『生きていていいんだ。ここにいていいんだ』 N.H.

 

  1日10分の瞑想、クーサラ、慈悲の瞑想に毎日きちんと取り組むようになって数カ月、私は以前とは比べものにならないほど落ち着いた心で日々を過ごせるようになりました。たくさんの気づきが立て続けに起こり、生きることが劇的に楽になりました。その中でも最も大きな気づきについてご報告したいと思います。
 私は若い両親の元で、物心ついたときから良い子として優等生として生きてきました。ただ、常に、「自分はお父さんお母さんの人生を食いつぶして生きているんだ」「生まれてきてよかったのかな、要らない子だったんじゃないかな」と自分の存在に対する罪悪感のようなものを感じていました。そして、いつか親に見放されるのではないかという不安を、大人から褒めてもらえるように振る舞うことでごまかそうとしていました。良い子にしていれば大事にしてもらえる、そう信じていたのです。自分の無価値感を打ち消したいがために、とにかく人から承認されるよう必死で努力しました。
 もちろん、このような病的なほどの承認欲求に振り回されていることには、自分では全く自覚がなく、いつも頑張りすぎて、無理をして、しんどい思いをしていました。その結果、私は、「生きることはどうしてこんなに辛いのだろう。早くこの世から去ってしまいたい」という思いをひとりで抱え込むようになりました。でもそんなことは人に話せば心配させてしまうので、誰にも言えずにいました。
 そんなある日、私は自分の苦手なことを人から指摘され、ひどく傷つき怒りを覚えました。そこでその気持ちを整理したくて思いつくまま紙に書き出してみたところ、苦手でできない自分を自己弁護している裏には、「自分は無能で、人に評価されることしか頑張れない卑しい人間だ」という思いがあることに気づきました。そしてその根底には、「何もできない人間(自分)は生きている価値がない」という強烈な固定観念が根を張っていることを知り、また一方では、「そんなことを思ってはいけない、寝たきりのお年寄りだって、生まれたての赤ちゃんだってそこにいるだけで周りの人は幸せじゃないか・・・」と、頭では必死で何とか打ち消そう、否定しようとしていたのです。
 こうした生きる苦しさを抱えながらも、ブッダの教え、そしてヴィパッサナー瞑想に縁が生まれ、気づきによって「あるがまま」に観る心を養い整えて行く修行と、自分に対しても「幸せになっていいんだよ」と許可してくれる慈悲の瞑想とに真剣に取り組むようになりました。そしてふと読んだ本に、「固定観念を解消するにはその逆を信じてみればいい」とあったのを見て、試しに、「何もできない自分は生きている価値がない」という固定観念の逆に、「人間は存在しているだけで既に認められている、何もできない自分だったとしても生きているだけで価値がある」と紙に書いてみました。そうすると、スーッとそれが心に収まったのです。今まで頭では分かっていたつもりだったのに、この時はじめて本当に理解できたんだという実感がありました。自分の生きづらさの一番根っこにあったものが崩れ去って、「生きていていいんだ」という安心と喜びが一気に押し寄せてきて、涙が溢れました。
 このことは瞑想中に起こったものではありません。しかし、真剣に瞑想に取り組んできたことが、本当に必要なときに最適な情報を得るというこの上ない現象に繋がったのだと私は深く感謝しています。そして今では、自分の無価値感や強い承認欲求が自分の中にあるということを認め、受け容れた上で、「生きているなら何かができる。生きることができるから生きていていいんだ」と思えるようになりました。
 さらに日常生活においても、仕事が速くなったり、クレーマーに怒鳴られる業種なのに自分だけ激減したり、苦手な上司とも理解し合えるようになったりなどの変化も起きてきました。これからも生きる拠りどころとして淡々と瞑想を続けていきながら、こうした出来事についてもいつかご報告させていただきたいと思っています。
 このような筆を執る機会を与えていただき、ありがとうございました。瞑想に励む皆様の修行が進みますように、お祈りしております。