『ありのままの自分を受け容れる』 匿名希望

 

  私は十代の初めから様々な精神的問題を自覚しており、そのことがずっと悩みの種でした。とても緊張しやすく、気弱でなにかといえばクヨクヨと悩み、頻発する不快な妄想や恐ろしい妄想に簡単に捕われていました。また、中学時代に不登校になって以来、人付き合いもずっと苦手でしたし、この他にも自覚していた問題点を挙げていけばキリがありません。ずっと後になって精神科で受けたテストからは、ごく軽度ではありますが、発達障害の可能性を指摘されました。
  加えて、私は「無明」の直中 (ただなか)で生きていました。いつも自分の行動に迷いが生じており、何を決断するにも優柔不断、その上、行動してから後悔に苛まれることも頻繁でした。正しいこと、誤ったこととは何なのかが、大きな謎として心の中にあり、自分がどのような生き方をすれば良いのか分からず、漠然とした不安を抱えたまま日々を過ごしていました。人生の基盤となるような絶対的な真実を得たいと、いつも悩み続けていました。
  そんな私がヴィパッサナー瞑想を始めてから、2年半ほどが経過しました。そして、それによって、現在までに、自分の中のあらゆる精神的問題が劇的に改善されたか、といえば、正直にいってそうとは言えません。クヨクヨと思い悩むことは少なくなりましたが、相変わらずすぐに緊張しますし、人付き合いも苦手なままです。しかし、生きることが随分と楽になってきました。その理由としてもっとも大きいのは、問題のある自分を受け入れられるようになってきたことにあると思います。
  以前の私は、問題だらけの自分のことを嫌っていました。憎んでいたと言っていいかも知れません。自分のことを出来損ない、欠陥品などといってしょっちゅう攻撃していました。
  しかし、今の私には、そのようなことは無くなりました。瞑想を続けてゆくにつれて、少しずつ自分の欠点を許せるようになってきたのです。すると、精神的な問題に捕われて、さらなる困難を招く、という悪循環を離れることができるようになりました。つまり、精神的な問題が悩みの種では無くなってきたということです。
  加えて、瞑想に取り組み出した頃にはまったく思いもしなかったことですが、五戒を守ることと、慈悲の瞑想がとても大きな効果をもたらしました。五戒を守ることは自信をもたらし、迷いを減ずることに繋がりましたし、慈悲の瞑想は、集中力を増強し、対人関係の不安を減じてくれました。
  また、無常や無我といった仏教的な考え方が徐々に自分の中に根付いてゆくにつれて、「絶対的なものを獲得するのだ」という凝り固まった考え方が、少し柔軟になってきたように思います。それは気持ちを楽にしてくれました。
  このように、瞑想は私の生き方を大きく変えることに繋がりましたが、その過程は当然大きな困難も伴いました。自分の弱さを受け入れることはできても、嫌な部分、醜い部分に向き合ってそれらの存在を認めてゆくことは、私にとって極めて難しいことだったのです。というのも、私は少なくとも外面的にはできる限り「良い人間」でいることに努めていたつもりで、そのことはコンプレックスだらけの私が自負できる唯一といってよいものでした。怒りをあらわにする人や他人を傷つけるような人がいても、自分は違う、彼らよりは自制のできる優れた人間なのだという優越感にも似た感情があり、それは私の唯一の自信、拠り所だったのです。
  しかし、瞑想によって自分を見つめてゆくにつれて、厳しい現実が見えてきました。実際の私は、すぐに嫌悪感や怒りを生じ、他人を攻撃したくとも生来の気弱さがそれを妨げているという、それだけの人間だったのです。
  そんな自分を受け入れるのに2年以上がかかりましたが、今は自分のことを大切に思っています。乗り越えたい問題は多くとも、一生をかけて取り組んでいくつもりですし、その決意に揺るぎはありません。