『総力戦としての清浄道』 匿名希望

 

  私はこの瞑想に出会う前は、頭の中に概念でしかない「ねば」や「べき」を勝手にこしらえ、その自分で作った概念に縛られ苦しむという生き方を繰り返してきました。内に向けては、ねばべきを達成するため強烈な貪りの心で必敗の戦いに挑み苦しみ、外に向けてはねばべきの達成されない強烈な怒りが他人に迷惑をかけまた自分を苦しめてきました。
  具体的には、例えば、本は常に新品のようにパリッとした状態であるべき、というねばべきを勝手に作る(この時点で何の根拠もなく、そして当然読めば折れ癖もつくしシワもよるため、ねばべきと現実との齟齬に苦しむ)。
  現実から目をそらし概念を優先させるため同じ本を何度も買い換えては一時の喜びを貪る(がそれもまた読めば必ず傷むため現実を受け入れない以上お金が尽きるまで同じことを貪り、繰り返し、そして苦しむ。お金が無くなれば買い換えることもできなくなりさらに苦しむ)。(また他人が本をラフに扱おうものなら脳内のねばべきとの齟齬に怒り心頭に発し、相手を怒鳴りつけ害しまた自己も苦しむ)。
  ・・・何を言っているか理解いただけたでしょうか。愚かで、迷惑で、哀れな生き方です。
  やることなすことみな苦しいという無明の闇の中、自分がどうしたって何か間違っていることだけはわかっていたので、経典や注釈書、法話の類をすがるように読んでいましたが、いくら頭で「諸法は無我、諸行は無常、あるのは名と色だけ、そもそも執着できるものなどないのだ、云々」と知っても、ただ自分を縛る新たなねばべきの材料が増えただけで、さらに苦しむという有様でした。
  このいかんともしがたい苦しさを乗り越える道を作ってくださったのが、地橋先生の「“総力戦”としての清浄道(ヴィパッサナー・バーバナー)」でした。
  それは五戒を守る決意から始まりました。時には歯を食い縛りながらも戒を守ることが、そのまま私を新たな愚行から護ってくれました。
  そして、たとえ劣善からでも善いことをするとどのような果が廻るか、その反対はどうかということを注意深く観察し納得することで、心の側面、環境の側面の両面から、因果論、業論の実感が起こりました。
  このことは私に、自発的に悪を避け善をなす信を起こさせてくださいました。
  また、懺悔の瞑想や内観によって、過去を歪んだ認知のフォルダに抑圧せず手放す術を与えていただき、慈悲の瞑想や全託の受容によって、いまここから紡ぐ未来をエゴで汚さない決意を与えていただきました。
  他にも、正確なダンマの知識の体得や食の適量の強調、定力の重要性を十分に説いたうえでのなお不善心の削減が瞑想の進捗を示すとの理解など、瞑想以前の環境設定や心構えまで説いていただけました。
  その上に、厳密に正確な集中瞑想の技術の実習と、集中瞑想の時間を最高のものとするための日常のサティという二本立てのサティをご指導いただき、人生をマインドフルに生きるという道を歩かせていただています。
  これらの清浄道の一つ一つが、多角的に、そして一体として、私の苦を減じる力となってくれました。
  地橋先生は、この総力戦としての清浄道を「心の便所掃除」に喩えられます。
  この心の清浄道の素晴らしいところは、やればやるだけ心の汚れがくっきりはっきり見えるようになることだと思います。あんまり汚いので目を背けたくもなりますが、汚れがはっきりと見え、ピントが合うから掃除もできます。
  汚れが見えなければどこが汚れているかもわからず、掃除することもできず、苦に苦しむことしかできませんでした。
  心の汚れをしっかり観、そしてそれを掃除する術を与えていただいたことで、私は少しずつ苦から解放され、穏やかで生きやすくなりました。
  私はまだ、広大な仏門をノックさせていただいた程度の段階なので、瞬間定から始まるといわれる涅槃へ至る解脱道としてのヴィパッサナー瞑想については何も言うことはできません。
  しかし、仏語にもあるよう、苦への義務は苦しむことではなく遍く知ること、集滅道への義務が、断つこと、完成させること、実践することだそうです。
  まずは苦に苦しむことをやめるところから、苦を遍く知るところから始めたく思います。千里の道も一歩から、毎日こつこつ心の便所掃除をさせていただく、これが今の私の清浄道です。