『見えてきた貪瞋痴の塊の私』 篠原知子

 

  初めて「坐禅」をしたのは一年半前。「集中力を高めるのに良い」と本で読んで、自室で軽い気持ちでやってみました。
  10分と持ちませんでした。坐って目を閉じた瞬間、恐怖に近い感情が湧き上がってきて苦しくてたまらず、目を開けた時には肩で息をしていました。まぶたの内側の闇で溺れそうな感覚がありました。しかし、その日から毎日坐り始めました。苦しくてたまらないけれど、自分にはこれが必要だと思ったのです。
  半年ほど独学でやっていましたが埒があかず、2012年の11月に初めて東京瞑想会に参加しました。次いで1day合宿や2泊3日の合宿に参加するにつれて、なぜ私が瞑想しなくてはいけなかったのかが分かってきました。
  私は自分のことを、無意識のうちに上の人間だと思っていたのです。平均よりは上、目の前の人よりは上、親よりは上、友人よりは上・・・でも、それは妄想でした。
  1day合宿の数日後、歩行瞑想の途中でよろけた時に、「よろけたりぶつかったりした時の直前の心に気をつけなさい」との地橋先生のアドバイスを思い出し、心に注意を向けました。合宿で面接していただいている時の場面が浮かび、そこに「いい人でありたい」という字幕がかぶさってきました。同時に「ありたい」の文字が「見せかけたい」に変わったのです。そしてまた次の瞬間「いい人」は「いい娘」に変わりました。私は自分を「いい人/娘に見せかけたい!」。その文字が見えて、自分が貪瞋痴の塊なのだという事実を突きつけられ、恐ろしく臭い匂いが鼻を突きました。なんのサティも入らず、茫然とするばかりでした。
  その後地橋先生に勧められて2013年の9月に内観を体験。「いい娘」とはとんでもない、一人娘で大切にされたのに「まだ足りない」と餓鬼のように親に求め、満たされないからと逆恨みする鬼の自分を分からせていただきました。亡くなった夫に対しても、「長い闘病生活を逃げずに寄り添った私は偉い」という慢の心が分かり、結局は自分のためにしか生きてなかったことが明白になりました。
  同時に、いろいろなことが楽になりました。それまでは愚かなプライドを盾にして自分で自分を苦しめてきたのです。
  具体的には、人と会っても疲れなくなりました。どんな楽しい予定でも出かける直前になると気が重かったり、どんな親しい友人とでも、別れの挨拶をして一人になったあとにほっとする感覚があったりしましたが、今はただ淡々と出かけて、淡々と別れる。そして別れたあとに今まで一緒にいた人の幸せを祈る。とても楽です。
  そして人と話している時の自分の声が聞こえ、歩いている時に周りが見えるようになりました。人によく思われたいという焦りと自分の話を聞いて欲しいという渇愛に駆り立てられていたせいで、自分が何を話しているか本当には分かっていなかったのです。話すスピードはそれほど変わらないはずですが、今は自分が真実でないことを話していないか、多少意識できるようになりました。
  また、歩行瞑想の途中で、突然視野が顔の脇まであることを自覚しました。普段歩いている時に景色ではなく妄想を見ていたため、ハンカチ一枚分位の視野しかなかったのです。
  ボランティア活動も始めました。それまでは他人事だと思っていた善行が、自分のための自然な行いであり、「させていただけること」が有り難いと思えます。
  一年前の私に「一年後あなたはこうなっている」と今の状況を説明したら、薄気味悪がって決して信じないと思います。が、今のほうが遥かに幸せです。
  まだ一歩を踏み出しただけで、私の中にはまだまだ多くの問題、無明があります。果たしてこの体の寿命が尽きるまでにいかほどのことができるのでしょうか。逃れられない苦をほどく手がかりを与えられた幸せを思いながら、日々努力を続けたいと思います。
  全てのヴィパッサナー瞑想者が幸せでありますように。全ての衆生が幸せでありますように。