれば、「全現象完全受容」に徹しきって問題はない。
 何も望まず願わぬが故に、過去に組み込んだカルマが縁に触れ、必然の力で生起してくる。
 その全てを受け容れ、苦楽を味わう瞬間、善業・不善業が現象化し消えていく。
 宿業が呈示する一切の事象を受け容れ、従いきっていくとき、各人に固有の天命が顕わになる・・・。

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6月26日

★人は、なぜ瞑想をするのだろう?
 答はいくつもあるだろうが、原始仏教では、苦しみから解放されるためであり、自分自身を縛っている鎖から自由になるためである。
 聖なる修行を完成させるためだ、と言ってもよい。
 戒を守り、悪を避け善をなす大前提での「全託」であり、無願三昧となる所以である。

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6月24日

★さらに厳密に言えば、起きた現象はすべて完全に受け容れるが、反応する瞬間、どのような意志的行為が出力されるかが問題である。
 罵られ、奪われ、殴られる一瞬は、生起した事象としてありのままに受け容れるが、怒鳴り返したり、殴り返したりの煩悩的反応はあり得ない。
 オレオレ詐欺の仲間に入らないかというオファーも、刃を持って殴り込みに行く誘いも、不善業が展開した結果だが、断る自由もあれば、流れに乗る自由もある。
 起きた事象は受け容れてありのままに認知するが、反応する一瞬は戒を守り、倫理に貫かれていなければならない・・・。

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6月22日

★事象を経験する瞬間の心は受動的だが、反応する瞬間の心は能動的なエネルギーが出力される。
 マッコウ鯨もミジンコも雀も人もオランウータンも、この刺激・反応系のシステムを死ぬまでやり続けるしかない。
 全てをありのままに受け容れていく修行なのだが、それでも受容する一瞬と拒絶する一瞬があり、仏教実践者には明確な方向性がある・・・。

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6月20日

★あの頃、私は何に全託していたのだろう。
 キリストの神も阿弥陀仏も、手垢で汚れた神仏のイメージは使えるはずもなかった。
 そこで、この現象世界を展開させている理法というか、根本的な法則性に一切を委ね、それを「宇宙運行システムへの全託」と称していた。
 何も望まず、無願三昧に徹していても、一瞬の間断もなく事象は生起し、経験は果てしなく続いていく・・・。
 過去世で組み込んだ宿業の押す力なのだろう。
 否応のない必然の力で、日々我が身に生起する現象を、ことごとく受け容れていく覚悟・・・。

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6月18日

★絶対的な存在に己の全てを委ね、託しきっていく修行なので「全託」と呼ばれる。
 エゴを丸投げする感覚が、無我の修行に通じ、信仰タイプの者には適しているだろう。
 卑小なエゴが超越的な神仏のイメージに投げ込まれ融合すれば、エゴ感覚は希釈されるだろう。
 だが、しょせんエゴ妄想が神仏妄想と重なっただけで、完全な無我を実現している訳ではない・・・。
 これが、全託の修行の限界である。

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6月16日

★全託とは、日々我が身に生起する一切の事象を受け容れていく修行である。
 「与えられたものを尽く受け取っていく・・」とは、嫌なことが起きても嘆かず、心乱さず、ありがたく受け容れていく修行、と言い換えることができる。
 エゴを無くしていく修行であり、視座の転換を試み、認知を一変させる修行だ。

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6月14日

★五戒を守り悪を避け善をなす大前提が崩れれば、一瞬一瞬の経験にラベリングしていても、愚か者の独り言と同じである。
 何が見えても、聞こえても、感じても、思っても、判断しないで、ただ事実をありのままに対象化し続けるサティの瞑想は、倫理に守られ、正しい方向に導かれていく前提の上に成り立っている。
 倫理なき瞑想であってはならない。
 倫理を基軸にしない「全託」の修行も、あり得ない・・・。

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6月12日

★「万引きしてます」「殴ってます」「ミサイル発射してます」
 これは正しいサティとは似て非なる<邪念(ミッチャー・サティ)>であり、ヴィパッサナー瞑想ではない。
 原始仏教の要である「戒・定・慧」の三学から戒を抜き取り、ただ気づくだけの瞑想は、人を欲の世界に引きずり込む危険性を孕んでいる。
 倫理(戒)なき瞑想は、海図も羅針盤も持たずに闇夜の海を進む船のように、彼岸に到達することはない・・・。

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6月10日

★エゴの猿知恵で願望を実現させるクダラナサと虚しさの構造を検証し、次に取り組んだのは「全託」の修行だった。
 生きることは経験することであり、一瞬の間断もなく外界からなだれ込んでくる対象を認知し、否応なく反応するシステムに拘束されることだ。
 何も願わず、瞬々刻々、生起してくる現象を全て受け容れていく「全託」の修行・・・。

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6月8日

★「願望実現」の瞑想によって、常識がブッ飛ぶような、劇的な体験を数多く集積することができた。
 それが、後年、知的理解の100倍も強力な経験則となって仏教の因果論を叩き込んでくれた。
 いかんともしがたく業に縛られ拘束されている現象世界。
 そこからの離脱を心底から求めていく基盤になった・・・。

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6月4日

★願望実現の瞑想を止めた理由は、欲の力で集中力を高めることはできても、欲が基盤であるが故に執着も強化されてしまう事実を無視できなくなったからだ。
 さらに、人は、真の幸福をもたらす願望を抱くことが難しく、愚かなものを願って手に入れては愚かな不善業を作っていくからだ。
 愚かさと渇愛と幻滅とドゥッカ(苦)の構造から解脱するのが真の瞑想だ・・・。

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6月2日

★既に確定していて、放っておいてもそうなっていく業を具現化するのはたやすい。
 しかるに、ギリギリ成就させられる程度の業では、そのイメージに強烈に集中しなければならず、サマーディの訓練にはなる。
 望みを叶えたいという渇愛に駆動され、欲の対象に全力を傾注しながらサマーディに浸る日々だった・・・。

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5月31日

★現実と区別がつかないほど集中し実感できたイメージは、鮮やかに具現化する。
 ・・・これが願望実現の秘訣だが、この時期に私は邪なサマタ・サマーディ(邪定)の修行をしていたように思われる。
 渾身の力を振り絞ってイメージにのめり込み、瞑想者と対象が融合し完全に合一するのを目指していた・・・。

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5月29日

★望もうが望むまいが、組み込まれたカルマは、抗いようのない力で必ず現象化してくる。
 その業は、日々瞬々刻々、放たれる意志(チェータナー)の強度と頻度に比例して集積されていく。
 完熟の業もあれば、青い果実もある。
 未熟な青いカルマを強引に具現化させるには、強烈なエネルギーの集中が必要だろう・・・。

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5月27日

★意志的行為の集積であるカルマが現象化するのは、完熟した果実が落下するようなものだ。
 現れるタイミングを狙っていたカルマに、今がその時、と知らせるのが願望実現のイメージとも解釈できる。
 既に自分のカルマとして組み込まれていた願望が具現化するイメージはたやすく描けるが、そうでないイメージはなぜか描きにくくなる傾向・・・。
 暗証番号を打ち込むとATMから現金が出てくるように、願望をイメージすると宇宙銀行の徳のポイントが現象化して実現されるという解釈・・・。

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5月25日

★既に確定していることがそうなっていくのを先取りして見ている感覚は、エネルギーを動かして事象を生起させるのとは違う。
 未来予知と感じる所以だ。
 願望を鮮やかに実現できる人と出来ない人の差は、能力ではなく、そうなるだけのカルマを持っていたか否かの問題かもしれない・・・。

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5月23日

★願望実現なのか、未来予知なのか・・。
 バザーで販売をした時のこと、出店に立ったまま集中し、次は外人の顧客が新札紙幣で3千円の買物をするイメージを描いた。
 すると10分も経たないうちに、白人の3人連れがやってきてピカピカの新札で3千円の買物をした!!
 未来予知ではないかという解釈・・。

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5月21日

★事物も、人との出会いも、遭遇する情況も・・、強烈に望みイメージしたことは現実化してくる。
 その現象世界の構造が理解され、当時欲しかったものはほぼ手に入れたと感じた頃から「願望実現」には興味を失なっていった。
 猿知恵で望んだものを手に入れる愚かさと虚しさが、私なりに検証されたのだ・・・。

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5月19日

★この世の事象というものは、作られた業が因果法則どおりに帰結していく流れのことだと仏教は考えている。
 強烈に出力された「チェータナー(意志)」が現象化してくるプロセスを「業」と呼び、その業を展開させている根元的な力が「行(サンカーラ)」だ。
 望むイメージに集中し強烈に業を作り、その業の結果が具現化してくる構造。
 それが願望実現の世界ではないか・・・。

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5月17日

★心に描いたイメージ通りに筋肉の活動電位や生体エネルギーが動く事実は、筋電図や自律訓練法などからも明らかだ。
 軟酥の法で風邪が治るのも、瞑想で水虫が完治するのも、あり得るだろう。
 しかるに、なぜ脳内イメージが外界に具現化するのかは謎のまま残った。・・・原始仏教に出会うまで。

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5月15日

★描いていた新居のイメージが、目の前に現実のものとして完璧に出現していた!
 建物の方角や位置、部屋の間取り、浴室やベランダの印象、DKの床の紋様にいたるまで99%、心に描いたものが全て具現化していた。
 なぜ、脳内イメージが現実になるのだ・・・!

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5月13日

★なぜあんなに集中できたのか我ながら不思議だった。
 不徹底なやり方では検証にならないこと、期間限定にしたこと、願いが叶ったイメージに浸るのは楽しかったから、だろうか。
 1週間の実験期間が過ぎた次の日曜日、不動産屋に照会された最初の物件を見に行き、私は呆然と立ち尽くした・・・。

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5月11日

★引っ越して新たな修行生活に入ろうとしていたので、イメージ通りの理想の新居が具現化すると強く願ってみた。
 「祈り求めることは既に叶えられたと信じなさい。その通りになるであろう」
 という福音書のイエスの言葉に閃きを得ていたので、イメージなのか現実なのか自分でも区別がつかないほど集中した・・・。

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5月9日

★軟酥の法で風邪が治った話をすると、神秘家のY君は願望実現について語り「マーフィーの成功法則」という本を貸してくれた。
 こんなクサい話はインテリの読む本ではない、と普段なら一蹴するのに、なぜかこの時は興味惹かれて試してみた。
 それが、私の運命を大きく変えることになるとは夢にも思わなかった・・・。

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5月7日

★今世でやった行為の結果が今世で現れるカルマを「現法受業」という。
 年齢を重ねるほど誰でも、因果応報や自業自得の構造が経験的に理解されてくるものだ。
 のみならず仏教では、人生最初期の環境や経験は過去世の業の反映と考える。
 誕生時の恐ろしいまでの不平等さ、善いことなど何もしていないのになぜ超ラッキーな人がいるのか、なぜそこまで運が悪いのか目を覆いたくなる悲惨な人たち・・・。
 輪廻転生を踏まえた業論で考えると、今世の所業だけでは説明不可能なさまざまな謎が解けるだろう。

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5月5日

★軟酥の法が記されていた「工学禅」という本は、禅を科学的に解明する姿勢と三つ子の魂の「刷り込み」理論が特に印象的だった。
 奇しくも瞑想の実践、科学的アプローチ、幼少期の反応パターン・・と、その後の私の人生を決定づけるファクターとの出会いとなった。
 友人のそのまた知り合い程度の、さしたる縁もない人から郵送されてきたのは不可思議だが、そのような業があり、人生の流れが変わろうとするタイミングで縁に触れ、因果が帰結したのではないかという解釈・・・。

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5月3日

★上座仏教の寺で修行する度に、定番の四資具(食事・建物・衣・薬)の他に必ず比丘用ダンマブックの資金を布施してきた。
 ミャンマーやスリランカの仏教書出版社を探し当てて寄付したり、自著の刊行費用に難儀する比丘の方々にもお布施をしてきた。
 情報系で善行をしてきたのだから、絶妙の果報が得られるのも当然の展開・・・。

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5月1日

★財物や労力同様、情報系でも因果が巡っている。
 バンコック郊外の寺で日々修行に励む私の姿をいつも見ていた2人の尼僧が、ある日私のクーティのドアをノックし、「これを差し上げます」と恭しく2冊の英文の本をくださった。
 アビダルマと原始仏教の素晴らしい解説書だった。
 インターネットのなかった時代、奇跡かと驚嘆した・・・。

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4月29日

★種があれば自動的に果実になる訳ではない。
 発芽し生育し完熟するための条件が揃わなければ、因果が帰結しないのだ。
 これを「縁」と言う。
 土も水も陽光も肥料も全て整ったタイミングで、業が現象化してくる。
 やむにやまれぬ情況に陥り、強く希求された時、それに呼応するだけの徳があるだろうか・・・。

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4月27日

★善業の集積である徳があれば、見知らぬ外国でも誰かが市場に連れていってくれるし、必需品や布施の品々を買い揃えることができてしまう。
 それは、身施をしてきた結果の功徳であり、いつかどこかで誰かをサポートし、手伝ってあげたからだと業論では解釈する。
 苦境に陥っている人に救いの手を差し延べれば、自分がどん底から救い出される。
 慈悲、仏教精神、カルマの重々無尽・・・。

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4月25日

★格調の高い美しいクイーンズイングリッシュの建築家とシェークスピアの話をし、能や狂言を観に行き、コンサートに出かけ、一緒に旅をしたりするうちに、妄想で自滅しかかっていた私に自尊感情が甦ってきた。
 彼との交流がなかったら、死の淵の瀬戸際でヤジロベーが闇の側に傾いていたかもしれない。
 イギリスに帰国してからも手紙のやり取りをしていたが、私が瞑想修行を始めた頃から、互いに異なる世界の住人になったと感じられた。
 一つのカルマが終焉し帰結していくのを寂しく感じたが、彼から受けた恩愛を忘れることはない・・・。

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4月23日

★吐き気が止まらなくなり、死にかけていた私を孤独なデカダンスの泥沼から救い出してくれたのは、旧友の一本の電話とイギリス人の若き建築家だった。
 睡眠薬を嚥みほす力もなく、カーテンを閉め切った自室で自己否定感覚に押し潰されながら、一匹の犬のように転がっていた私を強引に陽の当たる普通の世界に連れ戻し、英国人との縁を繋いで消えていったあの旧友もカルマの断片だったか・・・。

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4月21日

★毎日水をかぶって禊をし、経を読み、独り犀の角のように修行生活が始められたことが、僥倖としか思えない不思議を感じていた。
 完全に自滅しかかっていた私に、他人の力が外界から働かなければ、40年前にはこの世にいなかっただろう。
 セルフコントロール能力にも自己管理にも絶大な自信を持っていたが、こんなはずではなかった!・・と、蟻地獄から脱け出せなくなるような危機に陥ることが人生にはあるのだ。
 自分で自分のことがどうしようなくなり、真っ暗闇のどん底に転がって、なす術もなく喘いでいた頃が思い出される・・・。

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4月19日

★幼い頃から何かと恵まれ助けられてきた来し方を思えば、忝なさと感謝の念が込み上がってくる。
 生涯にわたって多くの人に支えられ、人生の節目ではなぜか不思議なことが仕組まれたように起きる運の良さを感じてきた。
 だが、瞑想修行を始めてからの幸運は断トツで、必要なものが必要なタイミングで渡りに舟のように与えられる円滑現象の展開に眼が眩むようだった。
 なぜ修行者になってからは、あれほど多くの人に助けられ、導かれ、支えられてきたのだろうか。
 それは、過去世から瞑想者や修行者を特別に支え、助けてきた善業の結果ではないかという解釈・・・。

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4月17日

★なぜ私と縁のあった人たちはあれほど優しく、誠実で、親切だったのだろう。
 彼らはみな仏教徒だったので、当然ながら慈悲の瞑想を実践していた。
 また、上座仏教の寺では「瞑想が進まなければ、徳を積め」と教えられるので、寺の尼さん達が外国から来た修行者に親切なのも頷ける。
 上座仏教の寺では、布施をする者は尊敬の眼差しで見られ、「サードゥ(善哉)!」と皆に唱和され讃えられる。
 瞑想者から預かったものも含め、私のサンガへのお布施はかなりの金額になったので、貨幣価値の異なる外国では驚異的に映り、尊敬の眼差しで見られがちだったのも一因かもしれない。
 もう一つ考えられるのは、やはりカルマだろう・・・。

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4月15日

★私の修行を助け導いてくれる善き人々との出会いは、外国の寺を訪れるようになってからは比較にならない圧倒的なものとなった。
 無償の専属通訳を献身的にしてくれたタイのパイリーン、息子のように特別な扱いをしてくれたアチャン(僧院長)、ミャンマー滞在中の全てのお世話をしてくれたU家の人々、従者のごとく私の世話をしてくれたミャンマーの在家修行者、元大使だった政府高官M氏自らが案内役に徹してくれたスリランカの日々・・・。
 バンコック郊外の寺では、僧院長以外誰も使ったことのない広大な特別クーティで修行するのが許されたこともあった・・・。

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4月13日

★K氏から伝授された宝物は、その後の修行にも瞑想合宿にも不可欠なものとなった断食だった。
 グルメをやり過ぎた報いで患った糖尿病を、K氏は断食を徹底的に研究し自力で完治させてしまった。
 その基本から特殊な短期断食のやり方まで、懇切に手ほどきをしてくれた恩は忘れがたい。
 どんな宿業だったのか、教養や修行経験などの持ち駒がK氏ほど重なり合う人はなかった。
 平河町から信州の別邸に向かう車中でも、打てば響くように解り合えるK氏とのコミュニケーションを心ゆくまで楽しんだ・・・。

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4月11日

★K氏もまた不思議な人だった。
 精神世界に精通しているインテリ茶人の経営者で、断食に詳しく、霊能もあり、インド巡礼や仏教や波乱万丈な来し方など、初対面なのに夜が更けるまで語り合った。
 Y君とは対照的に、K氏は徹底した実践の人で、驚くほど多くの経験を共有することができ、いくら談話を重ねても話題の尽きることがなかった。
 爽やかな風が渡る高原で野点の茶を喫してから瞑想し、K氏の別邸の暖炉の火を眺めながら心ゆくまで語り明かしたあの親密さは何だったのか・・・。
 K氏の社員や交遊関係から察するに、前世はさしずめインドの藩王のような趣きがあった・・・。

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4月9日

★私の修行遍歴が始まって間もなく、インドの仏跡を巡礼し感動冷めやらぬある日、上野のアメ横で托鉢しているインド人比丘に出会った。
 カタコトの英語と日本語で、自分のスポンサーであるK氏がいかに素晴らしい人物かを絶賛し、会うように勧めてくれた。
 K氏がインドを旅していた時に知り合い、案内役をしてあげた返礼に招かれて在日しているような流れらしかった。
 インドの話がしたくてうずうずしていた私は、早速平河町のビルを訪れた・・・。

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4月7日

★博覧強記だったが、意外なことにY君自身はあまり実践派ではなく、謙虚に知識を提示してくれるコーチの役割だった。
 だが私には、それで充分だった。
 地図が正確ならそれでよい。
 歩いて踏破するのが私の仕事だ。
 真理を知的に理解することは虚しく、断固としてやるべきは、その本質を体験することだという確信があった・・・。

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4月5日

★孤独なインテリ青年だったY君は、宗教もオカルトも修験道も神秘思想も、いわゆる精神世界の教養が圧倒的で、赤子同然の私に、次に読むべき本、訪ねるべき所、やるべき行法を的確に教えてくれた。
 カルトにハメられることもなく、危険な世界に分け入っていくことができたのは、誠実この上ない彼の道案内の賜物だった。

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3月30日

★文学や芸術を志していた私が、思索や絵空事のフィクションを捨て、体験の実証を重んじるようになった最初のきっかけが「軟酥の法」だった。
 未知の世界に足を踏み入れようとしていた私の前に、洋の東西のあらゆる神秘思想に通暁する青年が現れ、最高の水先案内人になってくれたのも驚きだった・・・。

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3月28日

★渾身の力で、観想なのか現実なのか区別がつかなくなるほど集中し、私は知らずにサマタ瞑想の訓練をしていた。
 軟酥の霊薬に身体各部が隈なく浸されていくイメージを描けば、生体エネルギーが活性化するのも想像がつく。
 だがその時の私は、「現実が、イメージ通りになるのだ!」という感動と驚き方をしていた・・・。

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3月26日

★当時は、瞑想やヨーガの類はオカルト少年や変人が隠れてコソコソやるようなものと見なされ、インテリを気取っていた私もご多分に洩れず蔑視していた。
 だが、たった数十分の観想でこじれた風邪が治ったことに度肝を抜かれた私は、以来、文学や思想書を捨て、瞑想修行が人生の全てになっていく・・・

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3月24日

★40年も前のことだが、プレゼントされた本の一節に白隠禅師の「軟酥の法」のやり方が紹介されていた。
 風邪をこじらせ鼻水をすすっていたので、面白半分、試してみた。
 軟酥の神薬仙薬霊薬で全身が覆い尽くされていく詳細を念入りに観想し、満ち足りて終了すると、なんと風邪が完全に治っていた!

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3月22日

★なぜ、ヴィパッサナー瞑想は科学的と言われるのだろう?
 現実を正確に客観視しようとするからだ。
 妄想で思い込んだ世界に強く反応する瞬間、苦が始まっていく。
 本当に起きている事実だけを拠り所に、エゴの身勝手な認知と愚かな反応を正すことによって、苦を乗り超えていくシステム・・・。

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3月20日

★「音」とサティは入っても、「うるさいな」という嫌悪感には気づきづらい。
 「見た」も入りやすいが、批判したり見下している心にはサティが入らない。
 執着が深くなるほど巻き込まれ、対象化しづらく、エゴはその最たるものだからだ。
 瞑想が進む度合いと、エゴがなくなる度合いは比例する・・・。

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3月18日

★なぜ、真実を知る者は謙虚なのだろう。
 あるがままに観る「如実智見」がいかに難しいか熟知しているからだ。
 記憶は思い出される度に必ず書き換えられ、歪んでいくのを心得ているからだ。
 間違いない!と力強く言いきって妄想を垂れ流す者が、多くの人を扇動してきた人間の歴史・・・。

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3月16日

★我が身に経験される出来事の、因縁の流れが読み解けないのも無理からぬことだ。
 カルマ論も知らなければ、よく気をつけてマインドフルに生きていないのだから。
 日々、自分が何を考え、何を言い、何をやっているのか、ほとんど自覚がなく、情況に流され、勢いで業を作ってしまっている日々・・・。

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3月14日

★「人は、怒りを抑えることによって侮蔑を学ぶ」と言ったのは誰だったか。
 仏教を知れば、目クソが鼻クソを笑うようなものだ。
 人は、因縁の流れを視ることによって、怒りが消滅するのを知り、「悲」の心を学ぶのだ。
 凶事に遭遇した我が身の流れと、相手の悪意が帰結していく因果の流れ・・・。

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3月12日

★サティが入れば、あるがままの対象認知ができるのだろうか。
 本来の<如実智見>は容易ではない。
 「見た」「聞いた」「思った」とサティを入れても、嫌なものに目を背けていた事実にも、劣等感と嫉妬にまみれた思考だったことにも気づけない人が多い。
 あるがままの真実は、見がたい・・・。

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3月10日

★同じ現実に対して、なぜこれほど千差万別の認知になるのか。
 遺伝子の命じる固有の偏向があり、幼少期に刷り込まれた「三つ子の魂」に左右され、何よりも頭に妄想が充満しているからだ。
 ありのままの対象ではなく、選択的注意が選び取った情報を見て、聞いて、味わい、感じた経験世界の歪み・・・。

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3月8日

★ただ現実が存在するだけで、真実は視られないのだ。
 混沌とした事象の流れがあり、それを経験する有象無象がいて、その無量無数の認知があるばかりだ。
 ヌーの認知した現実がある。
 チータの、愚か者の、賢者の、フンコロガシの認知した現実もある。
 刹那に妄想の素材となって消えていく現象の世界・・・。

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3月6日

★今この刹那以外は、全て妄想なのだ。
 いや、記憶も夢も妄想も、同じ素材の織物で織られた絵巻物に過ぎない。
 どの一瞬も真実だったが、無数の認知と千差万別の解釈とその記憶が残されていく。
 法として存在した一瞬の事象が妄想でまとめ上げられ、膨大な数の「私の体験」「私の真意」になっていく・・。
 そして、その記憶までもが時とともに歪み、変形し、夢のような絵巻物になっていく人生・・・。

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3月4日

★本当の心は? 本心は?・・と訊いても意味がない。
 そもそも自分で自分の心がわからないのだ。
 怒りでブチ切れた時もご機嫌の時も、どちらも本心だろう。
 「やります!」と答えた瞬間だけが真意で、直前までの迷いと葛藤は本音ではないのか。
 抑圧された心と、抑圧する心の、どちらが真実か・・・。

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3月2日

★過去から解放されるための行法に懺悔の瞑想があるが、自分には関係ないと思っている人も少なくない。
 だが、過去に束縛されていない人がいるだろうか。
 苦しかった過去が一つもない、無傷な心があるだろうか。
 自分の欠点やコンプレックスを嫌っている人は数限りなくいる。
 自分がネガティブに評価した過去の記憶の集積が、日々、自らを苦しめる・・・。

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2月28日

★ゆで卵になってしまったら、どれほど切望し努力しても、もうやわらかオムレツにはなれない。
 オムレツがゆで卵になるのも無理だ。
 そうであるからには、仕方があるまい。
 自覚された自らの資質と特性を引き受けて、今世では今世の自分の歌を歌うしかないだろう。
 やさしさが溢れてくる心も、凶器のような心も、自然展開した因果の帰結である。
 超越的な視座から眺め直せば、両者は等価だ・・。
 優しさにはやさしさの、凶器には凶器の、活用法があり、仏教的生き方がある。

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2月26日

★辺縁系(感情)と新皮質(理性)をつなぐ眼窩前頭皮質は3歳までに臨界期に達し、以後、共感・社会性・自己抑制に直結する領域の可塑性が失われ、固まってしまうという。
 誕生時の遺伝情報も生育環境も、宿業の結果だろう。
 今世で悟れるか否かは、ほぼ生得の資質とカルマで決まり、努力での達成は来世以降になるか・・・。

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2月24日

★完治の難しい依存症に苦しみ抜いたが、瞑想とダンマの学びによって見事に乗り超えることができたという。
 だが、ある日、不測の事態が突然穏やかな暮らしを打ち壊し、「随眠」状態だった過去への怒りが甦ってきて瞑想ができなくなっていた。
 そんな最中、まるで自分をいじめるかのように、甘い物にもてあそばれてきた構造に気づく瞬間が訪れた1Day合宿・・・。

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2月22日

★何かを探し求めるように、一つひとつの食材の味を吟味しながら丁寧にサティを入れ、食事の瞑想をしていた女性。
 最後にデザートの甘いものを口にしたとき、脳がしびれるような陶酔を覚えたという。
 砂糖依存症に陥っていた・・と自覚した瞬間だった。
 事実を正確に観る瞑想の最中に、その謎が解けた・・・。

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2月20日

★人の心は海辺に寄せる波のようなものであり、海には海の作法があり論理がある。
 滝や川とは異なり、寄せては引き退いては寄せながら干満のピークに達していくのが海辺のやり方だ。
 いくら修行しても、過去への怒りがまた甦ってきてしまう、と涙する人たち・・。
 人の心が変わっていく作法を心得、ブレることなく歩み抜いていく覚悟・・・。

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2月18日

★多くの母親が証言するように、生まれつき我の強い子もいるし、気の弱い子や無欲な子もいる。
 自然界の生物も人間も、ちょっと修行しただけで、生来の資質や最初期の刷り込みがアッサリ変更される仕様にはなっていないように思われる。
 別人格に変身するのも解脱するのも、今世を来世につなぐ努力と修練・・・。

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2月16日

★瞑想や内観の修行を重ね、苦しかった過去の悲しみの意味を理解し、納得し、受容したつもりでいたのに、心の奥の院は何も変わっていなかった・・。
 そう気づいて愕然とする人がとても多い。
 生来の資質や「三つ子の魂」を今世で変更するのは至難の業である。
 遠大な計画で、絶望せず前を見続ける・・。
 繰り返し押し寄せるネガティブな想いには、何度でも同じ確認を繰り返すのだ。 
 現象の世界では、貫き徹した想いが具現化していく・・・。

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2月14日

★破壊エネルギーの怒りと和合エネルギーの慈悲が激突する最終戦は、慈悲が勝利するだろう。
 世界がまだ存続しているのは、まとめるエネルギーが壊すエネルギーを上回っているからだ。
 だが、いずれこの世界も消滅するだろう。
 そして、壊滅しても、どこかで新たな生成が始まっていく。
 壊れつつある過程は、生まれつつある過程・・・。

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2月12日

★緑色のカメレオンと赤いカメレオンが2匹並べられると、互いに変色しようとバトルになるのだろうか。
 怒りモードでプンプンしている人に、慈悲の瞑想を捧げた場合はどうか。
 怒りと慈悲、破壊と和合の波動が衝突し、念力戦争になるだろうが、大抵は断固たる信念で貫き徹す方が勝利する・・・。

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2月10日

★自分の置かれた環境を呪い、家族に対し、友人に対し、仕事仲間に対して憤っている者もいるが、鏡に映った自分の姿に腹を立てている人に似ていないだろうか。
 ヤクザはヤクザに出会い、出家は出家に出会い、不実な者は不実な者に、優しい人はやさしい人に出会うのが法則だ。
 自分のいる世界は、自分の心と想いの現れなのだと心得る・・・。

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2月8日

★イアン・スティーヴンソンの「前世を記憶する子供たち」のような説得力のあるフィールドワークもあるが、輪廻転生論を科学的に証明するのは難しい。
 だが、輪廻転生論を否定すると、容姿も能力も環境も親子関係も貧富も・・誕生時のあまりにも不平等で不公平な現実をどう説明するのだろう・・・。

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2月6日

★「三因結生」とは、貪瞋痴が淡く少なく生まれつき、特に智慧が出やすい素因のことである。
 幼少期の刷り込みは変え得るとしても、誕生時に搭載されていた生来の心は生涯変わらないと言われる。
 今世で悟れる人は決まっているが、彼らの宿業も遺伝子も、巨大な時を経ながら自分の意志が作り上げていったものだ・・・。

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2月4日

★ヴィパッサナー瞑想で心が変わり生き方が変わり、人生苦から解放された人は数多い。
 だが変わったのは表面意識だけで、土壇場になれば三つ子の魂百まで、刷り込みや深層意識は初期設定のまま、何も変わっていないケースも数多い。
 本心は何も変わっていない・・と嘆くには及ばない。
 たとえ表面意識だけでも好転したのだから、それでも良いではないか。
 ・・今世で悟れるか否かは誕生時に定まっているらしく「三因結生」と言われる。

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2月2日

★「苦受→嫌悪→怒り」の流れも「楽受→欲→貪」の流れも一瞬にして成立してしまう強力なプログラムだ。
 いついかなる場合にも絶対に、心のドミノが怒りにも欲にも倒れなくなるのは何故なのか?
 それが涅槃の残存印象とも言うべき「道心(マッガチッタ)」の力なのだ、と説明した比丘もいる。
 「預流果の聖者はまだ煩悩が残っているのに、臨終時に不善心が出て悪趣に再生することが絶対にないという。なぜ100%確実だと言えるのか?」
 と質問したことがある。
 「仕方がないではないか。宇宙的な現象として、そうなっているのだから・・」
 と答えた比丘もいる・・・。

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1月31日

★欲望や怒りを命じる脳は、生命維持と同じ強力な基本設定であり、その脳回路が削除されることはあり得ないだろう。
 となると、煩悩が起動した直後に気づいて抑止されているか、<対象→六門→意識>の「触」の刹那、マナシカーラが欲望や怒りとは別方向にドミノを倒しているか、どちらかだ・・・。

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1月29日

★「戒とは、抑止である」という定義もある。
 煩悩の心が起動する→気づく→抑止する→その一瞬が厳密な「戒」だという。
 貪瞋痴の煩悩が滅尽し、戒が不要になった阿羅漢の聖者の脳を、fMRI装置で見られないものか。
 欲望や怒りを命じる脳領域が、一瞬たりとも発火しない・・・?
 どうやって?

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1月27日

★マインドフルネスもサマーディも絶対的な信仰も、強力な意志と精進のエネルギーに支えられ維持されている。
 そんなハイテンションの意識が四六時中、生涯に渡って持続することはあり得ない。
 いつ、いかなる時にも揺らぐことのない、浄らかな反応系の心に書き換えてしまうには、決定的な体験をしなければならない・・。
 その一瞬を目指して、仏教徒は日々、瞑想している・・・。

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1月25日

★エゴ感覚は生得的反応と刹那的思考から生じてくるが、サマーディが深まれば影をひそめる。
 定力が弱くても、サティが持続すれば、我執が生じた瞬間に対象化され見送られていく。
 己の卑小さに恥じ入り、三宝や神仏にひれ伏す心にも傲慢さはない。
 だが、いずれも永続はしがたく、かりそめの無我感覚に過ぎない・・・。

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1月23日

★思考モードの時間が増え、不快な出来事や苦受が多くなると、いつの間にか我執が強まっていくものだ。
 なんとなく心が薄汚れてきたように感じたら、断固たる意志で瞑想するのがよい。
 超越的な神仏に我が身を委ねきる帰依や信仰でもよい。
 エゴ感覚を弱めないでいると、知らぬ間に不善業を作り出す・・・。

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1月21日

★人生苦を無くすためには、2つの道がある。
 一つは、悪を避け善をなし、カルマを良くしていくことだ。
 経験される苦受の出来事が減少し、楽受の日々が多くなるだろう。
 もうひとつは、徹底的にサティを入れ、どんな苦受の現象が多発しても平然と、心乱れることなく観じきっていく道・・・。

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1月19日

★この方は善行の達人で、さまざまなボランティアやお布施を重ねてきた。
 ライフダーナ(命の布施)も徹底していて、毎日4パックの生きたシジミを購入、近隣の川に回帰させ、夜には死すべき定めだった一群の命を長らえさせるのを日課にしたりもしている。
 絶妙の流れで、自分の命が守られていく運の良さも、業論の立場からは必然の展開・・・。

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1月17日

★大腸癌発症がきっかけで瞑想と仏教の道に入り、完治後6年目の最後のMRI検診で偶然、腎臓結石が見出された。
 その夜、管理不行き届きを自分の身体にお詫びし、腎臓の細胞に丁寧に慈悲の瞑想をした。
 すると翌朝、前日に目視したのと同じ結石が、排尿時にコロリと排出され一件落着したという・・!?!

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1月15日

★身勝手だったパセーナディ王をたしなめて、ブッダは「人は、恩を忘れるものだ」と結んでいる。
 米国の大学生400人の調査では、人に親切にしてあげた記憶は、親切にしてもらった記憶の35倍だった。
 意識的に心を浄らかにしなければ、人間の自己中心性は自然に「35対1の法則」に従うようだ・・・。

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1月13日

★思考が完全に止まれば、エゴの干渉が鎮まり、脳内情報と情報が創造的に結合する閃きの瞬間が訪れる・・。
 だが、外界の事象がダイレクトに観察される一瞬や、その本質が洞察される刹那の衝撃や輝度や鮮明度は次元が異なる。
 概念の智慧→観察の智慧→洞察の智慧→解脱の智慧→と展開する瞑想・・・。

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1月11日

★サマーディは、高性能の車がピカピカに完全整備されたようなものだ。
 ガソリンは? 運転技術は? 経過ルートの情報は? 向かうべき正しいゴールか? そもそもなぜ走るのか?など、必要不可欠な条件の一つに過ぎない。
 智慧が閃くのは、サティを入れる瞬間の認知構造と精度と波羅蜜による・・・。

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1月9日

★思考モードからは、<思考の智慧>しか出てこない。
 概念と概念の連鎖である思考が止まらなければ、妄想と同じ概念ワールドに封印されていて、概念を超越した智慧が閃くことはないのだ。
 では、完全に思考が止まるサマーディが完成すれば、自動的に智慧が出るのだろうか。
 そんなことはない・・・。

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1月7日

★連想や思考が始まれば、ドミノが倒れるように、言葉は次の言葉を、イメージは次のイメージを、必然の力で叩き出す。
 トラウマが、劣等感が、我執が、その裏で糸を引く。
 創造的で、途方もない情報と情報の結合に飛躍することはあり得ない。
 思考モードが止まらなければ、閃きが生じない所以だ・・・。

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1月5日

★自問自答の一人称思考モードは発想がワンパターンとなり、手づまりになれば限定された脳内データの堂々めぐりになる。
 エゴの発想では思いも寄らない奇抜な情報の組合わせが「閃き」の一瞬だ。
 瞑想も、お風呂も、諦めも、思考モードを停止させ、エゴを黙らせる一瞬に貢献している・・・。

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1月3日

★瞑想者のヤル気を刺激し、心の成長に資するツイッターを発信しようと心がけている。
 だが、何も浮かばず、刻限が迫ってくると、焦燥感で心が乱れ始める。
 アイデアや妙案が閃くのは、お風呂で温まっている時、瞑想状態に入り始めた直後、などがベストだが、もう一つある。
 「今日は、止ーめた」と本気で諦めた瞬間、ピカリと光る・・・。

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1月1日

★鬱病で「死にたい」と洩らしていた無職の男性とつき合い、なんとか再就職までこぎ着けた女性がいる。
 少女の頃、鬱病だった父親が自殺された方だった。
 悲しみという名の怒りが全て吐き出されれば、その経験は得がたい宝になる。
 傷ついた人たちに、等身大の優しさの手が差し伸べられる・・・。