『下座行との出会い』 匿名希望

 

  私は、33歳の時に胃癌になり、そのまま入院・手術・半年以上の自宅療養をすることになりました。それまでの私は、いわゆる一流大学を出て、それなりの就職や出世もしたところでした。しかし、人付き合いがうまくいかず、優れた人に対してはびくびくと恐れをなし、劣った人には腹を立て見下していました。そして、「ごまかしごまかしやってきてはいるが、いつまでも続くものではない」との漠然とした虚無感を人生全般に抱いていました。
  そんな折にヴィパッサナー瞑想を知る機会があり、朝日カルチャーの講座等に参加しました。仕事がずいぶんはかどる等、一応の瞑想成果を実感したところでしたが、そこで油断をして瞑想から離れてしまいました。
  そんな経緯を経ながらも、瞑想に再度取り組んでみようという思いがわき、10日間合宿に参加する機会を得ました。合宿ではそれなりの収穫はありましたが、しかしその後の1年半ほどは、「なぜ瞑想をしているのに、事態は好転しないのか?」とあせる日々が続きました。たとえば、上司や先輩のいい加減な仕事ぶりなど、他人の欠点ばかりが目についてなりません。上司らの欠点を緻密に分析し、「お前はこの辺が間違っているのだからこのように修正せよ」というふうに、自分なりに合理的なアプローチをしたつもりでも、かえって反発や怒りを招き、理解を得られませんでした。そもそも自分でも、「自分の発言自体は正しいはずだが、結局相手を変えることはできないだろう」との感はあったのですが、具体的にどう改めれば良いかはわかりませんでした。
  そんな折に、2度目の10日間合宿に参加でき、地橋先生から「あなたは他人を見下す慢が強いから、他人の嫌う仕事を率先して行う、下座行をしてみては?」とのアドバイスをいただきました。
  「自分の受けるすべての苦受は、自分の不善行から発したものと心得て、自分にとってふさわしい結果と受け止める。そして不善行を繰り返さぬように心に刻むのだ」と自分なりに理解しました。でも内心では「心に刻めるのか?俺の心に刻んでどうなるのだ?問題は上司だろう?」と思ってはいたのですが・・・。しかし、これまでの自分のやり方がことごとく失敗していたので、半ばお手上げという心境で、以下のようなことを実践してみました。
  ・近所の公園や自宅周辺を掃除する。
  ・バスの中では常に立つ(あらかじめ席をお譲りする)。
  ・(行列に割り込まれたときに)「他人をだまし、押しのけてきた自分にはふさわしい結果だ、しかるべきことと受け止めます」と念ずる。
  すると、だんだんと自分の物事の感じ方が変化してきました。たとえば、路上で人にぶつかって「すみません」と言われた時に、「この人は謝罪することによって、私が怒りを発するのを防いでくれた。世の中にはこんなすごいことを易々とやってのける人がいるのか」という気分が自然と湧いてきたのです。
  また、バスを降車して料金を払う時に、「このバス代は、私が社会の一員としてこのバスのなかに存在する事を許された、社会参加のための料金として、ありがたく支払います」と思えました。元来私はかなりのケチなのですが、何かにお金を支払うことが私の所属する社会や人々に対する当然の義務であると感じられ、苦ではなくなりました。
  思うに、下座行で一応の成果を得ることができたのは、これまでの自分のやり方ではどうにもならないという行き詰まりの中で、さらに下座行という理解不能の課題を与えられ、「もはやただやるしかないのだ」という神妙な気持ちになれたからではないかと感じます。そして、この神妙な気持ちがある限り、瞑想が停滞することはないのではないか?とも感じており、このことを今後の人生の中で検証したいところです。
  この神妙な気持ちを常に保持するためには、戒を念入りに守ること(特に不妄語戒)、また、サティの瞑想においては、決められた方法を厳密に守り、自己流に陥らないことが必須であると、やっと理解できました。これらは非常に困難な課題ですが、困難であり、心の抵抗感を発生させるからこそ奥が深く、修行のターゲットとして汎用性があるものだと思います。
  遅まきながら、今やっと瞑想が少しおもしろくなってきたところです。今後細々とでも、方向性を誤らず進んでいきたいと願っています。